30話 三日間の休息
イングの性能落ちもあり、目的地の海底施設まで3日かかることになっていた。
それぞれ、可能な限り回復と準備に時間を費やした。
重傷のリーヴスは医療部屋へ。
負傷したペトラは女性部屋へ。
サラは軽傷だったのでエレナとエディと共に女性部屋や食堂で過ごしていた。
ソーマは相変わらず管制室でイングとなにか話している。
「……で」
培養細胞を使った治療を受けていたリーヴスは、医療室でカードゲームをしているカマとヒヨリに声をかけた。ベッドに横たわり、少し苛立った様子で。
「なんでテメェらここにいんだよ」
「潜水艇って一つ一つの部屋が狭くてやってらんないわネー」
「でもこのファイナルヴィークル特殊大型潜水艇っていうイングの潜水艇はでかい方だよ?大きさだけなら潜水艦みたいなもんだし」
リーヴスの質問を聞いているようで聞いていない二人のやり取りに、リーヴスは額からこめかみに青筋を浮かべた。
「こっちは深手なんだぞ。よく隣で遊べるなぁ?しかも一人は沈没都市出身じゃねぇか。善良性をどこに置いてきやがった」
ヒヨリはリーヴスに振り返って悪戯に微笑んだ。
「ちょっとちょっと。私をワルにしたのはリーヴスでしょー?これでも沈没都市では成績優秀・品行方正のかっこいいヒヨリさんで有名だったんだから」
「ヒヨリぃ。そこはワルいことを身体で教えられたって言うところヨ?事実をいかにいかがわしく言えるか、オトナの魅力ってそうやって培っていくのヨ」
「ヒヨリをワルにした悪因がそこにいんじゃねーかよ。…ったく。テメェらはいつそんな仲良くなったんだよ」
ケッと吐き出すようにリーヴスは言い放つ。
プププークスクス、と笑い合うヒヨリとカマが、かつては何度も――ギフトを使ってまで――殴り合ったとは思えまい。
ほとんどリーヴスが仲裁に入っていたので彼が疑うもなにもないが。
「…今のテメェらが喧嘩しても、俺だけじゃ止められねーからな。仲良くて助かるよ」
荒っぽかった彼の口調が少し、弱まった。
意識を取り戻した時、オーウェンとイルファーンの死亡を彼は聞かされた。
「そうか」と短い反応を示した後、ペトラとサラが無事でいることに心底安堵した顔を浮かべていた。
「よくもまあ、一番へなちょこキースが生き残ったな」
リーヴスは頭の下に両手を組んで、小さな感心を漏らした。
ヒヨリとカマが一度目を合わせ、ヒヨリは目を座らせて「ちょっと口閉じててよ?」と無言で示す。
カマはぷく、と頬を乙女のように膨らませて口を尖らせた。拗ねた顔をしているがそのまま黙るようだ。
ヒヨリはカードを伏せて、リーヴスに振り返った。
「マナちゃんが助けに行ったんだって。イングの信号戦があんまりにも激しかったせいで、こっちの潜水艇の制御システムが一時的に緩くなってたみたい」
「護衛でテメェら置いてった意味がねーじゃねぇか。俺が元気になったら二人とも締め上げるからな」
「…。〝ペガサス〟と〝クリュサオル〟の攻撃を受けて、イングが一度こっちの潜水艇の制御を手放したの。だからソーマと私で潜水艇を乗っ取られないようブロッキングしてたら、カマが応援に行くって言いだして」
「そん時にゃもう、あのロリ娘は昇降ポッドを使ってたのヨ」
すぐにしゃべりだすカマに、ヒヨリは諭すような視線を向ける。マナに対してキツい物言いをしないように、という釘差しであることはカマに伝わっている。
私情は挟まない言い方を彼なりに気を付けた。
「…キースが言ってたワ。自分は全員に守られて生き残ったって。あのマナって子のおかげでもあるらしいわネ」
棒読みだが、ヒヨリは「それならよし」と軽い微笑を浮かべる。
リーヴスは静かに「そうか」と返す。
「キースが会いたがってた奴だもんな。気ぃ遣って、テメェらはここにいるワケか」
二人のことを鬱陶しいと邪見にしていたが、リーヴスは納得した。
きっと今頃、キースとマナが会っているだろうから。
―――---――
潜水艇には海中の様子を見られる場所がある。
大人が二人並んで座る程度にしかないスペースだが、研究用として作られた重要な場所だ。
海中を照らすライトは点灯されていないので真っ暗だ。たまに細い七色の光を放つクラゲが通り過ぎる。
あの後。
先に切り出したのは――マナの方だった。
「…ヒヨリから聞いたけど、〝ボア〟に保護される前の私を知っている人っていうのは、あなた?」
