減量……
試合が迫って来ました……
7月も半ばを迎え、佐伯も甲斐も減量に入っていく。試合前の1番苦しく辛い時期であり、これを乗り切って初めて試合となる。減量が辛いというのは、ボクサーであれば誰でも分かっている事では有るが、改めて話しておきたい。
最近では、ウェートオーバーで試合が出来なかったり、チャンピオンが剥奪になったりと世界で色々起きている。実際にウェートというのは、かなり重要である。1kgウェートが違うだけで、パンチの威力は相当違う。ウェートを揃える事で対等となり、やっと試合として成立するのである。だからこそ、階級での駆け引きが有る。減量が終わり試合までにエネルギーをたくわえる訳だが、階級を落とす事でエネルギーを試合までにたくさん蓄え、更には増えたウェートを考えても、いつものウェートに近い為に試合で身体を重く感じる事は無い。もっと言えば、元々上の階級なら相手のパンチはある程度我慢が出来る。
ウェートの壁は、思っている以上に厄介である。
また、減量で辛いのは精神面もである。ウェートが落ちない期間は、試合が出来るか不安が付き纏う。最初の頃は食事が出来ない苛立ちに加え、この不安が選手を蝕んでいく。
しかし、減量が進むともっと厄介で邪魔な物が出て来る。恐怖心である。減量が進むと、食事だけでなく水分さえもストップする事になる。この時期になると、自分が日に日に弱っていく事が分かる。試合が近付いて来る中、自分が強くなっている感覚が無い。その上で対戦相手のビデオは勝利している所であり、場合によっては1番素晴らしいファイトであったりする。そのビデオから、対戦相手がもっと強い場合を考えてしまい、今の自分と比べて恐怖心が出て来るのである。この恐怖心が選手を押し潰す様に、選手の心を大きく覆う。厄介極まりない。
そんな苦しい減量、佐伯も甲斐も試合に向けて始める事になる。
7月20日、減量開始である。
佐伯はいつも通りの練習をする。ロードワークに始まり、シャドーボクシングを経てスパーリングからサンドバッグを叩き、ミット打ちに筋力トレーニング、更にシャドーボクシングまでを行う。きつい練習であるが、練習自体は変わらない。減量も始まったばかり、まだまだ元気である。
甲斐についても、佐伯と大差無い。ロードワークからシャドーボクシング、スパーリングにミット打ち、サンドバッグを打って筋力トレーニングからシャドーボクシングと基本の練習は殆ど変わらない。これを何処迄追い込んで出来るかである。甲斐も減量が始まったばかりで元気である。
8月1日、減量最初の山場である。
食事が殆ど入って来ない為、佐伯は少し苛ついていた。そこに付け加え、スパーリングパートナーの喜多は手を抜かない。スパーリングでいい手応えが有れば違うのかもしれないが、喜多相手にそこまで上手くいく筈が無い為、佐伯の苛立ちは少し増していた。
「誰も頼んでねぇのに、勝手にやってるボクシングで苛立ちを表に出すな!」
佐伯は、池本から大声で起こられていた。
佐伯のウェートは、リミットまで残り2.2kgである。
一方の甲斐だが、こちらはこちらで大変である。佐伯と同じ様に、スパーリングでパートナーの手塚は手を抜かない。スパーリングは納得出来る物ではない所までは同じであるが、甲斐は納得いかないとの事でサンドバッグを叩き続ける。このサンドバッグ打ちが余りに長い為、篠原トレーナーや手塚が無理矢理練習を止める。
「オーバーワークだ!」
「足りないですよ、手塚さん!」
「休むのも仕事だ!」
「まだまだ足りません!」
「……甲斐……手塚の言う事が分からないなら、今度の試合は棄権にする…………どうですか、篠原さん?」
「納得だね……棄権するなら、いくらでも練習しなよ」
「…………………………」
「分かったなら、シャドーして上がれ!」
「…………はい……」
どうやら、何とか練習を終わりに出来た様である。
甲斐のウェートは、リミットまで1.7kgである。
