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Causal flood   作者: 山羊原 唱
15/24

12話 正しさと全て

 〝Fage〟とは――。

 人類史最高のAI〝MSS〟が沈没都市を造ったことで始まった。

 〝人々の未来を繋げる〟という理念が実現した姿――、それが沈没都市である。


 ラクスアグリという島が出現して8年後、〝MSS〟は停止した。

 しかし〝MSS〟に調整されたAIが〝MSS〟の理念と基盤を引継ぎ、優秀な住民と連携したことで沈没都市の稼働は続いた――。


 

 サクタは校庭の見えるベンチで〝MSS〟に関する参考書を読んでいた。

 AI工学を勉強する際には絶対に学ばなくてはならない存在が〝MSS〟だ。

 〝MSS〟の学習はたんなる学問ではなく、沈没都市での生活に直接関わる。

 Fageの概要と〝MSS〟の停止について記載されたページをめくると法律の分野に移った。

 内陸政府から独立しているため沈没都市の法律も〝MSS〟が作ったものだ。


 サクタは書かれた政策に目を通していく。

(〝器物尊重〟、〝スノーロゼ〟、〝針路調査〟、〝ジーカリニフタ〟…)

 その中で〝針路調査〟に目を留める。

 じっと眺めていると、隣に気配を感じて視線を向けた。


 今となっては定番となった彼女の位置に、サクタはなんだかおかしくて少し笑った。

 マナが首を傾げる。

「護衛だもの」

「わかってるよ。…ねえ、マナってこの〝針路調査〟って受けたことある?」

「ないよ。私、生まれは沈没都市じゃないから」

「内陸ってこと?」

「うん。でも昔のことは聞かないでね。覚えてないんだ」

「…そう」

 淡々と話す彼女の本心は全く見えず、サクタはそれ以上訊かなかった。

 訊いて欲しくないのかもしれないし、本当に覚えていないのならきっと困らせてしまうだろうから。


 無事学校に戻って来られてからひとまず落ち着いた日々が過ぎていた。

 おかげで移住試験に向けて集中できている。

「この〝針路調査〟ってすごくてさ。職業適性がほぼ100%なんだって。移住試験が終わって沈没都市に行けたら、一番に受ける検査らしいんだ」

「見識程度には知ってるよ。サクタはどんなのが該当するのか、楽しみだね」

「培養医療関係だと良いんだけど…。もし違う適性が出て、それでも培養医療を選んだら駄目なのかな」

「別に違法ってワケじゃないらしいけど、信用問題に関わるみたいだね。例えばそうやって選んだ培養医療の仕事で失敗したら、次の仕事探しはかなり難しいみたいだよ」

「ま、まじか…」

「うん。それがきっかけで沈没都市の人が内陸に来るってこともあるみたい。いわゆる〝大人の成績落ち〟ってやつだね」


 自分でそんな言葉を口にした時。

 ふと、マナはなにかが頭を過った気がした。


『……――成績落ちで――ここにいるんだ――』


 少年…いや青年だろうか。

 聞いたことのない誰かの声が、遠く小さく聞こえた。


「マナ?」

 サクタの呼びかけにハッとしたマナは、朗らかな笑みを浮かべて「なんでもない」と首を振る。

 一瞬呆けたマナが珍しいと思ったサクタは目をぱちくりとさせる。

 そして少し照れくさそうにして目を逸らした。

「俺、前さ、マナのこと知らなかったから〝一緒に沈没都市に行けると良いね〟なんて言ってさ」

「ああ。そういえば言ってたね」

 くすりと笑う彼女に、サクタは口を尖らせる。

「激励のつもりだったんだけど…。マナはさ、俺が沈没都市に行ったあとってどうするの?」


 穏やかで心地よい風が気持ち悪くマナには感じた。

 サクタのその問いに、マナが答えられるはずもなかった。