ソーマたちと計画を練った後、一旦休憩を取ることにした。
周囲のメンバーは少し驚いた顔をして、キースを見る。
周りの視線がやけに集まる中、キースは頷いた。
視線がない方が話しやすいかと思ってこの海中窓部屋へ連れてきたが、なんとなく、気まずい空気が流れていた。
どこから、なにを。
考えていなかったわけではないけれど、キースとしてはとても悩んでいた。
マナには…姉と思われる少女がいた。そのことまで話すのか、など。
(こんなモジモジしているところをイルファーンに見られたら…丁寧に諭されそうだ)
そう思って、……そんな日は二度と来ないと胸が痛くなる。
「…その目」
いくら待ってもキースが切り出さないせいか、マナの方から口を開いてくれた。
キースが狼狽えながらマナへ視線を向けると、特に彼女が苛立っている様子は無かった。
相変わらず、空虚な眼差しをしている。
「あなたのその目。見たことある気はする。同じような感覚で、〝宝石みたいだな〟って思ったから」
「…俺は、もともと沈没都市出身で、その時培養移植してもらったんだ。G-g技術で。…まぁすぐに成績落ちでウォームアースへ移動になったんだが」
キースは一つ息を吸って、心拍を落ち着ける。
「そこで、君に逢ったんだ」
マナはひとつ瞬いた。
(…私は、ニーナと逢う前の私のことを知りたいんだろうか)
彼は、なにか知っているのだろう。
マナの過去に関することを。
でも自分の様子をここまで注意深く窺って言い出さないということは、あまり美しいものではないからだとマナは察していた。
(内陸の生まれであることは確かだもんね。良い環境でないことなんか珍しくない)
育てられないと親に捨てられたのかもしれない。
命からがら、一人でなんとかたどり着いたのかもしれない。
そんなことを、自分は知りたいのだろうか。
マナは自分に何度も問い直して――……相変わらずつまらない答えが出てきた。
「私は多分、聞きたいと思っていないのかも。忘れたままでいい、って思ってる」
本音に近い言葉はこんなにもなにも持たない。
今の自分が絞り出すものは全部。
呆れられると思っていたが、キースはすんなりと受け入れた。
「そうか。分かった。…それじゃあ、俺が嬉しかったことだけ伝えてもいいだろうか?」
本当に。嬉しそうな気持ちが滲んでいるものだから。
マナは彼のそんな気持ちに引っ張られるように視線を彼へ向けた。
キースのその時の表情がどこか。河童流未に似ていた。
同じ感情を自分に向けていると見て感じても、その感情の名前が分からない。
「君がいたウォームロードの施設で俺は職員として働いていたんだ。…君はあまり他の子と遊ばなかったから、君の前で俺が絵を描いてみたんだ。そしたらね、君は俺が描いた絵を褒めてくれた。それがすごく嬉しかったんだ」
「…そんなこと?」
冷たいくらい彼女の言い方は素っ気なかったが、キースははにかんで笑った。
「きっと聞いた人みんな、君と同じ反応をするだろうな。でも本当に、ただそれだけで…俺は生き直しをしたんだ」
「生き直し」
キースの言葉をそのまま繰り返してみる。でもやはり共感できなくて小首をかしげた。
「そう。生き直し。…ずっと絵を描くことが好きだったんだが、針路調査では社会に活かせるほどの才能ではないと結果が出てしまって。
誰にも褒められないし、評価もされない。
だから一番好きなことをやりたいと言えなかった。
ひっそり隠れて頑張ってみることもしなかった。……というのは結局針路調査を全ての言い訳にしていたからだろうな」
「そう、かな。沈没都市の針路調査は〝証明〟といっても過言ではないもの。〝無価値だ〟と結果が出れば諦める理由には足りると思うよ。…それがFageだもの」
「そうだな。俺もそう思っていた。実際、描き続ける方が周りに迷惑をかけたのかもしれない。役に立つ能力を育てず無価値を貪ることは、沈没都市にとっては公式な罪になるから」
不確定な可能性に賭けるなら内陸でやってくれと。
それが「成績落ち」に対する沈没都市の返答だ。
キースは乾いた笑みを浮かべる。
突き詰めると合理性とはどうして冷たい考え方になるのだろうか。間違ってはいないのに、どうにも甘受し難い。
「でも好きだったのなら、内陸で一から頑張ればよかったんだ。
自分の能力不足を言い訳にしていればこれ以上自分を嫌いにならなくて済むと、惨めに逃げていた。
