第6話「MBX50」
駅裏のバトルで競うことの楽しさを知った怜は、スポーツモデルのオートバイに魅せられていた。
「もっと速く走りたい」
性能限界を超えて走ってくれるキャロットに、ただの乗り物を超えた愛着が生まれていた。それでも「もっと速く」という純粋な欲求を誤魔化すことはできなかった。
怜は茂樹から「別冊オートバイ 国産バイクカタログ全集(永久保存版)」を借りた。
朝起きて朝食の前に読んだ。学校の休み時間に読んだ。昼食をモガモガしながら読んだ。放課後ダッシュで帰ってキャロットの整備の合間に読んだ。夕飯の最中に読んで怒られた。
本当に穴が開くほど舐めるように読んだ。
自分が乗ることを空想し、カタログの写真を眺めては溜息をついた。雑誌のインプレッションを読んでは一喜一憂した。カタログの諸元表の数字はもう暗記してしまった。
カタログを読めば読むほど、オートバイはキラキラと輝いて見えた。
欲しい、どうしても欲しい。
怜はこんなに何かを欲しいと思ったことはなかった。
オートバイは高校生には高すぎる。
茂樹のようにアルバイトに明け暮れるか。
今すぐにでも欲しいこのバイクを手に入れる方法を、怜はありったけの知恵を絞って考えた。
怜は電気工事のアルバイトで稼ぐ事を思いついた。怜の家は町の電気店だ。電気工事は子供の頃から父親に仕込まれていた。
今は春。あとひと月もすればエアコン工事が忙しくなる季節だ。エアコン工事が出来る高校生はそうはいない。
生まれて初めてこの境遇に感謝した。
受験以来会話が途絶えた父親とアルバイトの話をした。初め嬉しそうにしていた父親は、怜がオートバイを買いたいのだと気づくと頭ごなしに反対した。
それでも怜は諦めなかった。
夕食後二時間、休日に四時間。
どうしてオートバイに乗りたいのか。
オートバイの魅力を父親に力説した。
仕事に疲れて家に帰ると朝から晩まで「オートバイ」について食い下がる息子に、父親は「勝手にしろ」と匙を投げた。
怜はその日から「オートバイ」の魅力を父親に語らなくなった。
しばらくして、食卓に置かれた書類を見つけた父親が母親に訪ねた。
「『MBX購入予約契約書』ってなんだ?」
母親は「あなたが買っていいって言ったんっでしょ?」と夕食を作りながら答えた。
「え?、『勝手にしろ』とは言ったけど、まさかそれで良いと思ったのか?」
「ああ⋯⋯、そうみたいね」
母親は合点がいったように笑いながら言った。
「いい加減、意地悪はやめたら? あんなに頑張る怜を見たことないでしょ?」
父親は少し不機嫌な顔をした後に、なんとも微妙な表情をすると言った。
「そうだが⋯⋯、やられたな」
「そうね。でも良かったじゃない。思うようにやらせてあげましょう。大丈夫よ、あの子なら」
「⋯⋯そうだな。じゃあ、この夏はエアコン工事頑張るか」
「そうね。私たちも頑張りましょう」
そう言うと母親は、断ろうと思っていたエアコン工事をすべて受けると連絡して回った。
今年の夏は忙しくなった。
高校生二年生の初夏は真夏のように暑かった。早朝5時起きで休みの日は午前中に3件。
日陰で空箱のダンボールを片付けながら昼飯を頬張ったあと、暗くなって作業ができなくなるまで4件の現場を渡り歩いた。アルバイト代は高校生には破格の1日2万円を稼いだ。
怜が選んだのは「MBX50」
原付バイクブームにホンダが満を持して投入したスーパースポーツモデルだ。
原付とは思えない大柄なフレームとCBX400Fを思わせる丸みを帯びた大きなタンク。ミニカウルに包まれたスポーティな角目ヘッドライトが斬新な最新鋭のスポーツモデルだ。
最高出力7.2馬力の水冷2ストのエンジンは、世界GPで戦うレーシングマシンからのフィードバックを受けたクラス最高峰のハイパワーユニットを搭載し、最高速は時速90キロを超える。
アルバイトに汗を流し、怜は両親の愛情と、ホンダ「MBX50」を手に入れた。