第7話「七曲りGP(ラウンド1)」
高校2年生の夏。自宅から学校まで約2Kmの道程を自転車で通学していた怜には朝のルーティンがあった。
「七曲がり」
地元では有名な緩急あわせて七つのカーブが連続するこの坂道を通学していた怜は、毎日この急坂でオートバイの操縦技術を磨く練習をしていた。
8:20am。「七曲り」坂上。
他の生徒が邪魔なのでわざわざ遅刻ギリギリに坂上に到着する。坂を下る生徒はまばらだ。
この日、怜は坂の手前の住宅街で見覚えのある顔に出会った。2年生になって同じクラスになった真司だ。
真司は中学1年で同じクラスだった。プライベートでも何度か遊びに行ったことがある同中の幼馴染だった。
中3になると進学する高校が違う彼とはすっかり疎遠になった。怜がK高校に入学しても交流はないままだった。高2になって再び同じクラスになっていたが彼と話す機会もなかった。
真司と随分と話していない怜は何処か気まずかったので、真司を無視して坂を下りる事にした。
怜にはこの坂で「ペダルを漕がずに下る」というルールがあった。一度も漕がずに誰よりも速く下りる。それが速く走るためのトレーニングになると自分に課していた。
そうしているうちに、怜はこの坂を下って登校する他校の生徒にマークされていた。
その日も近隣のM高校の男子生徒が3人、坂の上の特殊アスファルトに舗装が変わる、「スタートライン」の手前に並んで待っていた。
ニヤニヤとしてこちらを見るその男子生徒たちは、たぶんいつか怜が抜き去った生徒なのだろう。
そんな事は意に返さず、怜は特殊アスファルトの「スタートライン」を踏み越えた。
「スタート!!」
3人の内の誰かが言った。思い切りペダルを漕ぎ3人は怜の前に躍り出た。
怜はそんな彼らの事など気にすることなく、下り坂の慣性力に任せて下る。
1つ目の緩い右カーブを3人が先行する。坂が本格的に傾斜を増すと左に180度ターンする第2カーブが迫る。
「キッキィーー!!」
3人はブレーキをかけて慎重にカーブをクリアして行く。曲がりきれなければガードレールに突っ込み、下手をすると乗り越えて下の段に落ちてしまう危険なカーブだ。
怜はブレーキをかけない。
最初の右カーブからヒラリと切り返すとペタンと自転車を傾けて、カーブの内側をのんびり自転車を漕いでいる女生徒たちの横をかすめる。
「シュッザァーー!!」
極端に傾けた車体のせいで、怜の顔のすぐ横に女生徒たちのお尻が見える。
タイヤを滑らせながら猛スピードで駆け抜ける怜。道幅いっぱいを使ってカーブを抜けると眼の前に先行していた3人が見える。
スピードのノリが違う。
一瞬で3人とも抜き去る。
懸命にペダルを漕いで追いつこうとする3人を置いてけぼりにして、怜は次の右カーブに備えて道幅の左端一杯に車体を寄せる。
ペダルは漕がない。スピードを殺さない乗り方ができている怜には漕ぐ必要がない。
後ろの3人の雑音が消えた事を確認すると3つ目のカーブに集中する。カットインのキッカケづくりの為に前輪のブレーキを軽く触った時だった。
「シュザッ!!」
今まさにカーブにカットインしようとする怜の右側に思いも寄らないゲストが現れた。
真司だ。
「!!⋯⋯ぐっ」
怜は描いていたコーナリングラインを塞がれた事でバランスが崩れる。
一方、真司の自転車は綺麗にカーブを抜けていく。
失速した怜は次のカーブまでの緩やかな下り坂で真司に追いつけない。
「⋯⋯ 真司〜!!」
怜は思い出した。真司が怜を超える負けず嫌いだということを。
毎朝、トレーニングのつもりで怜はこの坂を下ってきた。ほぼノーブレーキでこの長く急な「七曲り」を下り切る者を自分以外に見たことがなかった。
一朝一夕で自分についてくることはできない自信はあった。おそらく真司もこの「七曲り」を攻めてきたに違いない。
怜は身震いするような興奮を覚えた。全身を燃えるような闘争心が包んでいくのがわかった。
「絶対に追いつく!!」
