第2話「望まぬ舞踏会」
父からの命令を受けた翌日、フェリシアは自室で途方に暮れていた。
社交界。一度も参加したことのない、華やかな世界。貴族の令嬢たちが美しいドレスを纏い、音楽に合わせて踊り、婚約者を見つける場所。
けれど、自分には無縁の世界だと思っていた。
窓辺に座り、庭を眺める。使用人たちが忙しそうに働いている。彼らは皆、フェリシアの姿を見ると足早に立ち去っていく。いつものことだ。
ドアがノックされた。
「失礼します。」
入ってきたのは、屋敷で最も年配の使用人、マルタだった。六十を過ぎた彼女は、フェリシアが生まれる前から屋敷で働いている。フェリシアに対しても、他の使用人ほど露骨に避けることはない。ただ、それでも必要最低限の接触しかしない。
「旦那様から言付かりました。社交界用のドレスを用意しろとのことです。」
「ありがとうございます、マルタ。」
マルタは複雑な表情でフェリシアを見つめた。
「お嬢様。」
「はい。」
「もし、何かお困りのことがあれば。」
言葉が続かない。マルタは唇を噛み、首を横に振った。
「いえ、何でもございません。失礼いたします。」
去っていく背中を見送りながら、フェリシアは小さく微笑んだ。マルタは優しい人だ。けれど、自分を本当に心配してくれているのか、それとも自分に関わることで不幸が降りかかることを恐れているのか、フェリシアにはわからない。
おそらく、両方なのだろう。
それでいい。誰も責める気にはなれない。
―――
その日の午後、フェリシアは父の書斎に再び呼ばれた。
部屋には父と姉が待っていた。テーブルの上には、何冊かの本と書類が置かれている。
「フェリシア、社交界での振る舞いについて最低限のことは知っているだろうな。」
クロスの声は冷たい。
「はい、一応は。」
フェリシアは幼い頃から、家庭教師によって貴族としての教育を受けてきた。社交界に出ることはないと思っていたが、知識としては学んでいた。
「ポリー、お前から教えることがあれば教えてやれ。」
「はい、父上。」
ポリーは立ち上がり、フェリシアの前に来た。いつもの冷たい表情のままだ。
「社交界では、誰かが話しかけてきても、適当に受け流しなさい。長話は厳禁よ。相手に不幸が降りかかる前に、距離を取ること。」
「はい。」
「それから、踊りに誘われても断りなさい。あなたと踊った男性が怪我でもしたら、それこそ大問題になるわ。」
「承知しました。」
ポリーは一瞬、何か言いかけて口を閉じた。そして小さく息をついて続ける。
「できれば、目立たないようにしていなさい。端で静かに立っているだけでいい。そうすれば、誰も近づいてこないでしょうから。」
その言葉には、わずかに何か別の感情が混じっていた。心配なのか、それとも。
「ポリー、それだけか。」
父が口を挟む。
「いえ、もう一つ。」
ポリーはフェリシアを真っ直ぐ見つめた。
「あなたは、誰かに求婚されることを期待してはいけないわ。おそらく誰も、あなたを妻にしたいとは思わない。それを理解した上で参加しなさい。」
言葉が胸に突き刺さる。けれどフェリシアは表情を変えない。
「はい、わかっております。」
「よろしい。では下がれ。」
父に手を振られ、フェリシアは書斎を出た。
廊下を歩きながら、先ほどのポリーの表情を思い出す。あれは、同情だったのだろうか。それとも、優越感だったのだろうか。
どちらでもいい。どうせ、もうすぐこの屋敷を出ることになるのだから。
―――
社交界まで、残り三日。
フェリシアの部屋に、ドレスが届けられた。
深い青色のドレス。シンプルなデザインで、装飾は最小限。他の令嬢が着るような華やかなドレスとは程遠い。
それでもフェリシアは、このドレスが気に入った。自分に似合っている気がした。
鏡の前に立ち、ドレスを当ててみる。栗色の髪に青が映える。母はどんな色が好きだったのだろうと、ふと思った。
その夜、フェリシアは眠れなかった。
社交界で何が起こるのか、想像できない。きっと誰も自分に近づかないだろう。それでいい。誰も傷つけずに済む。
けれど、心のどこかで小さな期待もあった。
もしかしたら、誰か一人くらい、自分を普通に扱ってくれる人がいるかもしれない。そんな馬鹿げた期待。
すぐに打ち消す。そんなことはありえない。自分は不幸な令嬢だ。誰も近づきたがらない存在。