 そもそもサクタを沈没都市に行かせるつもりなど〝ボア〟にはないのだから。


 不審がられないようにマナは内心急いで答えを作った。

「君の武器が誰かに渡らなければそれでいいんだよ。他にもギフト持ちはいるからね。監視のお仕事は続くよ」


 無難な答えだと思ったのに、なぜかサクタが真顔で見つめてくる。

 マナは彼の視線が胸の内を見ているようで居心地が悪く、朗らかな笑みを貼りつけて「キスしたいの?」と茶化した。

 まんまとマナに誤魔化されるサクタはボッ!と顔をほてらせて「ちがうよ‼」と叫んだ。

「なんだかなって思っただけ!マナは俺と同い年でしょ。ずっと銃持って戦うのかなって思うと、なんだかなって…」

 ふい、と顔を逸らしてサクタは少し視線を下げた。

(本当は…)

 言うべきことではないのかもしれないと、サクタは心の中で自分を叱る。

 かつて友人にされて、サクタ自身悩み、結果として友人を落ち込ませてしまった同じ行為だから。

 けれど――、なんだか言わなければいけない気がした。


「一緒に沈没都市に行かない?」


『一緒に内陸に行かないか?』

 友人――日色という少年の言葉が鮮明に聞こえてくる。



 暖かい風がマナの明るい茶髪を揺らした。

 ああ本当に。居心地が悪いと――マナの心根が痛んだ。


 きっともう、サクタはマナの笑顔が嘘をつくときに作られるのだと分かっているのだろう。

 分かっていても心に壁を作るやり方はこれしかマナは知らない。

 だから、やはり朗らかな笑みを貼りつけた。

「キスしようって言ったり、結婚しようって言ったり。私のこと好きなの?」

「どっちも‼言ってないよッッ‼」

 ついにはサクタがひゅん!とベンチの端に飛んでしまった。

 彼の反応が面白くてマナは小さく吹き出した。


「…ふふ。ははは。サクタは面白いね」

「全く笑わせる気なんてないんだけど…」

「そうだよね。…サクタ、それは組織を裏切ってって言っているのと同じだよ。これでも、組織に忠誠心があるの」

「‥‥そう。まあギフトを悪用されないようにっていうマナの組織はこの時代に必要なものだもんね」

 それ以上は踏み込まないようにとマナの視線を受け、サクタはその意図を汲み取った。

 

 すると、二人のもとへゆりんが駆け寄って来た。

「ねえねえ二人とも!桃原先生が良いもの買ってきてくれたよ‼教室来て‼」

 マナの手をぎゅっと握り、ゆりんは浮足立って引っ張る。

 マナがチラリと視線をサクタに向け「ほら行くぞ」と暗に合図する。

 サクタはマナの素の見える意思表示がなんだか嬉しく思い、「わかったわかった」と言って本を閉じた。


―---ー

 教室に戻ったマナは無表情だった。

 反対に、サクタは他の子同様をキラキラさせている。

 桃原という教師――数日は流未が沈没都市に一時帰還しているため、臨時でクラス担任を勤めている彼も得意げにフフン、と笑っていた。


 生徒の一人が桃原が購入してくれた本を高らかに持ち上げクラスメイトに見せる。

「もう新版は出ないかもって言われてた〝Fageの未解明伝説!〟シリーズの新作‼〝焉〟だあああ‼」


 わああ!と湧き上がる周囲とは反対に、――あの胡散臭い娯楽本か…とマナが目を座らせる。

 そんな彼女の身体は周囲の子供たちの「何が⁉一体なにが追加されたの⁉」と興奮する波に体を揺らされる。

 クラス全員がいるわけではなく、一部は「あとでゆっくり読みたい。ネタバレになるから離脱する」と言って各々図書館や自室に逃げていた。


 本を掲げる少年が一番に読んだらしくネタバレ歓迎サイドに教えてくれるそうだ。

「いくつか新しいのがあってさ!〝現在の月のホテル〟とか、〝エモーションコピーを獲得したAI〟とか、あとは――〝オーバークォーツの花の故郷〟‼僕的にはこれが一番面白かった‼」

