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花のたよりの文使い

作者: 紫藤市
掲載日:2019/09/08

――紫陽花(あじさい)が見頃を迎えました。貴方様のご都合のよろしい日に、是非当家へ花見においで下さい。

 流麗(りゅうれい)な筆使いで短冊に書かれた文面と、隅に描かれた青い紫陽花の絵に見惚れた(おお)()芙美(ふみ)は、まぁ、と感嘆の声を上げた。


「兄様、(わた)(ぬき)さんからお手紙が届いていますよ。東京に行かれる前に、お返事を書かれてはいかがですか」


 荷造りをしている兄の目の前に、渡貫(しん)()から届いた封書をずいっと突き付ける。

 兄の友人である眞哉は、画家を志して東京美術学校へ進んだが、この春に卒業して実家へ帰ってきたと芙美も噂では聞いていた。


「時間が無い。返事はお前が書いてくれ。そうだ、ついでにこの土産を届けておいてくれないか。前にあいつから頼まれていた仏蘭西(ふらんす)製の水彩絵の具四十八色入りだ」


 山のように積まれた書物の間から油紙で包まれた木箱を取り出すと、(ひろ)(ちか)はそれを芙美に向かって放り投げる。

 慌てて手紙を小脇に挟んで箱を掴んだ芙美は、ずっしりと腕にかかる重みに顔を顰めた。


「渡貫さんにご挨拶もせず、東京へ行かれるのですか」

「向こうに着いたら手紙を書く。もう時間がないんだ」


 背広の内ポケットから瑞西(すいす)製懐中時計を取り出し時刻を確認すると、泰親は辺りに散乱している衣類を手早く旅行鞄に詰め込んだ。


「東京に着いたら、父様にわたしの進学の話をしておいて下さいね。父様はわたしが繰り返し手紙を出しても、なしのつぶてなんです」

「東京女子高等師範学校に入りたいという話か? あれはまず無理だろう。父様はお前が教員になることに断固反対しているんだ」

「別に東京じゃなくてもいいんです。奈良にできた学校の方でも……」

「わかったわかった。父様には、お前が進学したがっていることは伝えておく」

「絶対ですよ?」

「父様を説得する手伝いはしないけどな」


 芙美の期待に満ちた眼差しに気付いた途端、泰親は渋い表情になって釘をさす。


「ところでお前、父様にいったいどれだけ手紙を送ったんだ?」

「兄様が欧羅巴(よーろっぱ)に行かれて以来ずっと、毎週一通ずつですから、百通は越えているんじゃないかしら」


 女学校在学中から、芙美は毎週のように東京の父に手紙を出し続けた。どれもすべて、女子高等師範学校へ進学し、将来は教員になりたいという内容だ。


「そんなに……」

 泰親は妹のしつこさに呆れ返り、絶句した。


「しかし、お前ももう十六なんだ。そろそろ結婚を考えるべきだろう。良家の子女が働くなど、ありえん。お前の同級生たちだって、皆次々と嫁いで行っているのだろう?」


 女が働くなど貧しい家の者がすることだ、というのが父と兄の共通した見解だ。


「わたしはその辺りの娘とは違います!」


 豪農・大野家の娘は才色兼備だ、と褒めそやされて育った芙美は、帝国大学を卒業した兄や従兄たちの姿を見ているだけに、女学校時代から卒業後は上級学校に進学することを当然のように望んでいた。女学校の教師たちも、彼女が東京女子高等師範学校に入学する最初の卒業生となることを期待していた。

