第21話 天に地
――チ、チ、チ、チュンチュン、チュン――
さえずる雀の鳴き声と、薄手のカーテンを透過する朝の光。
その男は寝ぼけ眼を指でさすり、ゆっくりと上半身を起こす。
くわあ、遠慮のない大あくびを一つ浮かべると、グッと背筋を伸ばして呆けたような表情を浮かべる。
そしてごろりと体を布団の中で転がし、ゆっくりと体を起こしていった。
その男、安堂尊。
つい数ヶ月前までは、関東一帯に勢力を張ったテキヤ組織、関東安藤一家の総元締めを張っていた男だ。
それも早、今は昔。
すでに看板を下ろして一家をたたみ、文字通りの好々爺として堅気の日々。
安堂はボリボリと胸元を掻くと、寝巻きのまま寝室を後にした。
早くに連れ合いをなくした、かつての親分のみが住む、かつての安堂一家。
もはや訪れるものもなく、閑散としたたたずまいのみを残す。
日々なすべきことのない安堂がひたすら磨き上げる廊下は、その光沢の中に一抹の寂しさを感じさせた。
※※※※※
――ガチャリ――
ただなんとなく、習慣のみで購読している新聞を取るためにポストを開ける。
これから長らく付き合っていかなければならない退屈な日常を伴ったその余生に、うんざりとしたため息をつく。
紙面から漂うインクの匂いと、そこに挟まる色とりどりの広告は、その余生への倦怠感を更にかき立てる。
さて今日一日、どのように退屈と向き合っていこうか、そう考えた矢先
「おんや?」
ポストの陰に、素っ気のない簡素な茶色の封筒を発見した。
ぴらり、その封筒を取り、その差出人を確認する。
「!」
安堂は手にした新聞をほおり投げると、どたどたと足早に玄関の奥へと消えて行った。
※※※※※
『向暑のみぎりでございますが、安堂さんにはお変わりなくお過ごしでしょうか』
その書き出しに始まるのは、隆二からの手紙だった。
「けっ、相変わらずかたっくるしいねえ、お前さんは。」
がらんどうのような大広間、やや日焼けの見え始めた畳の上に安堂はどっかと腰をおろし、その場にいない隆二に向かって憎まれ口を叩く。
湯飲みには朝の冷酒。
それを一口、がぶりとやっつけると、再び隆二からの手紙に目を通し始めた。
『本来なれば、自分自身がそちらへと足を運び、もろもろの御礼を口上すべきところではございます。
しかし、今回“国語総合”の授業で、“お世話になった方に手紙を書こう”というお題、そして封筒や便箋などをいただきました。
それゆえ、こうして国語辞典を片手に、四苦八苦しながら書状をしたためておるところでございます』
書きなれぬ文字は、ところどころミミズがくねったようにゆがんでいる。
何度も書き直したためだろう、便箋は黒くひずみ、鉛筆の溝がくっきりと浮かび上がる。
『一家の解散より、どれ程時間が経過いたしましたでしょうか。
自分は佐渡刑事にお勧めいただいた、やまびこ高等学校の一年生として高校生活を送っているところでございます。
先日、数学の小テストで、落第点を取ってしまいました。
恥ずかしながら十回目の再テストでようやく及第点をいただきました。
いまさらながらに自分自身の出来の悪さを痛感しておるところでございます。
その際、自分の高校のお友達である伊藤翼さんにたいへんお世話になりました。
翼さんは、いらいらが募ると思わず暴れてしまうことがあるのですが、明るく素直な若者です。
勉強だけではなく、様々な面でお世話になっている、なかなかに年下ではありますが、自分にとっては何よりも大切なお友達です』
「へえ、お前さんにも、高校生の友達ができたのかい」
頬を緩め、小さくうなずくようにして呟く安堂。
「まあ、お前さんはこれでなかなか愛嬌があるようにも見えるからな。若えもんにも好かれるんだろうよ」
『翼さんだけではありません。宮川美弥さんというお方ともお友達になりました。
