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赤鬼の旅行日誌~世を揺蕩う五指の鬼~

 

 私は鬼、名前の無い鬼だ。


 私が生まれたのは戦場(いくさば)だった。 


 飢え、怒り、恐怖……それらが私の体を構成する物だ。


 その戦は、まだ甲冑と刀を持った者達が互いの領土を奪い合うために起こした物だと理解できた。

 それが、いかに醜い行いなのかとゆう事も。

「何故……理解できるのだ?」

 どうして理解できるのかが、分からない。

 もう一度言おう、私は鬼だ。

 知性の無い、ただ飢えしか知らないはずの私がどうして他者の醜さが分かるのか?

「これは、何だ?」

 私は思わず、自分の手を見下ろす……。

 そこにあったのは、五本指の手だった。


 再び言おう、私は鬼だ……頭に角の生えた、鬼だ。


 私の周りには、折り重なるように倒れている人間達でひしめき合っている。

 まるで、赤い敷物の様だ。

「ここは、嫌だ」

 行く当てもないのに、私は歩きだした。


 心細くて、寂しくて。


 敷き詰められた屍を踏みしめる度に、鎧の固さと血肉の弾力が私の足裏を押し返す。

 その感触が、ひどく不快だった。

 そして、その肉片に足を取られてしまい前のめりに倒れた。

 肉片から飛び出した鮮血で、私の顔が僅かに温かくなった。

 けれど、その鉄臭さと腐臭にたまらず顔を上げた。

「だれか……生きている者はおらんのか!?」

 そう叫んでも、返事はない。

 ここには、終わった命しかない。

 戦の終わった場所には何も残らないのだと理解した時、私の肺の辺りが重くなった気がした。

 そして――私の頬を何かが伝った。

「何だ? これ……」

 ふと、死体に突き刺さった刀剣に自分の顔を写すと私の目から何かが流れていた。


 三度言おう。


 私は鬼だ――知恵と慈愛を持ってしまった、鬼だ。



          赤鬼 最初の手記より





             『あなたは、だれ?』


「あつい~」


 今は七月、手紙で書けば盛夏の候。

 川辺に映えた木から零れる猛暑の日差しは、黄昏時になっても容赦なく肌を焼こうとする。

 それは夕暮れ時のこと、学生(じぶん)にとってはいつもの学校帰りだ。

「ゆう子さん発見?」

 掲示板を覗いていると、おかしなレスが目に入る。

 それは、最近この辺りで噂になっている怪談でこのレスは一時間前に載せられたものだ。

「へぇ~出たんだ、〝ゆう子さん〟」

 その手のオカルト話に興味はないのだが、この噂はよくネットゲームの友人も呟いていたので耳には入っていた。

 スレ主によると、ゆう子さんが現れたのは駅前の人通りの多い時で友人達と歩いていた時に遭遇したらしい。

 その特徴は、噂になっている容姿と一致していたようでスレ主やその友人達は怖くなって帰り道を変更したようだ。

「なんだよ、せっかくゆう子さんに遭遇したのに逃げたのかよ」

 茹だる暑さを忘れさせてくれるかと期待していたみたいだが、容姿以上の情報はなく書き込みはそこで止まっている。

「やれやれ」

 そうぼやいた時、茜色の注がれていた日光が一瞬雲に隠れた。

「うわ、さむ!」

 通り抜けた風に、汗ばんで張り付いていたワイシャツが急に冷やされ思わず肩を抱いてしまう。

 けれど、また直ぐに強い日差しが肌を焼き始める。

「ん?」

 違和感は突然やってくる、それは五十メートル先の木陰にいた。

「あれは、まさか……」

 そこにいたのは、(かすみ)のようなワンピースを着た女だった。

 顔は伸びた前髪に隠れてしまって見えない上に、この猛暑にもかかわらず服にも顔にも汗が滲んだ様子がない。

 それは、さっきまで見ていたレスに書かれていたゆう子さんの特徴にそっくりである。

「マジかよ……」

 思わず、掲示板に書き込んだ。

 時間的には時間的はそんなに経っていない。

 せいぜい二・三分目を離していただけだ。


 その筈なのに。


『〝who are you?〟(あなたは、誰?)』

 自然な英語で、話し掛けられた。

 表情が見えないが、顔立ちは日本人のようだ。

 ネイティブな英語で、日本人が日本人に話しかけている光景はやはり奇妙だ。

「うわ!?」

 その女は音もなく目の前に現れたその女に目を見張る。

「うぇ!? え??」

 パニックになり舌がもつれる。

 喉が乾いて、うまく喋れない。

『〝who are you?〟(あなたは、誰?)』

 二度目の問い。

 その問いに彼は、笑顔で自分の名前を告げた。

 まるで、自分じゃない誰かに言わされたように。

『答えてくれた、でもあなたはあの人じゃないのね――』

 女の口が綻ぶ。

『でも……あなたは、オイシソウだわ』

 そして、ゆう子さんは笑った。

 その女の口元にしか見えないけど、本当に嬉しそうな微笑みを浮かべた。


 数日後


 男子生徒 談


「ゆう子さんの噂、何それ?」

 休み明けの昼休み、前の席に座っている悪友がおかしなことを言い出した。

「おぉ昨日ネット掲示板を見ていたんだが、どうもこの辺りに出るらしいんだよ」

 だから、僕はその噂を知らないのだ。

「あ~これなら午後は寝られるわ」

 僕との会話をいい加減に切り上げて、両手に抱えたパンを机に広げた。

 そして、右手にサンドイッチと左手に揚げパンをもってそれを勢いよく交互に口に運び始める。

「そんなに食べるのか?」

 僕のやや引いた目線と口一杯に入れたパンを、野菜ジュースと生返事で適当に流した。

「食べないと、放課後まで持たないんだよ」

 そう言いながら大きな欠伸を一つして、眠い目のまま五つ目の菓子パンの袋を開けて口で半分以上を口に入れた。

 その光景を見ながら、机の空いたスペースに弁当箱を広げる。

 悪友の質素な昼食と違って、僕の彩りとバランスがいい弁当を広げて美味しい一口カツを口に運んだ。

 一方、僕が一口食べた段階で昼食を終えた友達は目ヤニの付いた目を擦っている。

 どうせゲーマーでもあるこいつは、テスト明けのテンションで徹夜でもしたのだろう。

 なにせ、目元に隈と目ヤニと充血の三連コンボだ。

「お前いつにもましてひどい顔だな、僕には関係ないけどネトゲもほどほどにしろよ」

「おいおい、俺だって居残りする時くらいは勉強することに深夜の時間を使うぞ」

 掲示板は見ているのに、そんな突っ込みにはスルーの様だ。

「居残り? そんなのあったか?」

「お前はいいよ、居残りなんて無縁の男だもんな」

 昨日の放課後の記憶を呼び起こす。

 自分に関係のない話はあまりよく聞かない質である為、思い出すまでに少し時間が経ってしまった。

 そう言えば、今時には珍しい教育熱心な熱血担任がそんな事を言っていた気がする。

「ああ、担任のやつがこの間のテストで成績の悪かった奴をもう一度鍛えるとか言っていたな」

「そうなんだよ~しかも全科目だぞ、信じられるか?」

「うわ、それは地獄だな……」

 寝不足の顔から一転、まるで鬼のような表情を見せるこいつはここ立夏学園(りっかがくえん)で出来た友達でその容姿はいかにも体育系なのに中身はネトゲ廃人である。

 加えて成績は、先ほどの会話からしても決していい方ではない。

「くそ~お前は余裕でいいよな、この間のテストだって学年五位だったんだろ?」

 体格のいい男に寝不足の目で睨まれると結構、威圧感がある。

「たまたまだよ、僕より頭のいい奴なんか山ほどいるって」

「何言ってやがる、お前が手を抜いている事なんてバレバレだよ」

「買い被りだ」

「謙遜か、まぁーお前らしいかな」

 こいつは、普段はネトゲの攻略や掲示板の話しかしないようで学友の事をさりげなく気に掛けてくれる。

 この性格のおかげで、クラスでも人気者の地位を獲得している。

 そして、大分話が逸れた事に気が付いたのか悪友が慌てて話を戻す。

「そんな話よりゆう子さんの話だよ、お前は本当に知らないのか?」

「知らないよ」

 そう言いながら、母親の手造りハンバーグを口に運ぶ。

 悪友はそれを羨ましそうに眺めながら、話を続ける。

「何でも夕暮れ時に人気の無かったはずの電柱下から突然現れる不審者で、霞みたいな透明感のあるワン ピースを着た女の人に笑顔でこう話しかけられるんだってよ who are you?(あなたは、誰?)てさ……だからゆう子さん」