 しかし、学校外では進学や就職に対する価値観がまったく異なる。

 都会では働く女性を職業婦人と呼んで持てはやしているが、地方において女が結婚もせず外に働きに出るなど、その職業が教師であっても眉を顰められることが多い。


「耳元で怒鳴るな」


 にじり寄ってきた芙美を押し戻すと、泰親は閉じた旅行鞄を手に立ち上がった。


「父様には返事を送るように伝えておく。どうせ父様も、お前の手紙攻撃に辟易して放ってあるだけなんだろうしな」

「では、わたしは決して教師になることを諦めませんから、早々にお許しの返事を下さいと父様に伝えていただけますか」


 父が了承してくれなければ進学はかなわないが、芙美はそう簡単に進学を断念するつもりはなかった。


「伝えるだけは伝えておく。あ、絵の具はちゃんと渡貫に届けておいてくれよ。どうせその手紙だって、僕にさっさと土産を持ってこいという督促なんだ。絵の具さえ携えて行けば、別に僕でなくとも良いのだからな」


 交換条件というわけではないだろうが、絵の具が収められた重い長方形の木箱を抱えた芙美は、大きく首を縦に振った。


     *


 泰親が東京へ発った翌日、芙美は渡貫眞哉を訪ねることにした。

 久しぶりに会うのだからと、はりきって正月に買ったばかりの薔薇(ばら)模様の(めい)(せん)を羽織り、髪は三つ編みにして巻き上げる。

 右手に日傘を、左手には仏蘭西土産の絵の具の箱を抱え、芙美は一里ほど離れている渡貫家へと徒歩で向かった。

 渡貫家は大野家ほどではないが、それなりの田畑を持つ豪農だ。見渡す限り青々とした稲が生い茂っている田圃の真ん中に建つ、立派な門構えの屋敷は大野家とよく似ている。

 眞哉とは、彼が東京美術学校に行く直前に会って以来だから、五年ぶりくらいだろうか。卒業後は画家として東京で修行を積むことなく、生活の心配がない地元へ戻ってきた。幾人かの画家に弟子入りを申し込んだものの断られ、失意の帰郷だという噂も耳にしている。

 眞哉はあまり押しの強い性格ではない。一回弟子入りを断られると、そのままあっさりと諦めてしまったに違いない。粘り強く幾度も交渉するということを知らないのだろう。

 幼い頃から画帳に絵ばかりを描いている子供だったが、泰親とは仲が良かった。

 芙美は昔から眞哉の絵をほとんど見たことがない。どういうわけか、恥ずかしがって見せてくれなかったのだ。


「ごきげんよう。大野芙美です。眞哉さんはいらっしゃいますか」


 母屋の正面玄関の引き戸を開けると、日傘を閉じ、芙美は声を張り上げた。

 渡貫家は広い。母屋の他に離れ、納屋、蔵、牛小屋がある。家族は眞哉と両親、祖父母、曾祖母の七人。眞哉には弟が二人おり、どちらも帝国大学に進学している。

 自分も男だったら良かったのに、と芙美は眞哉の弟たちを羨んだ。女と言うだけで、高等師範学校に進学するだけでも一苦労だ。なんで自分は女に生まれてしまったのだろう、といまさらどうにもならないことをつらつら考えていると無性に悔しくなってきた。


「やあ、芙美さん。お久しぶり」


 しばらく経って、階段を下りる足音が聞こえたかと思うと、奥の障子が開いて眞哉が顔を出した。紺色の単衣に縞模様の袴姿で、袖はたすきでからげている。


「眞哉さん、ごきげんよう。今日は兄の名代で参りましたの」


 即座に気持ちを切り替えてにこやかに微笑むと、芙美は礼儀正しく挨拶をした。


「せっかく眞哉さんがお便りをくださっていたのに、兄は昨日、東京へ出発してしまいましたの。それで兄から、こちらへ訪問できないお詫びと、これを眞哉さんにお渡しするようことづかってきましたわ」


