調査旅行
研究室ではいつものように教授がパソコンに向かって執筆を行っていた。誰が部屋に入ってこようと気にする様子もなく、手を止める気配すらない。
「来週の調査旅行の計画が出来ました」
「ああ……一区切りついたら目を通すから……ちょっと待っててくれ」
カチャカチャとキーを叩き画面を見つめたまま教授は答える。私はファイルを机に置くと、部屋のなかを見回した。教授の助手となり二ヶ月ほど経つが未だにこの部屋には慣れずにいた。壁といい棚といい、いたる所には奇怪で面妖な意匠の仮面や置物が飾られていて、そのどれもがなんとも禍々しい気を発しているのだ。教授が世界各地の未開の地へ調査旅行に出かけた際に持ち帰った研究素材であり戦利品の数々。それらは、日本の大学の小さなこの部屋にやって来てもなお、深い呪いの念をその内に秘め、来訪者を静かに、だが激しく見つめている。
私がこの部屋に苦手意識を抱えているのは飾り物のせいだけではなかった。教授に対しての不信感のようなものも拭えずにいたのだ。教授は研究者としての実力と実績は確かなものであり、それについては異論を唱える者はいないだろう。だが、人格に著しく難があり、始終トラブルを抱えていて、厄介な人間だというのが学内における統一された教授の評価であろう。現に助手も短い期間で何人も代わっていて、それ故に私に助手をやらないかと声がかかったのだ。オファーを受けた時に友人たちは皆声を揃えて止めた方がいいと忠告した。私も気が進まなかったが、報酬とこれからのキャリアを考えるとその魅力には抗うことが出来ず、結局その仕事を引き受けることに決めたのだった。
「ところで……」教授はキーを叩きながら言った。「君の論文を読んだが」
「はい」
「なかなかいいね。うん、よく出来てる」
「ありがとうございます」
私は心の中で跳びあがり万歳をした。ところが次に教授の口から出た言葉が私の心を曇らせる。教授はやっと画面から視線を外すと私を見てメガネのブリッジを左の中指で押さえた。
「物は相談だが……あの研究は私と共同ということにしてみないか?」
「え、でも……」
教授は冷たい視線でじっとこちらを見つめている。
「まことに申し訳ありませんが……あの研究は私ひとりでやり遂げたいので……すみません」
「……まあいい。頑張りたまえ」
教授はまた画面に戻りキーを叩き始めた。その音はガチャガチャと先ほどよりも荒いような気がする。気まずく、居たたまれない気持ちを紛らわそうと、私はあの禍々しい蒐集品をひとつひとつ改めて眺めてみた。この部屋にはそれしか見る物がないのだから仕方がない。
棚に並べられた大人の拳大の置物に私の目は引かれた。それらはとても小さかったが、どう見ても人間の頭部のように見える。作り物だろうか。そのとき、どこかの原住民が人間の頭を干して作る装飾品のことを思い出した。薄気味悪かったが、私の目はその小さな首にくぎ付けになっていた。
よくよく見ていると、いくつか並んでいるうちの、一番端に置かれた一番新しく見える首の、その顔になんだか見覚えがあるような気がしてきた。おかしなことだが、ありえないことだが、確かに見覚えがある。そしてついに結論にたどり着き、私の背筋に冷やりとしたものが走った。干されて小さく、皺くちゃになってはいるが、この顔は私の前任者の顔にそっくりだ。私の前に教授の助手を務めていた人にそっくりなのだ。それに気がつき、もう一度他の首を見てみると、そのいくつかは学内で見覚えのある顔であった。
茫然と立ち尽くしていると、ふいに一番新しい首が、かっと目を見開いた。だが、その眼下には真っ黒な空洞があるのみ。続いて口をゆっくりと開くと、ぱくぱくとさせてその奥から絞り出すようにしわがれた声が響いた。
「た す け て」
私はあまりの衝撃にその場を動けずにいた。大声を上げて駆け出したい衝動にかられていたが、体中ががくがくと震え手足は他人の物のようで言うことを聞こうとはしない。そのとき、背後から肩を叩かれ、私はびくりと体を硬直させた。いつの間にか教授が背後に立っていて、手にしたファイルで私の胸を叩くとニヤリと笑った。
「旅行の計画書を見せてもらったよ。このままでいいだろう、ご苦労さん。そういえば君との調査旅行は初めてだね。楽しい旅行になるといいが」