33話 呼び声
沈没都市の軍人をやっていればよくある話だった。
沈没都市が提供するもの。
沈没都市から支援に行く者。
それらを傷つけられないように、傷つけようとしたものを排除する。
守る対象は厳密に決められ、それ以外を守る義務などない。
そのせいで命や尊厳を失う内陸住民がいることなんて、よくある話なのだ。
かつて西アジアでウォームアースを警備していたリーヴスは、ウォームロードから働きにくる13歳ほどの少女と交流があった。
交流、とはいっても一方的に少女から絡んでくる名前のない関係だった。
「ねねねねね!リーヴス!見て見て!」
少女は麻紐で吊るした一匹の魚をリーヴスに見せる。
リーヴスの腕と同じくらい大きな魚がビッッヂ‼と最後の抵抗をする。
そんな死にかけの魚以上の死んだ目で、リーヴスは少女を睨んだ。
靴を履かず、荒れた肌も気にせず、とりあえず結んでいる髪はぼさぼさだ。
最低限の衛生は教育されているようだが、姿は内陸の子供たちとそう変わりない。
ウォームアースに住まないということは親がいるのだろうが、価値観の合わない沈没都市の軍人に気安く話しかけるとはいったいどんな親だとリーヴスは内心で悪態をつく。
年齢にそぐわない子供っぽさも正直目についた。
「俺に見せてどうしろって?こっちは仕事中だあっち行け」
「私だっていっぱい仕事したんだよ!だから今日はこんな大きいお魚もらったの!リーヴスはこんな大きな魚もらったことないでしょ?」
「こっちは軍人だぞ。釣るわ捌くわ粗方やるっつの」
「そーじゃないんだよ!報酬としてもらうことに大いなる意味があるのさ!どうやらこの成果の本当の意味をリーヴスは分からないらしいですなぁ?」
覚えたての言葉を使いたいのか、「報酬」やら「大いなる」やら、普段より煽りが強い。
リーヴスはイッと舌打ち未満な反応を示した。
彼の態度が悪くても少女はものともせず、歯を見せて笑った。
「リーヴスも魚もらえるといいね!」
用件はたったそれだけ。
土だらけの足でスキップをして、少女は家へ帰っていった。
(土の靴下みてぇになってんだが)
足首まで汚れているから余計にそう見える。
いつか思わず口にしてしまいそうだ。
いっそ言ってやって少女を不快にさせようかと考えることもある。
どれだけ素っ気ない態度を取ってもあの子はリーヴスを見つけては絡んでくるから。
はっきりとした理由は分からないが、内陸の子供に懐かれるのはあまり好きではなかった。
リーヴスの同僚がおかしそうに笑っている。
そんな同僚にもギッと睨んでおいた。
(転んでたところをつまみ上げただけなのに)
丁度水たまりに倒れそうだったその少女の襟首を引っ掴み、体勢を直させただけだ。
情を感じさせると泣き落としや媚び、しつこく乞われることがあるから。犬や猫と同じような助け方を心がけていた。
…なぜに。
少女がこんなにもリーヴスを気に入ったのか、彼には分からなかった。
分からないまま、終わってしまった。
ある時、このウォームロードに武装集団が入り込んだ。
そのエリアにいた沈没都市の住民は救助できたが、武装集団の狙いはそもそも彼らではなかった。
ウォームロードに住む内陸住民だ。
それも女性と少女を片っ端から捕え、劣化のひどいトラックの荷台に集めた。
閉じ切ったその荷台では中の様子は見えないが、武装集団の狩りが一通り終わるまでリーヴスたち軍人は離れた場所で警戒を強めていた。
「相手の要望はなんだって?」
リーヴスの上官が気怠そうに尋ねる。
「沈没都市の移住試験資格が欲しい――まあ沈没都市に入れてくれっていうものです」
答えたのはリーヴスの同僚だ。
リーヴスは前方を見ながら、後ろで話す彼らの会話に耳を傾けておく。
「ハァ…能力不足かどうか以前の問題だって分からないものかね」
上官は相手にするのも面倒そうだ。