「何だそれ、その人は外国人なのか?」

「いいや、黒髪らしい」

「日本人ぽい人に、英語で話しかけられるのか?」

「そうだ、それでなここからが話のキモなんだよ」

 すると、何故か声を潜め始めた。

「大抵は変な奴に絡まれたと思って無視するんだが中には奇特な奴がいて、その答えにバカ正直に答えたらしんだよ」

「そしたら?」

 僕は短く訊ねる。

 ハンバーグの旨味の余韻をお茶で流し込みながら、悪友の話に聞き入る。

「そいつが病院に運ばれたんだってさ、詳しい容体は分からないけど意識はまだ戻っていないらしい」

 硬い口調で話を続ける。

 悪友の表情は引き締まっており、普段の柔和な笑みは鳴りを潜めている。

「でも、そいつがそのおかしな女の質問に答えた奴って分かるんだ?」

「そいつ、話し掛けられる前にすぐにスマホからツイ―トをしたらしくて履歴が残っていたんだよ」

 そう言うと、自身のスマホを取り出してその画面を見せた。

「なになに、「噂のゆう子さんに遭遇!」か……」

 おかしな女に出会ったわりには、意外と余裕がある。

「顔は見えなかったが、雰囲気が綺麗で思わず見惚れてしまったと……」

 読み終えてスマホを返すと、神妙な面持ちで呟いた。

「こいつさ、俺のゲーム仲間の友達なんだ、結構仲良かったらしくて――ゲーム仲間もin率落ちていてさ」

 何とか元気になってほしいよ、そう呟いていた。

「口裂け女なら聞いたとこあるけど、ね……」

 生憎、誰? と尋ねる奴に心当たりはない。

「で? 何でこんな話を僕にしたんだ?」

「お前、意外と抜けているからさ注意しろよってこと」

「それはどうも、これは情報料だ」

 そう言うと、パンの空き紙の上にハンバーグを一つ置いた。

「サンキュ、お互い気を付けようぜ」

 友達は、ハンバーグを摘まみながら席を離れていった。

「しかし、ゆう子さんね」

 僕の地区内には何かとこういった怪談話が多い。

 河童に接骨のやり方を教わっただの、口裂け女が出たなど様々だ。

 僕は、そう言った類の話は信じない。

 正確には、聞いただけの話は信じないと言った方が正しいかも知れない。

 とにかく、僕は目で見た現実しか認めない質なのだ。

「やれやれ、変な事を聞いちゃったな~」

 米とハンバーグを咀嚼しながら、小さくぼやく。

 箸はゆっくりと、でも止まることなく目の前の料理を片付けていく。

「ゆう子さん、ね……僕も実物を見れば信じられるんだけどな」

 時間にして十五分ほどで弁当箱を空にし、それと同時に昼休みの終わりをイギリスの大聖堂の鐘が告げた。

 それからの午後の授業はつつがなく、終わりを迎えた。

 体感的にあっとゆう間に、時計の短い針が四時を差したのと同時に学校が終わった。

 そして、居残りする学友を尻目に早々に帰路に就いた。

 校舎を出て生徒で賑わう校門前を、人通りの少ない方に歩いていく。

 でも、疎らとは言っても町内の人とはすれ違う。

 帰宅途中の、背中の丸まったサラリーマンや買い物途中の母子など無意識にそれとなく周りやすれ違う人を見渡すがそれらしい奴は見当たらない。

「髪が長くて、場違いなワンピース姿の女……そんな奴いたらすぐに分かりそうなものだよな」

 やはり、そんな奴はいないのだろう。

 倒れた悪友の友達は、きっと熱中症で倒れたに違いない。

「帰ろ」

 頭を掻きながら、歩調をいつもの速度に戻す。

 元々熱心に探していたわけではなかったわけだし、行き交う人の顔を見ているうちに段々バカらしくなってきてしまった。

 歩調が戻ったおかげで、サクサクと家路を辿る。

 僕の家は、学園のある市街からはやや離れているからこの時間でも人は殆どおらず市街から少しでも外れれば自然の残る河川に出る。

 見れば、風通りのいい河川沿いの水がおいしそうなオレンジ色に変わってきた。

 立ち止まり、空を仰ぎ見れば夏の日差しが傾き西日が顔を照らしていてそれに煩わしさを感じ始めた。

 誰もいない河川敷だから、思いっ切り肺に溜まった愚痴をこぼす。

「鬱陶しぃ~」

 そう愚痴りながら張り付いた前髪を振り払った。

 その、時だった。

 今まで生温い風が僕を撫でていたのに、一陣の風が吹いた途端に僕の頬の熱を急速に奪っていった。

 風は僕から余分な熱を一気に奪っていく。

 堪らず両腕を抱き、目を閉じてしまった。

 時間にして五秒も瞑っていない。

 だから誰もいる筈もなく、誰も来ていない筈だった。

 でも、そいつはそこに居た。

「もし、そこの御仁?」

 それは、僕の背後から聞こえた。

 葉っぱ同士が擦れる音と鼓膜に当たる空気の音に交じって聞こえたその声は、騒音に包まれていたのに不思議と耳に届いた。

 姿は無いのに、当たり前の様に隣にいるような抱擁に満ちた声色だった。

「!?」

 いきなり背後から声を掛けられ僕は驚いたが、自分の背中を伝う冷汗の量にも驚いた。

「いや、え!?」

 僕はその男を見て、その様相にも驚いた。

 そいつは、時代錯誤な唐草色のくたびれた着物を着て手には紅色の番傘を差している。

 背はそんなに高くない、せいぜい僕の背より頭一つ分ほどの大きいだけだ。

 番傘に隠れて顔は見えないが、覗かせる顔の輪郭は細いと言うより整っているとゆう印象だ。

 どこか時代遅れ――いや時代に取り残された感が漂う男は、表情を見せないまま僕に語りかけてきた。

「お尋ねしたいことがあるのですが、今お時間は大丈夫でしょうか?」

 場違いな敬語、何だか敬語を貼り付けているみたいだ。

「あ、あんたは?」

 驚愕してから三分、ようやく絞り出せた声で聞く。

「驚かせてしまったようで失礼、私は赤鬼(せき)と申します」

 見た目だけでなく、言葉遣いも時代に合っていない。

 今時、聞きたいことがあるだけでここまでへりくだる奴はいない。

「御仁は地元の方ですかな?」

「ああ、そうだが?」

「でしたら、この近くに神社はありますか?」

「神社ですか、ほとんど廃神社になっていますよ?」

「構いません、何処にありますか?」

「ええっと、どこでもいいんでしたらあの森の中腹辺りに――」

 信仰心も薄れて街にある神社の殆どは廃神社になってしまっているが、僕が指さしたそこは少し山奥の所になるが確か神主の人は居た気がする。

「あの山ですね? ありがとうございます」

「神社なんかに、何の用なんですか?」

「用事とゆうほどではないのですが、少しばかり聞いてみたい事があるのですよ」

「聞いてみたい事って、神主にですか?」

「いいえ……」

 すると、男は傘から少しだけ顔をのぞかせた。

 番傘から覗いた顔は女と見間違うほど整っている。

 手入れのされてない、痛みの目立つ長髪は傷んだ布切れでまとめていて病的に白い肌は赤い血が通っていないのではと思うほどである。

 だが、大きな目は少し赤みがかっていて視線は何処か物憂げに垂れさがっている。


 その(さま)は、解けない謎に苦しむ哲学者のそれだった。


「しかし、人間とは面白い生き物ですね」

「ん?」

 考え事をしていたせいか、男はいつの間にか土手に座り込んでいた。

 そして、川を眺めながら差していた赤色の菊の花をくるくると回わしながら呟く。

「何かに囲まれなければ自分とゆう個性を表現が出来ないのが人間とゆうものです、人は箱に囲まれなければ生きていけない」

 セキと名乗った男は、語る。

「例えば――」

 そこで言葉を切って、こちらに視線を投げかけてきた。

「人は、家族とゆう箱を生まれながらに持っています」

 当たり前だ。

 父が居て母が居るから、僕が居るのだ。

「その箱の中には様々な形がある、名前に始まり服に至るまで人は様々なものに囲まれている」

 不意に、ポケットに入れていたスマホが震えた。

「いや、人とは何かに縛られなければ生きていけない」


 僕は、無意識にポケット越しのスマホを触った。


 その言葉は、僕に向けられて発せられている。

 その筈なのに、何故だろう。

 まるで、熱にうなされているような戯言のようにも聞こえる。

「あんた、一体何者なんだ? 詩人にしては随分と現実主義者なんだな」

「私は言わば箱そのものです、人間が私達に(世界)とゆう役割を与えているのですよ」

 そして、男は僕の心を見透かした。

「そして、あなたの探していた女子も箱に縛られた者の一人なのでしょう」

「な、なんで……」

 言い当てられた心を取り繕うとするが、上手く言葉に出来ない。

針女(はりおなご)とゆう妖怪――いや、その役割を与えられた人間とゆうべきですかね」

「針女?」

「針女は四国地方に出るとい言われる妖怪です、長い髪を鉤針(かぎばり)のようにして人を襲うと言われています」

「あんた、知っているのか?」

「何をですか?」

「だから、ここら辺で出没している女の事だ」

「それを聞いてどうするのですか? 会ってみたいと?」

「まぁ……な」

「何故です? 彼女はあなたと関係あるのですか?」

 男は、言葉に詰まった僕を一瞥するとおもむろに立ち上がった。

 そして、僕が指した神社の方に足を進め始めた。

「本当に、人間とは面白い生き物だ」

「おい、あんた……」

「心配せずとも、もうすぐ会えますよ」

「何だと?」

「言いませんでしたか、私達は箱そのものだとあなた達を取り巻く環境そのものなのですよ」

「だから、なんだ――」

「そうだ、場所を教えてもらったお礼にいい事を教えてあげますよ」

 僕の言葉を遮った男が最後に意味深な進言を僕に送った。

 そして――セキと名乗る男は去っていった。

「何だったんだ、あいつ……」

 すっかり河川敷が夜道に変わってしまった。

 街灯が規則正しく並んだ道は白と黒のモノトーンを描いている。


 そんな単一のリズムは僕に、自身の過去を邂逅させた。


 僕の人生を一言でいってしまえば平凡なのだろう。

 地元のそれなりに大きい企業に勤める父を持ち、パート勤めの母親を持ち兄弟はいない。

 小中高とも地元の学校に進学し、友達は多くも少なくもない。

 何てスタンダードな人生なのだろうと自分でも思うが、僕は特別になりたいわけじゃないのだ。

 主役じゃなくて結構、端役もいらない。

 自分はただの傍観者(ぼうかんしゃ)でいいのだ。

「あれ、僕ってこんなに詩人だったっけ?」

 そこまで考え込んで、自問自答が馬鹿らしくなってしまってしまった。

 きっと、あの男に感化されたせいなのだろう。

 あの主役ほどの存在感は無いのに、人を惹きつけてしまう端役のような男。

 傍観者のくせに、読書をしている姿が目を引く俳優のような男。

 セキと名乗る男は言った。


 僕の探し人は、もうすぐ見つかると。


 背中の冷汗が、肌から熱を奪った。

 そして、身震いと同時に帰宅していた足が止まる。


 嫌な、予感がした。

「……え?」

 そいつは、目前のモノトーンの白色の部分にいた。


 そして、そいつは噂通り綺麗な子だった。


 なびく長髪の黒は周りの闇に負けないほど艶やかである。

 それが、不気味――いや、妖艶と言い換えてもいい。

 体は恐怖を感じているから、自然と後退る。


 でも、人間離れした彼女から目が離せない。


 前髪で目が隠れているのもあるだろうが、あいつからは感情が読み取れない。

 口の両端を吊り上げて微笑んでいるが、僕にはマネキンが笑っているようにしか見えない。

 怖い、頭ではそう感じている。

 足を動かしたい。

 なのに、影が縫い付けられているみたいに動かない。

 本能は体を遠ざけようとするけど、恐怖が足を後退させるのを拒んでいる。

 不意に、脳内であの(セキ)の言った事が反芻される。

『まずその女にあったら絶対に微笑み返してはいけません、目を合わせず立ち去りなさい』


『でも、もしも微笑み返してしまったら――』


 その忠告を脳内で聞いている時だった。

「who are you?(あなたは、誰?)」

 その女は、闇に紛れて僕の目の前に現れた。



 月光が彼女を照らす。



 さらにその女は、僕の胸に体を預けてきた。

 目元は窺えないのに、視線が交わっている事は分かった。

「あ……ぁ……」

 動揺で僕の胸の内から音がせり上がってくる、心臓の音が鼓膜を内側から壊そうとする。


 獣のような声しか出せない。


 この感情は、歓喜?


 それとも――畏怖?


「who are you?(あなたは、誰?)」

 二度目の問い。

 その問いに僕は、答えなかった。

 その代り――彼女の微笑に、笑い返して(・・・・・)しまった(・・・・)


 その瞬間、あの時途切れたセキの言葉の続きが紡がれた。

『あなたは、その女の本性(正体)を見る事になる』


「……あなたも、オイシソウダワ」

 その時に初めて前髪の中が見えた。



 そこに僕の知る眼球は無く、奈落の穴の様な深い双眸があった。

 それを見た時に、本能が目の前の女を拒絶した。

「うわぁ!?」

 両手でその女を突き飛ばし、女のいた方と逆に逃げる。

「はぁ――はっ!」

 息が切れる。

 まだ走って十メートルも走っていないだろう。

 けど……動揺、恐怖、様々な感情が僕から余分な体力を奪っていく。

 (うしろ)は怖くて確認していないが、月光に照らされた影で女が追いかけてきているのが分かった。

 女の影は、笑いながら僕を追ってきていた。

 そして……恐怖しながらも僕は、双眸を見開いた――。

(何だよ、あれ!?)

 月光に照らされた女の髪は、不自然なほど舞い上がっていた。

 その髪の束はまるで――鉤針の様だった。

「待っテ、置いていかないで……」


 女の声が耳元で聞こえた、女との距離はまだあるのに。


「どうして私ヲ置いてイくの?」

 女の声が時々ぶれる。


「私は目が見エない」

「アなたは、アノ人なの?」


「答えて――」


「あなたは、誰なの?」


 辛うじて聞き取れた最後の言葉に、何故か僕は後ろ髪を引かれた。

 それから僕は近くにあった廃墟に逃げ込み、鍵の付いた丈夫な部屋に体を滑りこませた。

 しばらくは何かを引っ掻く音が聞こえていたが、次第にその音は遠退いていった。

 そして、いつの間にか気を失っていた僕は病院のベッドに寝かされていた。

 誰が救急車を呼んでくれたのかは分からない。

 けど、逃げ込んだ廃墟の近くに住む友人が言うには廃墟の扉に無数の引っ掻き傷があったと言っていた。

 病院に担ぎ込まれてから一夜明け、日中手当てを受けたが問題なしと判断されたので退院となったが念のため今日一日は学校を休むことになった。

 そして、あの女に襲われてから二日たって僕は自宅から学校に向かっている。

「あれ? あいつ……」

 すでに遅刻ギリギリだったので息を切らしながら走っていると、前方に見知った背中が見える。

「おい、何してんだ? 遅刻するぞ」

 背中からの声に気付いたのか、しんどそうに振り向く。

「お、お前大丈夫か?」

 走るのを止めその顔を凝視する。

 その顔は、寝不足と辞書を引けば例文として出てきそうなほどひどい顔をしていた。

 ボサボサの髪、彫の深い顔に濃くクッキリと隈の跡が見える。

「おぉ我が友よ、おはよう……今日もいい天気だな」

 死にそうな顔をしてにっこりと笑う姿は不気味の一言に尽きる。

「例の友達、意識が戻ったみたいでさゲーム仲間も久しぶりに戻ってきたんだよ」

「だからって、そんなになってまで徹夜するなよ」

「まぁ、嬉しい悲鳴と言う奴だよ」

「使うところ、違うと思うけどな」

 そんな他愛ない話をしていたら空から緑の葉が落ちてきた。

 この辺りに、木々は無い。

 そんな風の悪戯が何故か心に染みてきて、瞳を僅かに濡らした。

「彼女は、今でも探しているのだろうか?」

 言葉が、漏れた。

 彼女は見えない瞳で、声だけを頼りに永遠と探し続けるのだろうか。

 僕は妄想で思う事しかできない、今の僕には確かめる術はないのだから。

 今になって、彼女に対して浮かぶ感情の正体は。

 恐らく――憐憫(れんびん)だ。

「さようなら、ゆう子さん」

 そんな僕の呟きと感傷を、お地蔵様は笑って見ていた。



       〝ここからは……彼が知らない世界の話、世の外側のお話〟


「開けて、お願――」

 扉をひっかく音にかき消される末尾の声。

 ガリガリと耳障りな音を立てながらいつまでもその鋭利な針を突き立て待ち人を追い続ける、その姿は滑稽でいてその純愛を美しいと感じてしまう私はやはり私は鬼として狂っているのだろう。

 しかし、今のままでは……扉の向こうで抗っている彼も扉の前で抗っている彼女も救われない。

「およしなさい、その者は貴方の探し人ではないですよ」

 私が声を掛けると、彼女は振り返ってこう尋ねてきた。

「who are you?(あなたは、誰?)」

 一体、その言葉を何度口にしてきたのだろうか。

 しかし、この者は知らない――その問いは返される事は、ないのだ。

「私も伺いましょう、貴女は誰なのですか?」

 一歩、前に出る。

「わたし?」

 一歩出て、彼女は壁を背にした。

「そう、貴女は誰なのですか?」

 その問いに彼女は答えられない。

 何故なら、他者に誰だと問う彼女は自身の今の姿を理解できていないのだからだ。

「針女、貴女の記録を私に見せてくれませんか?」

 私の言葉を理解できない彼女は、その顔についた二つの穴を大きく見開いた。

 それに気づいた私はおもむろに近づき、懐から古い書物を取り出す。

 それは日記とゆうより古い文献のような一冊の本だ。

「この書には触れた者の過去や出来事を走馬燈のように遡ってみる事ができる妖の日記帳です、まぁ〝過去世(かこせ)の書〟とでもしておきましょう」

「キロク?」

 拙い言葉、それでも意思は通じたのだ

 ならば、彼女はまだ救われる。

「はい……これから貴女が知るのはかつての自分の姿です、世界になる前の貴女を私にも見せてください」

 優しく、触れるように促す。

 針女は、私の言葉を値踏みしているようだ。

「行きましょう、貴女の探し人が待っています」

「アノ、人が?」

「そうです、だから……怖がらずに」

 再び優しく、彼女の手の平を本に誘う。

 彼女は怯えるように、しかし確かめるように本の表紙に手を置いた。



 変化は、一瞬だった。



 辺りは闇に包まれる。


 しかし、それは夜の訪れではない。



 それは〝過去世の書〟見せる彼女(針女子)の過去。



 彼女が、私達側に囚われた理由。




 それを受け入れない限り、彼女は救われない。



「さぁ、物語を垣間見ましょう」



 そして、私達はその光景を見た。




 〝過去世〟



 それは戦時中に起きた、有り触れていて残酷なお話だった。



   私と彼女はその光景を並んで観ていた。


 死の恐怖や敵への憎悪、友人や家族を殺された事への怒りだけが支配者として存在するその有様を。


 壊され、炎に包まれる街の有様を。


 飛行機が、戦車が、人が、蹂躙し蹂躙される有様を。



 そして、一人の少女が異国の敵兵に捕まったところで場面が変わる。


 私と彼女は並んで見ていたその光景を。


 背景はない、ただその場面だけが切り取られていた。

「止めて、下さい」

 喘ぎと涙声。

 その男はその懇願を聞かず何度も何度も彼女の体を貫いた。

 その醜い肉の塊で。

「ダマリナサイ、敗戦国の雌ザルに何をしようと罪には問われない」

 荒い息遣い、汚い笑顔で口元から涎を慣れ流すその男の方がよほどサルに見える。

 一方、貫かれている彼女の見た目はまだ十代後半で洗えば美しいであろう黒髪は手入れもされずに振り乱している。

 しかし、未発達ながらも若さ溢れる一糸纏わぬ姿は確かに理性を失わせるには十分なのかもしれない。

 そして、自身の姿を横にいる女は何も言わずに見ている。


 まるで、違う世界を見ているかのように。


 戦争は醜い。

 私はそれを誰よりも見てきたし何より(わたし)こそ、その醜さから生まれてきた者だ。

 この光景はそれほど珍しい物ではないが、何度見ても気持ちのいい物でもない。

 だが、三十分は続いていた狂った行いは突如終わりを迎えた。


 その男はゆっくりと暗闇から出てきた。


 厳めしい顔をし、口元の鬚は手入れが行き届いておりいかにも上級階級の軍人である。

 少女を犯す男は自分よりも多くの勲章を持つ男に気付き、汚い涎を振りまきながら退場していった。

 その男は厳めしい顔のまま少女に近づく。

 そして、全裸で横たわる女を抱き起し自分の軍服を羽織らせた。


 そして、男は軍服を羽織らせた少女に尋ねた。


 それが、彼女が初めて覚えた異国の言葉だった。


「who are you?(君は誰だい?)」


 当然、初めて聞く異国の言葉と先程の狂行によって彼女は怯えていた。

 それを察した身なりのいい軍人は厳めしい顔を少しだけ曇らせ頭を掻いた。

「アーゴメンナサイ、ワタシこのクニのコトバよくワカラナイ」

 すると男はつたない日本語で話しかけてきた。

 少女は少しだけ視線を男の顔に向けた。

 それは、自分をこれ以上傷つけないように気遣いながら話しているがどうしたらいいか分からないといった意味が込められた微笑だった。

「ダカラ、キキトリズラカったら、いってクダサイ」

 この日本語も相当練習したはずだ、僅かに顔が赤いのはおそらく日本人に話しかけるのは初めてなのだろう。

 緊張するのも無理はない。

「デハ、ウカガイマスがアナタはダレですか?」

「私は、蛍」

「ホ、タル?」

「そう、蛍です」

 再び自分の名前を告げる。

 そして、少女は初めて正面から男の顔を見た。

 その男の顔は彼女が思っているよりもずっと優しい顔をしていたのだろう。

 安堵した彼女の目から涙が零れた。

 男は、再び慌ててしまった。

 そんな男を見てつい笑ってしまった少女。

 しかし、涙は止まらない。


 そんな、暖かく矛盾した光景は暗闇に消えていった。


「あぁ……」

 その光景を見終え横目で彼女を確認すると、奈落のような双眸が見開かれている。

 そして、もしその二つの穴に瞳が残っていたのなら涙を流していたのだろうと容易に想像できた。

 しかし、彼女は知っている。


 自身の物語は、決して大団円で終わらないことを知っている。



 その後、身寄りのない彼女は彼の元で給仕兼日本語の講師として雇われることになった。



 着慣れない給仕服を着た自分に赤面する姿や慣れない食器を必死に洗う姿が微笑ましい。


 常に絶えない笑顔、男と少女とほかの給仕達もつられて笑顔になる。


 幸せだったのだろう。


 そんな暖かな光景は突如、途絶える。


 代わりに、目の前で繰り広げられているのは惨劇だった。


 炎と硝煙の臭い、そして肌を焼く程の熱が私達を包む。


 もちろん、それはそう感じるだけの幻。


 しかし、彼女はその場に蹲ってしまった。


 臭いとは、記憶と深く繋がっていると聞く。


 皮肉にも、この臭いが針女の記憶を呼び起こした。


「や、めて」

 傍観者の彼女、目の見えない筈の彼女に否応なしに〝過去世の書〟は起こった事を突きつけた。


 響く罵声、爆発音。


 皮肉にも少女と同じ国の者が、あの時彼女から全てを奪った紅蓮の炎が再び居場所と彼女を救った男。


 そして、その両目を奪った。

 やがて辺りを包んでいた爆音が消え、代わりに静寂が私と崩れ落ちた彼女を包む。


 数十分に及んだ破壊行動は、終わりを迎えた。


 そんな終わった命しかない筈の場所で、動く人影があった。


 彼女は、明らかな深手だった。



 しかし、彼女は呼び続けた。



 自身も酷い火傷を負いながらも、探していた。


 その哀れな背中を見えなくなるまで、鬼である私が憐みながら見送った。


 やがて焼け野原で聞こえた、何かの声。


 それは獣の鳴き声か、或いは泣き声か。


「もう、止めて」

 なきごえと同じ声が聞こえた。

 全てを思い出した彼女が完全に崩れ落ちたのと同時に、自分達を包んでいた幻が晴れて元の場所に戻ってきた。

 両目を失い、慟哭と共に命尽きた彼女は男の死を看取ることができなかった。

 だから、生きていると信じた。

 そして世界は彼女を生かして、針女とゆう役割を与えた。


 しかし、私は知っている。


 それは善意ではなく、ただの気まぐれであることを。

 しかし、彼女はその役割にしがみ付いた。

 記憶も忘れかける程長い年月を生きて、他者の生気を吸ってでも彼女は生きた。

 醜くなっても生かされた理由は忘れない。


 そうして問うのだ、自分の姿が見えたものに。


 失った両目の代わりに生かされた耳で聞くのだ。


 その名前を聞くまで。


 掛ける言葉はない、いや見つからない。

 けど、このまま意味もなく彷徨い続けるよりも苦しみながら問い続けるよりも目の前の声に耳を傾けてほしかった。


「ホタル、待たせてしまったね」

 闇から聞こえた声。


 彼女(蛍)はその声を覚えている。


 しかし、もうその姿を見ることはできない。


 けど、少女は――蛍は忘れない。


 その声を。


「who are you?(貴方は誰?)」

「私だ、チャールズだ」

「チャールズ、様?」

 顔を上げて、何も写さない瞳で目の前の彼を見る。

「ずっと探してくれて、ありがとう」

 その声色はあの時に聞いた優しい声色だ。

 そして、ゆっくりと彼女の目の前に手を差し出した。

「さあ、行こう」

「……はい」

 見えていないはずの差し出された手を取った。

 嬉しそうに頬を綻ばせながら。

 そして、彼の来た闇に消えようとした時だった。

 彼女が、私の方に振り返った。

「貴方は、誰?」

 それは、針女が問う最後の問いかけだ。

「私は、赤鬼(せき)と申します」

「貴方は、私と同じ?」

「はい、私もある答えを探している」

 そうだ、私は彼女の事を笑えない。

 何故なら、私もまた答えを探して彷徨ものだから。


「ありがとうセキ、貴方も探し物が見つけられるといいですね」

 その言葉と小さな微笑みを残して針女は消えていった。


「良き旅路を……蛍さん」


 そして、私もその言葉を残して姿を消した。





           『日和坊(ひよりぼう)の憂鬱』


 それは教えてもらった神社に向かう為、緩やかな坂道を上っている最中の事だった。

 草木に遮られた木漏れ日が眩しいほど、空は快晴模様で容赦なく顔に日光が降り注いでいる。

 いつまでも見ていられず、視線を戻す。

 でも、褐色の地面からの照り返しに変わらず目を細めた。

 そして、細めた目線の先にその者はいた。

「おや、これは……」

 見て見ぬ振りもできず、彼に近づいた。

 近くで見上げれば、地蔵様をそのまま大きくしたような皺の深い老人が憂鬱げに空を覗いていた。

『はぁ~今日も晴れか……』

 体は半透明で背丈は五メートル以上あろうかとゆう巨漢なのに、その表情に凄味は無く剥き出しの岩肌に背中を預けて座り込んでいる。

「失礼、あなたは日和坊殿ですか?」

 私は声を投げ掛けた。

『そうゆうお主は何者だ? 見たところ人ではないな?』

 私の声に気がつくと、怠慢な動作でこちらを見下ろす。

「私は赤鬼(せき)と申します、貴殿は日和坊殿でしょうか?」

『そうだが……お主は、鬼か?』

 私の投げ掛けた言葉に返って来た問いは、私が探し求める答えだった。

「ええ、そうですね……多分、そうなのでしょう」

 自分の手を見上げながら、私は呟いた。

『五本の指か、お主は中々の変わり者の様だな』

 それだけを言って、日和坊殿はまた空を見上げ始めた。

 その皺の中にある瞳はまるで何かを求める様な眼差しだ。

「日和坊殿、何故空を見上げているのですか?」

 私も半透明の巨漢の横に並び、その横顔に語りかけた。

 日和坊殿は、空を見上げながら返事をしてきた。

『お主は、雨を見たことがあるか?』

「雨ですか? あの空から降る?」

『そうじゃ、その雨じゃよ』

「それは……まぁ長い間生きていますので、何度もありますよ」

『そうか……ワシは無い』

「ない、のですか?」

 そう呟いたが、すぐにどうしてか思い至った。

 彼の名は日和坊、人々によって晴れの象徴とゆう役割を与えられた者である。

『なぁ……雨とはなんじゃ?』

 その問いは、まるで(わらべ)が母親に聞くような簡潔な質問であり深い真理に挑む哲学者のような問いだった。

「雨、とゆうのは――」

 そう言いかけて言葉に詰まる。

 雨とは何だ? 