 油紙に包まれた重い箱を両手で差し出す。


「ご要望の仏蘭西製の絵の具だそうです」

「わざわざありがとう」


 箱を受け取ると同時にずっしりと手にかかった絵の具の重みに、眞哉の口元が緩む。


「折角ご足労いただいたことですし、良かったらどうぞ上がってください。絵を描いていたところなので、少々散らかっていますが」

「では、お邪魔します」


 かつては毎日のように遊びにきていた家なので、芙美は遠慮無く上がることにした。

 通された居間の畳敷きの床と縁側の板間には、辺り一面を紙が散乱していた。どれも鉛筆で線画だけが描き散らかされている。

 縁側の外に広がる内庭に視線を向けると、西洋紫陽花が青や紫、薄紅色と色とりどりに咲き乱れている。梅雨の晴れ間の陽射しを浴びた紫陽花は、今が盛りだ。

 眞哉は床の上の紙を抱え込むように掻き集めると、そのまま居間を出て行った。相変わらず絵を見せてくれるつもりはないらしい。


「紫陽花を描かれていたのですか?」


 盆に緑茶と菓子を載せて戻ってきた眞哉に尋ねると、彼は頷いた。


「お仕事の邪魔をしてしまったようで、申し訳ありません」

「いえ、仕事というものではなく、ただ綺麗に咲いていたので描いていただけです」


 座卓の上に湯飲みと饅頭を盛った器を並べると、眞哉は苦笑いを浮かべた。


「私は美術学校こそ卒業できたものの、絵を描くことを仕事にできるほどの器量はないことを、東京で嫌というほど思い知りました。ただ、絵を描くことが好きだという気持ちは、変わらないものですから」

「まぁ。画家さんになるのも難しいのですね」


 遠慮無く緑茶を飲み、饅頭に手を伸ばして食べながら、座り込んで項垂れる眞哉を眺めた。一心不乱に絵を描いている際の、張り詰めた緊張感が全身にみなぎっているときとはまるで別人だ。


「じゃあ、眞哉さんはご長男ですから、お家を継がれるのですか?」

「そうですね。そうなると思います。絵は……趣味で描き続けることになるかと」


 口籠もりつつ、ぼそぼそと眞哉は答えた。


「ところで芙美さんはいま、どうされているんですか? 泰親の話では、女学校は卒業されたとか」

「東京女子高等師範学校に進学するため、勉強中です」

「え?」


 視線を自分の膝に向けていた眞哉が、顔を上げてまじまじと芙美を凝視した。


「わたし、教師になりたいので、女子高等師範学校に進んで、教師の資格を取るつもりでいます。進学できるのであれば奈良の方でもいいんですけど、とにかくどこかの師範学校に入らなければ教師にはなれませんしね」

「教師、ですか。芙美さんが……」


 力説する芙美の姿に気圧されたのか、眞哉は戸惑った表情を浮かべた。


「でも、芙美さんなら働かずとも」


 またそれか、と芙美は顔を顰め、眞哉を睨み付けた。

 生活に困っているわけでもないのになぜ働こうとするのか、と誰もが彼女に尋ねる。結婚し、夫やその両親を支え、子供を産み育てればよいではないか、と口を揃えて諭されるのが、なによりも腹立たしくて仕方ない。


「わたしは、生活のために働くのではありません。女学校に通っていた当時から、教師という仕事に憧れていたんです。女であろうと、読み書き算盤(そろばん)裁縫ができれば良いというものではありません。これからの時代、女ももっとたくさんのことを学び、広い視野を身に付け、世に出て活躍するべきなのです」


 力説するあまり、湯飲みを持っていない左手を自然と握りしめていた。そのまま、無意識のうちに座卓の上へ拳を強く振り下ろしてしまう。ドンッと激しい音が響き、座卓の上の湯飲みと菓子が大きく揺れた。


「なのに、うちの分からず屋の父は、女が教師になるなど言語道断の一点張りで、師範学校に入ることを許してくれないのです」

「そ、そうなんですか。大変ですね」

「大変どころではありません。わたしはいま、毎週のように東京の父へ手紙を送っているんです。いかにわたしが師範学校に入りたいか、教師の仕事に就きたいと真剣に考えているかを事細かく書き綴り、父を説得しようとしているのですが……いまだ一度も返事を貰ったことはありません」