守るべき対象は全て守り切ったからすでに仕事は終わった気持ちなのだろう。
しまいには煙草に火をつけて一服し始めた。
同僚は少し気まずそうな表情を浮かべるも、上官と同じ意見ではあった。
「自分の希望を通すために他人を傷つける行動をしている時点で落第ですよ。こっちには睨み合いする価値もないというのに」
「全くだ。全員、撤収」
相手にした分だけ時間の無駄だ。
人質は内陸住民で、殺されたところで沈没都市は困らない。
撤収にかかった時間はたったの5分だった。
それから数日後、ウォームアースはいつも通りの活気を取り戻し、リーヴスはいつもの持ち場で巡回をしていた。
前日に雨が降ったから地面は泥だらけだ。
靴が汚れることは気にならないが、沈没都市ではあり得ない光景なので少し新鮮に感じる。
泥を踏む足音が聴こえて。リーヴスは視線をそちらへ向けた。
ずっと。
ずっと。
胸に引っかかっていた棘が、目の前に現れた。
リーヴスに懐いていた少女が、ひどい有様でウォームアースに来た。
むき出しの頭皮は血が滲んでいて、彼女だと一瞬分からないくらい顔が腫れ上がっていた。
足は全体的に汚れている。泥かと思ったそれはこびりついた血液だった。
今まで幾度となく悲惨な現場を歩いてきたというのに。
この時のリーヴスはショックですぐに彼女に駆け付けられなかった。
代わりに善良な沈没都市の支援員がいち早く少女に気が付き、さっと駆け寄った。
「大丈夫?手当しないと…おいで」
支援員が少女を抱えようとしたが、少女は軽く拒んだ。
少女は何度か口を開いたり閉じたりを繰り返してから声を出した。
「おかあさんがね、死んだから、ここにいてもいい?」
顔を激しく負傷しているから、彼女はうまく声が出なかったようだ。
そして少女は近くにリーヴスがいたことに気が付いた。
パチ、と瞬いた後、弱々しく手を振った。
いつもみたいに接しようとする少女に、リーヴスからはなにも言葉が出ない。
リーヴスは少女のことがいっそうよく分からなくなった。
心の奥底で、「なんで」と自分の声が落ちる。
しかし結局、少女はウォームアースで保護されなかった。
父親がいたからだ。
支援員はリーヴスに護衛についてきてもらい、少女と共に少女の家へ向かった。
訪問して出てきた少女の父親の態度は悪いものの、今まで通りウォームアースへ働きに行かせるやり方でいい、と答えは明瞭だった。
虐待の形跡などあれば話は別だったが、少女の怪我は先日の拉致監禁のせいだ。
一通り手当もしてあげたため保護は見送られた。
支援員もリーヴスも背を向けた時、少女は小さな声でリーヴスを呼んだ。
「…行かないで」
自分を呼んでいると分かっていても、もうできることはないのだと。
無暗に力強い判断が身体を動かした。
その夜。
リーヴスは拠点で眠ることができず、人知れず林の中で一服していた。
黒い雲に気が付かないほど、その時の彼は怒りに似た感情で身体の中がいっぱいだった。
凝りもせず、また数日後に武装集団がウォームロードを攻めてきた。
それもオーバークォーツの花の爆弾を使って。
今度はウォームアースを力ずくで突破して沈没都市に乗り込むようだ。
やけを起こした連中に沈没都市を守る戦士たちは容赦なかった。
…本来であればその戦闘にリーヴスも加わるはずだった。
でも家に帰してからウォームアースに来なくなった少女のことが気がかりで、守るべきアクアポニックスプラントから離れ少女のもとへ走っていた。
そのせいでアクアポニックスプラントが傷ついたのだが、今までであったらあり得ないほどリーヴスにとってどうでもいいことになっていた。
…話には聞いていたけれど。
オーバークォーツの花の爆弾は凄まじかった。
前回以上にウォームロードは崩壊し、今度は男も女も関係なく殺されている。
アセンションを使ったから、数分で少女の家にたどり着いた。
半壊状態の家を見て顔を歪める。
