第3話 隆二に子路
「……こ、こうしせんせい……ですか」
隆二は額に汗を浮かべ、顔をしかめて困惑した表情。
「……な、なんだか、新規開店の焼肉屋の名前みたいなお方ですね……」
すると安堂は、腕を組み苦笑いを浮かべる。
その上で、噛んで含めるように丁寧に教え諭す。
小学校すらまともに通うことのできなかった隆二にとって受け入れやすいような言葉を選びながら。
「孔子先生ってのはな、むかーし昔の中国、まだ中国が一つにまとまっていない時期に、魯っていうちっちゃい町みてえな国に生まれたお人なんだ」
穏やかに微笑を浮かべ、座を崩し胡坐をかく。
「ほれ、お前さんも楽にしな。少し緊張を解いて話を聞いてくれ」
「そ、それでは、お言葉に甘えまして……失礼します」
隆二はその言葉に従い、胡坐をかきリラックスした姿勢で安堂の言葉に耳を傾ける。
安堂は小さくうなずき
「孔子先生が生まれた魯の国はな、周って言う国の王様に従ってたんだ」
孔子と、孔子の育った周の時代について更なる説明を加える。
「周って国にはな、とにかく仁義にあふれた王様がいてな。孔子先生の生まれた魯の国の人々も、みんな周の王様の言うことを聞いて穏やかに暮らしていくことができたんだ」
そして古代中国の封建制度、その仕組みを卑近な形で丁寧に説明する。
「周の王様を親分と仰ぎ、それぞれの国で……そうさな、今で言えば町の町長さんたちは兄弟分、そして家来……子分たちも町長さんを親分としたって、そりゃあ国中が一つの一家みたいなもんだったんだ」
ほう、隆二はため息にも似た感嘆の声を上げる。
「そんな国が存在したんですか」
安堂の話に引き込まれ、しきりと子供のように相づちを打つ。
「さぞかし、しゅうとか言う国の人々は、心穏やかに暮らしていたんでしょうねえ」
三〇〇〇年以上の前の古代国家の制度に、自分が行き、憧れた理想の一家の姿を重ね、何故か懐かしそうな表情を見せた。
隆二自身もすっかり興に乗ったのか
「……っと、まあ、親分、一杯」
と話をせかすかのように安堂に対して徳利を傾ける。
「——っととと、おう、済まねえな」
隆二からの徳利を受け
「——っふぃ、まあ、確かにそうかも知れねえな」
一口、それを一口含んだ。
「おいらたちみてえな稼業の人間にとってみても、なかなかに良さそうな時代だったのかもな。けどな——」
ふう、酒の混じった熱く深いため息をつくと、その言葉に一瞬の空白が生じた。
いくばくかの逡巡の後、安堂の口を突いたのは、選び抜いた言葉だった。
「——けどな、みんなそう言うのが嫌いなんだよ。人間なんてのはな」
「どういうことですか」
眉間にしわを寄せ、聞き捨てならない、とばかりに詰め寄る隆二。
「親分の話では、いかにもしゅうの時代の人々は平和に暮らしていたようではないですか。一体しゅうの国に何が起こったというんですか」
「あのなあ隆二、今も昔も変わらねえもんなんだ。ちょうど、今のおいら達が置かれている状況を考えてみるといいさ」
まるで自嘲するかのように、安堂は皮相な笑みを口元に浮かべる。
「例えば、ある一家の子分どもが、“おいらの組の方が本家筋より金持ちだぜ”“おいらんとこの若い衆は、本家の連中よりも武闘派ぞろいだぜ”なんて言いだしたらどうなると思う?」
「それは……それは筋目が通りません」
隆二は腕組みをし、そして忌々しそうにその答えを口にする。
「いかに実力が本家筋をしのいだとしても、子分が親分を軽んじることは、一家の秩序を乱す行為にほかなりません。許してはならない行為です」
「そうさな。だが、おいらたちの世界で今起こっているその“許されざる状況”が、周の国で起きちまったってことさ」
吐き捨てるような言葉の跡に、汚いものを含んでしまった口を清めるかのように酒をあおる。
「子分どもが好き勝手やらかし始めて、親分と子分、兄貴分と弟分の筋目も、完全に滅茶苦茶になっちまった」
「今の自分らの世界と、なんら変わりがないじゃないですか」
その言葉に隆二は絶句し、そして憤りの盃をあおる。
「しゅうの王様が、不憫でなりません」
「お国が豊かになるってなぁ、そういうことなのかも知れねえな」
安堂はまるでなだめるかのように、隆二にたいして徳利を傾ける。