それでも。
もし、もし誰かが優しくしてくれたら。
その人に不幸が降りかかってしまう。だから、誰も近づいてほしくない。
矛盾した感情に苦しみながら、フェリシアは夜を過ごした。
―――
社交界の前日、マルタがフェリシアの髪を整えに来た。
「お嬢様、明日は王宮でございます。髪型を決めておきましょう。」
「はい。」
椅子に座ると、マルタが慣れた手つきで髪を梳く。
「お嬢様の髪は、亡き奥様にそっくりでございます。」
マルタがぽつりと呟いた。
「そうなのですか。」
「ええ。レーナ様は、とてもお美しい方でした。優しくて、使用人にも分け隔てなく接してくださって。」
マルタの声が少し震えている。
「旦那様も、昔は違う方でした。レーナ様を心から愛しておられて、いつも笑顔でいらっしゃった。」
「マルタ。」
「お嬢様、あなたが生まれた日、レーナ様は最期にこうおっしゃいました。『この子を、守って』と。」
フェリシアは息を呑んだ。
「でも、私たちは守れませんでした。旦那様が変わってしまわれて、お嬢様を遠ざけるようになって。私たちも、恐れて、お嬢様を避けてしまって。」
マルタの手が止まる。
「申し訳ございません。」
「マルタ、あなたは何も悪くありません。」
フェリシアは振り返って、老婆の手を握った。
「誰も悪くないのです。悪いのは、私を取り巻くこの不幸だけ。あなたたちが私を避けるのは、正しい判断です。」
「お嬢様。」
「明日、社交界に行きます。そしておそらく、私はこの屋敷を出ることになるでしょう。それでいいのです。誰も、もう私のせいで不幸になってほしくない。」
マルタは涙を流していた。
「レーナ様、本当に申し訳ございません。」
小さく呟いて、マルタは部屋を出て行った。
一人残されたフェリシアは、鏡の中の自分を見つめた。
母に似ているという髪。会ったこともない母。
「母上、私は、どうすればよかったのでしょうか。」
答えは返ってこない。
―――
社交界当日の朝が来た。
フェリシアは早くから目を覚まし、準備を始めた。青いドレスに身を包み、髪を簡素にまとめる。装飾品は、母の形見だという小さなペンダントだけ。
鏡の前に立つ。見慣れない自分の姿がそこにあった。
ドアがノックされた。
「フェリシア、馬車の用意ができた。」
父の声。
深呼吸をして、部屋を出る。
階段を降りると、父と姉が待っていた。ポリーは華やかなピンク色のドレスを着ており、宝石で飾られている。フェリシアとは対照的だ。
「随分と地味な格好だな。」
父が鼻で笑う。
「申し訳ございません。」
「いや、その方がいい。目立たない方が、余計な面倒も起きないだろう。」
三人で馬車に乗り込む。フェリシアは一人、向かいの席に座らされた。
馬車が動き出す。
窓の外を見つめながら、フェリシアは決意を新たにした。
誰とも関わらない。誰も傷つけない。静かにそこにいて、静かに帰る。
そうすれば、何も起こらない。
馬車は王宮へと向かう。揺れる車内で、フェリシアは母のペンダントを握りしめた。
「母上、どうか見守っていてください。」
小さく祈る。
ポリーが、ちらりとフェリシアを見た。その目には、複雑な感情が宿っていた。
「フェリシア。」
「はい、姉上。」
「あなた、本当に社交界に出たいと思っているの?」
予想外の質問だった。
「いえ、望んではいません。けれど、父上の命令ですから。」
「そう。」
ポリーは視線を逸らした。
「もし、もし誰かがあなたに優しくしてくれたら。」
「姉上?」
「いえ、何でもないわ。忘れて。」
ポリーは窓の外を見つめたまま、もう何も言わなかった。
馬車は、王宮の門をくぐった。
高い塔、美しい庭園、きらびやかな建物。フェリシアにとって、未知の世界。
不安と、そして小さな期待を胸に、不幸な令嬢は初めての社交界へと足を踏み入れる。
彼女はまだ知らない。
この夜が、彼女の運命を大きく変えることになるとは。
二人の男性との出会いが、彼女に真実を突きつけ、そして救いをもたらすことになるとは。
馬車が止まり、扉が開かれる。
音楽が聞こえてくる。笑い声、話し声。
フェリシアは深呼吸をして、馬車から降りた。
新しい世界が、彼女を待っていた。
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