「毎週、ですか!」

「眞哉さんも本気で絵描きになりたいのであれば、弟子入りしたい画家の先生のところに最低でも毎週一通は手紙を送るべきです。眞哉さんは男ですから、熱意さえあればそのうち画家の先生もほだされてくれるはずです。それに眞哉さんは才能ある方なんですから、もっと頑張るべきです! こんなところで暢気に絵を描いている場合ではありません!」

「私は、頑張りが足りませんか?」


 芙美よりも七つ近く年上だというのに、眞哉は神妙な顔で説教を聞いていた。


「全然足りません」


 きっぱりと芙美は断言する。


「東京の美術学校を卒業しているのに、すごすごと帰ってくるようでは、駄目です」

「しかし、画家として稼げる者など一握りなのですよ」

「その一握りになるために、眞哉さんはどれほど奮闘しましたか? 一度弟子入りを断られたくらいで諦めてしまうなんて、弱腰もいいところです!」

「……すみません」


 叱られた子供のように、眞哉は俯く。


「今日からでも、眞哉さんは東京の画家の先生にもう一度手紙を書くべきです。週に一通どころではなく、三日に一通は送るべきです。そして、いかにご自身がその画家の先生の弟子になりたいかという熱意を示すべきです」

「私にそれほどの熱意があるかどうか……」

「熱意を持ってください」


 座卓に両手をつくと、ずいっと身を乗り出して芙美が迫った。


「わたしは眞哉さんの絵を見せていただいたことはありませんが、兄は眞哉さんの絵を誉めていました。兄が芸術を理解できる感性の持ち主だとは思いませんが、あの兄が誉めるくらいですから、眞哉さんの絵はとても素晴らしいのでしょう。そんな才能のこのような田舎で埋もれさせてしまうなんて、勿体なさ過ぎます」


 湯飲みを持っていた眞哉の手を掴み、芙美は真正面から相手の顔を覗き込む。


「私はそこまで言っていただけるほどの」


 眞哉は端正な白い顔を赤らめ謙遜したが、明らかに誉められたことよりも、手を握られたことに反応していた。

 もっとも、芙美は相手の様子などまったく頓着せず、熱弁を振るう。


「自分で自分の才能を見極めてしまっては駄目です。芸術とは、常に他人の評価によって成り立つのです。自分がいくら満足できる出来映えだと主張してみても、他人がそれを素晴らしいと誉めてくれなければ、ただの落書きと一緒です」


 芙美が辛辣な意見を捲くし立てると、照れて口籠もっていた眞哉が今度は絶句した。


「眞哉さんは、誰からも評価されていないわけではないんです。少なくとも、兄はあなたの絵を誉めています。ならば、諦めてはいけません。もっと努力をして、画家として大成する道を切り開かなければ!」

「は、はい。あの、ところで私は、芙美さんに私の絵を見ていただいたことはありませんでしたか?」


 なんとか話題をそらしたいと考えたのか、眞哉はおずおずと訊ねる。


「一度もありません」

「そうでしたか。それではいま描いている絵が完成したら、是非お見せします」

「わたしはさきほどの線画も見せていただけると嬉しいのですが」


 鉛筆で描かれた紫陽花は一瞬しか目にすることはできなかったが、かなり精緻に描き込まれていた。まだ下絵にもなっていないものだろうが、芙美としては眞哉の絵が完成するまでの過程を最初から見ておきたかった。


「あれはただの素描(そびょう)です。披露するほどのものではありません」


 やんわりとではあるが、眞哉は見せることを拒んだ。


「では、早く完成させて見せて下さい。楽しみにしております。今日のところはわたしはこれで失礼します」


 無意識に握り締めていた眞哉の手を放すと、軽く頭を下げ、芙美は腰を浮かせた。


「いや、せっかくいらしたのですから、もう少しゆっくりとしていかれても」

「眞哉さん、あなたはわたしと暢気にお茶をしてお饅頭を食べている場合ではありませんよ! 東京の先生に手紙を書き、絵を描き、そしてまた手紙を書くという大切な使命があります。貴重なお時間をわたしに費やしている場合ではありません」


