第20話 煙草に石女
クロシェットとの一件があったおよそ一週間後、放課後の予習復習のために図書室へと向かう隆二。
すると
「よっ!」
バシン!
「うぉっ!?」
その隆二の尻を、何者かが豪快に叩く。
何事か、と後ろを振り返ると、そこには
「……あなたは……」
「宮本、よ。美咲先生、って呼んでくれてもいいけどね」
クールな微笑みにやや茶色かかったショートボブ、そしてその身を包むのはまっさらな白衣。
ヤマコー保健室養護教諭、宮本だった。
「今ちょっと時間ある? 時間あったら、ちょっと話をしたいんだけど」
※※※※※
「榊君はタバコ吸わないの?」
白衣のポケットから、メンソールとジッポを取り出す宮本。
キンッ、手際よくジッポの上蓋を指ではじくと、ジッ、フリントロックを素早く回す。
辺りには、かぐわしくさえ感じられるオイルの匂いが広がる。
ジジジ、口にくわえた煙草の先端を、オイルの火がじりじりと焦がす。
その紫色の煙はフィルターを通して肺を満たし、ニコチンの心地よいマッサージが宮本の全身を包む。
フゥ、倦怠感とともに煙を吐き出す。
「客商売やってたって聞いたからさ、吸うものだとばかり思っていたわ」
ヤマコーの玄関を出てすぐ右手のすでに散り落ちた桜の木の下、古ぼけた灰皿はそこが喫煙を許可された場所であることを物語っている。
二十歳未満の生徒は当然喫煙は禁止されている。
しかし、ヤマコーにおいては成人を迎えた生徒も少なくない。
そのため、喫煙を許可された生徒のためにも、このスペースは解放されている。
フェミニンな薄荷タバコとヘヴィデュティーなオイルライターの組み合わせ。
隆二は小さく微笑み言葉を返す。
「二十歳の一時ばかり吸っていた時期もありましたが、現在は全く吸うことはありません」
そう言って隆二は自動販売機で購入したブラックコーヒーの缶に口をつけた。
「まあ、アルコールとカフェインばかりは、どういうわけかやめられませんがね」
すう、うまそうに吸い込んだ煙を
「意外ね」
ふぅ、心地よく吐き出す宮本。
「まあ、それはいいんだけど。そんなことより、あなたに伝えておかなくちゃならないことがあるの」
そういって、宮本は古ぼけた赤いベンチに腰を下ろし、隆二にも着座を促す。
それに従い、宮本の横に腰を下ろす隆二。
トントントン、メンソールの灰を落とす宮本。
「鈴木さんのこと。あなたは……えっと、クロ……クロシェットだったかしら? その女の子のことよ」
「……クロシェットさんの……ですか」
隆二の眉間にしわが寄り、そしてその表情は曇る。
クロシェットはあの一件以降、隆二の目の前から姿を消した。
基礎コースの授業にも、所属している声優部にも顔を見せなかった。
時折隣のB組の教室をのぞいてみたが、影形を確認することもできなかった。
「当然、これはプライバシーにかかわる問題だから、生徒に話すべきことではないのかもしれないわね」
煙草をくわえたまましゃべる宮本の口角からは、白い煙がくゆる。
「でも、あなたは知る権利があるわ。なによりも、私はあなたにだけは知らせておきたかったことなの」
宮本の煙草からたなびく煙は、春の終わりを告げる新緑の木陰に消えていった。
※※※※※
「——そうですか」
隆二は静かに瞳を閉じ、そしてつぶやいた。
あの一件の後、宮本はクロシェットのことを児童相談所へと通報した。
その知らせを受け、クロシェットの実家に警察と共に児童相員が立ち入った。
するとそこにあったのは、生活した形跡がまったく見られない家の内部と、あふれ帰るごみの山。
そして、心神喪失状態で倒れこむクロシェットの母親の姿だった。
病院に緊急搬送され、意識を回復した母親の言葉によれば、一年ほど前に再婚した夫は、新しい女とともに家を出て行ったということだった。
心身ともに衰弱著しい母親は、そのまま精神病院で治療を受けることになった。
そしてクロシェットは、そのまま今まで通り祖母の家に預けられることになったが、それ以来一度も学校に顔を出していなかった。