 日和坊殿が求めている答えは恐らく、雨とはどうゆう現象なのかとゆう事なのだろう。

 しかし、私も長いこと彷徨っているが雨が降る仕組みなど分からない。

 私達にとって雨とは空から降る水でしかないのだ。

 私は科学者ではない。

 それ以上の事を知る必要はないし、それを解き明かす意味もない。

「空から降る水の事ですね」

 そして、私の問いも母親が童に教えるような答えになってしまった。

『空から、水が降るのか?』

「そうです」

『それは、やはり冷たいのか?』

「そうですね、私は雨が嫌いです」

 遠い記憶の中で、雨の日にいい思い出は無い。

『……ワシは一度でいいから見てみたい』

「何故ですか?」

 空を見つめる双眸は、綺麗なものに憧れる子供のようだ。

『以前……人の子が言っておったのだ、雨とは曇天の空から落ちるとっても綺麗なものらしいではないか』

「確かに、雨の雫とゆうのはとても幻想的ですね」

『そうなのか……見てみたいの――』

 だが、それは叶わない夢である。

 何故なら、彼が出ている時は干ばつが起きると言われている。

 だから、彼が雨を見る事は無い。

 どんなに恋焦がれようと、どんなに手を伸ばそうとも。

 口惜しくて、お天道様に手を伸ばした。

 それは、悪足掻きをする子供みたいだ。

『うん? なんじゃ?』

 最初に気付いたのは、日和坊殿だった。

「おや? これは――」

 ふと、空を見上げる私の頬に水滴が落ちてきた。

 一滴。

 二滴、と。

 それは、次第に強くなっていく。

「そうか、狐の嫁入りか……」

『どうしたんじゃ?』

「日和坊殿、見てください」

 嬉しくなった私は、日和坊を見上げた。

 水滴は、日和坊殿の体をすり抜けていく。

 それは徐々に多くなっていき、水滴は葉を大きく揺らしていくが日差しが弱まる事は無い。

『これはなんじゃ?』

「これが雨です」

『これが? しかし、曇天ではないが?』

「日和坊殿、この辺に狐の集落があるのではないですか?」

『確かにこの獣道をまっすぐ行くと錆びた神社があるのだが、そこの庭は狐の住処になっておるよ』

「これは、お天気雨ですね」

 狐の嫁入りは地域によって伝わり方が違う。

 熊本県の方では虹が出ると狐の嫁入りが行われているとか、愛知県の方では霰が降ると狐の嫁入りが起きると言われているのだ。

 しかし、一番ポピュラーなのはやはり晴れの日に雨が降るとゆうものだろう。

『そうか、これが雨か……まるで宝石の様じゃな』

 しゃがれた声から発せられる、感嘆の声。

「確かに、これは美しい……」

 日差しを取り込み輝く雫は、金剛石の様だ。

 その様を感慨深く眺めていたが、次第に日和坊殿の体がさらに薄くなってきた。

『なんだか、急に眠くなってきたの……』

「そうですか、ではゆっくりとお休みください」

 やはり、彼と雨は相容れない存在なのだろう。

『そうするとしようかの……』

「日和坊殿――」

『何じゃ?』

 彼が向き直るのと同時に、私も背中を預けていた壁から体を離した。

「いい夢は、見られそうですか?」

『……ああ、見られそうじゃよ』

 最後にしわくちゃな顔が、笑った。

 そして、陽炎のように日和坊殿は消えていった。

 それを見届けて私も歩みを進めた、宝石が降り注ぐ綺麗な獣道を。




            『狐の嫁入りはいつ?』


 それは、見たと事のない風景だ。


 少なくとも私の記憶ではない。

 きっと、私の持つ〝過去世の書〟が見せた夢なのだろう。

 太鼓が鳴り響き、尺八が優美に辺りの喧騒を包み込んでいる、祭り得有の湿った匂いに混じるのは、屋台から洩れる食べ物の香り。

 行き交う子供も、それを窘める大人でさえもみんな笑顔だ。

『祭り、か』

 だが、その呟きはこの場に相応しくない沈んだ声だった。

『太鼓を囲んで踊ってたこ焼きを喰って、それの繰り返し……何が楽しいのだ?』

「ん?」

 すると、走っていた少年が顔を上げた。

 そこにあったのは大きな桜の木、樹齢ゆうに百年を超えているだろう。

「どうしたの?」

 すると、その子の母親らしき女性が少年の視線の先に目を向けた。

「なんかね、声が聞こえたの」

「声が、聞こえた?」

 訝かしむ母親だったが、子供の聞き間違いだろうと子供にやさしく語りかけた。

「この木はね、この神社を守ってくれている神様なの」

「神様?」

「そうよ、きっと神様も祭りを楽しんでいると思うわ」

「ふ~ん」

 少年は木を眺めたままそんな返事をした。

 沈んだ声は、もう聞こえなかった。



 そこは未だに夢現の中、場面は突如切り替わる。



 その夢は、紛れもなく自分の記憶だった。


「お兄さん、行かないで!」

 小さき体で精一杯しがみつく小さき童、私が本気を出せば容易に振りほどけるその体を優しく突き放す。

「すまないね……正体が知られてしまった以上、ここにいるわけにはいかない」


「ご、ごめんなさい――私にせいで……」

 大きな瞳から小さな涙が零れる。

「謝らないでおくれ、君のせいではないよ」


「で、でも!」


「さぁ……もうお帰り、直に他の村人が来る――君まで咎めを負う事はない」


「いや、行かないで!」


「さようなら……優しき人の子――いや、紗代(さよ)殿」


 その言葉を残し、私はそこから立ち去った。

 行かないで、その言葉と涙に後ろ髪を引かれながら。


「……むぅ――」

 寂れた神社の拝殿内で一夜を過ごし、暁の時に目が覚めた。

 静寂に包まれた境内を見渡し、拝殿の扉に背中を預けた。

 どうやら私は、人の様に夢とゆう物を見ていたらしい。

 もう断片しか覚えていないが、それもこの日記に記しておこう。

(結局、ここにはいなかったか……)

 日記に夢の中の会話を書いているうちに次第に日差しがだんだん強くなっていく。

 そして、書き終えるのと同時に辺りを見渡す。

 ここに来た理由は、憂いを晴らすため。

 背中に掛けられるその声に振り返ることなく立ち去った私は、いささかの後悔を抱いていた。

(彼女は、元気でいるだろうか?)

 かつて、一時(いっとき)だがこの辺りに住んでいた頃にここで遊んでいた幼い娘に一目会っておきたかったのだ。 

 けど、この辺りもすっかり変わってしまった。

 それもそうだ。

 人の思い出や土地の姿でさえ移ろいゆくもの、それは永劫の時を彷徨っていれば嫌でも分かってくる物だ。

「変わらないのは……私くらいだ」

 五本の指を見つめながら明けの空を眺めていると――。

「おい、見つかったか?」

 小さな、焦燥の声。

「いや、こっちには居なかった」

 またしても声。

 朝の静寂でなければ、聞き逃していただろう。

 庭の方を見れば左右に忙しく茶色い毛玉が動いていて、茂みから頭を覗かせては引っ込む姿は日本昔話みたいな光景だった。

 どうやら日和坊殿に教えてもらった狐の集落の者達のようで、必死に何かを探していた。

 数にして数十匹はいるだろうか、拝殿の前を行ったり来たりしている。

「何か、あったのだろうか?」

 私の吐いた独白に気が付いた一匹の狐が、近寄って来た。

「もしもし、貴方は妖ですね」

 狐は丁寧な言葉で話し掛けてきた。

「そうですが?」

「ここら辺で、白無垢を見た美しい女子(おなご)を見ませんでしたか?」

「いや……私は今目が覚めたところですので、分かりかねます」

「そうですか……」

 力なく垂れ下った耳を見て、私はある推測を口にする。

「ひょっとして……狐の嫁入りに関係あるのですか?」

 推察を口にした。

 すると、感情を表すように元気よく耳を立てて私に詰め寄ってきた。

「そうなのです! せっかく雨まで降らせて婚姻をお知らせしたとゆうのに逃げられてしまったのです」

「逃げられた?」

「そうなのです、せっかく天孤様候補の方と婚約が決まったとゆうのに!」

「それはすごい、この地方の狐族から天孤候補の方と結ばれる狐が現れるとは驚きました」

 天狐とは、妖狐の中でも最高位にあたる称号である。

 候補とはいえその狐の目に留まるとは、余程の見た目なのだろ。

「名はなんとゆうのですか?」

凜音(りんね)とゆう者です、頭に桜の簪をした美しい娘です」

「凜音殿ですね、簪の他に特徴は?」

「髪の色は栗色で、昔このあたりで暮らしていたので土地勘もあるはずです」

「成程、では私は町の方を探してみます」

「よろしいのですか?」

「はい、特に急ぐ用もありませんし狐の方々では探すのは大変でしょう」

「かたじけない、お恥ずかしい話ではありますがこの辺りに住む狐は化けるのが得意ではないのです」

「そうなのですか?」

「ですが凜音だけは違いました、あの娘は妖術の才に恵まれそれを天狐候補様に認められてぜひ嫁にと言っていただけたのです」

 妖術に長けているとは少し厄介かもしれない。

「心得ておきます」

 そう言って背中を預けていた扉から起き上がる。

 すると、話していた狐が細い目をさらに細めて尋ねてきた。

「そう言えば、貴方は鬼なのですか?」

「そうですが?」

「失礼ですが鬼とは野蛮な連中ばかりだと思っていたのもでして、貴方様のような優しい鬼もいるのですね」

「私は、優しいですか?」

「はい、とっても」

 狐は、細い目で笑った。

 けど、私の心には少し小波(さざなみ)が立った。

 その理由は分かっている。

 自分が何者なのか分かっていないのに、鬼とはと言われても困ってしまう。

(私は鬼なのか、それとも人なのか?)