 少年が本の最後の方のページをめくっている間、桃原が「先生もそこが良かった!」と子供たちのテンションに乗ってくる。


 トイレにでも行こうかなと若干任務放棄を考えたマナだが、少年から語られた内容に足を止めることになる。


〝オーバークォーツの花は4年くらい前に現れた新種の花。

 薄紅の花びらと淡い青が中心を染めている。

 群生地に共通点はなく、分かっているのは可燃性の高いその性質のみ。

 しかしなぜか、オーバークォーツの花が咲いた場所はそのうち一つも咲かなくなる。

 今までは根こそぎ採取するせいだとされていたがある目撃証言があった。

「オーバークォーツの花が咲く場所には穴があいていることがある。その穴に見えるのは〝空〟。空が見えるんだ」

 オーバークォーツの花とは異世界から落ちてきた植物ではないだろうか。

 そして、誰かがその穴を閉じて回っているから、同じ場所から花が咲くことがなくなってしまうのだ。〟



 読み上げられた文言にマナの血の気が引く。

(どういうこと)


 少年の語らいは続くが、一部ブーイングも飛んだ。

 「異世界があったらなんでもアリになっちゃうよ!」なんて声が聞こえる。

 どうやらサクタもそう思う派のようで、不満そうに口を尖らせうんうんと頷いている。


 そんな賑やかな場面が遠く感じるくらい、マナは内心汗を流していた。

(どうして――〝ヴィアンゲルド〟の仕事が漏れているの。〝イング〟一行?…いや、たとえ知ることになったとしても、世間に流すメリットなんて彼らにあるはずない)


 マナの汗など誰も見えない。

 少年はやいやいと騒がしい周囲を「まあまあ」とてきとうに宥めて続けた。

「その閉じて回っている人は、その内全部の穴を塞ぐだろうって。だからあともう少しするとオーバークォーツの花が咲くことはなくなるんじゃないかって書いてあるんだよ。だとしたら良いことだろ!だから桃原先生と〝良いね〟って話してたんだよ‼」

「だめだめ!異世界なんて科学的じゃない‼」

「まだラクスアグリ島の宝箱とか宝箱を守る怪物の話しの方が良かった‼」

「もう読む順番決めよ‼今回はなんの勝負でいく⁉」

 ブーイングの後は本を読む順番決めの相談が始まった。


 サクタがマナにも声をかけるが、マナは小さな笑みを浮かべて断った。

「ごめん。ちょっとお手洗いに行ってくるね」

 賑やかな場にサクタを置き、マナは女子トイレへ足早に向かった。


 個室に入って耳裏の皮膚シールに触れる。

(…だめか。〝笛持ち〟との交戦中…もしくはニーナたちの潜水艇を補助をしているのかも)

 音も無くため息をつく。


(異世界が本当にあるのかは分からないけれど、ニーナは〝ボア〟が珍しく焦った事案だって言っていた。〝ヴィアンゲルド〟も、ギフトの怪物化の対処より優先すべきことだと…。いや、今一番気がかりなのは…)

 誰にとって得なのか分からないこの漏洩の一番の危険性は。


 マナは吐息と同じくらい小さな声音で呟いた。

「現存するオーバークォーツの花を、独占しようとする勢力が絶対に出てくる」


 大方それはアロンエドゥだ。

 だから、近いうちにアロンエドゥのもとにオーバークォーツの花が一挙に集まるだろう。

 一年前の大火災を再び起こせるくらいの量が。

 へたをすればそんな〝簡単な大災害〟に収まらないかもしれない。

 あの時以上に、オーバークォーツの花の加工技術は上がっている。

 銃弾の火薬にまでおとしこんだその技術は、沈没都市の支援を受けるウォームアースを壊滅させることができるだろう。

 日本に持ち込まれた花の量を超える群生地がどこかにあって〝ヴィアンゲルド〟が穴を塞いで立ち去った後。

 誰かに取られる前にアロンエドゥが回収してしまえば。



(〝ヴィアンゲルド〟は穴を塞ぐことはしても花の処理はしない。もし日本のウォームアースがアロンエドゥの襲撃を受ければ…――沈没都市は自分たちの資源物を破壊したアロンエドゥを全滅させるはず。…周囲の内陸の犠牲は厭わない、()()()()()()になる)


