なんで子供の頃に戻ってんだ?
目が覚めると視界に映る光景は見覚えのある、けれどもはや絶対にあり得ないものだった。
微睡んだ意識を一気に覚醒させて周囲を窺って、ようやく今自分が公爵家の屋敷にある自室の寝具で寝ていたと分かった。
「一体、どうなって……。あたし、死んだんじゃあ……」
呟いて違和感に気づいた。火炙りにされちまった頃にはもう満足に水も飲めないぐらい衰弱してて、絞り出してもせいぜい呻くだけで声にもならなかった筈だよな。なのに独り言を満足に呟けたって、どう考えてもおかしいだろ。
それと声が妙に高い。女性らしく落ち着いた低さが無くて、声変わりする前の子供特有の愛らしさもあるじゃねえか。
慌てて喉元に手をやろうとして、その手と手首も骨と皮だけだった有様じゃなくてぷにぷに小さいことに気づいた。しかも袖を通してたのが上質な布地で作られた寝間着だとも悟った。
混乱しながらあたしは化粧台まで行って自分の姿を確かめて、絶世の美女だと讃えられた公爵令嬢時代とも汚れ果てた罪人時代とも違うと思い知らされた。
まあつまり、まだ生意気だった頃の少女としてのあたしが映っていたってわけだ。
「若返ってる……? じゃあアレはただの夢……?」
聖女として選ばれて、皇太子の婚約者に抜擢されて、最低の屑に成り下がり、そして全てを失ったあのクソ女としての人生は全て悪夢に過ぎず、今のあたしこそが現実なのか、と錯覚を覚えた。
「んなわけねえよなぁ……。アレが夢だったとしたら相当頭いかれてるぜ」
現実逃避なんてしてやるかっての。アレは間違いなくあたしが今後歩んでいく道に他ならねえ。ゴミ屑に相応しい報いを受けた後に神が余計なことしやがってあたしは少女時代からやりなおしてるってわけだ。
「あん? やり直し? いや、何か違えんだよなぁ……」
やり直しだったらあの腐り果てた屑野郎の延長線上として今のあたしがいる筈だよな。でも今のあたしの人格はどっちかってーと公爵家の次女として割と好き放題が許されてた我儘娘だった頃の方が近い気がするんだわな。
「予知夢を見た? それとも未来を疑似体験した? それとも本当にやり直してるけれど性根だけは歪む前に戻されたってか?」
まあいい。少なくともあのクソ女の人格にあたしが乗っ取られなかっただけでも感謝しなきゃな。あんなのが未来のあたしだと思うと反吐が出る。目の前にいたらあの無駄に綺麗で済ましきった顔面をぼこぼこにしてやる所だったぜ。
「つまり、少なくとも今は皇太子の奴とも婚約関係になってねえし、聖女の奇跡を授かってるともばれてねえわけだな」
これ、もしかしてかなりいい時代に引き戻されたんじゃね? 上手く立ち回りゃあ聖女としても公爵令嬢としても、そして皇太子妃としても大成して、そんじょそこらの令嬢共やあのいけすかねえ聖女だって軽く蹴散らせ……、
「馬鹿が、違えだろ……!」
あたしは自分の頬を叩いて邪な考えを振り払う。
そうやって気に食わねえ輩を蹴落としまくったせいで恨みと不評を買った挙げ句があのざまだろ。あの皇太子や聖女の奴を出し抜くのは相当苦労するだろうし、そもそも最低の屑として成功するなんざまっぴらごめんだね。
だとしても聖女としての素質があるって発覚したら最後、今までのさぼりを挽回するように厳しい教育が待ち受けてる。そのせいであんな傲慢なクソ女が出来上がるわけだから、今は正に破滅まっしぐらになるか否かの瀬戸際なわけだ。
「つってもなあ、ありゃどうしようもないよなあ」
そもそもあたしは負けず嫌いなんだよね。最初から興味ない分野なんざどうだっていいんだけど、いざ手を付けると自分が頂点にならなきゃ気がすまねえ。そんな気質もあって歪んでいくんだから、同じ道を反省を踏まえて歩んでく自信が無い。
聖女になっちまったら最後、そのまま破滅まっしぐらになるのは目に見えてる。かといって神聖帝国に生を受けた女性は例外無く聖女適性検査でその素質を計られちまうから、一時仮病で逃げるのも問題を先延ばしにするだけだよな。
となると、だ。やることは一つしかねえわな。
「よっし。逃げるか」
馬鹿を見るって分かりきった道をひた走るなんざまっぴらごめんだわな。だったら思い切って最低の屑に結び付く要素を全部かなぐり捨てて心機一転すれば万事解決って奴だ。おー、あたしって頭いいじゃん。
そうと決めちまえば、と思いたったところで丁度あたし付きの侍女が起こしに来たから一旦中断した。とりあえず今日は何事もなかったかのように振る舞って、夜の自由時間中に一気に準備整えてすたこらさっさだ。
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「おはようございます」
食堂にやってきたあたしは朝の挨拶をして自分の席に向かう……のだけれど、どういうわけか家族全員が驚いたような反応を示してきた。妹なんてスプーンを皿の上に落として軽快な音を立ててたし、弟は咳き込む始末だった。
「ギゼラや……とうとうお母さんの言うことを聞いてくれるようになったのね……」
母が感涙してきてようやくあたしは自分の失態に気付く。
(馬鹿か、あたし……! そういやこの時はまだ行儀とか礼儀とかなんざ無頓着だったじゃねえか!)