 鬼は、優しくない。

 人は永劫の時を生きはしない。

 狐の問いが私の心をかき乱す。

「では、夕刻に再び落ち合いましょう」

 この心の動揺を悟らせないように足早にその場を去る。

「我ながら情けない、あれ位の世間話で心が乱れるとは」

 神社の階段を下りながら悔いるように頬を掻く。

「しかし、感傷に浸っている場合ではないですね」

 雨の上がった道路をしばらく下っていく。

 道中、日和坊殿に会えるかと思ったがあいにく姿は見えなかった。

「挨拶をしたかったのですが……仕方がない」

 挨拶をあきらめて再び歩を進める。

「しかし、今日も暑いな……」

 角の生えた頭を容赦なく日が焼いている。

 でも、その不条理さも愛しく感じる。

「この国の季節は美しい」

 (わたし)にとっては感傷とゆう不自由さも新鮮で面白く、鬼でありながら季節を感じる事が出来るのは五指である数少ない利点であると言えた。

 目を細め、緑輝く木漏れ日を見上げながら歩いていると鳥よりも大きな影が横切った。

 更に目を細めて確認してみると、遥か上の青空におかしな人影を捉えた。

 何と、その人影は白無垢姿で空を飛んでいるのだ。

「見つけた」

 そう私は呟き、一人で考察を始める。

 顔は見えない、だが小柄な輪郭からあふれる妖気は確かに強さを感じる。

 すると、その白無垢姿の人影は近くの林に降り立った。

「あそこは確か、毎年夏祭りをしていた場所だったはず」

 しかも、そこには大きな神木があったと記憶している。

「あそこに、何かあるのでしょうか?」

 あそこには御神木以外何もなかったと思うが、何か彼女と所縁があるのだろうか。

 もし、所縁があるとすればそれが縁談を拒む理由なのか。

「確かめてみましょうか」

 息を殺し、追いついた彼女の白い背中に視線を送る。

 ゆっくりと彼女の背中に近いていくにつれて、横顔が見えてくる。

「確かに美しい娘だ」

 声を殺さねばならない状況なのに、私の口は彼女の美貌を称賛していた。

 五本指とはいえ、鬼である私でさえ彼女が美しいと分かる。

 その横顔は愁いを帯びていながらも力強く輝いていて、とても何かから逃げているとは思えない。

 むしろ、何かを決意しているような険しい表情で御神木に手添えて木漏れ日を睨んでいた。

 白無垢の上から垂れる栗色の髪とそれに映える桜の髪留めは、日の光に照らされて輝いていて見目麗しい。

 目を奪われるとはまさにこの事なのだろう。

「誰だ」

 しかし、そんな淡い所感も鋭い声によって一気に緊張へと変わる。

「お前は、人ではないな」

 白無垢の少女、凜音がこちらを見ずに声を掛けてきた。

 少し離れたところから見ていたはずなのに、こちらを見ることなく私が異形の者だと見抜いた。

 流石は、天狐候補の嫁に選ばれるだけはある。

「お前は鬼か?」

 今日二度目のその問いは、いつでも私を悩ませる。

「私は赤鬼(せき)と申します、貴方は凜音殿ですね?」

「そうだが?」

「貴方の同族の方々がずいぶん探していましたよ?」

「何故だ?」

 自分を探す理由を問う彼女、どうやら凜音と従者たちは思い違いをしているようだ。

「狐の従者殿に貴方が逃げたと聞いていたのですが貴方は縁談を拒んでいるのですか?」

「何故そうなる? 席を入れるつもりがないのなら縁談など断っている」

「では、どうしてこんなところに?」

 すると、彼女はこちらに向き直った。

 先程までの険しい表情は消え、凜音殿の表情は穏やかだ。

 なのに、何故かその瞳は濡れていた。

「私はただ、約束を破った男を探しているんだ」

「約束ですか、それは人の子との?」

「そうだ、何十年と待ったがとうとう私が嫁入りすることになってしまった」

 そして、はにかむ様に笑った。

「だから私が嫁に行く前に確かめたかった、あいつ今がどこにいるのかをな」

「そうでしたか、ですが天狐候補の方は知っているのですか?」

「勿論だ、きちんと事情は説明して出てきたのだぞ?」

「では、狐の方々には説明しましたか?」

「あいつらにはしていない」

「何故です?」

「どうせ反対されるに決まっているからな」

 すると、凜音殿は頬を掻き気まずそうに視線をそらす。

 大人びた表情から一変し、叱られる子供の様な幼稚な仕草。

「なるほど、逃げた前科があるんですね」

「ああ、今回までに幾度となく縁談を持ってこられてうんざりしていたからな」

「昔は随分とお転婆(てんば)だったのですね」

「そうだな、そしていつの間にか大人になってしまったよ」

 すると、視線は再び御神木に移った。

「あいつに出会ったのもそんな縁談話ばっかりでうんざりしている時だった」

 懐かしむその瞳と横顔は、本当に楽しそうだった。

「一緒に川に入ったりこの木に登って遊んだりしたよ、本当に子供のする遊びばっかりだったが不思議と飽きなかった」

「その童には、ご自分が妖だと明かしたのですか?」

「何度も言おうとしたがその度に眩しい笑顔を見せつけられてしまった、あの笑顔を曇らせるのが嫌だった」

 すると、顔をこちらに向けて凜音殿は言った。

「お前は、私を連れ戻しに来たのか?」

「連れ戻す、などと物騒なことは考えていませんが狐殿が困っていましたので探すのを手伝っていました」

「私を探していた? それは何故だ、お前には何の関係もないじゃないか」

「そうですね……暇だったからでしょうか」

 私のその言葉に目を丸くした凜音殿は意外にもお腹を抱えて笑い出した。

 笑った顔は下を向いてしまったので見えない。

「随分、人間臭い事を言う鬼だ」

 思う存分笑った凜音殿は涙目のままこちらの顔を覗き込んだ。

 朗らかに笑った彼女を笑顔に、鬼の私でさえ見惚れてしまう程に美しかった。

「暇だったら、私の探し人を一緒に探してくれるかい?」

「それはいいのですが、戻らなくていいのですか?」

「私の未練が済むまで戻らなくていいと、言ってもらったのでな」

「だったらせめて、狐殿達に言っておかないといつまでも探してしまいますよ」

「大丈夫だ、そんなに時間は掛けないよ」

 渋る私を見かねた凜音殿が、私の手を掴み強引に引っ張っていく。

「ほら行くぞ、セキ」

「分かりましたよ、付き合いますから引っ張らないでください」

 観念して彼女の導きに従うことにした。

 凜音殿の背中を見ながらあてもなく歩く。

 そうしながら、話を詳しく聞くことにした。

「それで、その童の名前はなんとゆうのですか?」

「名を茂樹(しげき)とゆうのだ、姓は分からない」

「遊んでいた場所はあの木の下だけですか?」

「さっきも言ったが色々な所で遊んでいたからな、全部は覚えていないし奴が今どこに住んでいるかもわからない」

「何か手掛かりはないのですか?」

「だが、遊んでいた頃はあの御神木のあたりに住んでいたようだぞ」

 探す場所は様々に及ぶらしい。

「そうだ、あれを使いましょうか」

「何かあるのか?」

「この〝過去世の書〟を使いましょう、これで何か掴めるかもしれません」

「それは妖の書か?」

「そうです、これに触れた者の過去を見ることができるのです、でも……」

「どうしたのだ?」

「その記憶は私が覗いてもいいものなのですか?」

 色褪せない記憶を他者である私が覗き見るのは少しばかり抵抗がある。

「もし、その思い出が二人だけのものならば……私が覗いていいものではないきがするのです」

 その言葉を言った瞬間、再び目を丸くする凜音殿を見る。

 私は、何か変な事を逝ってしまったのだろうか。

「お前は本当に人間臭い事を言うのだな……私は過去を清算するつもりでお前に頼んでいるのだ、お前は私の過去を知る権利がある」

「……分かりました、ではこの書に手を置いてください」

「こうか?」

 手を書に添える凜音殿は目を閉じ、意識を集中する。

「では、貴方の過去を私に見せてください」

 私も書に意識を集中する。

 すると、走馬灯のように光景が流れ込んできた。




 〝過去世〟



 そのお話は有り触れた、妖と人との淡く儚いお話だった。


 その女子(おなご)は不遜な態度で少年に尋ねた。

「お前、昨日の夏祭りに居た童だな?」

 少年は辺りを見渡したが声の主を見つけることが出来ない。

「上だ、馬鹿者」

 少年の鈍間な姿にいら立ったのか御神木の上に居るのを明かした。

「君は誰? そん場所にいたら危ないよ」

「貴様のような鈍間(のろま)と一緒にするな」

 少年にして見れば当時の御神木も巨大に見えるだろうが、その少女にしてみればそれは大した高さではない。

 少女は静かに飛び降りて、音もたてずに少年の傍らに舞い降りた。

「すごいね、大丈夫なの?」

「言ったであろう、お前とは違うとな」

 裾の汚れを払いながら少女は不機嫌に答えた。

「お前の名前は?」

 再び不機嫌に尋ねる少女に少し戸惑う少年だったが少女の瞳を見つめながら答えた。

茂樹(しげき)だよ」

「そうか、私は凜音だ」

 自己紹介の後、茂樹は不思議そうに尋ねた。

「リンネ、どうして怒っているの?」

「お前の阿保みたいな顔が気に食わないからだ」

 凜音は吐き捨てるように言った。

 昨日からの理解できていない苛立ちを晴らすようにまくし立てる。

「母親に手を引かれながら、出店の安っぽい綿菓子を美味しそうに食べたり盆踊りもろくに踊れんくせに楽しそうにはしゃいだりしおって! これだから童は好かんのだ」

「君も子供じゃないか」

「おい身長で判断したな貴様、私はお前よりずっと大人なのだぞ!」

 ムキになって怒る凜音殿が面白かったのか、茂樹殿が笑窪を作りながら楽しそうに笑う。

 この光景は、他から見ればどちらも大差のない童の戯れである。

「私の事はいいから質問に答えろ! お前は、何が楽しくて笑っていたのだ!?」

「そうだな……」

 男児は考え込む。

 二分の沈黙のあと茂樹殿が口から出した答えは、要領を得ないが不思議と納得してしまうものだった。

「母上が言っていたよ、笑顔には笑顔が集まるものだって! だから、楽しいことに理由はないしいらないと思う」

「つまり楽しい事をしているのだから楽しいのだ、とゆう事か?」

「たぶん……」

「言ったお前が自信を持たなくてどうするのだ」

 凜音殿も似たような顔をしている。

 童らしい表裏のない言葉であると妙に納得してしまった。

「じゃあ、僕が教えてあげるよ」

 突然、元気よく詰め寄ってきた茂樹殿に思わずのけぞった凜音殿が年相応の童に見えた。

「な、何をだ?」

「君は参加したことがないから楽しいか分からないんだよ、来年の夏祭りは一緒に行こうよ」

「一緒にって……私とか?」

「うん! 絶対に行こうね?」

 勢いに押されて凜音殿は曖昧にうなずいてしまった。

「ああ、憶えていたらな」

「分かった、じゃあ僕は帰るね」

 小さな体で精一杯腕を振る少年の姿を見えなくなるまで見送った凜音殿は、静かに溜息をついた。

 そして、零れた独白は哀愁を滲ませた。

「だが、お前は来年の今頃には私を忘れているのだろ?」

 そう、彼女は知っている。

 妖の一年は短いが人にとっては長い、変わってしまうには十分な長さである。

 だから、彼女は期待していない。


 彼女の哀愁の声にはそんな意味が込められている気がした。




 すると、場面が一度途切れた。


「どうですか、凜音殿?」

「どうとは?」

「何か思い出しましたか?」

「そうだな……こんな事もあったな、とな」

 懐かしむその目は、消えてしまった思い出を見ているようだ。

「思えば、奴が約束を破ったことはなかった」

「そうなのですか?」

「ああ、最後の約束……以外はな」

「約束、ですか?」

「見ていれば分かるさ」

 視線は前を見いたままだ。

 次の映像に集中したいようである。

「分かりました、では次に行きましょう」



 私の言葉を最後に思い出の映像は次の場面へ移っていった。



「お待たせ、リンネ!」

 彼は、約束を守った。

 茂樹殿は凜音殿の名を呼んだ。

 初めて出った時のように、上を見上げながら。

 今回は母親を連れてきていないようだ、どうやら二人だけで回るようである。

「お前、本当に来たのだな」

 凜音殿は驚き半分、呆れ半分の顔をしていた。

 幸い今は夜、凜音殿の表情は茂樹殿には分からなかったようだ。

 茂樹殿は少し背が伸びていた。

 体格もがっしりしてきているようで黒の着物から覗く胸板は少し出てきているようだ。

「どうしたの?」

「な、何でもない」

 まじまじと見つめられていて不思議に思った茂樹殿が首を傾げた。

 凜音殿は茂樹殿を見つめていたせいか、居心地が悪くなったのか顔を背けてしまった。

 しかし、茂樹殿は特に気にした様子はない。

「じゃあ行こうか、まずはリンゴ飴を食べよう!」

 凜音殿の気持ちなど察していない茂樹殿は、凜音殿の手を引きながら出店の方に向かっていく。

「お、おい引っ張るな!」

「いいじゃないか、早く君に面白い事を教えてあげたいんだ」

「分かったから、あまり走るな!」

 引っ張られている凜音殿は時折足をもつれさせているが、はしゃぐ茂樹殿の耳に文句は届いていないようだ。

「やれやれ、困った童だな」

 強引ではあるが、握られた手からは悪意を感じない。

「リンネ、何か言ったかい?」

「何でもない、それよりそのリンゴ飴とゆうのは旨いのか?」

「もちろんだよ!」

 振り向いた笑顔に釣られて凜音殿も微笑んだ。

「笑顔には笑顔が集まるものか、小さな童に教えられた」

 長い年月を生きる妖が、童に諭された瞬間だった。

 リンゴ飴を頬張る二人。

 互いに真っ赤になった唇を見て笑い合い、色々な出店を物色していく二人は示し合わせたわけでもなくまた互いの顔を見合っては笑い合う。

 表情から、笑顔は絶えなかった。

 だが幸せな時間の流れは、辺りから徐々に賑やかな光を奪っていく。


 人々の喧騒も笑い声も祭りの終わりに近づくにつれて、ゆっくりと静寂に溶けていく。


 やがて、最後の露店が店を畳み祭りは終わりを迎えた。

 祭囃子も消えた御神木の前で一息ついた凜音殿は、木に背中を預け暗くなった空を見上げる。

 祭りの余韻が頬を撫でる。

「リンネ!」

 しかし、その静寂を破ったのは、帰ったはずの茂樹殿だった。

 息を切らしながら走ってきた茂樹殿の手には、白色の布に丁寧に包まった何かを握り締めていた。

「どうした?」

 目を丸くし、茂樹殿の顔を見る。

「君に――渡したいものが、あるんだ」

 息も絶え絶えにそう言って、白い布から取り出す。


 それは、桜の花を模した綺麗な髪飾りだった。


 差し出されたそれを、雛を抱くように優しく包んだ。

「ありがとう茂樹、大切にするよ」

 素直に出た感謝の言葉にお互いの顔を見ながら笑い合う二人は徐々に心の距離を縮めていっている。


 そう、お互いが何者かも忘れる程に。


 その感想が頭を過った瞬間、場面は途切れて夜よりも暗い闇が辺りを覆った。

 横目で隣にいる凜音殿を見ると、同じ髪飾りが輝いていた。

「私がどうして妖術を極めたと思う?」

 凜音殿は闇を見つめながら私に尋ねてきた。

 私は分からず、何故ですかと問い返す。

「この髪留めだよ、人の作った物は脆くてすぐに壊れてしまった」

「しかし、それは妖術が掛かっているようですが?」

「そうだ、壊れたものを直し尚且つ永遠に形を保つようにした」

「それは、相当に高度な妖術ですね」 

「習得には苦労した、まぁそのお陰であのお方に出会えたから無駄でもなかったさ」

「あのお方とは、結婚相手ですか?」

「そうだ、あのお方は本当に聡明で懐が深い」

 すると、闇を見つめていた凜音殿が私の方に体を向けた。

「お前と同じお人好しなお方だよ、私の青臭い心情を酌んでくれた」

「私と同じですか?」

「お前だって気づいていたのだろ? 私の心を……」

「では、やはり……」

「そうだ、私は未だに茂樹を捨てられないでいる」

 髪留めを愛おしそうに撫でながら、彼女は語る。

「この気持ちに気付いたのは、あいつが姿を現さなくなってからだったよ」

「何かあったのですか?」

「それは……」

 彼女が思い出を語ろうとした時に〝過去世の書〟が彼女の語ろうとした思い出を語りだした。


 時刻は朝霧の立ち込める早朝だった。


 彼はいつもの待ち合わせ場所の御神木の元に居た。

「凜音、居るかい?」

 それは、今まで聞いてきた少年の声ではなかった。

「ど、どうしたのだ? こんな朝早くから……」

「すまない、どうしても寄っておきたかったんだ」

 最後に見た記憶から随分経っているのだろう、いつの間にか胸板や背は大きくなり凜音殿を見下ろすまでになっていた。

「しかし、その格好はどうしたのだ? まるで――」

「戦争に行くんだ、これから……」

 そう、彼が着ていたのは軍服だった。

 背中には大きな荷物を背負い腰には軍刀を携え、肩には長い銃を担いでいた。

 凜音殿は何も言えなかった。

「そうか……」

 そんな言葉しか絞り出せない凜音殿。

「ああ、僕はこれから人を殺しに行くんだ」

「そうか……」

 凜音殿のその言葉を最後に二人の間に沈黙が下りた。

 風が吹き抜ける。

 そして、静寂を破ったのは茂樹殿だった。

「凜音、待っていてほしい」

「何を……」

「僕が帰るのを……」

「何故だ?」

「君に伝えたいことがある」

「何をだ?」

「今は言えない、言ってしまえば決意が鈍ってしまう」

「そうか……」

 三度目の同じ返事。

 しかし、凜音殿にはその言葉に答える義務がある。

 返事ではなく、言葉で応える義務がある。

「行ってこい茂樹、必ず帰ってこい」

「分かった……必ず帰ってくるよ、凜音」

 しかし、その言葉が間違いだった。

 凜音殿はその時、気付いていなかった。

 自分が何者で、彼が何者であるか。

 永遠である自分と有限である彼、それは同じ時を共有してきてしまったが故に盲目になってしまったのだ。

 脆弱な人は、すぐに居なくなってしまうとゆう簡単な答えに。

 彼の背中が見えなくなるまで見送った凜音殿は呟いた。

「必ず帰ってくるさ、お前は……」

 けど、その背中を最後に彼は彼女の前に現れることはなかった。


 そして、凜音殿と私は彼のいない世界へと戻っていった。


「……」

「凜音殿?」

 時間はそれ程経っていなかった、精々一時間といったところだろう。

 早朝とは違い、町に近いこの辺りは人も多くなっている。

 けど、人々が私たちに気付くことはない、何故なら私たちと彼らとでは何もかもが違うのだから。


 時間も。


 姿も。


 存在も。


 老い方も。



 そして、死に方も。


 何もかもが違うのだから。


「やれやれ、また辛いものを見た」

「すみません……」

「だから、なぜお前が謝るのだ?」

 凜音殿の背中があまりにも切なくて、私はまた謝ってしまった。

「謝る代わりに、教えてくれ……」

 私の答えを待たずに喋り続ける。

「私は引き止めればよかったのか?」

 独白は続く。

「行かないでくれと、懇願すればよかったのか?」

 声が震える。

「一人にしないでと……泣けばよかったのか?」

 言葉は途切れ、聞こえてきたのは嗚咽だった。

 私は、その言葉に答えることは出来ない。

 でも、彼女の過去への鎖を解くことは出来る。

「茂樹殿に、会いに行きますか?」

「だが、今の過去には何も手掛かりはなかった」

 空を見上げて動こうとしない凜音殿、このままでは彼女は前に進むことは出来ない。

「凜音殿、私は運命とゆうものは信じていませんでした」

 私の言葉を、彼女は背中から聞いている。

「でも、こうゆう運命なら信じてもいいと思いました」

「何が言いたい?」

「彼が何者なのか、分かりました」

「それは本当か!?」

「はい、彼の着ていた軍服の家紋で分かりました」

「軍服?」

「そうです、そしてこの辺りにはこの土地に所縁のある者たちが眠る場所があります」

 私は遠回しだが、その言葉の意味は彼女が一番わかっている。

「行きましょう、彼の元へ」

 私と凜音殿は歩き始めた。

 足取りは重い、だが彼女は歩いている。

 かつて交わした約束を守るために。


 思い出の彼に別れを告げるために。


 何より、彼女自身が前を向くために。


 来た道を戻り、坂を上った先にあった場所。


 そこは、思い出の御神木の近くに隣接した――

「ここ、なのか?」

「そうです、彼は約束を守っていたのですよ」


 墓地が、そこにあった


「こちらです」

 彼女を導く。

 そこに、彼はいた。

「ここに、居たのだな」

 そこに書かれた名は、瀬野茂樹。

「随分と待たせてくれたな」

 語り掛けているのは物言わぬ石。

「全く、お陰で私は嫁に行くことになってしまったぞ?」

 慈しむように、手の平を墓石に添える。

「お前の言いたかった事とは、なんだ?」

 声が滲む。

「答えてくれ、茂樹……」

 墓石は答えない。

 代わりに聞こえるのは嗚咽だけ。

 俯いた彼女から聞こえる涙声だけだった。

 晴天を仰ぎながら泣き続けた凜音殿から、徐々に泣き声が聞こえなくなってきた。

 そして、泣き腫れた目で私を見つめた。

「ありがとう、セキ」

「お礼を言われることは何もしていません、私は凜音殿に後悔しか見せられなかった」

「そんな事はない、安心して泣けた」

 そして、もう待たなくていいんだとそう言いながら髪留めに手を伸ばす。

「よろしいのですか?」

「ああ、もういいのだ」

 髪留めを外し、静かに墓に添えた。

「じゃあ、私は行くよ」

 すると、待っていたかのように狐たちが迎えに来た。

「世話になったな」

 それだけを言い凜音殿は墓地に背中を向けた。

 けど、不意に立ち止まり顔だけをこちらに向けた。

「ひとつ疑問なのだが、どうして奴の姓が瀬野だと分かったのだ? ひょっとして知り合いなのか?」

「いいえ、この方は知りませんでしたが……」

 すると、頭を過ったのは元気な笑顔。

 私は、その笑顔に――何度も救われた。

「貴方と同じく、昔……同じ性の女子に救われた事がありました」

「私と同じく、か?」

「そうです」

「ではお前に救われた礼として、私もお前を救ってやろう」

「どうゆう事ですか?」

「お前が悩んでいることの答えは至極単純だ、その内に答えは見つかるさ」

「それは、どうゆう事ですか?」

 心を見透かされ、少し感情が小波を立てる。

「いずれ分かるさ、それまで精々世を彷徨ってみることだ」

 そして、この晴天のように晴れやかに笑った。

「じゃあなセキ、いずれまた会おう……我が友人よ」

 その言葉を言い終えて、一陣の風が吹いた。

 そして、取り残された私を置いて風が凜音殿を攫っていった。

「いずれ分かる、か……」

 自分の手を見つめながら思いに耽っていると、背中から人の気配を感じ振り返った。

 そこに居たのは、懐かしい笑顔によく似た少女だった。





              『後悔の杭が抜けるとき』


「五指の鬼?」

 その夢は、今から五年前の物である。

 それはまだ、祖母が元気だった頃に聞かされた話である。

「まぁ本当の事を知っている人は、この辺じゃあ私だけだがね」

「どんなお話なの?」

「聞きたいかい?」

「うん!」

 元気よく頷いた私を、祖母は目を細めて微笑んでいた。

 今にして思えば、その瞳の色は懺悔のような暗い色を帯びていたと分かる。

「昔ね……この辺りにとっても優しいお兄さんがいたのよ、その人はまだ小さかった私とよく遊んでくれていたわ」

 祖母は懐かしむように語っていた。

「でも……」

「でも?」

「あの人には知られてはいけない秘密があったの、それが知られてしまったせいであの人はここに居られなくなってしまったわ」

「その人が、鬼だったの?」

「ええ……その事を大人に知られてしまったが為にあの人はあそこを追い出されてしまったのよ」

「また会いたい?」

「そうだね……もう一度会う事が出来るなら、せめて一言だけ謝りたいわ」

「ふーん」

 その時の祖母の横顔を見て、私こと瀬野(せの) (しず)()は漠然としながらも自分の道を見つけられたような気がした。

 すると、思い出の映像が光の中に包まれていく。

 光に包まれるみたいに。

 そうそれは、瞼を上げて日差しを目に入れたからだった。


 朝が来た。


 それは、夢を見る時間が終わったことを告げていた。

「最近、この夢ばっかりだ」

 寝言を零しながら布団の魅了を払いのけ、素早く登校の支度を整える。

 寝起きは良い方なので、それ程朝の身支度に時間は取られない。

「まぁ女子らしい飾りつけをしないことも、手早く身支度を整えられる要因でもあるんだけどね」

 また、寝言みたいな事を口にしてしまう。

 気を引き締めなおし、確かな足取りで洗面台に向かう。

 向かう途中、台所から空腹を刺激する朝食の匂いがしてくる。

(今日は、焼き鮭だ)