それまでの俺はとにかく自分を嫌うことで自分のことを守っていたような気がする。嫌いになりたくないのに矛盾していておかしいな。
…けど俺は君に逢えてようやく、〝頑張れる場所に来たんだ〟と一歩進むことができた」
「私は…覚えてないよ」
「分かってるよ。でも君にお礼がずっと言いたかったんだ。……ありがとう」
マナは少し視線を落とした。困った気持ちと、名前のつかない気持ちが身体にまとわりついているみたいだ。
どういたしまして、とは出てこない。覚えていないから。
だから正直に思ったことを伝えた。
「…不思議だね。たった一言だけなのに」
「本当に」
二人はそろって、海中窓の方へ顔を向けた。
また細い七色の光を揺らめかせたクラゲが横切る。
そんな空気をぶち壊すように、海中窓部屋の扉がシュン!と収納された。
〈テレレティレッティレッテッテッティレッレレレティラッティラティラァ(Rag Time On The Rag)〉
間抜けな歌声と共に海中窓部屋に入ってきたのは、食事を乗せた自動運搬ワゴンだ。
イングが二人に食事を届けに来たらしく、スパイシーな香りと湯気が充満する。
マナは目をゆっくり瞬かせ、「これ、日本のカレールーじゃない?」とイングに尋ねた。
すると、ワゴンに取り付けられた操作パネルにイングの姿が映し出された。
わっと両手を振っている。
〈そうですそうです!ヒヨリとカマが日本に上陸している時、買い出しもお願いしておいたのです!日本の保存食はとっても美味しいですから!ちなみにたんぱく源は先ほどアイアムマイミーがアームでぶん殴ったアジを使っております!新鮮で美味しいですよ!〉
パネルでインディアンな踊りを披露するイングをそっと無視して、キースはマナにスプーンを渡した。
「よく匂いで分かったな?〝ラダル〟か?」
キースの質問に、マナは子供のように頬を赤らめた。
「…七草学園で使ってたものと似ていたから」
「そうか。好きなメニューだったから覚えてたんだな」
「…兵士ならなんでもかんでも覚えておくものだよ」
「ふふ。そうだな」
「そうだよ」
子供っぽいと思われるのは癪なようで、マナはスプーンを受け取るとそっぽを向いた。
カレーライスの載ったトレイを受け取り、ぱくぱくと食べていく。
キースは年相応、というかやっと人間味のある彼女の一面を見られて内心ホッとする。
(…これ以上、俺が過去のことを彼女に話せることはないな)
本当は。
お礼だけではなくて、彼女に謝りたいこともあった。
でもそれを話すにはギフトが宿った時のことを話さなくてはいけない。
ウォームアースに来た経緯を聞きたくないと彼女が言うのであれば、彼女にとって思い出したくない期間というのはギフトが宿った時まで含まれるかもしれない。
キースもカレーライスを食べる。
少し辛くて、でも魚のくさみをうまく消してくれている。豚肉とはまた違う脂が食欲を刺激してくる。
美味しいと思って食べながら、キースは彼女への謝罪を胸の中にしまうことにした。
―――-――----―――――――――ー
あの日。
〝フラム〟と〝フォア〟が宿った日のこと。
暑いくらいの晴天だった。
それが完璧に太陽が真っ黒な雲に隠れ、住民が怯えた瞬間。
アロンエドゥ達がウォームロードエリアに入ってきた。
運悪く、近くにアロンエドゥがいたらしく、彼らにとっては幸運にも「魔法のような武器」の出現に居合わせたのだ。
「ウォームアースに逃げろ‼あそこの建物にさえ入れれば〝トンボ〟と精密兵器が守ってくれる‼」
保護施設の誰かがそう叫んだ。
しかしその指示は無造作に放り投げられるオーバークォーツの花の爆弾によって行き届かない。
やがて黒い雲が晴れて、空気を読めない晴天が戻ってきた。
建物が横殴りに壊される騒音と悲鳴と銃撃。
明るい空がそんな地獄を笑っているみたいだ。
キースはマナの手を引っ張ってウォームアースへ向かっていた。
道中、恐ろしい光景が何度も目に入る。
殺しだけでは終わらない。生かされながら殺される、惨たらしい悲鳴と絶叫があちこちで上がっていた。
キースは一度半壊した建物へマナと共に隠れた。
ウォームアースまであと少し。だが発砲音がやたら多くなった。身を隠せる所から状況を少しでも確認したかった。
建物の影からほんの少し顔を出す。
(…アレは…沈没都市の軍人…か?)