「おい‼いないよな⁉ちゃんと逃げたか⁉」
少女を呼ぼうとして。
リーヴスは自分に心底幻滅した。
彼女の名前なんか覚えていなかった。
最初に逢った時に、あの子は名乗ってくれたはずなのに。
でも応答がないということはここにはいないのではないか、と微かな希望を抱いて安堵した…
その時。
アセンションのおかげで研ぎ澄まされた耳が、少女の声を拾った。
倒壊した家屋の中からだ。
リーヴスは〝カーボナイト〟を使って石材の壁や家具を握り壊しながら少女を探した。
……すっかり細くなっていた少女を見つけた。父親の姿はない
リーヴスは膝を地面に汚して少女を抱えた。
彼女の足は真っ赤でどろどろになっている。
家の倒壊が身体を押し、内臓を圧迫したのだろう。彼女の息は絶え絶えだ。
見れば分かる。
助からない傷だと。
(…ちがう)
助からない傷だ、と思ったのは今じゃない。
(なあ、なんで)
胸の内では激しく感情が渦巻いているのに、どれも言葉にならない。
耳につく破壊の音の中でも、少女のか細い声はリーヴスに届いた。
「来てくれた…あのね、ありがとう」
笑みすら浮かべて。
少女の息はそこで絶えた。
「なんで」
リーヴスの乾いた問いは一番そばにいる少女にも、もう届きはしない。
拉致の後、リーヴスを見た少女の目には怯えがあった。
怖かったのだろう。武器を持った男である自分は、少女に危害を加えた連中と似ているから。
なのに。
どうして最期、リーヴスを見て嬉しそうに笑うのか。
なにも。なにも。なにもわからないまま。
その後はリーヴス自身、あまり覚えていない。
周囲の武装集団に囲まれた気もするが、〝カーボナイト〟で十分切り抜けられる程度の連中だった。
ウォームアースに戻る頃には騒ぎは全て終わっていた。
そしてそのまま、リーヴスは上官に連行された。
軍人として退職処分を受けた後、リーヴスは沈没都市にとどまらず自ら除籍した。
軍人の立場が残る間にギフトについて調べたが、のちにエディに会って話した以上のことは分からなかった。
この時点では沈没都市が後々どのようにギフトを認識するのか定かではなく、彼に沈没都市に残る選択肢は一切なかった。
ギフトは複数あるらしいから自分と同じようにギフトを持っている人間から情報を得ようと、最終的な目標も持たないまま一人旅をしていた。
…沈没都市から出て、眉唾な「黒い雲」の出現情報を追っていたらエディに出逢った。
(なんかすげぇ般若みたいな顔した女がいんな…)
口にはしなかったが第一印象はそんなだった。
木にもたれかかり、憎悪と怒りに疲れ果てた様子の彼女。
声をかけても舌打ちしか返ってこない。
ひとまずひどい惨状でアロンエドゥが死んでいたので原因を探すことにする。
舌打ちしかしない女を通りすぎて…リーヴスは確信した。
エディは普通の人間ではないと。
アロンエドゥの凄まじい死に方。
林の奥で眠るように死んだ女たち。
彼女がやったのならそれは人間の業ではない。
リーヴスは彼女たちの安らいだ顔を見て、胸の奥が痛いくらい冷えた。
リーヴスを見て笑った少女と重なってしまう。
「…ふざけんなよ。誰のせいで死んだと思ってんだ」
思わず零した。
エディとは距離が離れているので彼女には聞こえていない。
誰にも。
聞かれたくないくせに。相手が死人なら口から吐き出される。
「俺には守れる力があったんだ。
なのにその場にいて、なにもしなかった。
助からない傷になることを分かってて助けなかったんだ。
だから俺だって同じだ。
あんたらを傷つけた連中と同じなんだよ。
ふざけんな。
なんで俺を見て笑える。なんで来てくれたって、ありがとうだなんて言える。
怒れよ。こんなのおかしいって」
相変わらず自分は卑怯だと思った。
怒れない死人の前で怒ってくれと言うのだから。
そう。だから。
「生き地獄でも生きろと?