 そんな事を考えながら、冷水に顔を濡らす。

 顔を上げ、鏡に映る自分を見る。

 そこにはお婆ちゃん譲りらしいストレートヘアー姿の私が写り、それを覗くように――。


 異形の物が、そこに居た。


 形を持たない、いや形を与えられていない黒い(もや)


 見えていても、無視をすれば何もしてこない弱い存在だ。

(最近、よく見かけるな)

 慣れてしまった私は、濡れた顔を拭いて素早くリビングに向かう。

 靄は追いかけてこない。

 私とゆうよりは、この家に憑いているみたいで住人に危害は加えないみたいだ。

(ここの土地神なのかな?)

 不気味ではあるがこの家を守ってくれていると思うと、邪険には出来ない。

(まぁ危害を加えてきたら、追い払えばいいか)

 やや楽観的過ぎかもしれない事を考えながら、リビングに入る。

 そこには、焼き魚の匂い以外の生活音はない。

 父も母もそこには居ない。

 朝食の用意されたテーブルには、母の直筆で急用が出来たことが書かれていた。

(いつもの、会合か)

 メモに目を通しながら、朝食を口に運ぶ。

 温かなご飯を口に運び、焼き魚のちょうどいい塩加減を味わいながら二十分くらいで朝食を終える。

 それと同時にメモを読み終える。

 メモの最後には、しばらく帰ってこられないことが書かれていた。

(気にしなくてもいいのにな)

 メモを冷蔵庫に張り付け、洗い物を済ませると部屋に戻る。

 登校まで少し時間がある。

 朝には強いはずなのに最近の徹夜のせいで体は休息を求めているらしく、朝の眠気に誘われてベッドに体と思考を沈めた。


 お婆ちゃんの実家は、それなりに大きな名家であるらしい。


 それも、その土地の豪族を(まじな)い事で幾度も救っていたらしく当然霊視や霊感と言ったものを有する家系にあるらしい。

 お婆ちゃんの前の代まではそれなりに土地の人達から重宝されていたようだったが、父にはその素質が受け継がれなかった。

 だから、今では祓いや呪い等とは縁遠い一般家庭に落ち着いている。

 だが、家柄の全てを放棄は出来ず夜勤明けの体を引きずって父は会合に向かい母はその付き添いで家に居な事が多い。

 時には、半年居なかったこともある。

 だから父は力がない事を理由に自分の代ですべてを終わらせたいと常々言っていたが、何代かを経てその家系の力は私に宿ってしまったようだ。


 それを知った父は、私とは家の話をしなくなった。


(そう言えば、出張が多くなったのってその頃だった気がする)

 過去を取り寄せながら、取り留めない思考に没頭していく。

 思考がどんどん睡魔に沈んでいき、それに比例して瞼も落ちていく。

(子供の頃はこの力に振り回されてばっかりだったけど、目的を見つけた私にとっては悪い事ばかりじゃない)

 けど、気を付けなければならない。

 この力は、知識を持っていて初めて役に立つ。


 だから、私はもっと知らなければならない。


 彼ら()の事を知っていかなければ、私は彼らに引きずり込まれてしまうだろう。

(ねむいな……)

 睡魔が私の身体をベッドに縛り付けようとする。


 〝じ…………カ、ん〟


 だが耳元に聞き取りづらい言葉を入れられて、意識を急速に覚醒に持っていく。


 慌てて上体を起こすと、黒い靄が部屋に入ってきていた。

 今までこんなことはなかった。

(な、なに? 時間?)

 事態を理解しようと、靄の言葉を繰り返した。


 そして、靄以上に驚く事態を壁の掛け時計が示していた。


「もう、こんな時間!」

 靄の件を頭の片隅に追いやり、鞄を掴んで玄関に向かう。


 玄関の扉を閉めようとした瞬間、靄の姿が目に入った。

 何だか、見送りをしてくれているみたいだ。

(行ってきます)

 そう心の中で呟き、鍵を掛けたことを確認して学び舎に向けて足先を向けた。

 息を乱しながら始業の鐘ギリギリに入り、クラスメイトに挨拶をする間もなく教科担当の先生が入ってくる。

 それを確認し冷静を装いながら現国の教科書と白紙のノートを開いて、白や赤のチョークで色分けされた授業内容を模写していく。

 それを、授業が変わるごとに繰り返し学生のノルマをこなしていった。


 夢の事を頭の隅に追いやり、目まぐるしく時間は過ぎる。


 そして瞬く間に夕暮れが窓に差し込む時間になり、私は担任と空き教室に来ている。

「おめでとう、よく頑張ったな!」

「ありがとうございます」

 担任の賞賛の声が静寂(しじま)に音の揺らぎを与えた。

 それに応える私の声は白々しいほど、棒読みだ。

「お前の努力が認められるとは、担任として鼻が高いよ」

「そうですか、良かったです」

「これからも期待しているぞ!」

 それだけ言って担任は帰っていった。

「何が期待しているよ、私のやっている事を認めていなかったくせに」

 ここを手に入れるのは中々に苦労した。

 まず、私の通う高校は公立には珍しく部活動に非常に熱心な高校である。

 園芸部から登山部までありとあらゆる部活が日々、少ない部費を獲得するため成果を挙げようと躍起になっている。

 その為か部活全般のレベルが専門学校生と比べても引けを取らない実力があったりする。

 だが、部の新設に関しては非常に厳しいのだ。

 この部活飽和状態の状況で部を立ち上げるには生徒手帳の記述にある顧問と最低三人以上の部員を確保しなければならない。

 これは特に問題ないのだが、そのあと部活申請は生徒会に送られ類似するような部活が無いか振るいに掛けられ、ここを通った申請が学校側の協議にいき最終的に理事長の了承を得て初めて部として新設を認められるのだ。

 これに例外は無くいかなる特例も許されない。

 一見すると簡単そうに見えるが、最初の関門である生徒会が最大の難問である。

 まず、申告段階で部活内容が少しでも現在ある部活に類似する活動がある場合はまず弾かれる。

 かといって全く違う活動を書いて仮に通ったとしても抜き打ち審査で不正が見つかった場合は即刻廃部になり、今まで配分された部費の全額返済を迫られるのだ。

 私の申請も妖怪の研究がしたいならオカルト研究部に入りなさいと一蹴されてしまった。

 もちろんまともな研究をしているなら入っていたが、入学した時の頃に部活のオリエンテーションでその部を見た時に私との方向性の違いを感じて即刻この部は候補から捨てたのだ。

 何が悲しくて、異臭の漂う狭い教室でれぷりか骸骨(レプリカ)を黒づくめの格好をして崇めなければならないのか。

 だが、一度申請が通らなかった以上は何度送っても無駄である。

 けど私は、あくまでも個人の目的の為に何としても部を創設したかった。

 だから私は郷土研究として、あくまでも個人的にこの花穏町の伝承を研究するとゆう形で学校イベントの場で発表したのだ。

 すると、それを見た理事長が私の研究を気に入ったらしく特別に使っていない教室をくれたのだ。

 正式な部活ではないから部費は出ないが、ここには昔に書かれた資料がたくさん眠っており中には妖怪に関する資料もあるとの事だ。

 けど、それ以外の必要な物は全部自分で揃えなければならない。

「さて、色々と準備しないと」

 回想を続けながらも、年季の入った本棚から資料を抜き取っては次々と目を通していく。

 そして、必要な資料を机に並べて一息を吐く。

 きちんと掃除はしているとはいっても、やはり長い間使っていなかったせいでカビ臭さは完全には取り除けないようだ。

「少し匂うけど、でもこれでようやく始められる……」

 そうだ、これで――目的の第一段階はクリアできた。

 後は、見つけるだけだ。

「待っていてお婆ちゃん、必ず見つけるから」

 あの昔話を聞いてから五年の月日が流れて、祖母は重い病に罹り余命を宣告されてしまった。

「もう、時間が無い」

 祖母の命が尽きる前に探してあげたい。

 もう一度だけでも会せてあげたいのだ、思い出の彼に。

「そもそも、鬼って何なのかしら?」

 持ち込んだ文献や埋もれていた資料を漁ってみると鬼の参考写真を見つけた、色は赤や青があり意外とカラフルである。

 鬼とは、恐ろしいイメージや恨み嫉妬といった負のイメージが大きい。

 だが、鬼を祭った神社があるなど信仰されていたりもする何とも不思議な存在らしい。

 また、語源は(おぬ)が訛ったものだとされている。

「鬼の種類も色々あるのね」

 まず、有名な鬼として挙げられるのは酒吞童子である。

 その鬼は人を攫い惑わせた罪を陰陽師に見破られる。

 そして、最終的に毒の酒を盛られ首を刎ねられた哀れな鬼。

 それは、首だけになっても刎ねた者を食い殺そうとする獰猛な鬼が描かれた絵巻が説明文と一緒に乗せられていた。

 この絵と説明文を見る限り、どうしても鬼とは怖いものとゆう感覚が拭いきれない。

 けど、その祖母が出会った鬼はそうではない。

 その彼はとても優しいと言う話だから、この鬼ではないのだろう。

 写真は文献にも載っているが指は五本に見える、だが表情は柔和な表情だと祖母は言っていたから罪を抱えて落ちた鬼である可能性は低い気がする。

 文献をめくっても出てくる鬼はどれも怖い表情をしているし、中には踏みつけられている鬼さえいた。

「違うわね……これも違う」

 資料を次々と読み漁るが、中々それらしい鬼は見つけられない。


 ページをめくっていく。


 静寂には、ページをめくる音と私の舌打ちの音しか聞こえない。

 目を皿にしながら、お婆ちゃんの探し人につながる情報を検索していく。

「へぇ~、前鬼と後鬼って夫婦の鬼なのね」

 何だか、余計な知識ばっかり増えていく。

 怠け心と雑念を頭の隅に追いやり、検索作業を再開する。

「これも、違う……」

 すでに六冊の資料が広くない机を埋め尽くし、七冊目の本に手を伸ばす。

 だが、その手が七冊目の本を取ろうとした時ある本に目が留まる。

 不思議と、七冊目に読む本をそれに変えた。


 それは、六道に関する本だった。


 それは輪廻転生にまつわる本で、その中の一つに餓鬼道と呼ばれるものがるらしい。


 餓鬼道とは生前に嫉妬や強欲が原因で落ちる地獄らしく、そこで得られる食べ物や飲み物は炎に変わってしまい常に飢えに苦しむのだそうだ。

 その世界の説明を、おどろおどろしい日本画風の挿絵が教示していた。

 そう、恐ろしいはずなのに。

「何だか、可哀そうだ」

 出てきた言葉は、憐憫だった。

 何故その言葉が出てきたのかは分からない、でも挿絵の鬼の三本しかない指を見ていると何だかそう思えてしまった。

 下校時間が迫る中、私はこの鬼ついて更に考える。

 鬼には元来、知恵と慈愛がないとされていた。

 だから、鬼の指は三本しか無いらしい。

「そんな鬼が知恵と慈愛を持ってしまったら……どう思うのだろう」


 鬼は、知恵がないから自分の醜さに気付かない。


 鬼は、慈愛がないから他者を慈しむ事もない。


 そんな鬼が知恵と慈愛を持ってしまったらどうなるのだろう。

 きっと、自身の正体がいかに醜い存在であるかと嘆くだろう、他者の痛みに共感してしまうだろう。

「それは、もう鬼とは呼ばない……」


 それは、人間だ。


 ある意味、人間よりも人間らしい。

 人間の中にも、人の痛みが分からないのもいるし他人や家族を大切にしない者もいるし人が人を殺めてしまう事だってある。

 そうゆう意味では、人間の方がよっぽど鬼だ。

「じゃあ、五本指の鬼は仏なのかな?」

 そう口にして、そんな事はあり得ないと即座に否定する。


 だって、件の鬼には知恵がある。


 何よりもその鬼こそが自分は仏などではないとその答えを拒んでしまうだろう。

 何故なら、知恵があるからこそ自分がいかに醜悪であるかが分かってしまうのだから。


「なら、その鬼は何なのだろう……自身が鬼であるが為に……」


 鬼に成り切れず。


 神にもなれず。


 人の世にも馴染めない。


 そんな孤独の中、一人で生きてきたのだろう。

 そんな鬼を見て、祖母は何を思ったのだろう。

「知りたい、私は……」

 私は、改めて決意した。

 お婆ちゃんが傷つけてしまった、鬼に謝りたいとゆう祖母の願いを叶えるために。

 憂う祖母の顔を笑顔にする為に。

「頑張るぞ!」

 そう一人、こぶしを握った。

 そして、そんな事を考えている内にいつしか日が傾き下校時刻になってしまった。

「仕方ない、また休み明けにしよう」

 明日は休日、学校には入れないから市の図書館にでも行こう。

 明日の予定を組み立てながら家路につく、携帯電話で妖について検索していると前方から歩いてくるクラスメイトの姿を捉えた。

 確か、学校を二日ほど休んでいた子だ。

 すると、向こうも気づいたらしく声を掛けてきた。

「よう瀬野、こんな時間までどうした?」

「少し調べ物をしていただけよ、あなたこそ部活はしてなかったんじゃない?」

「そうなんだが、友達の三回目の補習に付き合っていてんだよ」

「大変ね、それ……」

 彼の境遇とお人好しぶりに、少しだけ同情の視線を向ける。

「お前は、妖怪の研究か?」

「そうよ、それがどうしたの?」

「そう身構えるなよ、別にその事を馬鹿にするつもりはない」

「だったら、関係ないじゃない」

「そうさ、別に俺には関係ない……けど忠告しておくぞ」

「何を?」

「あいつらに関わるのは止めておけ、俺たちが関わっていい世界じゃない」

 彼はどうやら、忠告してくれているらしい。

(でも、何故?)

