【夏のホラー2025応募】入り江の人魚
立ち入り禁止とされる入り江。そこには昔から言い伝えがあった。
「盆の満月の日には人魚が出る。人魚は今はもう会えなくなった人の姿をしている」と。
半年前から夢を見る。もう三年も前に別れた彼女の夢だ。
別れた時の海で、別れた時の顔で、別れた時の言葉を彼女は夢に出てくる度に繰り返す。
「どうして」と。
高校で付き合い始めた彼女とは大学進学で別になっても遠距離交際を続けていた。大学を卒業しても地元に残っていた彼女とは異なり、大学進学で上京をした自分はそのまま就職。慣れない社会人の生活。
これまでは連絡を取ることも苦ではなかったが、次第に彼女とやり取りをすることが億劫になっていることに気づいた。
だから三年前に自分から別れを切り出した。
会社の盆休み期間。
大学四年の年は帰省していなかったから約一年半ぶりに地元に帰った際に彼女を近くの海辺に呼び出し、別れを告げた。
そんな彼女が三年も経った今。半年もの間、ずっと僕の夢に出るのだ。もう会うことはないのに。
たかだか夢と思えばよかったけれど、何か胸に引っかかるものを覚えた僕は三年ぶりに地元に帰ることにした。
彼女と別れたのは地元にある入り江だった。普段からそこは足元が悪く立ち入り禁止の看板が置かれているが、地元では海が綺麗に見えることから告白スポットとして有名であった。
入り江は告白スポット以外にももう一つ地元の中で噂されていることがある。
曰く「盆の時期に満月が重なる夜、今は会えなくなった人が人魚の姿で出てくる」と。
何の偶然か、今年の盆には満月が当たる。
別れた彼女がどうしているかは分からない。まだ地元にいるかもしれないし、もしかしたら地元から離れた場所にいるかもしれない。
ただもう僕が彼女と会うことはないと思ったから、この盆の満月の夜に入り江を訪れてみようと思ったのだ。
三年ぶりに帰った地元は駅や店構えが少し変わっており取り残された気分になる。その中で何も変わらない実家周辺に安堵を覚えつつ、まだ残っていた自室に荷物を置いた。
高校生まで使っていた机はまだ残されており、机の上には彼女と修学旅行で撮った写真が今も飾られたままだった。夢に出てくる彼女とは違って笑顔の写真を見るのが少しだけ辛くなって写真立てを伏せる。
振った年に処分しておけばこんな罪悪感に似た思いが出てくることもないのにと、当時の自分を少しだけ責めた。
月が昇る夜まではまだ時間がある。
ちょうどいい機会だ。
こういうのが残っているから今になって夢に出てくるのかもしれない。そう思って、部屋に残っていた写真やお揃いで買ったものを整理する。
リビングで家族からゴミ袋を受け取って、可燃物と燃えないゴミを分けて入れていく。
今日で夢が終わるのを願いながら整理を終えると、ちょうどよく晩ご飯ができた声がかけられた。
「そういえばこの後出かけるんだっけ?」
食卓で母が言った。
「うん。高校の同級生たちに会いに」
「ご飯食べて良かったの?」
「大丈夫。向こうは明日仕事みたいだからちょっと話してくるだけ」
ましてや盆のこの時期、この近くで開いている飲食店も少ない。出かけるための適当な嘘が嘘に思われないようにうまく誤魔化す。
成人した子供が夜に出かけることに対してはもう何も言わないらしく、母はその返事で納得したようだった。
無言で箸を進めていた父が口を開いた。
「お前、入り江には行くなよ」
今回の帰省で入り江に行くことなど一言も言っていないはずなのに、父は入り江を口にした。
「まさか。もう度胸試しでもあそこに行くなんてないよ。あそこはまだ立ち入り禁止の看板があるだろう?」