 芙美が強い口調で叱咤する。


「は、はい」


 神妙な顔で居住まいを正した眞哉は「御教示を賜り有り難うございます」と頭を下げた。


     *


 芙美に強要されたこともあり、眞哉は美術学校卒業前に弟子入りを志願しに出向いた画家へ、門弟として修行をさせて欲しいと手紙を送り始めた。最初は一週間に一度の割合で手紙を書いていたが、すぐには返事がなかったことと、芙美がもっと頻繁にしつこいくらい手紙を送るべきだと促したため、三日に一度は手紙を書くようになった。

 最初の一ヶ月間はまったく反応がなかったが、二ヶ月目の半ばになって、画家から返事が届くようになった。といっても、どれも書生か弟子の代筆とわかる字で、遠回しな断りの文句が綴られているだけだ。


「ここはひとつ、ご本人から明確に断りの返事が送られてくるまでは、諦めずに手紙を送り続けるべきです」


 眞哉から画家より届いた手紙を見せてもらった芙美は、強い口調で指示した。


「しかし、相手に嫌がられませんか?」

「そんな弱気でどうするんですか。もしかしたら眞哉さんが送っている手紙は、画家の先生の手元にまで届いていないかもしれないんですよ。画家の先生には眞哉さんが送っているような、弟子入り希望者からの手紙が毎日のように届いていて、お弟子さんたちが読んでは、適当に返事を書いているだけかもしれないじゃないですか」

「それならなおさら、いくら手紙を書いても無駄なのでは」

「繰り返し手紙を書き続ければ、そのうちの一通がなにかの拍子でその先生の目に留まるかもしれません。熱意と執念で、手紙は書き続けるのです!」


 もはや執念で父宛に毎週手紙を書いている芙美は、眞哉にも諦めることを許さなかった。


「わかりました。ところで、芙美さんの成果はいかがですか」


 座卓の上に並べた手紙の束を掻き集め、眞哉は穏やかな口調で訊ねた。


「お父上から、良い返事はありましたか?」


 うっと言葉を詰まらせた芙美は、唇を引き結ぶと、視線を内庭にそらす。

 紫陽花は葉だけになっていたが、そばに植えられている夾竹桃の白い花は満開だ。


「進学の許しが出ていれば、今頃は東京に行っています」


 ふて腐れた顔で、ぶっきらぼうに言い返す。


「そ、そうですね」


 相手の機嫌を損ねたことに慌てたのか、眞哉は挙動不審なくらい狼狽えた。


「あぁ、そうだ。実は芙美さんに見ていただきたい物があるんです。前々から描いていた紫陽花の絵がようやく完成したんですよ」


 いそいそと座布団から立ち上がると、眞哉はいったん居間を出て行った。

 ひとり居間に取り残された芙美は、ぬるくなった麦茶を一気に飲み干し、溜め息をつく。

 眞哉には代筆とはいえ画家から返事が届いているというのに、自分の父からはまったく音沙汰がない。こうも無視され続けていると、父が自分を進学させる気がない事実を、まざまざと突き付けられていることを実感する。繰り返し手紙を書けばいつか自分の熱意が父に届くに違いない、という期待もついえかけていた。


「お待たせしました」


 木箱を抱えて戻ってきた眞哉は、それを座卓の上に置いた。


「芙美さんに見ていただくとなると、泰親に見せるような中途半端なものではいけないと、展覧会に出すつもりで描いたんですよ」


 箱の蓋を開けると、中には油絵が入っていた。まだテレビン油の臭いがするその絵は、色鮮やかな紫陽花が咲き誇っていた。その木の根元には小さな蛙の姿がある。


「どうですか」


 画布を箱から取り出し、芙美の真正面に立てる。

 十号の大きさの中に、二ヶ月前の庭の紫陽花が写し取られていた。


「とても、素晴らしいと思います」


 繊細な筆遣いの絵に心を奪われる。


「これは、東京の画家の先生に送ってみてはどうでしょうか。手紙だけでは眞哉さんがいかに将来有望な方かは伝わらないでしょうけれど、絵をご覧になれば、きっと弟子にしたいと思って下さることでしょう」