「お前が何を追っているのかは分からないが、妖にはそこに居る理由がある……そこで何かを探しているのかもしれないぞ?」

「妖にあった事があるの?」

「あるといえば、お前は信じるのか?」

 からかっているのかそれとも自嘲しているのか、その笑顔の意味は分からなかった。

 けど、私の中の何かが彼の言葉は信じられると告げた。

「私のお婆ちゃんがね、昔この辺りには鬼が住んでいたんだってさ」

「鬼が住んでいた?」

 訝しむ彼を見ながら、私は続ける。

「私のお婆ちゃんは、ずっと昔に優しい鬼に遊んでもらった事があったんだってさ」

「鬼に遊んでもらった?」

「そうなのよ、私も最初は信じてなかったけどお婆ちゃんはそんな嘘をつく人じゃない」

「その鬼は、どうなったんだ?」

「それが、正体が他の村人に知られてしまったの……それで村に居られなくなってしまったらしいわ」

 その話をしてくれた祖母の悲しい目が、今でも忘れられない。

「それに今、お婆ちゃんが病気なの……」

 もう、時間がないのと掠れた声になった私の声を聞いても、目の前の彼は何も言わない。

「だから、私にできるのは少しでもお婆ちゃんの後悔を減らしてあげることだけよ」

「……分かった」

 彼は、私の決意を汲んでくれたようだ。

「瀬野は、東の山の中腹にある古びた神社を知っているか?」

「ええ、あそこの近くに祖父のお墓があるの、お婆ちゃんもあの辺に昔は住んでみたいだしね」

「まだ居るかどうかわからないがそこに行ってみな、俺もその男に救われた」

 遠くを見つめるその目に映っているのは、その男かそれとも感傷なのか私には判断できない。

 けど、もしもその男に彼が救われたとゆうのであれば――。

「分かった……信じるわ、その男の名前は?」

 彼から、その名前を聞いた。

 その名を聞いた時、私は運命を感じた。

 そう、その名前に聞き覚えがなかった。

 その男の名はセキとゆうらしい。



 翌日


「ここか……」

 決して大きくない本堂を見上げながら、小さな言霊が漏れた。

 そう、私はその件の神社に来ている。

 時間はまだ朝の六時くらいだと思う。

 正確な時間が知りたくなって携帯電話を確認してみたら、六時三十分だった。

「まだ、こんな時間だったんだ」

 今日も町内を回り、鬼を探す予定だったし有力な情報を手に入れたのでいてもたってもいられず、家を飛び出した。

 朝霧をかき分けながら緩やかで長い坂道を登っていき、言われた神社にたどり着いた。

「思っていたよりも、綺麗だ」

 神様の家に向かって失礼だとは思うが、そこは寂れてはいたが荒廃はしていなかった。

 だから、長身の鬼であっても身を隠すくらいは簡単に出来そうである。

 私は早速目の前の拝殿を覗いてみる。

 中に明かりはない、少し恐怖を感じながらも静寂と厳かな雰囲気が漂っている空間に足を踏み入れた。

 何かに見下ろされる錯覚と戦いながら彼を探してみるが、生き物の気配はない。

 どれくらい探していただろうか、時計を確認してみれば三十分も探索していなかったことが分かる。

 けど、何故だろう。

 走っていない筈なのに、さっきよりも息が荒くなってきた。

 息苦しい……それに何だか闇の色がさっきよりも濃くなった気がする。

 祖母の事で頭がいっぱいになっていたとはいえ、今になって恐怖を感じてきた。

 そう……それはまるで、巨大な何かに飲み込まれてしまったようだと。

 外の風の音が、葉っぱの擦れる音が私を咀嚼しているかのように聞こえてきてしまっている。

 音を聞き分ける理性はあるのに、本能がその理性を拒否してしまっている。

 震えに加え、足も言う事を聞いてくれない。

「う、動けない……」

 震える方を抱きしめるけど、そんな事をしても震えは止まらない。

「だめだ、動かなきゃ!」

 そう呟きながら、足を引きずるように出口に歩いていく。

 その時だった、背筋が凍る様な音が聞こえた。



『また、おこしやす』



 幻聴ではないと理性が告げる、それは紛れもなく人の声だった。


 恐ろしくも美しい遊女のような声だった。


 その声に弾かれる様に出口に向かって走り出す。


 さっきまで動かなかった足が嘘のように動いた。

 だけど恐怖に打ち勝ったわけではない、理性が無理やり体を動かしたのだ。


 居るべきではないと……早く逃げろと。


 出口には数秒と掛からずに着いて、そのまま外へ出た。

 出口から漏れる光を浴びたのと同時に、風が嫌な気配を振り払うように強く吹いた。


 振り返って逃げてきた道を見てみても何も追ってきてはいなかったが、もう一度探す気にはなれなかった。

「しょうがないわね、この辺りも探してみましょう」

 外に出て神社の敷地内を探してみたけど、やっぱり人の気配はない。

 気配があるとすれば鳥や動物の気配しかない、自然の匂いしかしないけど、あの暗闇の息苦しさがない事がとても嬉しい。

「そうだ、おじいちゃんの墓の方に行ってみよう」

 私は祖父の顔を知らない、知らないけど祖母が毎年欠かさずにお墓参りにやって来ていたのに付いてきていたので場所は分かっている。

 今年も祖母と行く予定だったが、容態が悪化したせいで行けなくなってしまった。

 祖母は元々祖父の話をあまりしてくれなかった、何でも家の決まりで出来た夫らしくそこに愛はなかったようだ。

 それに当時お父さんを身籠っていた祖母を残し若くして戦死してしまったから、祖母と愛を育むことも 私のお父さんを愛でることもなかった。

 しかし毎年のようにお墓参りに行くのは少し変だと思っていたけど、結局その話も聞けないまま祖母は 床に伏してしまった。

「もう、聞けないのかな……」

 祖母に残された時間は少ない。

 もう、二週間くらい祖母の声を聞いていない。

「お婆ちゃん……」

 涙で滲んだ声、弱音を吐きたくなる弱い自分に負けたくなくて顔を上げた。


 そこは既に墓地だった。

 そして、祖父の墓の前に見知らぬ人が立っていた。




「紗代殿?」


 その顔を見た時、自然とその名前が出てきた。

 長い黒髪は日を浴びて輝いている、前髪は綺麗に揃えてある。

 彼女の容姿は一言で言えば端麗であり、可愛らしい大きな目や人さし指が触れれば大半が隠れてしまう 唇に、細く整った輪郭だが決して痩せすぎている訳ではなくむしろ健康的な細さである。

 何より目を引くのはその力強い眼差し、その立ち姿は思い出の彼女の面影を感じる。

「貴方は? 祖父の墓の前で何をしているのですか?」

 彼女が訝しげに尋ねてきた、どうやら私の事が見えているようだ。

「それに今、祖母の名前を言いましたよね?」

「祖母?」

瀬野(せの) 紗代(さよ)は私の祖母です……あなたは誰ですか?」

「私は……昔、紗代殿にお世話になった者です」

「お世話、ですか?」

「ええ……右も左も分からかった私に、色々と教えてくれました」

 懐かしむ私を見て、紗代殿の孫は表情を和らげた。

「祖母の昔を、知っているのですか?」

「はい、裁縫がとてもお上手な方ですよね?」

「そうなんです、私がまだ小さかった頃は手製の人形を作ってくれました」

 やや弾んだ声、余程彼女の中では良い思い出なのだろう事は容易に想像できた。

「両親も共働きだったので、家ではお婆ちゃんが遊んでくれたんですよ」

 語り合えたことを喜ぶあまり、

「あ、いえ……祖母が――」

 それを恥ずかしそうに言い直そうとする彼女の表情には、やはり幼き頃の紗代殿が写った。

「言い直す必要はありません、聞いているのは私だけですから」

「す、すみません……ありがとうございます」

 そして、彼女の顔か崩れた。

 不意に胸のあたりが温かくなった、その感情の答えを私は知らないが嫌なものではないのは分かる。

 彼女のその表情と、それがもたらす物まで紗代殿によく似ていた。

 釣られて私の表情も崩れた、私はその表情の名前を知っている。

 人の子は、それを笑顔とゆうのだそうだ。

 そして、笑顔と共に教えてくれた名前はまさに体を表していた。


 彼女の名は瀬野静夜、まさに静かな月夜のように輝く少女だった。


 名乗り終えた静夜殿は私の瞳を覗きこみ、私の全てを暴くように問いかけてきた。

「貴方は、今もこの辺に住んでいるんですか?」

「今は住んでいません、ですが私が居た時の建物は僅かですが残っているみたいですね」

「その建物って何か曰くがあったりするんですか?」

「曰くというと、心霊的な事ですか?」

 生真面目そうな静夜殿から出た突飛な質問、彼女が面白半分で首を突っ込むとは思えない。

 私は、出来るだけ言葉を選びながら彼女に問う。

「何故ですか?」

 私の短い問いに、彼女は真っ直ぐに私の目を見ながら言い切った。

「私、どうしても会いたい妖が居るんです」

 彼女の目に、嘘はなかった。

「晴れていて良かったですね、少し話をしましょう」

 鳥居の前の階段に腰かけていた私の隣に、並んで静夜殿は座った。

「……貴方は、どうして妖に会いたいのですか?」

 決意に溢れた声色に、急かされる様に聞いてしまった。

「妖とは異形の者、無闇に関わっていい存在じゃない」

「そんな事は、分かっています」

 賢い子だ、私に言われずとも分かっているのだろう。

「もう、時間がないんです」

 絞り出すように静夜殿は言う。

「お婆ちゃん、重い病を患ってしまって……もう長くないんです」

「紗代殿が?」

 突然に告げられた真実に、言葉が出てこない。

「弱っていくお婆ちゃんにしてあげられる事は、これくらいしかないんです」

 先程までの輝く瞳はなく、曇り陰る瞳が前髪に隠れてしまった。

「お婆ちゃんの憂いを、一つでも無くしたいのです」

「その、憂いとは?」

 静夜殿は、少し躊躇っていたがその願いを口にした。

「鬼を、探しているんです」

「鬼?」

「はい、それもただの鬼じゃ――」

 そう核心を話そうとした時だった。

 突如上着のポケットから音楽が鳴りだした。

 静夜殿は慌ててそれを確認しそれを耳に当てた。

「お母さん、どうしたの?」

 どうやら、親族からの知らせのようであれが電話とゆうものらしい。

「え? お婆ちゃんが?」

 すると、その知らせを聞いた静夜殿の顔が青ざめていく。

「分かったわ、すぐに行く」

 どうやら話は終わったようだ。

「どうかしましたか?」

 只ならない雰囲気を感じて、彼女の横顔を眉を寄せながら訪ねる。

「おばあちゃんの容態が急変して、危険な状態だって……」

「そうですか……」

 すぐに行かなければならないはずなのに、静夜殿は動けないでいる。

「静夜殿?」

「まだ駄目だよ……私はまだ、何も返せてない」

 容体が急変してしまった事に気が動転していて、こちらの話を聞いていない。

 このままでは、間に合わないかもしれない。

(それに、さっきの鬼の話は恐らく私の事だ)

 なるほど、あの時の事を未だに気に病んでいたのか。

 そして、先のない紗代殿の為に一生懸命になっていたこの子も本当にやさしい子のようだ。

「静夜殿?」

 私は優しく彼女の手を握った。

「な、何ですか?」

 握られたことに少し驚いたのか、静夜殿がこちらを向く。

「病院はどちらにあるのですか?」

「それは……ここから反対の方角です」

「なるほど、では案内してください」

「それは、どうゆう――きゃ!?」

 彼女から小さくかわいい悲鳴が聞こえた。

「あなたの足では、時間が掛かります」

「だ、からって――お姫様抱っこなんて」

「大丈夫です、紗代殿にもしてあげた事があるので」

「貴方は何者なのですか?」

 照れながらも私の顔をじっと見つめる静夜殿、確かにここまで自分の正体を黙っていたのは意地が悪かったかもしれない。

「申し遅れました、私はセキと申します」

「セキ? じゃあ貴方が私のクラスメイトを助けてくれたのですか?」

「クラスメイト?」

 意味を取り損ねたが、すぐにあの少年の事だと分かった。

「あの少年ですか? 彼は無事だったのですか?」

「はい、彼から貴方の事を聞きました」

「そうでしたか、不思議な縁もあるのですね」

「本当に、そうですね……」

 このまましゃべっていたいが、そろそろ時間がない。

「では、時間もないようですし行きましょうか」

「行くって、病院にですか?」

「はい」

「でも、どうやって?」

「大丈夫、私に任せてください」

 そう言って彼女を安心させると、自分の足元に意識を集中する。


 描いた映像は水面。


 それは、アメンボのように柔らかく。


 それは、水切りをする石のように鋭く。


 空を蹴る。

「では、行きますよ」

「行くって?」

 不思議がる静夜殿を怖がらせないように、ゆっくりと足を踏み出す。

 けど、踏み出した先に地面はない。

 しかし、二人の体は落ちることなく宙に浮いた。

「……え?」

 彼女は理解が追い付いていないようだ。

 無理もない。

 妖の持つ裏側の力を見るのは、これが初めてなのだから。

「私とて妖の端くれです、これくらいの事は造作もない」

「貴方、妖なんですか?」

「そうです、そして……あなたの探している鬼とは恐らく私の事です」

「じゃあ、貴方が五本指の鬼?」

「はい、ですが話の続きは病院に向かいながらしましょうか」

「……分かりました」

「では、怖ければ目を閉じていてくださいね」

 そう言い終わると、最初はゆっくりと見えない水面を弾むように……アメンボの様に蹴る。

「すごい……」

 感嘆の声が静夜殿から漏れた。

「怖くはないですか?」

「少し怖いです……でも、すごく綺麗です」

「そうですね、確かに今日は晴れて良かった」

 晴天の下。

 雲一つない空の下を駆けている姿は、人の子にしてみればそれは綺麗な幻想のようだろう。

 でも、悠長に空を渡っていく時間はない。

「では少し、早く動きます」

「分かりました」

 そして、少し速度を上げる。

 それは水面を走る石のように、野原を駆ける風のように走っていく。

「は、速い……」

 少し、静夜殿が呻いた。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫です、私の事より早く病院に行きましょう!」