みやがわ・よしやさん、とおよみするのですが、我々はミヤさん、つづめてミヤミヤさん、などとお呼びしています。
ミヤミヤさんは男性ですが、心の中味は女性です。
服装も女性の格好をなさっていらっしゃるのですが、これがまたどう見ても女の方にしか見えません。
その純粋なお心が災いし、元にいた学校を辞めざるを得なくなったとのことです。
どういうわけか自分に対し好意を持たれてしまったらしく、彼女に抱きつかれては、出入りの際にも感じたことのないような背筋の寒さを覚えております。
しかし、彼女は見た目だけではなく、その心もたいへんお美しいお嬢さんです。
その純粋な、清らかなお心に触れることができるだけで、自分の心までもきれいにしていただけるような心持がいたします』
「……お前さんもまた、けったいなお嬢さんに好かれたもんだねえ……」
そういって顔をしかめたかと思うと、すぐにまた懐かしそうな微笑を浮かべる。
「なかなか隅に置けねえじゃねえか。ええ? 知ってるか? ああいう手合いをな、“男の娘”って言うんだぜ? はっはぁ、なかなか俺もいろいろ知ってるだろ」
『別のクラスではありますが、鈴木花子さん、自称するところによると、アルブル・オ・クロシェット・サクラさんです。
別に外国人というわけではありません。
彼女曰く、彼女は地獄の皇帝の娘さんで、誰にも言えない、とある理由で地上に来たのだそうです。
安心してください、自分にも意味は分かりません。
クロシェットさんは、それこそ言葉にできないような苦しい体験をなさいました。
それが蘇ると、カッターナイフで自分自身を切りつけます。
最近では回数は減ってきましたが、それでも傷を作ります。
ですので、彼女には自分の目の前以外では傷をつけない、と約束をしていただきました。
彼女には、声優、アニメーションに声を当てる女優さんになりたいという夢があります。
つらい思いをなさってきた彼女ですが、それでも自分自身の夢を信じ、お母様を支えながらヤマコーに通っています。
これまた一見すると、お人形のように可愛らしいお嬢さんですが、夢に向かって一生懸命な、芯の強いお方です。
彼女の健気な姿を見るたびに、自分自身も本当の夢を見つけなければ、と励まされる思いです』
「……世の中には、いろんなお嬢さんがいらっしゃるもんだねえ……」
がぶり、再び湯飲みの日本酒を一口あおる。
「……だが、こうしてみると、お前さんも少しは堅気の方々のお役に立っているようじゃねえか。さすがは“阿修羅に帝釈”ってところかねえ」
隆二の手紙は続く。
『そのほかにもたくさんのお友達ができましたが、皆それぞれ心に何かしらのわだかまりを抱え、苦しんでいます。
自分自身とて、自身の進むべき道に多くの迷いを抱えているところです。
保健室の宮本先生はおっしゃいました。
懐の深いヤマコーにもなじむことができず、そのまま消息を絶ってしまう方々がいると。
そういう方々はどうなってしまうのでしょう。
おそらくは、その筋に足を踏み入れる方も多いのではないかと思われます。
そして、そういった輩に食い物にされてしまう方々も、当然いらっしゃるでしょう。
世間様は自分が考えていたよりも、安堂さん、ずっと複雑な形をしていました。
そのしわ寄せを受けるのは若者たちなんです。
立場の弱い、子どもたちなんです。
なぜ可能性を持った若者達が、学校を去らねばならないでしょうか。
なぜそんな若者たちを食い物にする不道理がまかり通るのでしょうか。
いまさらながらにかつての自分たちの存在の業の深さ、そして自分自身の無力さに愕然とするところです。
しかし――』
安堂は手紙を固く握ったまま、再びグイと湯飲みを傾けた。
『――しかし、ヤマコーの先生方は、そんな自分たち生徒を受け入れ、そして教え導いてくれています。
面接試験の際に、教室長の松永先生がおっしゃっていました。
学ぶことは権利である、と。