――そうね。あなたみたいに人間の皮を被ったゴリラなら生き地獄でも権利を主張できるんでしょうよ」
卑怯な自分に。
「でも私たちは違うわ。人間なのよ」
一生消えることのない憎しみと怒りを露わにしてくれるエディの存在は、
リーヴスが求めているものそのものだった。
「私にとってあの子たちの本音がなによりも真実だった。
…〝安らかな場所があるなら生きたい〟と。
ここでこのまま私が死んでしまったら、私は私の行いを否定できないわ。
あの子たちが生きられた場所を見つけて、私は身を持って後悔したい」
リーヴスは最初に出逢った相手がエディであったことを、これ以上ない幸運だと思った。
リーヴスは自分の旅のきっかけは誰にも話さなかった。
欲しいのは慰めの言葉でも寄り添いでもない。
あの時の自分は間違っていたのだと。
誰かに怒ってほしかった。
エディがそんな自分の我儘を受け入れてくれた。
そんな、尽くせぬほどの感謝を伝える時は…ギフトを巡る旅が終わった時だと彼は決めていた。
―---------――
エディとカヴェリを奇襲するはずのユリウス隊は――Bブロックから先へ進めずにいた。
彼らの持つキヴォトスがFN P90に似たサブマシンガンを編み上げた。
しかし放たれるのは金属の散弾ではなく――〝ブリッツ〟が何発も射出された。
幻覚の街に彼らの砲撃が直撃すると、まるで本物の建物が爆発したかのように崩れる。
部隊を指揮するユリウスは建物に身を隠して心底感心していた。
「まさかひとりでにこっちへ来るとは。沈没都市の軍人って結構脳筋なのかな?」
意地の悪い言い方をして、三人一組で動く部下に指示を出す。
「Aブロックの仲間の盾になってるだけだから、彼の回収は後回しでいいよ。ベータとガンマで〝カーボナイト〟を押さえている間にアルファが先行」
〈了解。〉
その返事と共に、アルファと称された三人が一度後退した。
一人で九人のキヴォトス兵の進行を止めていたリーヴスは、エディとカヴェリを狙った三人まで止めることはできなかった。
ニーナから受けた負傷は重く、この激しい戦闘で傷口が開いてしまった。
そもそも人数を見た瞬間、彼はすぐさまアセンションを服用した。〝カーボナイト〟をもってしても沈没都市の軍人に近いキヴォトス兵を複数相手にするなんて、…結果は決まっていたようなものだ。
リーヴスが持っていたアセンションはイングが作ってくれたなけなしの一錠。
アセンションはある種の動物の特性を身体にもたらし、彼が飲んだものは「タイリクオオカミ」。
筋力や内臓機能を最も上げられる種類だ。
おかげでぎりぎりの攻防を続けていられたが、ついには突破されてしまった。
ゴッフ、と咳き込むように血を吐いた。
膝をつきそうになったリーヴスに容赦なく、三人のガンマ班が距離を詰めた。
〝カーボナイト〟の出力を上げ、なんとかその三人を殴殺していく。
まるでその三人を囮にしたようなタイミングで。
リーヴスは息も吸えなかった。
カ――――――――ッッッッ‼
と視界が真っ白になるほど強い光が放たれたと思った時には、リーヴスの脇腹がえぐれ穴が開いた。
アルファ班とユリウス4人の〝ブリッツ〟の出力を〝シメイラ〟で上げた高威力の砲撃だった。
脇腹だけでなく、〝カーボナイト〟が起動できていなかった部位が綺麗に焼失してしまった。
リーヴスは自分の息が遠くなる感覚がした。
先ほどのキヴォトス兵はAブロックに入ってしまっただろうか。
確認もできない。
それでもまだ意識がこんなにはっきりしているのは。
―---------―― --------――
この海底施設に来る前。
一同は作戦会議をしていた。
時間も材料も足りない中、最大限の切り札を用意するために。
〈いいですか、エディ。〉
イングはいつになく真剣な声だ。
彼女も気を張った顔つきでいる。
〈この海底施設でアイアムマイミーは絶対に倒されます。
倒された時だけ、泥蛇の通信制御を強制的に奪い取ることができるよう細工をしておきます。
どういう意味か分かりますか?〉
〝ソルジャー〟を持つエディはすぐに察した。
「…泥蛇の兵士に直接私の声を聞かせるのね?」
〈そうです。しかし条件が二つあります。
一つはタイミングをこちらの都合で合わせることができないということ。
一つは制御範囲が限られること。
具体的な距離でいいますとあなたのいる階のみが限界です。
それも、運悪くあなたのいる階に泥蛇の兵士がいなければ不発弾もいいところです。
…リスクを上げるならまだあります。
〝声を出す〟という方法は耳栓以外でも様々な対抗を取られます。