「ほら、あの子、クロシェットちゃん、かわいいし、スタイルいいじゃない? あの子のお母さんも、きっと綺麗な人だったんだろうと思うけど、娘がどんどんきれいになって、自分自身がどんどん年を取っていくことに耐えられなかったのね。だからあんな形で……クロシェットちゃんがつらい目にあったのね。そういったどうしようもない嫉妬もあって、精神のバランスを崩しちゃったんだと思うわ」
ぐじぐじと短くなったメンソールの先端を神経質に灰皿でつぶすと、新たな煙草を咥えそれに火をつける。
「いるのよ、そういう女が」
ふぅ、大きく吸い込み吐き出すと、とんとんと灰皿に灰を落とす。
「いつまでたっても、子どもを産んでさえ"女"で居続けようとする女がね。私には、全く理解できないわ」
そして、小さく首を振り煙草をくわえる。
「私には子どもがいないから」
少々寂しげな表情を見せる宮本の左手薬指に、隆二は光るものを見つける。
「ですが、ご結婚はなされているようですね」
「五年ほど前にね」
宮本右手に煙草を挟んだまま、寂しげな微笑みで頭を押さえた。
「私って……石女なんだってさ。旦那も優しくしてくれるし、義理の両親も、気を使ってそのことを話題にはしないわ。みんな優しいのよ。けど、そういうのが痛い時だってあるけどね」
「うらやましい限りじゃないですか」
その顔に、涼やかな微笑みを返す隆二。
しかし、その笑顔の中にはいくばくかの寂寥感が見て取れた。
「自分はどこまで行っても、天涯孤独の身です。そういったご家族がいらしゃるというだけで、自分は心の底からうらやましいと思います」
「んふ、いいでしょ」
取り繕うかのような微笑みを浮かべ、Vサインを作る宮本。
「だからこそ思うの。あんなかわいい子への虐待をどうして許してしまったのか、心の底からやりきれなさがわいてくるの。こういう時、学校って本当に無力だわ」
「お気持ち、痛いほどにわかります」
隆二は再び缶コーヒーを一口含んだ。
「……クロシェットさん、このままヤマコーをお辞めになられるのでしょうか」
「わからないけれど……だからと言って驚くこともないわ。この学校でだって、中退ってそれほど珍しいことではないのよ、榊くん」
そのやりきれなさを引きずるように、髪の毛をかきあげて宮本は言った。
「いわゆる全日制の学校をやめた子どもたちはね、みんな一念発起して高校卒業を目指して入学してくるの。傷ついた自分たちの心を、何とか奮い立たせて、自分を変えたいって。だけどね、こんなゆるい学校でも、卒業できずに学校を去っていく子どもたちもいるの。そういった子がその後どういた道をたどっていったか、私たちには知るすべもないわ」
隆二の頭には、クラスメートの姿がよぎる。
突発的な衝動を抑えきれず、失ってしまった過去にとらわれ、叫び暴れる翼。
男性でありながらそれに違和感を覚え、意中の男子生徒に気持ちを打ち明けて居場所を失ってしまったミヤ。
そして虐待を受け、親から見捨てられ、アニメーションや漫画の世界に自分の居場所を求め、葛藤の中で自身の腕に刃を刻むクロシェット。
それ以外にも、様々な葛藤を抱え苦しむクラスメートたち。
もとよりそのような世界から縁遠かった隆二にとってすら、まだしも自分自身の環境は恵まれたものにさえ思えた。
少なくとも、自分には身を寄せる一家があったのだから。
「お金の問題、家庭の問題、そして心の問題。教員は、せいぜいが学校の中でしか子どもたちのことを助けてあげられないわ。そしてその問題も、高校の三年間だけで解決するものばかりとも限らないの」
隆二は静かに、苦しい胸の内を開ける宮本の顔を見つめた。
「ごめんなさいね。愚痴っぽくなっちゃったわ」
宮本は寂しさの混じった苦笑いを浮かべた。
「いくら年が近いからって、こんなこと生徒のあなたに話すなんて。教員失格だわね。忘れてちょうだい」
すると隆二は
「少々お時間をいただけますか」
そういってすっくと立ちあがった。
「? え? 一体——」
困惑の表情を浮かべる宮本を尻目に
「今しばらくのご辛抱を」
そのまま雪駄を鳴らして隆二は姿を消した。
※※※※※
「——お待たせいたしました」
そう言って、隆二はコンビニエンスストアのビニール袋を開けた。