「……分かりました、行きましょう」

 決意の眼差しは、病院の方を向いていた。

 それに水を差すよりも、気を紛らわしてあげた方がいいかもしれない。

「それより、病院までもう少し時間がありますし質問に答えますよ?」

「じゃあ、一つだけいいですか?」

「何ですか?」

「どうして、おばあちゃんの前からいなくなったのですか?」

「……人と妖は、やはり違います」

「一緒にいると、不幸になるからですか?」

「そうです、やはり私は人の掟の中では生きてはゆけません」

「だから、拒絶したんですか?」

「そうですね……あの時はすまない事をしたと思っています」

「そうです、そのせいでおばあちゃんは……不幸になった」

 静夜殿の声が少し低くなった、表情をいつの間にか曇っている。

「セキさんが、おばあちゃんを受け入れてくれたら――」

「貴方は生まれなかった、そして貴方も紗代殿もお互いを慈しむ事もなかった」

「そう、ですね……」

「では、見てみますか?」

「何をですか?」

「昔、私と紗代殿と何があったか」

「そんな事が出来るんですか?」

「言ったでしょ? 私は妖ですから」

 そう会話を終えると、眼前に見えてきた赤十字の屋上に降りると紗代殿が居る五階の病室に向かう。

 その病室はすぐに分かった。

 その廊下には不安そうにする者、涙が零れる者が扉の前に居た。

 その中でも、ひと際大きな体格の男性がこちらに近いてきた。

「静夜、こっちに……」

「お父さん、お婆ちゃんは?」

 その問いには答えず、そっと彼女の背中を押す。

「お婆ちゃんが、呼んでいるよ」

「分かった……」

 彼女の背中を追うが、やはり静夜殿以外に私が見える者はいなかった。

 静夜殿が白い扉を開け中に入ると、清潔な白色の部屋を晴天の光が照らしていた。

 そして、光が差し込む窓の下の寝床に彼女はいた。

 髪は白く肌は弱々しく皴になってしまっているが、その整った輪郭と美しい寝顔は変わっていない。

 瀬野紗代殿が、最後の時を迎えようとしていた。

「おばあちゃん?」

 静夜殿が静かに呼んだ。

 すると、眠っていた紗代殿がゆっくりと目を開けた。

「静夜かい?」

「そうだよ、お婆ちゃん」

「ありがとうね」

「急にどうしたの?」

 無理矢理作った笑顔は、やはりどこか歪だ。

「お前はずっと、探してくれていたんだろ? あの人を……」

「うん」

「静夜が入ってきたときに、懐かしい匂いがしたよ」

「匂い?」

「ああ、風の匂いだ」

「窓は、開いてないよ?」

「お前が運んできてくれたじゃないか、優しい風を……」

「まさか、お婆ちゃん……」

 すると、静夜殿に向いていた視線がこちらを捉えた。

「会いたかったですよ、セキ様……」

「お久しぶりです、紗代殿」


 寿命が近い人間には、霊感が宿るといわれている。


 紗代殿は元々、妖が見えていたがそれは大人に連れて失われていくことが多い。

 多分……紗代殿は一度、霊感を失ったのだろう。

 そして、命が尽きようとしていて魂に近い存在になった。

 だから、再び見えるようになったのだろう。

「これで私は、もう思い残すことはありません……最後に自慢の孫が望みをかなえてくれました」

「お婆ちゃん……」

 静夜殿が弱々しい手を握る。

「セキ様、最後に言わせてください」

「何をですか?」

 紗代殿の顔に耳を近づける、息遣いがだんだん弱くなっていく。

「御免なさい、私のせいで貴方を傷つけてしまった」

「いいのですよ、遅かれ早かれ気付かれていたことです」

 彼女の謝罪に胸を痛める。

 紗代殿は、鬼である私が人の世で生きていく未来を見てくれていたのだ。

「紗代殿?」

 静夜殿の隣に歩み寄り、紗代殿の手を優しく包む。

「何ですか?」

「最後に、してほしい事はありますか?」

 その言葉に、静夜殿が青い顔をした。

 紗代殿は少し考えて、その望みを言った。

「もし、叶うのであれば……静夜に私の過去を見せてください」

「何故ですか?」

 そう、私は問う。

「この子にはあまり自分の事を語らなかった、唯一……語ったのは貴方の事だけでした」

「だから、見せてあげたいのですね?」

「はい、私の楽しかった事も……辛かったことも全部を見せたいのです」

「おば、あちゃん……」

 涙ぐんだ声。

 静夜殿からは既に大粒の涙が零れていた。

「お願いできますか? セキ様……」

「分かりました、では……一緒に見ましょうか」

 私は懐から一冊の本を取り出し紗代殿の手を置く。

「どうぞ、静夜殿?」

 手を置くように促す、最初は戸惑っていたがゆっくりと紗代殿の手の上に自分の手を重ねる。

 そして、最後に私の手を重ねた。


「では、行きましょうか……今は昔の郷愁の地へ」



 〝過去世〟


 それは優しい少女が見る、最後の夢だった。


 最初のそこは、そんなに大きくない神社だった。

 けど、そこは私にとってとても大切な場所だ。

 私が生まれて流れ始めて半月経った位の頃だった。

 偶然、ここに流れ着いてそこで初めて天女に出会った。

 天女は私に言った。


「自分が何者なのか分からぬのならば、分かるまで揺蕩ってみればよいではないか」


 それから更に数十年ほど流れた後、再びここを訪れた。

 そこは、立派な社の立つ神社になっていた。

 社の中は、現在と同じく薄暗いが住職が居るのでロウソクの灯がついている。

 そのお陰で、今のような不気味な雰囲気はない。

 そして、その仄かな明かりを背にしながら座り込むその姿はかつての自分の姿。

 痛みのひどい外套を羽織り、頭の角を見せないようにする為に頭にも布を巻いている。

 外傷はないがその姿はやつれきっており、とてもひどい状態だ。

 だが、それは無理もない事だ。

 何故なら鬼は、栄養を取る必要ないが鬼は常に飢えに苛まれている。

 だから、人や動物なんかを無性に食べたくなってしまう。

 けど、知性のある私はその醜い姿を想像してしまい人目を避けてここに逃げ込んだのだ。

「私は、何なのだ?」

 その自問自答に対する答えは、今の私にも見つけられていない。

 憔悴しきったかつての自分がとても痛々しい。


『痛々しいですね』


 すると、隣に立っていた静夜殿があの背中を見て思わずそう零した。

 でも、そう呟いてしまうのも仕方のない事だ。

 まだ答えの出ていない私でさえ、この時の自分の姿は見ていられない。

『そう言えば……』

 静夜殿が辺りを見渡す。

 ベッドに横になっていたはずの紗代殿の姿がなかったことに気付き、辺りを見渡す静夜殿に私は優しく語り掛ける。

『大丈夫です、そろそろ来ますよ』

『どうゆう事ですか?』

『外をごらんなさい』

『外を?』

 そう静夜殿を促し、彼女の視線が外を向いた。

 その時だった、大仏を照らすロウソクの炎が揺らめいた。

「だれかいるの?」

 幼い声が聞こえた。

 私には懐かしい声だが、静夜殿には聞き馴染みのない声だっただろう。

 けど、声の主の姿を見た時だった。

 静夜殿の、息をのむ音がはっきりと聞こえた。

『お婆ちゃんなの?』

 静夜殿の視線の先、思い当たる人物は一人しかいない。

 その少女は、齢八歳くらいの少女だ。

 市松人形の様な長く艶のある黒髪、大きな瞳に可憐な桜の花びらのような唇が恐る恐る声を出している。

 その姿は、静夜殿に瓜二つだった。

「だれなの?」

 再び声が響く、昔の私はその声に無反応だ。

「そこに居るのはだれ?」

 覚束ない足取りで座り込む私に歩み寄っていく、座り込む私はそれを黙って見ている。

「おにいさん、寒くないの?」

「寒いとは、何ですか?」

「まさか、寒くないの?」

 幼い紗代殿は驚愕しながらしゃがみ込み、小さな手で座り込む私の両頬を包み込んだ。

 そして、紗代殿と私の視線が交わる。

「こんなに冷たいのに、寒くないの?」

 頬を包まれた私の心には、その時に感情が芽生えた。

 今の私なら分かる。

 憎悪と殺意、悲しみの負の感情ばかり見てきたかつての自分では分からなかった。

 この温かな感情は、五本指の私しか得られない感情だ。

 それは、慈愛。

 知っていながらも、体験したことのない感情に戸惑っている私に紗代殿が微笑みかけている。

「ちょっと、待っていてくださいね」

 そうゆうと、頬から手を放し外に向かって駆けて行った。

 半日ほどたっただろうか、時刻は夕方になろうとしている。

 何もせず待っていると、紗代殿が戻ってきた。

 小走りで来たせいなのか、少し息が上がっている。

「すみません遅くなってしまったのですぐに帰らないといけないので、着替えとおにぎりを置いていくのでよかったら食べてください」

 それでは失礼しますと、丁寧にお辞儀をして紗代殿は帰っていく。

 その帰り際にこう言い残した。

「明日も来ます」

 そう言って、元気良く帰っていった。

 着替えと温かい湯気の立ったおにぎりを無言で見つめていたが、最初に着替えに手を伸ばして汚れていた外套を脱ぎ捨てた。

 そして、唐草色の着物に袖を通した。

 けど、そもそも寒くもなかった私にとって薄着であってもそんなに意味はない。

 次にうっすらと湯気の立つ握り飯に手を伸ばす。

 少し形が歪なのは、本人が握ったからなのだろう。

 口に運ぶ、すると――

「……もの凄く、痛い」

 味覚とゆうものをよく理解していなかった私でさえ、これは食べてはいけないものだと理解した。

 今の私なら、こう叫ぶだろう。


 しょっぱい、と。


「けど、残すのは失礼ですし……」

 涙目になりながらも全部のおにぎりを食べ終わった。

 口の中が、砂を噛み砕いたみたいな異物感がある、味覚が鈍い私でさえ水が欲しかった。


 これが、紗代殿との出会い。

 そして、これをきっかけに私は人とゆうものを知っていくのだった。



 場面が途切れ、闇が私たちを覆った。


『おばあちゃんにも、こんな頃があったんですね』

 微笑みながら、静夜殿は呟いた。

『そうですね、この時のおにぎりは本当にしょっぱかったですね』

 こちらも苦笑いをしながら、思い出に浸る。

『けど、少し貴方が羨ましいです』

『羨ましい、ですか?』

『おばあちゃんは優しかったけど、あまりこうゆうところは見せてくれなかったから……』

『寂しかったですか?』

『そうじゃないんです、頼りになる人だったけど……私も何か力になりたかったんです』

『だから、私を探していたんですか?』

『そうですよ、それがおばあちゃんにしてあげられる……唯一の事だと思ったからです』

『……貴方は一つ、誤解している』

 私は言葉を選び、静夜殿に語り掛けた。

『誤解、ですか?』

『はい、貴方は自分で思っている以上に紗代殿の力になっていたのですよ』

『そんな事……』

『私の言葉は信じなくてもいい、でもこれから見る事を……信じてください』

『……分かりました』



 そして、場面が変わる。


 そこは、秋の紅葉に彩られた神社だった。


「お兄さん、これは鳥居とゆうのですよ!」

 元気な声が、静かな広場に響いた。

 声の主は、幼き日の紗代殿であり何も知らない私の手を引いて神社の中のものを色々と説明してくれている。

「分かりましたから、童よ……そんなに引っ張らないでおくれ」

「お兄さんが遅いからですよ、もっと元気よく歩いてください」

 手を引かれる私は少し戸惑い、手を引く紗代殿は満面の笑みである。

「童よ、今日はいつにも増して元気ではないか?」

「だって今日は、久々にお兄さんに出会えたんですもの」

 確かに、紗代殿は半月ほどこちらに顔を出していなかったと記憶している。

「それが、習い事が増えてしまって……」

 すると、少し手を引く力が弱まったが手を握る力を込めながらそう呟いた。

 そして、独白は続く。

 紗代殿の家はこの辺りでは有名な名家で、同じく名家であった許嫁と結婚が約束されているようだ。

 だからこそ、彼女は言った。

 自分を形作るものは、全て家に与えられたものだ。

「そうですか……」

 こんな時に、なんて言えばいいのだろうか?

「習い事は、嫌ですか?」

「いいえ、習い事が嫌なんじゃないです」

「では、何が嫌なのですか?」

 すると、自分の手から離れて鳥居の外を眺める。

 それは、籠の中の鳥のように……外の世界を羨む鳥のように。

「私を形作るもの全てを……決められてしまっているようで、少し悲しいです」

 憂いのある眼差しは、年に比べ不相応なものだ。

 それは、十になったばかりの童が持つ瞳ではない。

「だから、私はお兄さんに会えてよかった」

 だが、その言葉と一緒に向けられた笑顔は、年相応の花のように萌える笑顔だった。

「何故ですか?」

「だって、ここなら……私の好きなものを私の中に入れられるから」

 その朗らかな笑顔を見て、私は理解した。

 人とは籠の中でしか生きられない生き物だと。

 だが、その籠の中に入れるものを選べる生き物なのだと。

 そう、私は悟ってしまった。

 人でない私は……籠そのものでしかない私は、籠の中で生きることは出来ないと。



 そして、その笑顔を飲み込むように闇が思い出を包み込んだ。


『おばあちゃんは、こんな思いを持っていたんですね』

『そうですね、そうゆう時代だからと……割り切ることは出来なかったでしょうね』

 いくら大人びてはいても、まだ子供であった彼女にとって自由のない事がどれだけ苦痛であったかは想 像するしかないが、辛かったのは間違いない。

『お婆ちゃんは何でもできたんです、お料理に裁縫に生け花も……それは自分の時間を犠牲にして得た物なんですね』

 自分の事のように語る静夜殿、幼き日の姿が似ている紗代殿と自身を重ねているのかその目には少し涙が浮かんでいる。

『けど、あの時の紗代殿の顔を君もみたでしょ?』

 あの最後の場面、日の光に照らされた紗代殿の顔は何物にも負けない強さがあった。

『確かにそこには苦痛があった、でも……後悔はなかったと私は思います』

 後悔とは、後で悔やむことを差す。

 ならば自身の苦痛と経験を誰かに伝えられたのなら、それは自分の歩んできた道を残せたとゆう事だ。

 そう、これは以前……紗代殿が言っていた。

『私は自分のしてきた事に後悔はなかった……でも、自分のしなかった事はいつも後悔している……』

 すると、私の言葉を吸い取った静夜殿が声を上げた。

『それは、紗代殿の言葉ですか?』

『はい、お婆ちゃんが前に言っていたのを思い出しました……この記憶を見た後ならこの言葉の重みが分かった気がします』

 静夜殿は、真っすぐに目の前の闇を見つめている。

 その横顔は、この短い時間の中で成長しているように見える。

(……紗代殿、見ていますか? 貴方の言葉は確かに届いていましたよ)

 ここに居ない紗代殿を思いながら、彼女の孫の顔を眺めていると闇が風景をかたどり始めた。

『……』

『どうかしたんですか?』

 私の沈黙に、静夜殿が問いかけてくる。

 この先にある風景を、忘れることはない。

 その記憶こそ我々が来た理由、紗代殿の過去を晴らすために私は帰ってきた。

『まさか――』

 私の空気を察した静夜殿は、息をのんだ。

『そうです、これから見る記憶をよく見ておいてください』

『……分かりました』

 彼女の決意と同時に、記憶が流れ始めた。





 それは……一人の少女と、一つの妖の思い出の終わりの記憶である。



 二人は思い出を重ねていった。


 春の桜を、彼女を抱えながら眺めた。


 夏の岩魚を追いかけながら川遊びをした。


 秋の紅葉が降る中で、読書に耽った。


 冬の神社が雪原になったら、外には出ずにお堂の中で人形遊びに興じた。


 彼女は幸せそうだった。

 そして、私も人に対する関心が高まりつつあった。

 もう今は最初に出会ってから三度目の季節が廻り、初夏の頃になっていた。

「暑くなってきましたね、お兄さん」

「そうですね、昼間は流石に暑いですね」

 髪をかき上げる紗代殿は随分と大人びてきた、言動や仕草一つ一つが妙に色っぽく感る。

「お兄さん、今日は何をしましょうか?」

「君は、何がしたいですか?」

「たまには、お兄さんが決めてくださいよ」

「私が、ですか? 私は特に無いのですが……」

「何でもいいのですよ? 例えば……」

「例えば?」

「お兄さん、貴方の話をしてくれませんか?」

「……」

 いよいよ来たか、私はそう思った。

「何故ですか?」

「だって……いつも私の事ばかり話していて、お兄さんの事を何も知らないんです」

「私の事なんて、話す事はないですよ」

「何故ですか! 貴方の事を知ってはいけないのですか?」

 すると、さっきまでの大人びた雰囲気は霧散し勢いよく私の懐に飛び込んできた。

 紗代殿に押し倒される形で、お互いに倒れこんだ。

「童よ、落ち着いてください」

「私はもう童じゃないですよ、もう十三です」

 すると、紗代殿は自分の着物に手をかける。

 少し着物が肩からはだけて、鎖骨と少し膨らみのある胸が見えている。

「今日……何をするか、貴方が決めてくれないのなら私が決めます」

 そして、私の耳元で囁いた。

「私を、抱いて下さい」

 妖艶な声で囁くが、私の理性は揺るがない。

「駄目ですよ、それは出来ない」

 私は静かに突き放す。

「だから、何故なんですが!?」

「それは、貴方が不幸になるからですよ」

「好きな人と結ばれるのが、不幸なことがありましょうか」

 彼女の目は真剣だ。

 正体も明かさない、私の事をそれ程までに私の事を想ってくれていたのか。

 けど、そんな優しい彼女だからこそ私は受け入れるわけにはいかない。

 人ではない私は、人の中には入れない。

「私は君の想いを、受け取るわけにはいかない」

「貴方の事も教えてくれない、私の事も受け入れてくれない! どうしてなの?」

 それはまさに脱兎の如く。

 涙を流しながらそう言い残し、外に飛び出していった。

 晴天の日差しが、開け放たれた扉から差し込んできた。

 それと同時に、ここの神主が騒ぎを聞きつけてこちらに来た。

 でも、この者は私を見る事は出来ない。

「あの娘、どうしたとゆうのだろう?」

 不思議がりながらも、扉を閉めた。

 拝殿が暗くなり、闇が支配した。

「これで、良かったのだ……」

 私の心にも闇が掛かった。

 この心の穴の正体は、恐らく……寂しさ。

 五本指の私だから、この心の穴に気付いてしまったのだろう。

「やはり、こんな指なんか……なければ良かった」

 自分の手を見ながら、そんな事を漏らす。

 浮かんでは消える紗代殿への懺悔の言葉。

 それと同時に口にするのは、許してくれとゆう懺悔の言葉。

 何時間もそうしている姿は、今の私から見れば。


 紗代殿にではなく、神に許しを請うように見えた。


 時間は過ぎて見飽きるほど見慣れた五本の指を、扉から漏れる斜陽がさした時だった。

 扉の前が騒がしくなってきた。

 声の主は三人ほどいる。

「おい、ここか!」

「ああ、間違いない! 地主さん所の娘さんが襲われたって話だ」

「許せねえ、やっちまうぞ!」

 その怒号を皮切りに、勢いよく扉が開いた。

 真っ赤な夕日が差し込んできているところを見ると、どうやら四時間ほどたっていたようだ。

「お前か、娘さんを襲ったのは!」

 三人の男たちの視線が私を捉えている。

「……貴方たちは、私が見えるのですか?」

「何訳の分からないこと言ってやがる!」

「そうだ、何言ってやがる!」

「太々しく座りやがって!」

 三者三様の罵声が飛んできた。

(しかし、何故……私の姿が見えているのだ?)

 神主にも見えていなかったのに、どうしてこの男たちには見えているのだろうか。

 その疑問を聞きたかったが、一人の男が私の胸座を掴んだ。

 少し息苦しかったが、私が人間の力でどうこうなる体ではない。

「とにかく、てめえが紗代ちゃんを襲ったんだろ!」

「服がはだけた紗代嬢が、ここから出ていくのを神主が見ているんだぞ」

「……なるほど、それで神主から連絡があったのですね」

「何を、言ってやがる!」

 胸座を掴んでいた男が頭に血が上ったのか、私に向かってこぶしを振り上げた。

 私はそれを、黙って見届ける。

 鈍い音が響いた。

 けど、響いたのは私からではなかった。

 人が鬼の強靭な体を思いっ切り殴りつけたのだ、無事で済むはずがない。

 案の定、殴った男は拳が砕けて折れた骨が少し見えてしまっている。

 だが、いきなり事情も聞かずに殴りかかってきたものに同情は浮かばない。

 しかし、どうして私の姿が見えているのだろうか。

 少し、考えてみた。

 この三人はどう見ても修行した者には見えない。

 多分、農家の人間だと思われる。

 だが、ここの神主にも見えたいなかったのだがどうして突然見えるようになってしまったのかが分からない。

 目の前の不条理と、自身の境遇に思わず拳を握る。


 すると、握った指の先から肉の千切れる音が鼓膜を揺らした。


 自分の握り拳に目を落とすと、自分の手を覆う黒い靄が見えた。

 これは私を形作る物、妖気だが私はまだ妖気の制御は行っていない。

 する必要もなかったから、してこなかった。

 妖気とは、妖の体を構成する源だ。

 だから、受ける感情で力が高まったりするのだ。

(そうか、私は鬼なのだ)


 私は理解した。


 私の体を構成する妖気の源は寂しさや怒りなどの負の感情である。

 だから、妖気の制御が出来ていない私は三人の怒りの感情と自身の寂しいとゆう感情を取り込んでしまい一時的に力が高まってしまって姿が見えてしまったのだろう。

(これからは、力の制御もやっていきましょうか)

 人と関わっていくのなら、力の制御は必要になってくる。

 それに、私は他の鬼と違って余計な感情も受けてしまうから余計に制御が必要になってくるはずである。

(感情とは面倒なものなのですね)