 そんな状態は誰にとってメリットがあるのか。


 マナには思い当たる節があった。


〝ボア〟と連絡を取る気がなくなる。

 つながらなくて良かったと思うほどに。


―-----


日本沈没都市


 沈没都市の風景はどこの国のものでも変わらない。

 沈没都市への入口は海底で、港の専用の潜水艇を使って入ることができる。


 潜水艇乗り場から地上に上がると管理された水の上に浮かぶ歩道と建物たちが目に入る。

 上階にいくにつれて幅が狭まるビルが多く、似たような形だらけだ。

 沈没都市の移住試験を受かった内陸住民がいうには「迷う。とにかく迷う。あと歩道から足を滑らせたら水に落ちそうで怖い」らしい。


 そんなことを考えながら流未は歩道を進んだ。

 三人くらい並んで歩ける幅なのですれ違いも怖くはないが、しっかりと荷物を握る。


 一つに束ねた彼女の黒髪が強く吹いた風に流れる。

 少し足を止めて、ビルの上を見上げた。

「あの風車、そろそろ点検が必要なんじゃないかしら」

 ビルの上にはいくつか風車が立っている。

 風力発電のためでもあるが、都市内の風向調整も司っている。

 エンドレスシーと現実のすり合わせが上手くいっていないと、こうして叩かれるような風が吹き込んでしまうことがある。


 髪を整えて流未はあるビルへ入った。

 生体信号を照合し、受付を通過する。


 ここは流未の実家だ。

 住宅ビルとなっており、沈没都市内でも高級クラスだ。

 母親は軍事AI開発者であり、父親は沈没都市代表議員という重役を担っているから与えられた住居である。

(親の功績でこんなところに入れるんだから、良いご身分よね)

 自分に悪態をつく。

 本当は帰りたくない気持ちが強いのだが、慈善活動の報告・健康診断(心身両方)、自分に届く公的書類の処理…など、定期的に沈没都市でやらなくてはいけないことがある。

(いっそ、内陸に移住すればいいのかもだけれど…)

 しかし沈没都市での籍を失ってしまえば学校の子供たちに沈没都市でのサポートができなくなる。

 移住した最初のうち、やはりどの子も不安なのだ。

(まあ沈没都市の住民はみんな優しいからね。移住できれば差別なんてしないから、すぐに私のサポートは要らなくなるんだけど)


 流未は自室の電子機器を起動させていく。

 机の上にあった透明な板を壁にたてかけると、それが画面の役割を果たす。

 机にキーボードも照射され、それを使って操作する。


 支援活動の機関へ教育支援の依頼書を作り始める。


 支援活動の正式名称は〝環境守備警〟。

 環境守備警は内陸に常在はできず、沈没都市にとって有益になる取引を内陸と行うかわり、定期的に医療・教育・食糧などの支援を行う。

 〝沈没都市にとって有益〟という条件が全ての基準であり線引きで、支援員に脅威が迫る状況になった際には支援対象を置いて即時撤退することもある。

 将来有望な研究員の現場実習としても活用され、かつて流未もそこに所属していた。


 一方、現在の流未が行っている慈善活動は個人の有志活動として扱われる。

 つまり、軍機関や研究機関へ要請ができない立場なのだ。

 そのためこの依頼書が通らないことも時としてある。

 利点と考えるならば、個人の判断で行動ができるので沈没都市に籍を置いたまま内陸の常在も可能であり、個人活動において特に制限はないことだ。



 うぅーん、と流未は両腕を伸ばした。

 移住試験はもう二ヶ月後。

 依頼書を見直す彼女の顔はどこか暗い。

 