8月10日、ランディ·ランデルマンとブロッグ·アローナが日本に到着した。空港でマスコミが待ち構え、2人にインタビューをする。
「佐伯は俺の前にひれ伏すのさ!」
「甲斐は俺の前に大の字だ!」
2人からはKO宣言が飛び出した。とはいえ、2人は強気な事が言えるくらいに好調なのかもしれない。侮りがたしである。
佐伯はこの日、ウェートがリミットに達した。
一瞬安堵の表情をする佐伯だが、すぐに非情を引き締めた。現段階で、ようやくスタートラインに立っただけだと分かっているからである。
甲斐はリミットまで500gとしていた。
後少しではあるが、ウェートがリミットまで達しないと安心は出来ない。甲斐は今日も厳しく練習し、今日も手塚にきつく怒られていた。
8月15日、ランディとブロッグの公開スパーリングである。
ランディの所には、石谷トレーナーと喜多が偵察に来ていた。ランディは3ラウンドのスパーリングをしたが、かなり切れた動きをしていた。流しているが、随所に見える確かなパンチとフットワークに喜多は警戒を強めた。
ブロッグの方は、篠原トレーナーと手塚が偵察に来ていた。ブロッグも流しているが、スパーリングパートナーを圧倒している。こちらも3ラウンドのスパーリングであったが、明らかに調子は良さそうである。
この日の佐伯と甲斐は、ウェートもリミットに達しており、疲れを抜きながらの練習になっていた。試合に向けて、着々と準備を整えている感じである。
8月16日、佐伯と甲斐の公開スパーリングである。
佐伯は川上会長が用意したパートナーを相手に、3ラウンドのスパーリングをする。流してはいるが、フットワークの軽さやパンチの切れには目を見張る物が有る。仕上がりは良さそうである。
偵察に来ていたランディのセコンド陣も佐伯の動きを見て、その目を険しくさせていた。
甲斐は西田会長が用意したパートナーを相手に、こちらも3ラウンドのスパーリングをするが、パートナーが凄い事になっていた。本来なら、軽く流せる程度で有る筈なのだが、何を勘違いしたのか西田会長は、Sフェザー級の世界ランカーで日本のジムに所属しているギミック·タファレルを用意した。
誰もが思っている様に、公開スパーリングが激しい物になった。この中で、甲斐は確かにいい動きをしていた。仕上がりは上々である。
このスパーリングで、思いもしない収穫が有った。ブロッグのセコンド陣は、フェザー級の後の標的にギミックも考えていた為、甲斐の分析は中途半端に終わった。特に西田会長の狙いではなかったのは確かである。
この後、
「何考えてるんですか?」
「……僕も、西田君の頭の中身を見てみたいよ……」
西田会長が、篠原トレーナーと手塚にかなり怒られたのは言うまでも無い。
8月24日、計量日。
佐伯は喜多と、甲斐は手塚と会場に入った。ランディとブロッグは先に着いていた。ランディもブロッグも計量を1発でパスし、佐伯と甲斐も計量を1発でパスした。改めて会見場に場所を移す。
「ランディとブロッグ、日本のホープと試合する訳ですけど?」
「ホープ……日本は楽な国だな……」
「ランディ、そう言うな……明日、本物のボクシングを見せればいいんだ!」
「佐伯選手に甲斐選手、どうですか?」
「……ランディは……明日、自分の言った言葉を後悔します」
「……お前に出来るのか?」
「俺だから出来るんだ!」
「甲斐選手は?」
「いつも通りですね」
「つまらない男だな?」
「忘れてた!……ミスター·フロック!」
「??……俺はブロッグだが?」
「いやいや、フロック(まぐれ)チャンピオンだったんだろ?……明日は俺に倒される運命さ!……まぐれは続かない!」
「……この野郎!」
「本物のボクシング……俺が見せてやるよ!」
この後、佐伯も甲斐も対戦相手との睨み合いになり、喜多と手塚が2人を羽交い締めにして連れ出した。ランディとブロッグもお互いのセコンド陣に無理矢理連れ出され、会見はここでお開きとなった。
明日、世界戦に繋がる大切な試合のゴングが鳴る。
どうなる……