「以前、先生を訪ねた際も絵を持っていったんですが、一瞥されただけで終わってしまいました」

「それは半年以上前のことでしょう? その頃といまとでは、違うかもしれないじゃないですか」


 こんな生き生きとした紫陽花の絵を見て、眞哉の才能を見抜けないのであれば、その画家もたいしたことはないのかもしれない。


「芙美さんがそうおっしゃるのであれば。……本当は、この絵は芙美さんに受け取っていただきたかったのですが」


 いささか残念そうに眞哉が目を伏せる。


「お気持ちは嬉しいのですが、でもやはり、こんな素敵な絵をわたしが独り占めするわけにはいきません」


 東京の画家に送れば、眞哉の才能が認められるかもしれない絵だ。受け取るわけにはいかない。


「じゃあ、もしこの絵が東京から送り返されてきたら、そのときは受け取っていただけますか?」

「はい、いただきます」


 芙美は快諾した。

 多分、絵が戻ってくることはないだろう、と思いながら。


     *


――(はぎ)の花が見頃を迎えましたので、お裾分けのお届けに参りました。


 たくさんの花をつけた萩の枝と一緒に、眞哉が訪ねてきたのは初秋のことだった。

 この日、芙美は朝から女学校時代の友人と映画を観に出掛けており、家を空けていた。

 お昼近くに渡貫さんがお見えになったのよ、と母から伝えられ、自室の文机の上に手紙と萩の花束を置いたことを告げられた。


――芙美さんのおかげで、弟子入りが認められました。来週、火曜日に上京いたします。


 相変わらずの達筆で簡潔に書かれていたが、早く芙美に知らせたいという彼の気持ちが、一字一字から滲むように伝わってくる。


「渡貫さん、どのようなご用だったのかしら」


 部屋までついてきた母は、手紙こそ覗き込まなかったが、有無を言わせぬ口調で尋ねた。


「東京の画家の先生のところに弟子入りが決まったそうです。来週の火曜日に上京するとお知らせくださったんです」

「まぁ、それは良かったわね。ここではいくら絵を描いても、見てくれるような偉い先生もいらっしゃらないものね。渡貫さんもこれでいままで通り絵に集中することができるでしょう。東京の泰親さんにもお知らせしてさしあげなくては」

「多分、眞哉さんがご自身で兄様に手紙を書かれていますよ」

「そうね。では、こちらの近況だけ泰親さんに知らせてあげてちょうだい」

「手紙で知らせるような話がありましたか?」

「再来週の日曜日は、芙美さんのお見合いじゃないの」

「はい? そんな話、聞いていませんよ!」


 思わず芙美は母に食ってかかった。


「あら、そうだったかしら。私、きちんと芙美さんにお話したつもりでいたのだけれど」


 頬に手を当て、母はおっとりと首を傾げる。


「聞いていません」

「まぁ、それはごめんなさい。でも、いま話したからいいわよね」


 娘の都合などおかまいなしだ。


「え? あ……はい」


 当日の朝になって、今日はお見合いですよ、と言われるよりはましだが、どうやらこれは早急に腹をくくらなければならないようだ。

 萩の花を手に、芙美はある決意を固めた。


     *


 火曜日の朝、芙美はお気に入りの小菊の模様を散らした銘仙を着て、家を出た。上京する眞哉を見送ってくる、と母には告げる。手には風呂敷で包んだ小さな荷物と、手提げ鞄、あとは空が曇っているので雨傘を持った。

 駅舎に入ると、切符を買い、待合室の椅子に座って汽車が入ってくるのを待つ。

 渡貫家の面々が構内に入ってくる姿が目の端に映ったので、そっと椅子から立ち上がり、隠れた。汽車が黒い煙を吐きながら入ってくると、芙美はすみやかに車両に近づく。車掌に愛想笑いを浮かべつつ切符を見せ、そのまま乗り込んだ。