 休憩にココアでも飲もうと立ち上がると、‥‥ガチャン、と扉が開く音が聞こえた。

 流未は内心「うげっ」と嫌な顔をする。

「…お帰りなさい。お父さん」

 いない時間を見計らったというのに、どうやら流未の父は娘に会うために急いで帰宅したようだった。

 引き締まった体躯は年齢よりずっと若く見せ、知的な雰囲気と精悍な顔立ちをしている。流未のきつい目元は父親似のようで、二人が並べば親子だと分かるだろう。


 少し乱れたスーツを整えながら父は小さく微笑んだ。娘に会えてうれしいようだ。

「ああ。ただいま。…今日は家に泊まるのか?」

「うん。まあ…。駄目じゃなかったら」

「駄目なわけあるか。お前の家だ。ゆっくりしていけばいい」

「…ありがとう。…仕事は?」

「休憩時間だから抜けてきた」

 

 父からにじみ出る嬉しさは流未にも伝わっている。

 けれど、あまり話したくなかった。

 休憩は外のカフェにでも行くか、と玄関に向かおうとすると父が声をかけた。

「次はいつ内陸に戻るんだ」

「…明後日には戻るよ。明日のうちに環境守備警から返事が来るなら、明日の夜の内に戻るかも」

「…そんな急がなくていいだろう。向こうにだって代わりの教師がいるんだから」


 父の言葉に悪意はない。むしろこれは心配なのだ。

 かわいい娘が危険な内陸で軍人の護衛もつけられない慈善活動をしているから、

―――辞めてほしくてたまらないだけ。


 流未は目を伏せて、冷静でいるよう自分を諫める。

 そして静かな声音で父に返す。

「私がいなくても、七草学園の子たちは困らないって、相変わらず思っているのね」

「ああ。事実だ。環境守備警でいいじゃないか。内陸の子供を支援することは否定しない。むしろ素晴らしいことだと思うよ。…でもお前だって人間で、大切な、たった一つの命しかないんだ。どうして安全にできる道を選ばない?」

「お父さんやお母さんとしては、私が環境守備警でいることがギリギリの譲歩だったものね。…私がフェイジャースレサーチャーにならなかったこと、まだ怒っているの?」


 沈没都市で最も栄誉と価値ある称号を持つ職業だ。

 最も栄誉と価値がある――それは最も沈没都市に貢献するという意味。

 そんなフェイジャースレサーチャーは沈没都市にとって最高の宝物なのだ。


 それを断り、沈没都市で底辺といわれる慈善活動などしている流未を彼女の両親が許すわけはなかった。


 父は流未の正面に立ち、きつい視線を送る。

「怒っているわけじゃない。でもおかしいとは思ってる。本来なら一番に守られるはずの人間が、わざわざ自殺しようとしているようなものなんだから」

「二度と言わないでって言ったわよね。侮辱よ。撤回して」

「事実だ」

「‥‥」

 流未は顔をしかめ、小さくため息をつく。


 ――結局こんな会話になるから父と話したくなかった。

 

 初めて出逢ったサクタのことを思い出す。

 暗い瞳をして、絶望に抱かれていた彼の姿を。

 もしあの時、自分が環境守備警であったら彼のことは助けられなかった。

 …いや、助けてはいけなかった。


 流未はハンドバッグを持って玄関に行ってしまう。

 父が「流未!もう帰ってきなさい‼」と叫んだが、その言葉を遮るように流未は扉を閉めた。


―------

(はあ。最悪…)

