第31話「二人の時間」
祝宴の翌日、フェリシアは朝早く目を覚ました。
窓から差し込む朝日が、部屋を柔らかく照らしている。
海鳥の鳴き声が聞こえ、潮風が白いカーテンを揺らしていた。
体はすっかり軽くなっていた。魔力も、ほとんど回復している。不思議と清々しい気分だった。
隣の部屋で、リオールが書類を整理している気配がした。
魔物討伐の報告書を書いているのだろう。フェリシアはベッドから起き上がり、簡単に身支度を整えた。
リビングに出ると、リオールが机に向かって羽根ペンを走らせていた。
朝日が彼の横顔を照らし、その真剣な表情が際立っている。
「おはようございます。」
フェリシアが声をかけると、リオールは顔を上げて微笑んだ。
「おはよう。よく眠れたか?」
「ええ、とても。」
フェリシアは頷いた。
「もう大丈夫です。リオールこそ、昨夜は遅くまで宴にいらしたのに。」
「私は慣れている。」
リオールは羽根ペンを置いた。
「それより、今日は君と二人だけで過ごしたいんだ。」
「二人で?」
「ああ。レオナルドたちには、町の警備と海の安全確認を任せた。私たちは、少しゆっくりしよう。」
フェリシアの顔がぱっと明るくなった。
「本当ですか?」
「もちろんだ。」
リオールは立ち上がり、フェリシアの手を取った。
「この数日、君は戦い続けた。魔物討伐という危険な任務で、命がけで戦った。少しくらい、休息を取る権利がある。」
「でも、報告書は...。」
「もう書き終えた。あとは国王陛下に届けるだけだ。」
リオールは窓の外を見た。
「今日は良い天気だ。海辺を散歩しないか?」
フェリシアは嬉しそうに頷いた。
―――
二人は宿を出て、港から少し離れた静かな海岸へと向かった。
エルドマールの海は本当に美しかった。
透き通った青い海、白い砂浜、穏やかな波。昨夜の激しい戦闘が嘘のような平和な光景だった。
「誰もいませんね。」
フェリシアが辺りを見回して言った。
「ここは観光客が来ない場所だと、宿の主人が教えてくれた。」
リオールは説明した。
「町の人々も、漁で忙しい時間だから、今は私たちだけだ。」
二人は靴を脱ぎ、裸足で砂浜を歩いた。砂の感触が心地よい。
波が足元まで寄せてきて、冷たい水が肌に触れる。
フェリシアは思わず笑った。
「冷たい!」
「気持ちいいだろう?」
リオールも笑顔で波と戯れている。
いつもは威厳のある王宮専属魔法使いが、今はまるで子供のように無邪気だった。
二人は並んで海岸線を歩いた。会話は途切れがちだったが、それが心地よかった。
言葉がなくても、ただ一緒にいるだけで幸せを感じられる。
やがて、大きな岩が海に突き出している場所に辿り着いた。
「あそこに登ってみよう。」
リオールが提案し、二人は岩を登った。
頂上は平らになっていて、座るのにちょうど良かった。
二人は並んで座り、海を眺めた。
水平線が遠くまで続いている。
青い空と青い海が溶け合い、どこまでも広がっている。時折、海鳥が飛び交い、その鳴き声が響く。
「綺麗。」
フェリシアが息を呑んだ。
「ああ、本当に。」
リオールも同意した。しかし彼の視線は、海ではなくフェリシアに向けられていた。
潮風が彼女の髪を揺らし、朝日が横顔を照らしている。その姿は、まるで絵画のように美しかった。
フェリシアがリオールの視線に気づいて顔を向けた。
「どうしたんですか?」
「いや。」
リオールは少し照れたように笑った。
「君が美しいと思って。」
フェリシアは頬を染めた。
「そんな...私なんて。」
「本当だよ。」
リオールは真剣な目で言った。
「君は美しい。外見もそうだが、何より心が美しい。」
「リオール...。」
「初めて会った時から思っていた。」
リオールは続けた。
「あの庭園で、月光の下で出会った夜。君は孤独そうで、悲しそうだった。でも、その瞳には強さがあった。諦めない意志が、確かにあった。」
フェリシアは黙って聞いていた。
「それから君を知るにつれ、その想いは確信に変わった。君は本当に強い。そして優しい。どんなに辛い目に遭っても、他人を恨まない。むしろ、他人を助けようとする。」
「そんなことは...。」
「昨日の戦いを見た。」
リオールは言葉を続けた。
「君は自分の身の危険も顧みず、私を守ろうとした。そして、その時に目覚めた力で、多くの人を救った。」
リオールはフェリシアの手を取った。
「フェリシア、君は素晴らしい人だ。誰が何と言おうと、私はそう思う。」
フェリシアの目に涙が浮かんだ。
「ありがとうございます。」
彼女は小さな声で言った。
「でも私は...ずっと自分に価値がないと思っていました。生まれてきたこと自体が間違いだと。」
「それは違う。」
リオールは強く言った。
「君が生まれてきたことは、奇跡なんだ。君の母上が命をかけて守った命。その命が、今こうして多くの人を救っている。」
フェリシアは泣きながら頷いた。
「昨日、初めて思ったんです。生きていて良かったって。人の役に立てて、嬉しかったって。」
「その気持ちを、忘れないでくれ。」
リオールは彼女の涙を指で拭った。
「君は必要とされている。私にも、町の人々にも、これから出会う多くの人々にも。」
「はい。」
フェリシアは微笑んだ。涙を流しながらも、その笑顔は本当に幸せそうだった。
二人はしばらく、何も言わずに寄り添っていた。波の音、海鳥の鳴き声、潮風。すべてが心地よかった。
―――
やがてリオールが立ち上がり、手を差し伸べた。