それは明らかにアロンエドゥ達とは違う装備だった。
建物を盾にしたり、狙撃らしき攻撃があったり、動き方が一般人とは全く違う〝誰かたち〟がいる。
何人いるのか、彼らは敵なのか、それによっては次の判断が変わってくる。
このままウォームアースへ突っ走った方が生存率が上がるのか。
悩んでいた時。
「誰か…来る」
そう呟いたのはマナだ。
本人もなぜそう思うのか分からないようだが、彼女の感覚は正しかった。
キースが辺りを見渡そうとした時には、――すでに二人は泥蛇の兵士に囲まれていた。
キースとマナは泥蛇の兵士たちに連れられ、トラックの荷台へ押し込まれた。
幽閉できるように細工されているため、中からは開けられなかった。
キースは薄暗い荷台になにか脱出できる〝隙〟はないか、必死に手探りで探していた。
すると、小さいが外から泥蛇の兵士の声が聞こえた。
「急げ。〝笛持ち〟が近づいているとルカが言ってる。ユリウス隊は追ってきているアロンエドの始末へ戻れ。グレックは〝フォア〟と〝フラム〟を積んだトラックを運転。あたしが一台目で誘導する」
これは女の声だ。
指示された人物たちのほとんどが男性で、とりわけ彼女の声は目立った。
彼らの行動は速く、トラックにエンジンがかかった。
「まずい…まずいまずい…。どこに連れて行く気だ」
キースは彼らの目的が分からず、それゆえに恐怖した。
すでにトラックは走り出している。会話からして彼は小隊を組んで動いている。アロンエドゥ達以上に、手ごわい相手だと思った。
とりあえずマナの傍へ戻って来ると、彼女は膝を抱えたまま微動だにしていなかった。
「マナ…大丈夫か?」
「…」
声をかけても、彼女は瞬きするだけの人形のようだった。
キースは必死に声をかけ続ける。
「マナ、なんとかして逃げよう。事情もなにも話さずにこんな風に連れて行くなんて、絶対におかしい。…君に逃げる意志がないと、きっと逃げられない。怖いかもしれないけど、頑張ろう」
マナは自分の手をぎゅ、と握る。
前髪の影を映した瞳は暗く、彼の言葉に反応することはなかった。
キースはぐっ、と噛みしめて下を向く。
(…なんて言葉をかけたらいいのだろうか…。この子は多分、過去の傷だけでなくて周囲の状況もちゃんと見れている。抵抗した分だけ怖い思いをすると、分かっているんだ)
アメジスト色の瞳を一度閉じる。
自分の身体の中になにかいることを。
もうわかっていた。
無力ではない。
か弱い少女と共に俯いて何もしない理由なんてないのだと、自分自身を奮い立たせる。
キースはマナの頭に手を軽く置いて、一つ断りを入れた。
「…これからこのトラックを止める。きっと隙が生まれるはずだから、そうなったら逃げよう」
根拠があってそう言っていると、マナにも分かった。
顔を上げてキースの様子を窺うと、彼はマナをしっかりと抱きしめ、空間の隅へ身体を寄せた。
そして。
〝フォア〟を起動させ、自分たちを乗せるトラックを停止させた。
ざーざーと音を立てる雨が降っている中。
彼らを乗せたトラックは山道を走っていた。
一台目の運転手はニーナだ。助手席にはルカも乗っている。
二台目の運転手はグレックという泥蛇の兵士。このトラックにキースとマナがいる。
三台目の運転手も他の泥蛇の兵士が務め、数人の兵士を乗せていた。
その二台目のトラックが、〝フォア〟によって急停止させられた。
ブレーキがかかったわけではなく、時間が止まったようにトラック全ての動きが停止する。
グレックがアクセルやブレーキを確認する暇もないまま、後ろから三台目に衝突された。
〝ラダル〟によって異変をいち早く察知したニーナはアクセルを踏んで後続車の玉突きには巻き込まれなかったが、二台目のトラックは斜面へ横転し、そのまま落ちてしまった。
「……全体像が見えてなくても効果範囲内だったか。〝ボア〟め。甘く見たな」
ニーナはバックミラーから転げ落ちる二台目を見ながらそうぼやく。
隣ではニーナが急にアクセルを踏んだため咄嗟に頭を下げていたルカが「びっくりしたぁ」と能天気に呟いている。
ニーナはそんな彼に「悪い奴らの気配がしたらコレで連絡」と耳に取り付けた通信機を指さした。