 今晩もあの家に帰るのかと思うと気が重い。

 てきとうなカフェに入り、冷たいココアを頼んだ。

 グラスに雫が道を作ってコースターを濡らす。


 ここのカフェは沈没都市では珍しく、オリジナルの材料を使った高級な店だ。

 基本、沈没都市では培養細胞で食料が提供されるので、カカオやコーヒー豆、茶葉など、内陸と同じ新鮮さを味わえるのは貴重だ。


 …親と喧嘩した時に限ってこういった店に行きたくなるのはなぜなのか。

 あてつけか、自己満足か、流未自身よく分からない。


「あ」

 隣の男性がなにやら声を上げた。

 はっきり聞こえるくらいの声量だったので、流未も顔を上げる。


 窓際のカウンター席なので隣の人は正面の窓に映っている。

 その男性に、流未も声を上げた。

「あ、あなた…」

 言いながら、流未は正面の窓から隣の男性に視線を向けた。


 気まずそうな表情を浮かべるその男性は――先日サンクミー施設で鶴津の護衛を勤めた軍人だった。

 窓に映る流未を見ていた男性だが諦めた様子で本物の流未に顔を向ける。

「先日はどうも」

「え、ええ…どうも」

 軍人の飲んでいるものはホットラテだ。ほかほかと湯気が立っているので、来たばかりなのだろう。


(…きまずい。私の方が一気に飲めるものだし、とっとと飲んで出ようかしら…。はぁ…ゆっくり飲みたかった)

 流未は無言でグラスに口をつけ、ぐー、とラージサイズを流し込む。

 しかし途中で疲れ、はっと口を離した。

 もう一度口をつけようとすると軍人の方から声がかかった。


「沈没都市内では立場的に俺の方が気を遣うべきなので、そうされると困ります」

 動きを止めた流未はそういう軍人に視線を流して、コトンとグラスを置いた。

 皮肉でもある彼の言葉に、流未は少し睨んだ。

「…私のこと、調べているのね」

「というか、護衛のために任務先のことは知らされます。…まあ、調べなくてもあなたの珍しい苗字を見れば河童代表議員の関係者じゃないかとは、誰でも思いますけど。あとあなたの母親は軍事AI開発関係者ですから。河童議員と河童研究員は結構有名ですよ」

「やめて。苗字をそんな何度も呼ばないで」

「…理不尽だな…」

 軍人は猫舌なのか、一生懸命カップに口をつけては熱さにビクリと唇を震わせている。


 ふー、ふー、と湯気を散らす彼から視線をずらし、流未は窓の景色を眺めた。

 水中に浮かぶ歩道をすれ違う人同士で気遣いながら歩く、平和で穏やかな街並みだ。

「‥‥あなたが気遣っているのは私の親の立場だと、面と向かって言われるのは気分悪いわ」

「でも事実でしょう。現に、こういった店に入れるのはあなたの力ではないのですから」

 もう一度、流未は軍人を睨んだ。さきほどよりも強く。


 私服でいるからか軍人の容姿がよく分かる。

 20前半の流未よりは年上だ。30歳くらいだろうか。

 軍人らしく短く整えた髪に、寡黙な雰囲気。薄く開かれる瞳は最初から見るものが決まっているといわんばかりに揺れもしない。

 しかし感情がないわけではなさそうだ。

 特に、不満という感情は隠す気がないらしい。


 父親と同じ言い分の彼に流未はやはりとっとと飲むことにした。

 一気に飲み干そうとグラスをガッ‼と掴む、が。


 グラスを持ち上げる前に、軍人が彼女の飲み口の上に手をかざしてやめさせた。

「なんで鶴津氏と別れたんですか?」

「…。‥‥。な、え、ハァ⁉」

 一瞬、なにを聞かれているのか理解できずにいたが、流未は眉を吊り上げ少し頬を紅潮させた。

「な、なんであなたがそんなこと知って‥‥なんでそんなこと訊くの⁉」

「誤飲されて死なれたら俺が処罰をくらうんで、やめてほしかっただけです」

「・・・・・・・・・・・。私、あなたのこときらいかもしれない」

 流未はヒクリと頬をひくつかせ、抑える苛立ちが大きすぎて逆に話し方がカタコトみたいになる。

「奇遇ですね。俺もあなたのことはかなり嫌いです」

 対して軍人が流暢にそんなことを言うので、流未は唖然としながらグラスをテーブルに置いた。

 軍人の方はようやく口に含めるくらいになったラテを飲んでいた。ちゅちゅちゅ…と慎重に飲んでいる。


 彼女ははあ…、と疲れたため息をついた。

「…鶴津から聞いたの?」

「ええ。道中〝これから向かう先には元カノがいる。フェイジャースレサーチャーの候補生にも選ばれたのに環境守備警を辞めて、そこで慈善活動をしている人〟だと。随分愚かな人がいるんだと思いました」