最低の屑が叩き込まれた公爵令嬢に相応しい作法が表に出たせいかよ。こりゃ意識しないとあのクソ女の記憶に引きずられてあたしまでゴミに成り下がるじゃねえか。
(こりゃこれから大変だわ……)
あたしは努めて多少行儀悪く着席して食事に手を付けた。食い方は牢獄時代を経ているのもあって母から雷を落とされない程度に乱雑に出来た。それでも何も知らなかった昨日までのあたしと比べればえらい進歩だったらしく、母は感動しっぱなしだ。
「そういえばお父様、あたしってそろそろ聖女適性試験を受ける時期だったよね」
「そうだ。神より奇跡を授かりし聖女を探し出すのは我ら神聖帝国国民の義務。お前にもその務めを果たしてもらう」
「具体的にはいつだったっけ?」
「明日だ。大教会に出向いて神の前で試験を受けることとなる」
わーお。超ギリギリじゃん。
おのれ神様。どうせならもっと余裕をくれたって良かったんじゃない?
「我が公爵家は過去幾人も聖女を輩出した名門だ。お前にもその血が流れている以上、聖女としての素質を宿しているかもしれん」
「もしそうならこの上ない光栄なことだわ。きっとますますこの公爵家の名声が神聖帝国中に伝わることでしょう」
父も母も一見あたしに期待をかけているようで、その実公爵家のことしか考えていないってのは分かってるんだよ。だからあたしが隆盛を極めりゃあ褒め称えるし、馬鹿したら一切擁護せずに切り離しやがるんだ。
口煩い母を尊敬していた。厳格な父に褒められたかった。気品ある姉に認められたかった。妹だって弟だって自慢できる姉になろうって思えていた。けれどそんな思いは全部無駄に終わったわけだ。
今あたしを敬っている使用人連中だって所詮は仕事でそうしているだけにすぎない。その証拠に最後には軽蔑してくる、見下してくる、あざ笑ってきやがる。あたしを案じようとする酔狂な、でも希望になっただろう奴は誰一人現れなかった。
こんな砂上の楼閣に未練は無いね。
「そうですね、お父様」
だからあたしは父と母が望むような笑顔を張り付かせてこの場を乗り切るだけだ。
■■■
夜も更けて晩餐も終えて各々の自由時間に差し掛かった時刻、侍女を下がらせたあたしは手早く準備を整えた。
持ち出すのはお忍びで街に出る為の衣服と台所から盗み出した保存食、あと日記帳と筆記具ぐらいか。洗面道具ぐらいは仕方なく加えた。あと重要なのが金だよ金。ちゃんと金貨を崩して銀貨を揃えておいた。
んで、ドレスやら宝飾品は全部置いていくことにした。持ってったって何の役にも立たないし、売っぱらえばそこから足が付いちまう。思い出深いのも幾つかあったけれど未練は無いね。
身支度を終えたあたしは屋敷内を徘徊する使用人連中に見つからないように抜け出し、闇夜に紛れて広大な敷地を進んでいった。気分は満天の星が支配する夜空のように晴れやかで、鼻歌を歌いたい気分になったな。
んで、超重要なのが、守衛の目を掻い潜って敷地外に出ること。でないと一発でバレて一巻の終わりだからな。でもこれの解決は超簡単で、門をくぐらなきゃいい。見回り連中は侵入者には気を配るけれど脱出者は想定してないものな。
「あばよ。見栄ばっか気にするくそったれ共」
そんなわけでたまに使う子供しか通れない隙間から外に出たあたしは、振り返ること無く公爵家の屋敷をあとにしたとさ。