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【序章】古民家の夢

栃木県・那須の外れ。

築百年の古民家を民泊へとリフォームする青年・岩瀬幸助。

だが天井裏から見つかった“巻物”が、彼の運命を静かに狂わせていく。

その巻物には――「願いの座、白き珠を封ず」とだけ記されていた。


願いが叶う石、

愛した人の微笑み、

そして、誰かに“見られている”という感覚。


現実と幻想がゆっくりと溶けあうとき、

青白く光る石が――真実を映し出す。

古民家の夢


朝霧が山のあいだから押し寄せ、築百年の古民家をすべて柔らかい灰色に包みこんでいた。濡れた土の匂いと、古木から立ちのぼる甘い樹脂の匂いが、胸の内側のどこか懐かしい場所を叩く。ハンマーが梁を叩く乾いた音がひとつ、ふたつ、しだいに合唱になって、遠くの谷のほうへ吸いこまれていった。

 岩瀬幸助は、濃い色の作業ベストのポケットに両手を押し込み、玄関の式台に腰をかけて工事の様子を眺めていた。天井からは煤色の梁が斜めに渡り、ところどころに木目が波のように現れている。祖父の葬式の晩、囲炉裏の火の粉がふわりと舞い上がり、この梁に金の星座を描いた――そんな記憶が、時おり胸の奥でぱちりと火をはぜさせる。

「こっちは予定通り抜きますよ。差し鴨居、傷んでますから新材でいきましょう」

 監督が図面を広げ、赤鉛筆で線を引いた。紙の上の家は、もうすでに“未来の姿”として呼吸している。広い土間は土足で出入りできるラウンジになり、奥座敷には低いベッドと間接照明。五百坪の庭には、芝とウッドデッキと、小さな火床。夜になれば、星と虫の声と、遠くの国道のかすかなうなり。

「家族連れが遊べる導線に。昔の日本庭園の石は残しますが、要点だけです」

「うん、石は残したい。あれはうちの骨格みたいなものだから」

 岩瀬は頷き、図面から目を上げた。その視線は自然と道向かいへ滑っていく。斜面にへばりつくように建つ、小さな木造住宅。薄いベージュの外壁は雨に焼け、窓枠のアルミは鈍くくすんでいる。錆びた赤いポスト。差し込まれたチラシの角が、風に合わせて微かに震えていた。

 カーテンの隙間に、影があった。人間の肩と頭の形をしている。こちらを向いたのか、ほんの一瞬、白目の白さのようなものがきらりと光って、そして暗がりに吸いこまれた。見間違いだ、と言い聞かせる。工事現場は珍しい。誰だって眺める。そういうことだ。

 監督が庭の植栽計画について話し出したとき、岩瀬はふと、靴底に伝わるこの土地の硬さを意識した。祖父も、父も、同じ土の上に立って生きてきた。古い家を残すことは、彼らの言葉をやっと自分の口で言い直すことのようにも思えた。観光客を呼びたい、収益を立てたい、という算盤ももちろんある。けれど、それだけではない。ここに人の息づかいを戻す。それが、いまの自分の体温にいちばん近い願いだ。

「裏手の塀、低くしましょう。山の気持ちよさを切らないように」

「そうだね。風、通したい」

 そう答えながら、ふたたび道向かいに視線が吸い寄せられる。今度は窓ガラスが白く光り、その面にこちら側の現場の様子が小さく反射しているのが見えた。ハンマーを振る腕、持ち上げられる梁、図面を指す監督の手。映っているのは自分たちのはずなのに、像はどこか歪んで、遠い。レンズ越しに覗かれているような、妙に圧縮された遠近感。窓辺の暗がりに、さっきの影はもういない。

 昼になると、霧は焼けて、瓦に残った水が細い糸になって軒から落ちた。大工たちが道具を置き、煙草をふかし、陽の匂いが濃くなる。岩瀬はペットボトルの水を飲み、喉の奥がきゅっと冷えるのを感じた。ここで淹れる最初の珈琲の味を想像する。チェックインを終えた客が、荷を解いて縁側に腰かけ、湯気の向こうで山の稜線を眺める。笑い声。カップに触れる指。湯気の向こうの、誰かの目。気づけば、彼は自分の掌を見ていた――何も持っていない掌。そこに、まだ名前を与えていない重さの感覚が、わずかに残っている。

 午後、監督が車に図面を積み込む。「次回は内装の最終決めを。古い天井板、意外と使えますよ」

「了解です」岩瀬は軽く会釈し、白い息をひとつ吐いた。山の空気は温度よりも冷たく感じられる瞬間がある。背を伸ばして、もういちど向かいを見た。窓は閉じられ、カーテンはぴたりと合わさり、家全体がひとつの箱にはめ込まれた影のようだった。

 エンジンが一台、二台、坂を下っていく。音が谷に沈む。静けさは、音が消えたあとしばらくそこに残り、やがて何もなかった顔をして戻ってくる。岩瀬は玄関の上がり框に腰をおろし、脚をぶらつかせながら、家の中心に目を向けた。煤けた梁の黒は、光の角度しだいで柔らかな褐色になり、細い埃が川のように流れてゆく。祖父の声が、小さく耳の奥で揺れた。

――よく見ておけ。家は生き物だ。

 ゆっくり呼吸するんだ。人がいるときは人の息で、人がいないときは山の息で。

 岩瀬は立ち上がり、土間に降りた。指で壁の古い傷をなぞる。そこに爪がかすかに引っかかった瞬間、背中に視線の温度を感じた。道向かいのほうから、絹糸のように細く、しかし確かな温度。振り返る。道路は空っぽで、風が枯れ葉を転がしている。窓の向こうは暗い。だが、その暗さは、昼の明るさをうすい膜で包んだだけの、たしかな“何か”の気配を含んでいた。

 彼は軽く笑って頭を振った。気のせいだ。工事に興味がある誰かが、ただ覗いただけ。自分だって、こんなふうに他人の夢の輪郭を覗きたくなる瞬間がある。そういうことだ。そう言い聞かせると、胸の中の小さな棘は、すっと皮膚の中に沈みこんだ。

 玄関を閉めかけたとき、廊下の奥で何かがきらりと光った。古い釘の頭か、蜘蛛の糸か。ほんの一瞬。次に扉を開けるとき、この家は別の名前を持っているだろう。灯り、椅子、器、音楽、湯気、そして人の声。岩瀬はドアノブを握ったまま、短く深呼吸をした。夢はまだ形になっていない。だが、形になりはじめる前の気配は、いま確かに掌の内側で鼓動している――そんな気がした。

 外へ出ると、山の端で雲がほどけ、薄い陽の縁が庭の石に触れた。その光の輪郭は、まるで見えない手が石を撫でていくように、そっと移動していった。道向かいの窓にも、その輪郭が淡く映る。ガラスの面に、小さな家の中の小さな風景――そして、彼自身の姿もまた、細長い影となって、そこに一瞬だけ重なった。



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