「建前上は仁義を掲げて周の王様を敬うふりをしながら、心の底ではみんな周の王様を軽んじるようになっちまったんだ。もしお前さんが周の国に生きていたら、その状況をどう思うね?」
「どの時代、どこの国に生きていようが、自分は変わりません」
隆二は目を見開き、そして憤りと正義感とを交えて断言する。
「仁義を看板に私腹を肥やすような連中にたいし、きちっと筋目を通させます」
「お前さんらしいねえ。けどな、そう考えた人は、何もお前さんだけじゃぁねえ。おんなじ考え方を持った人が、その周の国に現れたのさ」
口元に笑顔を浮かべ、配膳に並んだ小鉢に箸をつけそれを酒で流し込む。
隆二の顔を真っ直ぐに見据え、そして静かに口を開く。
「そのお方は、周の王様と王様が掲げた仁義ってもんが大好きでな。これこそが人が人として生きる一番大切なもんだと考えたんだ。目先の金じゃねえんだ、仁義ってもんが一番大事なんだ、ってな」
その言葉に、俯きがちだった隆二の瞳が真っ直ぐに安堂の視線と重なる。
「もしかしてそれが……それが孔子先生って事ですか」
そして答えを待ちわびるかのように、徳利で安堂に話をせがむ。
「ああそうさ。さっきおいらが口にした一節は、『論語』って本からの引用でな。そいつぁ、孔子先生とお弟子さんたちについての一冊の本なんだ」
隆二に返杯の徳利を傾けながら、安堂は言った。
「孔子先生は、もう一回親分子分の筋目を正してた国を作ろうとお考えになってな。そんな孔子先生をしたって、たくさんのお弟子さんたちが集まって、みんなで仁義の実践と実現に命をかけたんだ」
「すばらしい」
たんっ、感極まった隆二は、片方の手ではたと膝を打つ。
「俗世間が目先の利にのみ聡い中、孔子先生とそのお弟子さんたちは仁義の看板に命を張って居たわけですね。まさしく侠客、侠伊達です」
「そうかい、お前さんもそう思うかい、だがな……ととと」
興奮する隆二の手もとが狂い、杯から酒が零れ落ちそうになる。
零れ落ちる酒を唇で受けながら、安堂の目はどこか寂しそうなものへと変わる。
「何度もいうよ。今も昔も人間は変わらねえんだよ」
ピタリ、徳利を持つ隆二のその手が止まった。
「おいらたちの周りの、はねっかえりとおんなじさ。仁義なんかで腹は膨れるもんじゃねえってことさ」
すうっ、ゆっくりと、今度は味わうように酒を口中で転がす安堂。
「孔子先生が各地の人々に仁義ってもんがいかに大事かてことを話したところで、だぁれも先生の言葉に耳を貸そうとはしねえ。結局孔子先生は、何一つなすところなくして死んじまったんだ」
「そういうことですか」
安堂の言葉に、隆二の体は硬直する。
そして、深く、大きなため息をついた。
「豊かな生活ができるようになっちまえば、みんな仁義なんてもんを守るなんて馬鹿げたことはしなくなる、ということなんでしょうか」
「こんな話しといてなんだがな、隆二。それでもおいらぁ、この世の中はそんな捨てたもんじゃあねえって思うんだよ」
すっ、安堂は立ち上がり、そして後ろ手に組み、桜のほころび始めた庭先に目を移す。
その硬く小さなつぼみは、まるで今すぐにでも咲き誇らんばかりの期待が凝縮されているかのようにその瞳には映った。
「孔子先生の言葉に本当に価値がなかったら、この今の世の中にまでそのお言葉が残っているもんなんだろうか、仁義っていう言葉が残っているんだろうかねえ」
「……親分……」
竜二もまた立ち上がり、安堂の後ろに控える。
「さっきおいらの言葉にお前さんの心が動いたのは何でだと思う?」
その瞳はあくまでも桜の木に向けられながら、安堂は隆二に問いかける。
「それはきっと、金銭に変えられねえ大切な理想が人間の心の奥底に眠っているからなんだよ。お前さんの言う俗な生き方をせざるを得ない、市井の堅気の方々の心にも、必ず仁義の心が眠っている。おいら、そう思いたいんだ」
ごくり、と喉を鳴らし、隆二は反芻するように安堂の言葉を繰り返す。
「……大切な理想……それが、人間の心に……」
「ああそうだ。仁義って看板の腐っちまうのを見るのが嫌で一家解散しちまったおいらが言うべき言葉じゃねえのかも知れねえがな。渡世人が仁義を看板、いや隠れ蓑に己の私腹を肥やしていることに比べれば、それがどれほど素晴らしいことなんだろうか、おいらはそう思うんだよ」
そう言うと安堂は、クルリと後を振り返り、隆二に相対した。