「ある。立ち入り禁止の看板はまだある。だけど子どもから大人まで看板を越えて入り江に行くやつはいる。夜は電気もない。足元が危ないのもあるが、今日は特に行くな。満月だ」
「盆の満月だと人魚が出る、だっけ」
人魚が出るなら見てみたい、とふざけてみる。
父が箸を置いて、じっと僕を見た。
「お前、会えない人がいるだろう」
「そりゃ縁が切れた友達とか、もう会えない人はいっぱいいるよ」
だからだ、と父が言った。
「もしその中に何か思うのがいたら、人魚が海に呼ぶぞ」
会えなくなった人になった人魚は来た者に声をかける。その声は人を海に呼ぶ。
何故盆時期の満月の人魚の話が昔から存在しているか。それは人を海に呼び誘い、帰さないからなのだと。
盆時期に海に行くといけない、と上京してから他の出身者から聞いた話に似ているなとふと思った。きっと危ないから、というのがこの地域では人魚の話になったのだろう。
「海に呼ぶっていうのは初めて聞いたよ」
「若い世代は会う、までしか知らないらしいな。行くなと言われる理由はそれだ。入り江から落ちたら助からんぞ」
足元も悪く、尖った岩もある入り江。風景が良くても高さもある入り江から落ちて体を打ってしまうと助かることはほぼない。落ちて無傷でも波に攫われて、潮の流れによっては沖に流されてしまうこともある。
「分かった。友達に何か言われても行かないようにするよ」
父の忠告に返事をし、空になった皿を下げようと立ち上がる。
僕に話し終わった父はまた黙って箸を進めていた。
帰りが遅くなるかもしれないことを母に告げて、実家にいた時に使用していた鍵を借りて外へ出た。
日中の暑さは和らいでいても、潮の香りが混じる温い風が吹く度に肌を撫でる。
彼女と別れた日もこんな風が吹く夜だった。
父が入り江に近づくなと言った時、彼女が今どうしているかを聞いておけばよかった。そうしたら地元にいるかどうかだけは分かったのに。
そんなことを考えながらぼんやりと歩いていたからか、思っていたより早く目的の入り江に到着していた。
夕食を済ませてから出てきたのが功を奏し、入り江の上には満月が出ている。夏場によく見かける赤みの強い満月のはずなのに、どうしてか今日は不安を覚える。
きっと夜中に近い時間と、夕食時に聞いた父の話のせいだ。
「どうして」
月に胸をざわめかせていたらここ半年、ほぼ毎日夢で聞いた言葉が聞こえた。
夢と同じ言葉。夢と同じ彼女の声。
入り江の波が押し寄せる場所から声が聞こえた。彼女の姿をした人魚なのか。彼女自身なのか。
ズボンのポケットに準備していた小さな懐中電灯をつけて、足元を照らす。足を進めると時々小石が転がり、転がるそれに足を取られそうになりながら声のする方まで来た。
声が聞こえた場所には誰かが腰かけていた。僕からは下半身が見えない。
「どうして」
彼女の声だ。
声の主を確かめるためにもう一歩足を進める。僕から見える後ろ姿を懐中電灯で照らす。
小さく強い懐中電灯の光が照らした後ろ姿は別れた日の彼女そっくりだった。服も、髪の長さも。あの日と、そして半年間ずっと見る夢の彼女と。
彼女なのか。人魚なのか。彼女なわけがない。
だってあの日、彼女は。
「どうして」
足音を察したのか上半身が僕の方に振り返った。
後ろ姿を照らしていた光が上半身を照らす。光が照らした先に見えたのは、確かにあの日別れた彼女だった。
地元にいるかも分からない彼女の顔だ。
今日の夕方、写真立てに入っていた彼女の顔が光に照らされてこちらを見ている。
別れを告げたあの日。唇を震わせて、泣きそうだった彼女の顔だ。
「どうして」
夢と、あの日最後に聞いた言葉をまた繰り返す。
「君なのか…」
彼女はこちらを見て言った。
「どうして嘘をついたの」
夢では聞かなかった言葉だった。
「嘘?」