 けど、それを大切にするのが人間なのだと私は紗代殿に教わった。

 だが、私の思考など気にする暇もないほど三人の男達は慌てふためいている。

「ぎゃああああああ! う、腕が……」

 殴った男の腕が直角に曲がっていた。

「き、貴様! 何をしたのだ!」

「……貴方たちは見ていたでしょう、私は何もしていません」

「ば、化け物だ! 逃げよう」

 殴った男が逃げようとする。

「そうだ、化け物だ!」

「俺たちだけじゃだめだ、もっと人を集めよう!」

 そう一人が言ったのを皮切りに男たちは逃げていく。

 男たちが去った後には静寂が戻ってくる。

 外を見れば、闇の帳が下りていた。

「もう、夜でしたか……」

 けど、私がここに居てはいけないとゆう事は分かっている。

 静まり返って本堂に、溜息が漏れた。

 あの童の声が聞こえない本堂に未練はある。

 けど、それを壊したのは私だ。

 ならば、その咎は私が受けるべきだ。

 立ち上がり、ここを離れようとした。

 その時だった。

「待って、お兄さん!」

 紗代殿が、私の行く手を遮った。

「お兄さん、行かないで!」

 小さき体で精一杯しがみつく小さき童、私が本気を出せば容易に振りほどけるその体を優しく突き放す。

「すまないね……正体が知られてしまった以上、ここにいるわけにはいかない」

「ご、ごめんなさい――私にせいで……」

 小さい瞳から涙が零れる。

「謝らないでおくれ、君のせいではないよ」

「で、でも!」

「さぁ……もうお帰り、直に他の村人が来る――君まで咎めを負う事はない」

「いや、行かないで!」

「さようなら……優しき人の子――いや、紗代(さよ)殿」

 その言葉を残し、私はそこから立ち去った。


 行かないで、その言葉と涙に後ろ髪を引かれながらひたすら闇を歩いた。


『これが、私と紗代殿との思い出……越えるべき過去の出来事なのです』

『これが、真実なんですね……』

 しばらく黙り込んでいた静夜殿が、静かに口を開いた。

 辺りはまだ、闇が包み込んでいる。

『……そうです』

『これが、お婆ちゃんの見せたかったものなんですね』

『そうです、ですが……』


 〝過去世の書〟は、まだ続いている。


『どうしますか? ここで戻ることもできますよ?』

『…………続きを、見せてください』


 顔を上げて……目の前を見据えた、その強い眼差しが何より答えだ。


『分かりました……』

 私が伝えたい事はもうない、いや……語るべきことはない。


 私も黙って前を見よう。

 私たちの決意を受けて、最後の場面が映し出される。



 それは、とある夫婦の初夜のお話だった。


「紗代さん、本当に私でいいんだね?」

 二つの布団が並べられた満月の夜、沈黙が続く中そう切り出したのは若い男だった。

 顔は暗がりでよく見えないが、この声には聞き覚えがあった。

(なるほど、茂樹殿ですね……)

 これは、二人の契りの時のお話のなのだろう。

「構いません、貴方がいいから……選んだのですよ」

 そう言ったのは、別れた時よりもさらに美しくなった紗代殿だ。

 洗礼された美しい笑顔は、月明かりに照らされていてなお輝いて見える。

『綺麗……おばあちゃん』

 そう静かに言葉を漏らした静夜殿、二人の事を食い入るように見つめている。

「ありがとう、だから……君には本当の事を言うよ」

「何がですか?」

「これから私は、君を抱く」

「……はい」

「だけど、そこに本当の愛はない」

「……はい」

「それでも、いいのかい?」

「……はい、それは……私とて同じです」

「どうゆう事だい?」

「言っても、信じてもらえませんわ」

「教えてくれ」

「……私は昔、人じゃない者に恋をしました……その想いは今でも繋がっています」

 茂樹殿は何も言わない、黙って先を促す。

「私の愛をあの人は拒みました、でもあの人が私を拒んだのは多分……人の輪の中に入れないと分かっていたからでしょう」

 目を伏せながら語る紗代殿を、眺める私の胸を何かが締め付ける。

「あの時の私では、あの人を繋ぎ止める事は出来なかった……」

 すると、今まで黙っていた茂樹殿が声を発した。

「何故、その者が人ではないと思ったのですか?」

「纏っている空気もそうだったのですが、成長していく私と違ってあの人は成長も老いもなかった……何より――」

「何より?」

 言い淀んだ紗代殿に、茂樹殿は優しく続きを促す。

「頭に巻いていた布の下を見てしまったのです、あれは紛れもなく角でした」

(そうか、この布の下をみられていたのですね)

 頭の布に手を当てながら、苦笑してしまった。

「その人を、本当に愛していたのですね」

 茂樹殿は、それ以上何も言わなかった。

 言わずとも、分かっていたのだ。

「はい、人でないと分かっても……その気持ちは変わらなかったわ」

「そうですか……貴方もなんですね」

 そう、茂樹殿も人非ざる者に恋をしてしまったのだ。

「僕も、妖に恋をしています」

「……それは、今もですが?」

「ええ……小さな女の子なんですが、彼女だけ時が止まってしまったかのように姿が変わらない」

 それはきっと、凜音殿の事なのだろう。

 やはり、茂樹殿は彼女の事を愛していたのだ。

「それでも、愛しているのですか?」

 問う紗代殿。

「だからこそ、愛しているのかもしれない……不変だからこそ綺麗なあの子を愛し続けられる」

「周囲から浮いてしまってもですか?」

「そうだね、彼女と生きられるなら……それでもいい」

「だけど、私達は家に縛られて生きるしかない……人の世で生きるしかない」

「そうだ、僕たちは人の世で生きていくしかない……それに僕は明日――人を殺しに行くんだ」

「茂樹さん……」

「そんな手で、彼女を抱きしめたくはない」

「……茂樹さん、ありがとうございました」

 紗代殿が、うやうやしく頭を下げた。

「突然、どうしたんだい?」

「少し、茂樹さんの事が分かりました」

「そうだね、僕も紗代さんの事を知れてよかったよ……確かに何も知らないよりはいい」

 すると、月明かりが二人を照らした。

 そして……紗代殿が決意を口にした。

「……一つ、約束してくれませんか?」

「約束?」

「確かに、私達の間に本当の愛はないのかもしれない……でもこれだけは約束してください」

 その目を見て、茂樹殿が息をのんだ。

「必ず、生きて帰ってきてください……そしてこれから生まれてくる子と—―その家族には本当の愛で接してください」

「分かりました、誓います」

 茂樹殿のその言葉を聞いて……彼女は笑った。



 それは思い出の彼女が見せた本物の笑顔だった。



 そして、そこで思い出が終わり……辺りを闇が包んだ。



『……おばあちゃん、笑っていましたね』

 静夜殿が声を出した。

 涙声なのに、顔には笑顔があった。

『そうですね、あの笑顔に私も救われました』

『今ならおばあちゃんの気持ちも死んでしまったおじいちゃんの気持ちも分かる気がします、二人は…… 私たちを愛してくれていたんですね』

『はい、それは……間違いないです』

 すると、闇の中に白い靄が現れる。

 驚く静夜殿を置いて、それは人の形を作った。

『おばあちゃん……』

 紗代殿が、そこに立っていた。

 死者の着る装束を身に纏いながらも、顔には年相応の皴が刻まれながらも。

 真っすぐに私達を見つめている。

「静夜、そろそろお別れだね」

 紗代殿は、静かに語る。

『…………うん』

「いい子だね……お前は賢い子だ」

『うん、元気でね』

「……ありがとう、静夜」

 そして、視線を私に向ける。

「セキ様もありがとうございました、静夜に思いを伝える事が出来ました」

『どういたしまして、貴方の後悔を一つでも減らせたのなら……幸いです』

 それだけ言うと、紗代殿はこちらに背を向けて闇の中を歩き始める。

『途中まで、送りましょうか?』

「ありがたいですが、お断りしますセキ様……あっちで主人が待っていますので」

 こちらを見ずに、私の申し出を断って歩みを進める紗代殿の背中を黙って見送る静夜殿。

 本当は抱きしめたい、行かないでと叫びたい気持ちを我慢している。

 静夜殿の強く握られたこぶしがそれを物語っている。

『おばあちゃん!』

 そして、その背中に向かって最後の言葉を贈った。

『私も愛します! おばあちゃんが愛してくれたように!』

 その言葉に見送られて、紗代殿は消えていった。

 そして、闇が晴れて日の光が照らす病室に戻ってきた。

 静夜殿は、涙を浮かべながら眠っている。

 そして、紗代殿はもう二度と起き上がることはない。


 けれど、二人の顔には笑顔があった。


 私はそっと静夜殿に近づき、優しく髪を撫でる。

「よかったですね、最後の言葉……届いていましたよ」

 そして、彼女たちに背を向けた。

「また会いましょう、優しき人の子よ」

 風が吹いた、その風は吹いたと同時に私を彼方へと運んで行った。




                 『五本の指の理由』


 一体、どれ程の時間が過ぎたのだろう。

 本殿の扉に背中を預けたのが早朝と記憶しているが、今は空に薄紫色のカーテンが掛かり始めていた。

「おやおや、もう黄昏時でしたか……」

 時を忘れる程に読み耽った。

 私の手にした〝過去世の書〟に記録された人や妖たちの記憶を読み返しても、やはり自分が何者なのかが分からない。

「やはり、答えは出ないか」

 辺りが薄暗くなるのを眺めながらそんな独白が出てくる。

「私は――」

「何者なのか、か?」

 不意に私の言葉を遮った声の主を私は知っている。

「あなたは……」

 驚きは半分、もう半分はどこか確証めいたものはあった。

「久しぶりだな、懐かしの故郷に顔を出してみればこれまた懐かしい顔に巡りあったのう」

 薄暗い本殿の奥から現れた、やけに芝居がかった口調も変わらない。

「これは天女殿、お久しぶりです」

「そうじゃの、もう何年になるかえ」

「忘れてしまいましたね、私たちに年月は関係ありませんよ」

「確かにのう、それにしても……」

 彼女は言葉を切った。

 そして、私を見つめながらこう言った。

「そなた、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 その声色には色がなかった、侮蔑(ぶべつ)称賛(しょうさん)もない。

 ただそこにいる、人の真似事をする(わたし)をそう評価した。

 曰く、彼女は自身のことを笑わない天女(てんにょ)と呼んでいた。

「まぁよい、それよりそんな扉の所におらんで早うこっちにこい」

 彼女は私から視線を外すと中に誘った。

「おや? 珍しい……お客はんどすか?」

 クスクスと、上品な笑いが暗く圧迫された天上に響いた。

 先に入っていた彼女は、横たわりながら私を待っていた。

 遊女のように、開けた着物を着こなすその者はまさに名前通りの天女のようだ。

「私と初めて出会った時の再現ですかな?」

「よく覚えておったのう、それにしても相変わらずつまらん男じゃのう」

 口元を隠しながら、妖艶に笑った。

「それで天女殿、先ほどの言葉なのですが……」

「先ほどの言葉に意味などない、そのままの意味じゃよ」

「私は人間なのですか?」

「そんなに長生きする人間がおるか、お前様は間違いなく妖じゃ」

「でも……」

「五指の鬼は存在しない、かえ?」

 彼女に言霊を吸われ、何も言えなくなってしまった。

「あの時の助言を忘れたか? 妾は人の真似事をしてみろと言ったではないか」

「だから、こうして手記を付けているのですよ」

「馬鹿者、そうではない」

 うつむきかけた顔を上げる。

 天女殿は、相変わらず微笑んでいた。

 しかし、その言葉には叱責がこもっていた。

「お前様は確かに鬼じゃ、角があり老いを知らぬ」

「そう私は鬼です、しかし――」

 右腕を持ち上げる、そこには鬼にはあってはならない五本の指がある。

「こんなもの、無ければよかったのですか?」

 何度、この指を切り落そうとしたか。

「お前様はどちらになりたいのじゃ? 人か? 妖か?」

「違います、私は自分が何者なのかを知りたい」

「分かった、言葉を変えようかのう」

 再び顔を上げた、天女殿の瞳の中に私が写る。

「確かに鬼に知恵と自愛はない、だがのう――」

 そして、溜めた彼女の言葉は意外なものだった。

「世の理の中に、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 瞬きの間、意味を取り損ねた私に彼女はさらに私に語り掛ける。

 微笑みながら、諭す親のように。

「お前様は悟ったのではないのか? 妾達こそ世の理であると……そして見てきたのではないのかえ? 苦悩し、怯える人の姿をのう」

 何を言えばいいのか分からない私に、天女殿はこうも言った。

「妾達が(ことわり)であるならば五指の鬼であるお前様とゆう理が生まれている以上、それは世がお前様を認めているとゆうことじゃよ」

「では、今までの苦悩は無駄だったのですか?」

「そうではないのう」

「では、意味があったと?」

「あった、それは断言できるのう」

「何故ですか?」

「あの時のお前様にそれを言ったところでそれこそ意味はなかった、己の目で見て世の理を悟らなければお前様は納得せんかったはずじゃ」

「今でも、納得していません」

「それでよいのじゃよ……苦悩すればよい、人間と同じように」

 そこで、天女殿の瞳から私が消えた。

 相変わらず微笑んでいる彼女。

 けど、今までとは少し違う笑顔で言った。

「少なくとも妾は、悩む鬼が居てもいいと思うがのう」

 その笑顔の意味は分からなかったが、その笑みを次の課題と悟った。

「……ありがとうございました、もう少し世を揺蕩ってみます」

 立ち上がり、礼を言って本堂を後にした。

 そこで、まだ振り返っていないページがあることを思い出した。


 鳥居の階段に座り、それを読み返した。



 〝過去世〟



 それは、赤鬼(わたし)の初めての日記だった。



 一体、どの位の刻が流れた?


 吐く息の白さと風景が重なる。


 人間の寿命では測れないほどの時間、彷徨い躓きながら今は神社の拝殿で体を休めている。


 どうやってこの神社についたのかも正確には憶えていないが屋根は残っていたので体を休められる。


 出入り口所から外を眺める。


 昼夜を見守るだけの時間、昼の暖かさも夜の冷たさも私には関係なかったが一枚も布を纏っていないのは落ち着かなかったので戦場の死体から布をはぎ取りそれを着ている。


 季節を見つめて、見守る。


 無意味で価値の無い時間が過ぎたが、変化する四季を眺めるのは悪くなかった。


 変わらない絵のような日々だが、色彩だけは移り変わりゆく。


 桃色() 黄色() 紅色() 白色()、その色が一周したそんな時だった。


「おや? 珍しい……お客はんどすか?」

 不意に聞こえた声、その舐め回すような声色で私の心に触れてくる。

 視線を送る。

 いつの間にかその女はいた、その女は音もなく初めからそこに居た。

 だが、侵入を咎める様子はない。

 むしろ、娼婦の様に誘っているようだった。

 人を誘うように寝そべり口元を余った袖で隠し、少し開けた谷間から覗く色白肌は見る者を虜にしてしまうだろう。

 その姿は、確かに異形だ。

 そこに居るのに、現実とは思えない程に見目麗しい美女。

 彼女は、自分の事を天女と呼んだ。

「お前は、鬼か?」

「……」

 その問いに沈黙で返す。

「なるほど、五本指の鬼か……それはさぞ生きづらいだろのう」

 私を見た天女は、その心までも覗いたかのようだった。

「お前は、妖か?」

 心が読まれるなら、黙っている意味はない。

 睨みながら問うが、鬼の迫力をものともせず天女は語る。

「自分の事は答えないのに、人には問うのだのう」

「分からないんだ、私は何なのだ?」

「そんな事、決まっておるのではないかのう」

「決まって、いる?」

 何を言っているのだろうか。

「それは、お前様が一番分かっているのではないか? とゆうか一番分かっていなければならないんだよ」

 それは、嘲笑にも似た声だ。

 それが耳に届いた時、布の擦れる音と床のきしむ音が聞こえた。

「お前に――」

 この感情の正体は分かる、それは馴染み深い感情だ。

 私は静かに怒っていた。

 私は、怒気を届けるために天女を見下ろした。

「少なくとも、お前様より世を見ているぞ」

「私が見ていないと?」

「お前様が見ているのは、自身だけだよ」

「人間も自身しか見てはいない」

「そうだな、けど――人でないものが自身しか見ていない姿なぞ滑稽以外の何物のでもない」

 言っている意味が分からない。

「やれやれ、これ以上の問答は無意味だ」

 諦念、それが天女から感じ取れる感情だ。

 だが、口元には笑みが残っている。

 その笑みから、嘲笑は感じられなかった。

「精々これで人の真似事でもしておれ、人の子は自分の見て来たものを記録する不思議な習性を持っておる」


「それを持って世を揺蕩(たゆた)い、己を見つめなおせ」


 言葉を残し、眼差しを残し天女は影に包まれる様に消えていく。


(彼女は色々な事を教えてくれた)

 そして、女の居たところに。

(そう……これをくれた)

 私の手の中にある、一冊の本。

 天女曰く、人とは過去を振り返る生き物であるらしい。

 人は自分のしてきた事、見てきた事を記録する様だ。

 ならば私も、それを真似てみようと思う。

 今までの出会いや出来事を記録し時折振り返り、自分を探す糸口を探そうと思う。

 だが、日記を付け始めるのはいいがまず何を書けばよいのか分からない。

 私は鬼、寿命もなければ朽ちる事もない。

 何処にでもいるし――何処にも居場所は無い。

 私は、まだ何もしていないのだ。

「本当に、そうなのか?」

 私は、今までの自分を振り返る。



 少ない、だが無いわけじゃない。



 それにしても鬼が人間の真似ごとをするのだな。



 自分が何者か分かっているのに、何故……自分が分からないのだ。


 自分とは何者なのか。


 それが知りたい。


 だからこそ私は、ここに記そうと思う。


 これが、私の付ける最初の日記になる。


 私が出会ってきた妖怪や人との出会いを記していこう。


 そして何時か辿りつけるだろうか? 私が欲する答えが。


 私は、何なのだ?



 

 それを読み終えた私は、昔の自分の未熟さを痛感した。


「今の私の方が、世を知っているのですね」

 そう、これこそ過去を振り返る意味だと悟った。


 過去を振り返るとゆう事は、自分の成長を見るとゆう事だ。

 手記を付け始めた時より、私は成長できている。


 人との出会い。


 妖との出会い。


 悔いの清算。

 それらが、何も分からなかった私の中に積み重なって今の私になった。

 視線は、いつの間にか上を向いていた。

 見上げた先には、美しい満月と星が瞬いていた。

「そうだ、今日の事も記しておこう」

 零した言葉に押されて、再び書に目を落として今日のことを記し始めた。


 未来の私が成長できるように。


 少しだけ、口元を緩めながら。


 FIN


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