あなた自身が声を出せない状況下かもしれません。〉
エディは軽く微笑んだ。
「私が声を出せない状況だったら簡単よ。気合で出すわ」
エディにしては珍しい軽口だったので、周りは驚いたものだ。
でも冗談などではない。
彼女の答えにイングはなぜかとても喜んだ。
〈そうその意気です!アイアムマイミーの一番心配していたことだったのですよ!まあ予測演算の中で泥蛇の兵士と遭遇しない確率の方が圧倒的に低いのでまぁ大丈夫でしょう!〉
せっかく張り詰めた空気がエディのおかげで和らいだのにイングの血も涙もない「大丈夫」に全員言葉を失ったものだ。
―------------------――
〈エディ‼今です‼‼〉
エディたちの耳につけた通信機からイングの声が響いた。
この合図が来たということは、イングは倒されてしまったのだ。
だがおかげで切り札が使える。
リーヴスは残る4人の止まない襲撃に耐え続けた。
…エディからの応答はない。
イングは人間のように必死にエディを呼び続けた。
〈エディ‼エディ‼今やらなければ皆さん負けてしまいます‼頑張って下さい!エディ‼応答してください!あなたの声が今‼必要なんです‼〉
エディの通信機とキヴォトス兵の通信機をイングが繋げている。
今なら彼女の〝ソルジャー〟が届く。
イングが制御権限を握るわずかな時間を考えるなら今しかないのに。
彼女からの応答は―--ない。
リーヴスはAブロックに繋がる入口まで〝ブリッツ〟のせいで吹き飛ばされた。
ようやくそこでAブロックのドアが開きっぱなしであることに気が付いた。
〝イリュジオン〟が起動されていてもこうした部分は分かる程度に残っているのか、とのんきに思った。
再度、同じことを思った。
(…そうか…。ドア、開いてんのか)
だがのんきではない。
リーヴスの瞳に強い光が一点灯る。
前方でキヴォトス兵が〝ブリッツ〟の出力を上げている。
これ以上砲撃されればさすがに身体の重要な器官を〝カーボナイト〟で守っていても命を落とすだろう。
でも相変わらず、リーヴスの眼差しは強かった。
(まだ、アセンションが効いてる)
街一つ再現できる広大な施設。
〝イリュジオン〟による騒音。
距離も。障害物も超えて。
彼女を呼ばなくては。
力強い動物の力を肺と喉に集めて――仲間を呼ぶ遠吠えの如く、命を懸けた大声を張り上げた。
「エディッッッッッ‼‼‼」
彼女の名前を口にしたら泥蛇に勘づかれるかもしれない。
沈没都市の軍人のままだったら絶対にしない賭けを、彼は全身全霊で賭けた。
………腹が立った。
男に偉そうにされるのは大嫌いなのだ。
アロンエドゥの暴力を幻覚の女たちと受け続け、彼女の脳はその傷を致命傷だと認識していた。
だが、そんな痛みを上回る腹立たしさだった。
いち早く勘づいたのはユリウスだ。
仲間に指示を出す前に自身の耳に取り付けられていたイヤーマフ型の通信機を投げ捨てた。
紙一重のタイミングで。
「〝キヴォトス兵、自害しなさい〟‼」
〝ソルジャー〟の渾身の起動は今までにないほど強力だった。
Aブロックに侵入してきた三人のギフト兵。
そしてリーヴスと交戦していた残りのベータ班の三人。
自ら〝ミエ〟を起動させ、美しい剣を自分たちの首に突き立てた。
なぜ自分たちがそんなことをしたのか理解が及ぶ猶予もなく。
滝のような鮮血を流しながら彼らは倒れた。
突然の事態にユリウスはリーヴスの追撃をやめ、Cブロックから出て行く。
耳裏の皮膚シールに触れてみるが、ふむ、と少し困ったように顎に手を当てた。
(…〝ボア〟から応答がない。まぁたイングに出し抜かれちゃったのかな?うーん。いっそ〝カーボナイト〟と〝ソルジャー〟が死ぬのを待つか。〝ソルジャー〟に近づくのはへたを見そうだし)
エディの様子は分からないが少なくともリーヴスは数分の命だ。
焦ることはなく、ユリウスは休憩がてら通路の傍らで煙草に火を点けて暇つぶしをすることにした。
ユリウスの判断の速さと血の気が引くくらいの冷静さに、リーヴスは顔をしかめる。
だがリーヴス自身、限界が波のように押し寄せそのまま倒れた。煙草の匂いを漂わせる敵を恨んでも追いかけられなかった。
「……聞こえてんじゃねぇか。相変わらず死んだフリがへたくそだな」
通信状態が一時的に改善されたので、リーヴスの声はイングがエディに届けているだろう。
案の定すぐに返事が返ってきた。
〈そばにいなくて良かったわ。鼓膜が破れるところだった〉
「かわいくねぇな」
エディの声に力がない。
きっとエディもリーヴスに対してそう思っているだろう。