「だから私のことがかなり嫌いなの?」

「はい。あなたは幸運な人なのに、自分からそれをゴミのように扱っているので。よくそれで、内陸の人から疎まれて殺されませんね。沈没都市の住民だって、あなたへの憧れは尽きないはずです。恵まれない誰かへの侮辱だとは、思いませんか」

 

 すぐになにか言い返されるかと思ったが流未からなにもなかった。

 つい軍人は気になってカップを置き、流未を振り向く。


 もっと感情的な眼差しをしていると思いきや、今までで一番凪いだ表情を彼女は浮かべていた。

 次いで、軽く微笑されたので軍人は本能的に口を閉ざす。気味が悪い。


 流未はグラスにかかっている軍人の手を小さな力で押して退かした。

 一口飲んで、また戻す。

「一年前の大火災の時、私、西アジアの方にいたの」

 流未は正面を向いているので、その時軍人の顔が強張ったことには気づいていない。

「大火災が起きた時、私たち環境守備警は支援対象(内陸住民)より先に避難を強制されたわ。置いて行かないでって泣く誰かを置いて、支援員は誰も異論なく逃げた」


 環境守備警が支援する内陸はウォームアース(都市寄り)

 ウォームアースのエリアだけ、内陸住民()を支援できるのだ。

 それ以上の内陸、例えばウォームロード(中間地域)アースローズ(内陸)に赴くときは、大抵自然保護や回復のためだ。

 〝人〟の支援は、沈没都市に近い内陸だけということ。

 それはいざという時、環境守備警がすぐに沈没都市へ避難できるから。


「内陸住民の命は自然資源より低いから。彼らのための支援はあくまで環境守備警の命を守れる範囲で行われる。…あれは本当に顕著だったわね。西アジアにはもう、沈没都市が介入できる内陸エリアはない。その結果、今内陸政府はどうなった?」

 流未が窓越しの彼に視線を送るころには、彼はもとの表情を殺した顔でいた。

 答えない彼に流未は続ける。

「非公開とされているけれど、沈没都市に明確な敵意を持って行動するアロンエドゥの資金源は内陸政府よ。だから生きるためにアロンエドゥへ加入した人が激増したでしょう。――守るべきだったのよ。私たちにはあの時、守る力があったわ。そんな生き方をしなくても生きられた場所を。こっちだよって言える場所を。守らなくてはいけなかった」