そして、その中身を取り出し、そのうちの一つを宮本に渡す。
「……え? これって——」
宮本の手に渡されたもの、それは
「まあいいじゃないですか」
同じく隆二はそれを取り出し、スチールのトップを引いた。
「今日はなんだかいい日よりですから。こんな日には、缶ビールの一本などで喉を潤したところで、バチは当たらないでしょう」
「……榊くん……」
涼やかな微笑みをたたえる隆二の顔に、宮本はあっけにとられしばし固まる。
すると、フッ、クールな微笑みをたたえるいつもの宮本の表情へと戻った。
「まーったく、いくら同世代だからって、君は自分が高校生だってこと忘れていない?」
そして、カシュッ、同じく宮本もトップを引いた。
「まぁ、しょうがない。お姉さんがお付き合いしましょうか」
「痛み入ります」
隆二はビールの缶を掲げ、そして宮本の缶にかちりと付けた。
※※※※※※
「先生は、どうして先生になりたいとお考えになられたのでしょう」
まさしく一息に一缶を開けると、新たな缶に指をかけた隆二は訊ねる。
「えっ?」
唐突な質問に、ビールを喉元に流し込む宮本の手が止まる。
困ったように首をかしげると、ややシニカルな笑顔を浮かべる宮本。
「そうね……覚えていないけど……まあ、一番最初のきっかけは、部活で怪我をしたときかな。その時の養護の先生みたいになりたい、って思ったの。それがきっかけかな」
「そうですか。羨ましい。同じ年代のようですが、自分にはそのような経験がありません」
隆二は恥ずかしそうに頭をかき、そしてビールを一口含む。
「ですが自分も、一人の男に憧れたことがありました。あのような、男の中の男でありたい、そして筋の通った曲がらぬ信念を持った男になりたい、そう思ってここ十年ばかりを生きてまいりました」
「そう」
ごくり、ごくりとなどを鳴らす宮本。
ぷぅ、心地よい喉元への刺激、そしてアルコールの一撃が心の澱を少し消した。
「素晴らしい方に出会えたのね」
「そうですね。自分は学もない、まともとは言えない職についてきた人間ですが、それでも幸せだったようにも思えます」
少ししゃべりすぎたかな、隆二は思ったが、アルコールの勢いに任せ、自身の心の内を宮本へと語る。
「自分が高校入学を決めたのも、その人のお言葉によってです。初めはまあ、情けないことに全く気が乗りませんでした」
照れ隠しの微笑みを浮かべ、ぼりぼりと頭をかく。
「ですが、多くの人に教え諭され、やはり高校にて一から学を修めようと決心いたしました。そしてこのヤマコーの存在を教えてくださった方のお導きにより、今自分はここにこうしているのです」
そして横にいる宮本の顔をますぐに見つめて言った。
「そしてこんな自分の身の置き場を引き受けていただいた先生方、クラスのお友達には感謝しても感謝しきれるものではありません。自分はいま、たくさんの人々への義理を抱えています」
「そんな……そんな風に思わなくても」
宮本は隆二の肩に手を置いた。
「学ぶことは権利だって……面接のときに聞いたでしょ? だから、そんな風に追い詰めて考えることはないわ」
「そのお言葉も、自分には大きな義理なんです」
隆二はその手を置き去りにするかのように、すっくとベンチから立ち上がった。
「そのでっかいでっかい義理、果しきれるものではありません。しかし、何一つ顧みないようなことがあれば、自分自身の仁義にもとることになります。自分も、無力でちんけな存在です。しかし、目の前で苦しむ仲間に対し、少しでもその義理を果たせるような生き方をしてまいりたいと願っています。将来も何も見えることのない自分ですが、今はそれのみが生きる指針となりました。それが——」
そして、宮本を見下ろすようにしてあの涼やかな微笑みで言った。
「——それこそが自分の、ヤマコーへの仁義なんです」
「そっか」
フッ、クールに笑い、ごくごくと喉を鳴らす宮本。
「よっしゃ! 今日はもうこうれで早退に決めた! 隆二くん、じゃあこれから一杯ひっかけようか!」
「お付き合いいたします」
隆二もまた、大きな笑顔を返した。
「これも一つの、義理ごとですから」