少し冷たいニーナの態度にルカは頬を膨らませながら「はぁい」と返した。
滑落して木に衝突したため、トラックの荷台が歪んで外が見えていた。
いつの間にこんなひどい雨が降っていたんだろうと、キースはぼんやり思った。
しかしそれは一瞬で、無事ならばすぐに動き出さねばと飛び起きた。
腕の中にはマナがいる。
キースの服にしがみついていた彼女は、恐る恐る顔を上げた。
キースは少し腕を開けて、なるだけ優しい声音でもう一度。
マナへ声をかけた。
「…出られるよ。行こう」
彼女の頭を撫でていた手で、彼女の小さな手を握った。
その手を引いて立ち上がらせようとした。
でも。
彼女は腕を引っ込めてキースを拒んだ。
「……もう……いい…」
今にも消えてしまいそうな声で、マナは言った。
引っ込めた手で自分の身体を抱きしめる。
「もういい…。私、もう…がんばりたくない」
泣くことを思い出したように、彼女の瞳から大粒の涙が流れだした。
キースは片膝をついてなんとかマナと視線を合わせようとする。
内心では追手がいつ来るか分からない焦りでいっぱいだった。
(相手はプロだ。とにかく早く、早く逃げないと――‼)
マナを無理やり抱えて走ってなど逃げ切れない。
彼女にも自分の意志で走ってもらわなければ。
「…マナ。頼む。今なら逃げられる。きっと。一緒に逃げよう。一人じゃない」
「いつまで?」
泣いて震える声は絶望に満ちていて、どん底から聞こえてくるような遠さだった。
「こわいことから逃げるのはいつまで?
安全な場所だって…一緒だよって言われたあそこだって、違った。
この次はどこ?
こんなに身体は重いのに…走れないのに…
どこに行ったら、私はもう、寂しくないんだろう」
彼女のこれは…キースに問いかけているわけではないのだろう。
キースだって安全な場所なんて知らない。正直、マナの言うウォームロードすら、沈没都市出身のキースにとっては安全な場所なんかではないのだ。
自分の知りえる希望のある言葉では彼女に届かないのだと、悲しいくらい痛感する。
ここにいたのが自分ではなくて。
彼女の心に触れられる誰かだったら。
キースは少しずつマナから離れていく。
これ以上ここにいては、自分のことも守れない。
絞り出せる言葉は一つしか残っていなかった。
「すまない」
助けられないと。
完全に心が諦めてしまった。
キースはその言葉を言い残して、――雨音の激しい外へ、出ていった。
一人で逃げるならどうしてこんなにも。
雨の中だろうと速く駆けていけるのだろうか。
振り切るように走っていたから、濡れた斜面に足を取られたら落ちるように滑った。
視界が滅茶苦茶に回る。木や岩にぶつかれば死んでしまうと恐怖した時。
――――――バン‼
となにか大きな面が広がる音がした。
それは〝カタム〟によって巨大化させた木の葉で、キースはそれに包まれてなんとか止まることができた。
うっすら目を開けると、そこには夕焼け色の瞳と褐色肌が特徴的な少年がいた。
「ギフト持ちですね?そんな波動を感じます」
意味の分からないことを言う少年だ。
けれどキースは自己嫌悪に苛まれながら少年にすがった。
「もう一人…いるんだ…。置いてきて、しまった……」
だから助けてくれないか、という意味だと、少年はすぐに理解した。
キースが落ちてきた方向へ視線を向ける。
イングの解析によれば今回、泥蛇は小隊をいくつか編成しているそうだ。
今までのように乱戦であれば戦略次第で乗り切れる可能性はあるだろうが、戦術的にプロの部隊を使われてはこちらが圧倒的に不利だ。
キースの心境が共感できるから、とても心苦しいくはあったけれど。
イルファーンは身体をもとの大きさに戻しながら、キースの身体を支えて立たせる。
「すみません。ギフトの気配を追って俺が先んじてここに一人で来ています。…今は助けに行けません。俺のせいにしていいから、このまま走って下さい」
いきなり自分と近い目線になった相手にキースは絶句する。
そして力の強いイルファーンにそのまま運ばれるように、彼はコアたちと合流することになる。
―――――――
……そして3年ほど経って。
こうしてキースはマナと再会した。
少し驚いたことは、あの時思っていたよりマナの年齢が大きかったことだ。