奥歯を噛み、ギリギリまで右端に寄せた進入ラインで4つ目のカーブをカットイン。崖になっているカーブ出口をギリギリまで攻める。
前傾姿勢で緩やかに右に曲がる5つ目の超高速カーブを加速していく。スピードのノリは真司よりいい。
真司は5m先を先行している。
高速カーブの中盤までにジリジリと近づいてはいるが、真司のスピードも伸びていてなかなか追いつけない。当然、真司もペダルを漕いでいない。
「このままでは『倒立カーブ』までに並べない」
6つ目のカーブは長い急坂を降りきったこの「七曲り」最大の難所。最高スピードが乗った車体に勾配が更にきつくなった右180度ターンだ。ブレーキを誤ると「倒立」してコンクリートの壁に突っ込んでしまう事から「倒立カーブ」と呼ばれていた。
そしてそのすぐあとに続くのが、路面が捻れるようにウネリながら下る左90度カーブが最終コーナーだ。
そこを抜けると約20m先に特殊アスファルトが切れるゴールラインがある。
この勝負は「倒立カーブ」を制した者が勝つ。
怜は空気抵抗を極限まで減らすように前傾姿勢で真司の自転車のスリップストリームに入り詰め寄る。「倒立カーブ」まで20m。傾斜が更にきつくなり、つんのめる恐怖心が身体を硬くする。車速は60キロを優に超えている。
あと15m。真司の後輪の右側に怜の自転車の前輪が重なる。真司は車体を車幅の左側に寄せ内側を開けたままだ。
「ブロックする気はないのか?」
怜は一瞬戸惑った。
このまま「倒立カーブ」で真司の右側に滑り込めば、次の最終コーナーで真司の走路を抑え込める。
おそらく真司もそれはわかっているはずだ。
「倒立カーブ」が眼の前に迫る。
2台並んでフルブレーキで突っ込む。
「キッキヤィヤウィアァァーー!!!」
おかしな音をたてて2台の自転車のブレーキが悲鳴を上げる。前輪の車輪がブレーキシューでたわみガクガク音をたて、焦げ臭い匂いが鼻先をかすめる。
「イン側は抑えた。このまま曲がりきれれば勝てる!!」
怜が勝利を予見した瞬間にそれは現れた。
「うっ、ああっ!!」
声を上げそうになって奥歯を噛んでこらえる。
「倒立カーブ」に並んで進入した2台の進路を塞ぐように、最終コーナーを登ってくる乗用車が見えた。
怜の視界の時間が止まる。
車の運転者は目を剥き、今にも悲鳴を上げようと口が開きかかっている。急ブレーキで後部座席から車内に舞うクッションがスローモーションで見える。
「真司、これだったのか!!」
真司は高速の第5カーブを曲がっている最中、一段下に見える最終コーナーに差しかかるこの乗用車に気づいていたのだ。それは鬱蒼とした森の中にあるこの「七曲り」を知り尽くした地元民だけが知るテクニックだった。
怜も普段ならその安全確認は欠かさない。しかし、この時の怜は真司に先行されたことでこの確認を怠っていた。
怜は瞬時にこの事態の対応を判断する。
車をかわすのは容易い。進路は怜が抑えている。しかし真司と並んでこのまま倒立カーブを曲がったら、真司はオーバランしてブロック塀に突っ込んでしまうだろう。
わずか0.1秒の世界の中での決断だ。
怜はフルブレーキをかけ外側にいる真司が通る道を開けると、自車の後輪をスライドさせてカウンターをあてながら真司の後の走行ラインに乗せた。
乗用車は急ブレーキをかけてその場に停車したままだ。おそらく車内に飛び散ったクッションで運転者がパニックを起こしたのだろう。
その横を2台はスルリと抜けていったが、失速した怜が真司を抜き返す事はなかった。
こうして「七曲り」での二人のバトルは、真司の勝利で幕を開けた。
この後、誰が言ったか「七曲りGP」と名付けられた朝の自転車レースは、二人が偶然出会う日に開催される不定期のシリーズ戦として地元の高校で知られる事になった。
坂の上で待っていた他校の生徒以外にも、噂を聞きつけた腕自慢たちが二人を待ち伏せる事もあったが、第3カーブで二人の前を走ることができた者はいなかった。
「七曲りGP」
世界最高峰のママチャリバトルが開幕した。