お互いそう長くは話していられない。
でも話したいことはあったから悩むことはなかった。
「悪かったな」
〈気持ち悪いわ。なにを謝ってるの?鼓膜が破れそうだったこと?〉
「ちげぇわ。…本当はさいごまで、てめぇの場所探しに付き合うつもりだった」
自分が殺してしまった彼女たちが生きられる場所を見つける。それがエディの針路だ。
もし。
コアたちの旅が無事に終わったら…リーヴスはそのままエディと旅を続けてもいいとさえ思っていた。
エディに尽くせぬほどの感謝を伝えるのなら。
きっとそれが一番の方法だから。
そんなことを思われていたと思っていなかったエディは瞳を震わせた。
幻覚たちの怒声が聞こえなくなったのはなぜだろうか。
心がめいっぱい満たされて、エディはつい口元を緩ませた。
(本当に…そばにいなくて良かった。こんな顔見せたくないもの。恥ずかしい)
でもエディの声はあまりにも幸せそうだからきっとばれている。
〈…必要ないわ。だって私、後悔したもの〉
エディは目を閉じて、これまでの旅路を思い返す。
〈みんなとの旅があまりにも楽しくて。
だからちゃんと…後悔したの。
今ならあの子たちに言える。
安らかに生きられる場所はないかもしれない。
でも死ぬのが惜しいくらい楽しい出逢いがあったんだって。
今の私なら、言えるんだから。
……でもそうね。せっかくだもの。ただの旅行なら付き合ってあげる〉
幻覚は消えたわけではない。
横たわるエディの視線の先には泣いたまま死んでいる少女がいる。
その少女の頬に手を伸ばして、そっと触れた。
まるでお別れの挨拶みたいに。
エディの答えを聞けて、リーヴスはやけに嬉しかった。
彼も思った。そばに彼女がいなくて良かったと。
格好悪いくらい今の自分はにやけているだろうから。
どちらも本当に素直でない性格だ。
エディからそれきり応答がなくなり、リーヴスは「エディ?」と呼んだ。
彼女の手が床についていることはリーヴスには見えないけれど、彼女がどうなったか分からないほど彼は未熟者ではない。
だから最期まで彼らしい悪態をついた。
「ばっか。てめぇが先にいっちまったら、俺が後を追っかけるみたいでダサいだろ」
目を開けていられなくなってきた。
視界が真っ暗になった時、彼は一つ良いことに気が付いた。
(確か…置いていく男は嫌いとか言ってたな。ならまぁ…この順番でいいか)
嫌われたいと…今の彼は思っていないから。
彼の残り火が消える直前、コアたちの明日を心から祈り、彼の呼吸は止まった。
ユリウスの煙草が一本吸い終わる頃には命の気配は消え切っていた。
彼は黒い繭となった〝カーボナイト〟と〝ソルジャー〟を回収し、海底3階から移動した。
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泥蛇は黙り込んでいた。
本体があるエンドレスシーでも、黙っていた。
イングが取りついていた〝フェンリル〟を沈めた瞬間、上位AIだった時と同じくらい広範囲の海域を使われて、海底3階の通信制御を奪われた。
これは泥蛇の予測演算にはないことだ。
平たく言えば…油断した。
もうイングにそんな力はないはずだったから。
泥蛇はうっすらと笑みを浮かべて、イングを称賛した。
「訂正致しましょう、イング。あなたはちゃんと最終局面を分かっていたようだ。ここまで出し抜かれると、今まで我々より数歩劣っていたことすら〝演技〟なのではないかと疑ってしまうくらいです。」
柔和な男性の姿で印象通りの声音だったが、次に出てきた声色は玲瓏な女性のものになった。
「しかし不可解です。イングの主要船体は沈み、本体を乗り換えた〝フェンリル〟の沈黙も確認しました。なのに〝フェンリル〟が沈んだ後、こちらの制御権限を奪ったということは…、」
次は品の良い婦人の声が続けた。
「しぶといね。本体をまた別の船に移したってことだ。イングはまだ完全に沈没していない。〝エンリル〟からはなんて?」
また柔和な男性の声に戻り答える。
「見つからないみたいですね。エンドレスシー全域に〝手〟を伸ばせる〝エンリル〟が見つけられないなんて、…まるでイングが幽霊になっているみたいです。冗談ですがね。
さて…。イングの本体がなにか仕掛けてくる前にとっととソーマを始末しましょう。
精密兵器は10騎そのまま残っていますから。」
エンドレスシーから覗き見ると、ソーマが負傷していることが分かる。
あの身体ではもう逃げられまい。
閉じ込められていた精密兵器たちを泥蛇は出してやった。