 駅舎の中では、渡貫家の人々が眞哉を囲んで別れを惜しんでいたが、まもなく眞哉は下駄を鳴らしながら、車両に乗り込んだ。

 それを待ちわびたように車掌が笛を吹く。同時に、汽車は動き始めた。

 数分後、汽車から駅舎が見えなくなったことを確認してから、芙美は座席を移った。


「眞哉さん、ごきげんよう」


 正面から近づいて声を掛けると、眞哉は椅子から飛び上がらんばかりに驚いた。


「芙美さん! なんでこの汽車に!?」

「実はわたしも東京に行こうかと思いまして」


 眞哉の向かいの席に腰を下ろすと、他の乗客には聞かれないよう小声で告白する。


「いつまでの父の許しを待っていては埒があきませんし、家にいては見合い話が持ち込まれて進学どころではなくなってしまいそうなので、家出することにしました」


 最後だけは声を潜めて告げた。


「せっかくですからご一緒させてください」

「あの、それは構いませんが、お見合いを蹴って家出とは穏やかではありませんね。東京に行かれたらどうされるおつもりですか」

「まずは東京の父のところへ行き、進学について直訴してきます。父が反対して追い返そうとしても、帰るつもりはないと言い張ります。多少はお金も持ってきたので、数日間はなんとか旅館にでも滞在できますし」


 膝の上に載せた風呂敷包みを開き、ほら、と財布を見せようとしたところで、芙美は着替えの着物と一緒に入れた覚えがない封筒があることに気づいた。

 手にとって中を覗くと、たくさんの紙幣と一緒に、三つに折りたたんだ便箋が一枚入っている。


――眞哉さんが画家として大成するまで、お支えしてあげなさい。


 一読した途端、便箋を握りしめた芙美は、自分の膝の上に突っ伏して呻いた。


「……母様、誤解です」


 なにごとかと芙美の隣に移動し、便箋を覗き込んだ眞哉も、絶句し赤面する。


「母様、わたしは東京に勉強しに行くんです。師範学校に入って教師を目指すんです。眞哉さんについて行きたいわけではないんです」


 思わず、便箋に向かってぼやく。

 この分だと日曜日の見合い話も、芙美の家出を促すための母の嘘だった可能性がある。近頃、芙美が眞哉のところに足繁く通っていたものだから勘違いしたのだろう。東京の師範学校へ行きたいと言い続けていたのも、眞哉が東京に行くからだと解釈したのかもしれない。


「私は、芙美さんと駆け落ちしてもいいです」


 芙美が差し出した便箋の文面を繰り返し読んだ眞哉は、囁くように告げた。


「いえ、わたしは進学するために家出するのですし、これは母が勝手に誤解しただけです。わたしはひとりで旅をしたことがないので、眞哉さんと一緒なら旅慣れないわたしでも東京に辿り着けるだろうと、今日を家出決行日にしただけで、ご迷惑をかけるつもりでは」


 顔から火が出そうになりながら必死に言い訳をするが、それを眞哉は遮った。


「迷惑なんてとんでもない。私は芙美さんとご一緒できて、内心とても浮かれています」


 眞哉は芙美の正面の座席に移動すると、姿勢を正し真面目な顔をして訥々(とつとつ)と続けた。


「私は当面、通いの弟子として先生のところで修行するのですが、下宿先などはまだ決めていません。でも、芙美さんが一緒なら、芙美さんの学校に近いところを探しますよ」

「なんで、いつになく積極的なんですか?」


 眞哉ならば絶対家に帰るよう説得しにかかるだろうと予想していた芙美は、唖然となる。


「芙美さんの影響でしょう、きっと」


 悪びれることなく眞哉がうそぶく。


「今度は私が芙美さんの応援をする番ですね」

「応援してくださるんですか? わたしが教師になるまで?」

「もちろん、芙美さんが教師になってもずっと、です」


 満面の笑みを浮かべ、眞哉ははにかみながらも大きく頷いた。

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