 流未はマドラーでココアをくるりと回した。

「私のような慈善活動を行う人を沈没都市の住民(あなたたち)は無駄だと、無価値だと言う。

 でも助けなかったあの人たちがどれだけあの場所に、どこかの誰かに、そして今、必要だったか。

 自分にできるかどうかを考える前にAIの価値観で判断した。…私は今でも、これは絶対に間違っていると思ってる」

 今度こそ、軍人に邪魔をされずに流未は一気に飲み干した。

 そして立ち上がり、軍人を見下ろして――熱せられた鋭い眼差しで彼を射抜く。


「あなたがさっき言った〝恵まれない人〟って誰のことなの?」

 流未はそう言い置いて足早に見せを出て行った。



 彼女はずんずんと腹正しさを一歩に乗せる。

 振動を殺す設計をされた歩道だが、彼女が歩くと水面が軽く波立つ。

 まだ若い彼女のヤケは後ろから腕を引かれたことで止められた。


 振り返ると、あの軍人が少し息を切らして流未の腕を掴んでいた。

 流未は歪んだ笑顔を浮かべて威嚇する。

「ごめんなさいね未熟者で。これ以上あなたと喋ると拳が出そうなの。あなたみたいな人が似合うあのお店に戻ってティータイムの続きでもしたら?」

 彼女の歪んだ笑顔に若干引きつる彼だが、開けた場所に彼女を誘導してそこで手を離した。

「・・・乾亮」

「いぬいりょう?」

「俺の名前。乾、亮。〝あなた〟じゃないんで」

 急に名乗った彼に流未は訝し気に眉を寄せた。もともときつい雰囲気がある彼女なので少しそんな表情を浮かべるだけで眼光が鋭くなってしまう。

 軍人――亮ははぁ、とため息をついた歩道の手すりに腰を預けた。

「…まじめな話し、もう内陸には戻らない方がいい」

「私は生まれた時からまじめに話してるわ」

「…。今まで日本の内陸は大陸国よりはマシだと言われていたが、もうそうではなくなった。その内、沈没都市から正式に総支援撤収の指示があるはずだ」

 敬語が無くなった彼の瞳は皮肉と焦りがみてとれた。

 流未は慎重に、幾分背の高い彼を見上げる。

「アロンエドゥはどれくらい日本にオーバークォーツの花を持ち込んだのかしら」

「それは機密事項」

「…総支援の撤収は公的機関だけよ。一年前と同じね。私は二ヶ月後に控える移住試験のための教育支援の要請を求めていたんだけれど、…まあ、ありがとう。そういうことなら今日中に内陸に戻るわ」

「おい」

 くるりと背を向けた彼女に亮は素のトーンで呼び止める。

 彼女は一つにまとめた黒髪を揺らして立ち止り、少し彼に振り返った。

「今ので確信になったわ。教育支援は来ないのね。それなら仕方ない。今までの子たちとフェアじゃないから嫌だったけれどそういうことなら諦めるわ」

「将来的な救済を考えれば沈没都市の住民を守ることはいつだって正しい。一年前の大火災の時にもし環境守備警を守れていなければ、内陸の資源だってもっと死活問題になっていたはずだ。ラクスアグリ島から資源回収できなかったのは沈没都市にとっても痛手だと分かるだろ。あの時から、沈没都市の価値観がこのギリギリの均衡を保たたせているんだ」

 分からず屋め…とでも言いたそうな彼の表情に、流未は少し笑った。


「一度だって私は沈没都市が間違っているなんて思ったことはないわ。そうね、正しいことだってあると思う。…でもそれが私の全てじゃない」

 

 そのまま――もう二度と沈没都市に戻ってこなさそうな彼女に亮は苛立った顔で――しかしなにも言葉が出て来なかった。

 …沈没都市所属の軍人である彼に、守る価値を自ら捨てた彼女を止める理由など、ありはしないのだから。




―-----------ー


日本内陸 アロンエドゥ地下基地


「間違いないんだな。日色」

 無精ひげと垢と酒灼けした声の男たちは一人の少年を振り返った。

 彼らが集まるテーブルにはウォームアースエリアの地図が広げられている。


 古びた銃器やお手製の爆弾などが壁一面に収納されたこの狭い地下基地を照らすのはガラス瓶に蝋燭を入れたものだけだ。

 ひんやりとした空気にあたたかみを与える色を放つのに、日色と呼ばれた少年は小刻みに震えていた。


 別の男が再度尋ねる。どこか面白そうな顔で。

「お前を追い出したっていう、沈没都市行きの学校だったんだよな?先日のサンクミー施設近辺で見かけたガキ共は」


 日色は蚊のような声で「はい」と答える。



 先日のサンクミー飼育施設で見かけた、あの背中。

 ちらりと見えた右目の痣なんて、わかりやすい特徴で。

 つい「サクタ?」と零したのを他のアロンエドゥに聞かれていた。



 日色の明確な返事に、周囲のアロンエドゥは彼を憐れむように、そして嘲笑するようににやついた。

「ギフト持ちがいるって情報をあてにしてあそこに行ったら、ウォームアースの住民に会えるなんてな。…なあ日色。そう気落ちした顔しなくていい。お前や俺達にはああいう奴らに…|沈没都市住民《アカーに復讐する権利があるんだから」


 リーダー格である一際体が大きく、避けた顔を無理やり縫合した男が声を高らかに上げた。


「沈没の時代を否定する‼証明する‼我らがエード!

 神の名を取り戻すまで我らは箱となり、真実の時代を導かん‼

 ――我々の犠牲は全てのエードに英雄視される‼

 恐れるな‼

 怯むな‼

 壊せっっ‼


 機械仕掛けの神に証明された全てを‼」











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