学びたい生徒がおり、教えたい先生方がいらっしゃれば、そこはすでに学校なんだそうです。
その言葉に、自分は救われたような気がいたしました。
これこそが、安堂さん、あなたのおっしゃっていた、仁義の現れ方の一つなのではないか、そのように思えました。
覚えていらっしゃいますでしょうか。
“利に聡い人間にやすやすとつぶされる仁義、“阿修羅に帝釈”の力を必要とする人に、お前さんの“勇”を、どこかの誰かのために役立ててやってくれ”
安堂さん、あなたのお言葉です。
こんな自分を受け入れ、導いて下さるヤマコーの先生方、そしてクラスの方々には、感謝しても仕切れないほどの義理ができました。
世の中の構造をひっくり返してすべての若者を助けるなど、無力無学な自分にはとうていできません。
だから自分は、この目に映った苦しむ方々、せめてその方々のためだけにでも力を尽くさせていただこうと思います。
もう一つ
“市井の堅気の方々の心の中に、仁義の心ってものが残っているかどうか、おいらが正しいのか、それとも間違っているのか、をさ”
ともおっしゃっていましたね。
テキヤが賭博など、御法度ではあります。
しかし、あえて自分は賭けてみようと思います。
安堂さんの言ったように、いろいろな人々の心の中に、本当の意味での仁義は必ずや残っていると。
そう考えれば、娑婆もまだまだ捨てたものではないと思います。
この不道理がまかり通る世の中で、自分は自分なりの仁義の姿を思い描いてみようと思います。
このヤマコーの学び舎において。
やまびこ高等学校一年A組七番(基礎コース) 榊隆二』
パラリ、安堂は手紙を下ろすとそれを丁寧に折りたたみ、そして封筒にしまう。
そしてそれを持ち立ち上がり、清浄に保たれた神棚の奥にそれをしまい、古式の法に則り礼を尽くした。
頭を上げ、安堂は庭先を一望する軒先へと移る。
あの解散式の折、芽吹く直前だった桜はすでに盛りを過ぎていた。
一番の盛りの頃合いの記憶、驚いたことに安堂はその一切が抜け落ちていることに気がついた。
「……自分で解散を決めたはずなのにな……何腑抜けてぃやがんだろうねぇ、おいらぁ……」
その呟きは、わずかの諦めを含んではいたが、その表情はそれ以外のものを多分に含んでいることを物語る。
桜の時は終わってしまった。
しかし、これから新緑の季節が始まる。
若者たちの季節が。
「いよっしゃ!」
バチン、心をほころばせる酔いの心地を追い出すかのように、安堂は大きく頬を張る。
徐々に強まる夏の日差しに、安堂は自分の心の中にくすぶっていた何かがいまだ存在し続けることに気がつく。
「老け込むにゃあ、まだ早ぇえわな。なあ、隆二」
その握りしめる拳には、かつて関東一帯のテキヤ組織を取り仕切った男、安堂尊の侠気と魂が蘇る。
「……おいらも、賭けさせてもらおうじゃねぇか。市井の方々に眠る、仁義の心によ。おいらはおいらで、仁義、貫かせてもらおうじゃねぇか」
庭先を見つめるその目は、そのたぎる血潮に熱を持った。
「この天と地の狭間でよ」
※※※※※
「佐渡さん、この真面目な模範囚に、一体何の用件ですかね」
凹凸をすり減らした顔をくしゃりとゆがめ、指の欠損した手で湯飲みを掴み、出がらしの茶をすする男。
「一応言っときますがこちらの寄せ場に厄介になってもう長いですからね。シャバの動きなんて、もう俺にゃあ何の係わり合いもありませんからね。ゆすったって何も出てきやあしませんよ」
刑務所の附属棟の一室、多くの刑務間に囲まれながらも、久光の態度はふてぶてしいほどに慇懃無礼であった。
パイプ椅子に座り、腕を組んで久光を睨みつける一人の刑事。身長は百六十そこそこであるが、服の上からは屈強な四肢と体躯が手に取るようにわかる。
川本署生活安全課刑事佐渡は、同じく湯飲みを一口ぐびりと傾けると、低く野太い声で一口放った。
「てめぇ、何たくらんでいやがる」