「もう少し歩こう。」
二人は岩を降り、さらに海岸線を進んだ。砂浜には、様々な貝殻が打ち上げられている。
「綺麗な貝殻ですね。」
フェリシアが一つを拾い上げた。螺旋状の模様が入った、小さな巻貝だった。
「それをあげよう。」
リオールが言った。
「記念に。」
「でも...。」
「いいんだ。この海で、君が生まれ変わった記念だ。」
フェリシアは貝殻を大切そうに握りしめた。
「ありがとうございます。大切にします。」
二人は歩き続けた。やがて、小さな入り江に辿り着いた。岩に囲まれた静かな場所で、波も穏やかだった。
「ここは秘密の場所みたいですね。」
フェリシアが囁いた。
「私たちだけの場所だ。」
リオールが答えた。
入り江の奥には、岩の隙間から真水が湧き出ている小さな泉があった。その周りには、色とりどりの花が咲いている。
「まあ、綺麗!」
フェリシアは駆け寄った。青、白、ピンクの小さな花々。海辺の厳しい環境でも、健気に咲いている。
「この花、知っています。」
フェリシアが一輪の白い花に触れた。
「母が好きだった花だそうです。海辺に咲く、海星花。」
「そうか。」
リオールも花に近づいた。
「君の母上も、海が好きだったのかもしれないな。」
「かもしれません。」
フェリシアは微笑んだ。
「母の首飾りも、海の色をしていますから。」
彼女は胸元の青い石の首飾りに触れた。母レーナが最期の力を込めて作った、守りの首飾り。
「この首飾りが、ずっと私を守ってくれました。」
フェリシアは言った。
「そして昨日も、母の力を感じました。あの治癒魔法が発動した時、首飾りが強く光ったんです。」
「君の母上は、今も君を見守っている。」
リオールは優しく言った。
「そして、君の幸せを願っているはずだ。」
フェリシアは頷いた。
「母上、見ていてくださいね。」
彼女は空を見上げて囁いた。
「私、幸せになります。」
―――
昼近くなって、二人は宿に戻った。
食堂では、レオナルドと騎士たちが昼食を取っていた。
「リオール様、フェリシア様、お帰りなさい。」
レオナルドが立ち上がった。
「海の調査は順調だ。魔物の気配は完全に消えている。」
「そうか、良かった。」
リオールは頷いた。
「町の人々も、もう海に出始めています。漁師たちは喜んでいますよ。」
「それは何よりだ。」
二人も席に着き、食事を始めた。新鮮な魚の料理、野菜のサラダ、焼きたてのパン。どれも美味しかった。
「フェリシア様。」
レオナルドが言った。
「町の人々が、あなたに感謝の品を届けたいと言っています。受け取っていただけますか?」
「もちろんです。」
フェリシアは微笑んだ。
「皆さんの気持ちは、ありがたく受け取らせていただきます。」
食後、町役場を訪れると、ガレス町長が待っていた。
「フェリシア様、これを。」
町長が差し出したのは、美しい布で包まれた箱だった。
フェリシアが開けると、中には手作りの刺繍が施されたハンカチが入っていた。白い布に、青い糸で海と空が刺繍されている。そして中央には、光り輝く星のような模様。
「これは...。」
「町の女性たちが、総出で作りました。」
町長が説明した。
「フェリシア様の治癒魔法を、星の光で表現したのです。どうか、記念に受け取ってください。」
フェリシアは感動で言葉が出なかった。
「ありがとうございます。」
彼女はハンカチを大切そうに抱きしめた。
「私、一生大切にします。」
―――
その夜、二人は再び宿の部屋のバルコニーに立っていた。
星空が広がり、月が海を照らしている。波の音が、子守唄のように優しい。
「明日、王宮に戻る。」
リオールが言った。
「国王陛下に報告し、正式に家名をいただく。」
「はい。」
フェリシアは頷いた。
「そして、私たちの結婚式の準備が始まるのですね。」
「そうだ。」
リオールは彼女を抱き寄せた。
「楽しみだな。」
「ええ、とても」
フェリシアはリオールの胸に顔を埋めた。彼の心臓の音が聞こえる。力強く、温かい音。
「リオール。」
「ん?」
「私、変わりました。」
「どう変わった?」
「強くなりました。自分を信じられるようになりました。」
フェリシアは顔を上げた。
「あなたのおかげです。」
「いや、それは君自身の力だ。」
リオールは微笑んだ。
「私は、ただ君の背中を押しただけだ。」
「でも、あなたがいなければ、私は変われなかった。」
フェリシアはリオールの頬に手を添えた。
「ありがとう、リオール。あなたに出会えて、本当に良かった。」
リオールは彼女の手を取り、その手の甲にキスをした。
「こちらこそ。君に出会えて、私の人生は変わった。」
二人は静かに見つめ合った。
そして、ゆっくりと顔を近づけ、唇を重ねた。
優しく、温かいキス。
月光が二人を包み、海が静かに祝福しているかのようだった。
キスを終えて、二人は抱き合った。
「愛しているよ、フェリシア。」
「私も愛しています、リオール。」
遠くで波の音が響いている。
明日からは、また新しい日々が始まる。
王宮に戻り、家名を授かり、結婚式の準備をする。
そして、治癒魔法使いとしての修行も始まる。
忙しい日々になるだろう。
でも、それは幸せな忙しさだ。
かつて孤独だった二人は、今はもう一人ではない。
互いに支え合い、愛し合い、共に未来を歩んでいく。
エルドマールの海が、静かに二人を見守っていた。
新しい人生の、本当の始まり。
二人の物語は、これからも続いていく。