ウォームロードに来た時の彼女は今より小さく、瘦せていたのもあって10歳くらいに見えたものだったから。
今の彼女は落ち着きのある雰囲気があって16~18歳くらいに見える。
…ただあの時と変わっていないのは、諦めきっているその瞳だ。
泥蛇やニーナに切り捨てられた悲しみや怒りもなく。
サクタを殺された憎しみも抱けず。
自由になっても喜びや希望も彼女の中には生まれない。
(マナ。俺はね)
隣でアジのカレーを食べるマナに視線は向けず、キースは心中で零した。
(一度君を見捨てたくせにあの時の願いは薄れないんだ)
打ち明けたのはイルファーンくらいだ。
キース自身、こんな願いがエゴであること、よくわかっている。
(……〝それでも〟。俺は――……君の笑顔を取り戻したいんだ)
―-------―-―――-――
キースがマナと逃げることを諦めた後のことだ。
マナはずっとトラックの隅にいた。
内側にいても分かるくらいトラックは歪んでいて、その隙間から勢いよく降る雨筋が見える。
あんな雨に当たったら痛いだろうなと思いながらぼんやりしていると、うっすらとしたその光が閉ざされた。
人影だ。
マナはビクッ!と身体を震わせ、自分の身体を固めて守る。
「……逃げなかったのか」
女性の声だ。
淡泊な口調だけれど、驚きが滲んでいる。
マナはゆっくりと視線を上げて相手を確かめる。荷台の中は薄暗くて、よく顔が見えない。
その女性は雨に濡れた靴で歪んでできた隙間から荷台に入ってきた。
一瞬、彼女の視線は荷台の床にいく。キースの靴跡を確認するも、視線をマナに戻して近づいてきた。
マナの傍まで来ると膝を折ってしゃがんだ。
「無難な判断をしたな。お前まで逃げていたらこっちは〝笛持ち〟と戦闘してでも追いかけていたよ」
ニーナの部隊には他に役目があった。
まだこの時ではない、重要な役目が未来に控えているから、コアたちとの戦闘で人数を減らすことを避けたかった。
最終的には〝笛持ち〟を全員始末できる戦闘かもしれないが、彼らは強敵だ。兵士の大半は倒されるだろう。
マナが残ったから、ニーナはキースを追いかけることをしなかった。
見つめるだけで何も答えないマナにニーナは首を傾げ、ルカを抱っこするのと同じ要領で抱え上げた。
マナが無抵抗なのを良いことに、ニーナはそのまま荷台から出た。
容赦なく大雨が頭に打ち付ける。
マナは少し驚いて、ゆっくり瞬いた。
……予想していたより、その雨は痛くなかった。
同じ痛みをニーナも受けているからだろうか。
「…私、殺されるの?」
それならどうか。安らかに殺してくれないだろうか。
甘すぎる願いだと理解していても、願わずにはいられない。
ニーナから出てきた言葉は、冷たく、そして安心するものだった。
「そうだな。今までのお前はいなくなるから〝殺される〟ってのもあながち間違いではないな。次目が覚めたらお前は今日より前のことは全部忘れているよ」
マナは目を見開く。
情けない感情が渦巻きながら縋った。
「〝そこ〟に、あなたはいる?」
「いるよ。お前が目覚めるまで待ってる」
本当はきっと、今までの自分を忘れるということを、怖いと思うべきなのだろう。
でもなにもかも失って、その空虚さが寂しくて堪らなかったマナにとってその未来は。
〝救い〟そのものだった。
「そっか…。良かった」
今までの辛さも、寂しさも。怖いことも。
全て忘れた先に誰かがいる。
柔らかくて冷たい毒がようやく、マナの涙を止めてくれたのだった。
―――――――――――
マナたちが海中窓の部屋にいる同時刻。
ニーナもまた泥蛇の潜水艇の海中窓のある部屋にいた。
真っ暗で、生き物の光も見えなくなった。
それでもなにか眺めているように、窓の外を見つめる。
もうルカに用はない。親身になる理由がなければ、本当に無関心だった。
…だからニーナ自身、ルカとマナに対する、感情の差があったことに今気づいたのだ。
その〝差〟の理由は分かっている。
自分のことながら、興味深かった。
ニーナはズボンのポケットから煙草ケースを取り出す。
そろそろ解禁だ。
「そうか。マナはあたしが吸ってること、知らないかもな」
なんの意味もない呟きだが、彼女の声は明るかった。