彼女が頷いた。
「嘘。私との連絡が面倒になったのは本当なのは分かってる。でも本当ではないでしょう」
だって。と彼女が続けた。
「あなたはあの時、もう他の人と付き合っていたでしょう」
別れた日にした会話だ。
夢では聞かなったけれど、別れを告げたあの日。彼女から言われた言葉だ。
「君はやっぱり、僕を恨んで」
「どうして嘘をついたの」
あの日と同じ。
「あの時にも言っただろう。もう連絡が面倒になったんだ。だから別れる。ちゃんと説明し」
「他に付き合っている人がいたことを隠して」
彼女が僕の言葉に重ねる。
今にも泣きそうで泣かない表情のまま、僕たちはあの日と同じやり取りを繰り返す。
ああ、前もこれが嘘であることを見抜かれ、問われることが僕には億劫で面倒になったのだ。
だからあの日ここで。
「あの時から三年も経った。今更夢にまで出て、しかも半年間ずっと。しつこいんだ」
もう終わったのだと、改めて伝える。
彼女が本当の彼女であれば今度こそちゃんと終わらせないといけない。彼女の姿をした人魚であれば、僕の中に残っているほんの少しの罪悪感みたいなものを消さないといけない。
彼女に近づくために足を進める。
「もういいだろう。あれから三年も経った。僕も会社で順調に仕事をしている。これ以上、僕に付きまとうのはやめてくれ」
だって彼女とはあの日、この場所で全て終わったのだから。
彼女がこの場所にいるわけがない。彼女の姿をした人魚であっても、半年間夢で煩わされる謂れはないはずだ。
上半身だけが見える彼女の目の前に立つ。
彼女が黙り、僕が歩みを止める。静かになった入り江に聞こえるのは波の押しては引く音だけ。
ここに着いたばかりに見えた月はその時より近くに見える。潮が高くなったのだ。
今度こそしっかりと終わらせる。
「どうして」
少しの間だけ黙っていた彼女が再度聞いてきた。泣きそうだった瞳はしっかりと僕を見つめる。
「どうして嘘をついたの」
「本当のことを言っても君は納得したのか?僕が穏便に終わらせようとしたのに」
何度も面倒なことを聞く彼女の肩をあの日と同じように掴もうと手を伸ばした瞬間だった。
岩場に腰かけていた彼女の姿が幻のように消えた。
「え…」
踏み出していた足は止まれず岩場の端から滑る。あっと思った瞬間、僕の体は宙に舞っていた。
いつの間にか波に映る彼女はもう一度口を動かした。
「どうして」
あの日と同じ言葉を、あの日と同じ表情で。違っているのはあの日宙を舞ったのは彼女で、今宙を舞っているのは僕の体で。
三年前のあの日。
別れを告げてすがるように手を伸ばした彼女の肩を僕は押した。ここから落ちたら助からない。知っていたけれど、手が彼女の体を押していた。
宙を舞う彼女の体を僕は見た。結果的に落としてしまったと罪悪感はあったけれども、あれは事故だとされた。事故であるなら自分は悪くないと思って三年間生きていた。
煙のように消えたはずなのに、また岩場に腰かけている彼女は黙って僕を見つめていた。
体が波に沈む直前、かすかに見えた彼女の下半身は魚の姿をしていた。
満月の晩から三日後。一人の男の遺体が沖に漂っているのが発見された。
「あそこの息子が落ちたってよ…」
「あの息子って、三年前に○○の娘をあの入り江で亡くしたとか」
「そうそう。付き合ってたって」
「なんでよりによって昨晩入り江に行ってしまったんだが…」
「きっと彼女に呼ばれたのよ…」
久々の男の帰省に喜んでいた母は遺体が息子であることを知ると膝から崩れ落ち、父は崩れ落ちた妻の背中をさすりながらこう言った。
「だから言ったんだ」
『盆の満月に入り江に行ってはいけない。この世でもう二度と会えない人間が人魚になって迎えに来る』
〈了〉