「隆二よ、おいらの親分としての願い一つ、聞いちゃあくれねえかい」
その言葉に隆二は、厳かに輿を折り、頭を下げる。
「……この命に代えましても……」
「お前さんに見届けて欲しいんだ。市井の堅気の方々の心の中に、仁義の心ってものが残っているかどうか、おいらが正しいのか、それとも間違っているのか、をさ」
そして安堂の言葉は、滔々とその口から流れ出た。
まるで悠久の大河、黄河の流れのように。
「そして、もしお前さんが仁義を貫いて生きる覚悟ってもんがあるなら、お前さんがそんな人々の仁義を守ってやってくれ。利に聡い人間にやすやすとつぶされる仁義、“阿修羅に帝釈”の力を必要とする人に、お前さんの“勇”を、どこかの誰かのために役立ててやってくれ」
「……ご命令……確かに承りました」
伏したその顔に表情をうかがうことはできなかったが、その言葉からは確かな意思が感じられた。
「その言葉、安くはねえぞ?」
その隆二の言葉の奥底を確かめるように、肺腑に響く安堂の言葉。
「もう二度とこの稼業に足を踏み入れることはまかり通らねえぞ? 仁義に身を捧げ市井を生きるって事は、孔子先生みたいに一生浮かばれねえ人生を送る可能性もある。それも覚悟の上なんだな?」
「……何の二の句を継げられましょうや……」
隆二は厳かに口を開くと、ゆっくりと正座を組み、更に深々と三つ指をついた。
「……安堂一家若頭榊隆二、親分よりの命令として一生をかけるつもりです……」
※※※※※
トクトクトク、その後安堂と隆二、二人は向かい合って盃を交わし続けた。
二人の出会いの話、修行時代の話、そして何度も命と義理とを天秤にかけた出入りの話。
今生今夜の後にはすべてが解消されてしまうかりそめの親子関係の、そのわずかな名残を徳利と盃に込めて交し合った。
そのかりそめではあるその親と子との関係は、その瞬間紙切れ一枚の隙間も生じ得ない、本物の親子の関係のようであった。
※※※※※
笑い声の中隆二からの酒を受け取る安堂は、ふと柱に掲げられた時計に目をやった。
「おう、もうこんな時間じゃねえか」
時計はすでに午後の十一時を回り、数分の後に安堂一家は完全に解散することになる。
この広間に残されるのは若者と老人、赤の他人の二人のみ。
「……ええ。時の立つのは、まことに速いものです……」
すると隆二は目の前にすえられた膳を下げ、座布団をはずす。
「しかし、今日は本当に様々なことを親分より学ぶことができました」
そして、力の抜けた柔らかな微笑を浮かべる。
「もしかしたら、孔子先生ってのは、親分みたいな人だったのかもしれませんね。その昔であるならば、自分は弟子の末席を汚した、至らぬ弟子の一人くらいにはなれたのかもしれません」
「よせやい。買いかぶりすぎだよ」
照れ隠しの苦笑を浮かべる安堂。
「おいらが孔子先生だってんなら、さしずめお前さんは……そうさな、お弟子さんの一人の子路ってとこかねえ」
「……しろ……さん、とは……」
再び困惑の表情を浮かべる隆二。
「文字通りの侠客さ。ヤクザもん上がりで腕っ節が強くてな。いささか軽率なところもあったが、その実直な性格で、孔子先生に一番愛されたお弟子さんさ」
そう言うと、急に安堂の表情が掻き曇る。
まるで自分の言葉が、仁義に生きると誓った隆二の行く末、生き方にたいする一種の予言となるのではないか、それを恐れて。
安堂は頭を振るい、隆二に再び声をかける。
「まあ、それは置いといて、お前さんこそ、こんなおいらのために長らくご苦労さんだったな」
「これまでの永きの間」
すぅ、一世一代の万感の思いを込め、所作美しく指を突いた。
「まことにお世話になりました。親分」
「いいよいいよ、頭を上げねぃ」
苦笑した安堂は片膝をつき、隆二の左肩に右手を乗せる。
「ついでと言っちゃあなんだが、おいらの……安堂一家親分としての、最後の命令、聞いてくれるかい?」
隆二は面を挙げ、そして姿勢を正して断言した。
「……たとえ安堂一家が解散して親子関係の縁が切れたとしても、そのご命令に一生を懸けさせていただきます」
「二言はねえな?」
念を押す安藤に対し
「二の句はいりません」
隆二は再び深々と頭を下げ、その命令を待つ。
「そうかい……そんなら……」
安堂もまた正座を組み、姿勢を正した。