第2話 仁義に頚木
「そんなもんな、おいらたちの世界にははなっから存在しちゃいねえもんなんだよ」
「親分、いかに親分とはいえ、言っていいことと悪いことがあります」
その言葉に隆二の表情は一気に気色ばむ。
ガシャン、思いもよらず乗り出した体は配膳を騒がしく鳴らす。
「日々の生活に追われる市井の堅気の方々が失っていった仁義の二文字、自分たちの先人達が命がけで守ってきたものです。いかに親分、あなたといえどもそれを口にすることは許されません」
「へえ、珍しくいきり立つじゃねえか。さすがは“阿修羅に帝釈”ってわけかい。親分相手に上等かますなんてのはよ」
鬼を斬り、仏をも斬り捨てかねないその気迫を、安堂は涼風のように受け流す。
関東に広く庭場を持ったテキヤ一家束ねあげたこの男、安堂尊。
“阿修羅に帝釈”の二つ名を持つ隆二ですらその存在をかすませてしまうこの男も、また普通の男ではないのだ。
一切の動揺を見せることなく、さらに煽り立てるように言葉を投げつける。
隆二の人生を“仁義という呪縛”から解き放ち、目を覚まさせるかのように。
「面白ぇからもっと言ってやるよ。ああそうだ。ごまかしなんて生易しいもんじゃねえ。欺瞞、だよ欺瞞」
すると、自分の親分にすら殴りかからんばかりの剣幕を見せていた隆二の表情が、一瞬にして凍りつく。
「……ぎ、ぎまん……ぎま、ん……ですか」
先ほどまでの勢いはどこへやら、その表情は困惑したものに変わり、その体は硬直する。
「……すいません、親分……自分にはその……ぎまん、って言う言葉の意味がいまひとつ飲み込めないんで……」
そして恥ずかしそうに、くたびれた背広のように萎れてしまった。
しまった、という言葉を口にする代わりに、ぱちんと手のひらで額を叩く。
「おおそうかい。そうだったな。いや、すまなかった。お前さんには難しい言葉だったな」
馬鹿にしているわけではない。
しかし十やそこらの年代以降、テキヤ稼業に身をやつし、小学校もまともに通わなかった、いや、まともに通うことのできなかった境遇の男。
そんな男に対し、用いるべき言葉ではなかった、と思い至った。
「そんじゃ言い換えようか」
安堂は一つ咳払いをすると心を落ち着かせる。
そして丁寧に、噛んで含めるようにその言葉の意味を説明した。
「お前さんだって知っているはずだろうに。いま、おいらたちの稼業がおかれている状況がさ」
一九九二年、暴対法、すなわち暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律が制定された。
この法律は二〇〇八年、二〇一二年と相次いで改正され、暴力団員や構成員、準構成員の行動に厳しい規制が課せられるようになった。
この法律の適用対象は、その名の示すとおり国家により指定された暴力団に対するものである。
しかし、暴力団の傘下にはない、安堂一家のようなテキヤ組織も同様の存在とみなされ、その行動に様々な規制がかけられるようになった。
テキヤ稼業の多くは、現在各地の市街における出店を規制され、その活動は縮小の一途を辿っていた。
安堂のその言葉に、隆二は一瞬、ぐっ、と言葉を詰まらせる。
そしてようやく、忌々しげに口を開く。
「確かにそうですが。これだけは断言できます。自分たちは暴力団ではありません。根っからのヤクザもんでもございません」
ぐびり、今度は手酌で酒盃を満たすと、それをまた一気に空にする。
「確かに自分たちは日陰者、ありていに言えばヤクザな商売を営んではおります。しかし、ヤクザそのものにまでにまで落ちぶれたつもりはございません」
混同されることも多いが、本来の意味でのヤクザ、すなわち博徒と、安堂や隆二のような的屋はまったく別の存在である。
様々な相違点が挙げられるが、根本的な違いは“シノギ”の稼ぎ方にある。
ヤクザとは、花札のオイチョカブにおける役に立たない手札の組み合わせ、“八・九・三”を語源とすることからも分かるように、賭博によって生計を立てる、“渡世人”と呼ばれる部類に属する者たちを言う。
しかし、隆二たち的屋は“稼業人”を称し、各地の縁日や神社の祭礼、花見の会場などに出店する露天商を営み生計を立てている者たちを指す。
この隆二も、幼い頃から方々の祭で汗を流し、一端の顔役として出店区域である庭場の区割りなどにも携わってきた。
“ヤクザな稼業ではあるが、ヤクザ者にまで落ちぶれちゃいない”
その隆二の言葉には、寺院や神社のため地域住民のために働いてきたという自負があった。
「そこだよ、問題は」
熱弁を振るう隆二に、冷や水を浴びせかけるかのように安堂は言い放つ。
もぐもぐもぐ、赤身とホタテを一緒くたにして口の中にほおり込む。
「いくらお前さんが堅気の衆のために働いてきたって思っててもなぁ、堅気の方々からすれば、おいらたちもヤクザもんも暴力団も、何の違いがあるかって話だよ」
「そんなことはありません」
隆二は再び身を乗り出し、声高な主張を口にする。
「現に安堂一家は、昔からこの地域に根付き、皆様の信頼を得てきたはずじゃありませんか。親分が一番ご存知でしょう」
「まあ、確かにそうかも知れねえがな。だがな、さっきも言ったように、ごまかしは無しにしようや」
カンッ、苛立ちをぶつけるかのように、空の盃を強く膳の上に叩きつける。
「お前さんだって伊達に“阿修羅に帝釈”の二つ名持ってるわけじゃあるめえ」
その問いかけに、隆二は答えに窮した。
テキヤは“三割ヤクザ”と呼ばれるように、ヤクザとテキヤには共通する部分が存在する。
それもまた揺るがしようのない事実だ。
隆二を含めテキヤ家業の人間も、時には若い衆同士のいざこざや喧嘩、祭りに干渉しようとするヤクザ者を排除するなどの荒事に関わることもある。
その中で、その伝説的な腕っ節をたたえられ、隆二は“阿修羅に帝釈”の通り名とともにその名をとどろかせた。
生業を持つテキヤとて、決して暴力という存在と無縁でいるわけにはいかないのだ。
「な? 思い当たる節がないとは言わせねえよ? 暴力に一度は身を染めたもんが暴力団じゃねえってんなら、それこそ筋がとおらねえじゃねえか」
畳み掛けるように、安藤は続ける。
「おいら達がいかに“自分たちは博徒じゃねえ、ヤクザもんじゃねえ、って言っても、結局世間様はそうは見てくれねえってことさな」
その言葉に反論すること能わず、隆二は固く拳を握りしめるのみ。
安堂はゆっくりと、芯を一切はずすことの無いように言葉を伝える。
「それにだ、このご時勢、テキヤだけで生活していくのがいかにきついか、お前さんだって分かっているだろうによ」
安堂はまたもや盃を持たすと、喉を潤すように流し込む。
「——っはぁ。そもそもお前さんの屋台で、そうさな、タコヤキなんかいくらで売ってるよ。十個で五〇〇円か? 六〇〇円か? 縁日の数も少なくなってる中で、どんどん店を出せる場所も減っているじゃねえか。おまえさん、きちんと世間様の相場のような金、若い衆に持たせられたかい?」
自分自身を責めなじるような言葉に、隆二はうつむくしかなかった。
「……言葉もありません……」
「すまねえな。おいらまで声を荒げちまった。やっぱり酔っ払っちまったかな。おいらももう年なんだよ」
ニィッ、ふいに安堂は破顔し、今度は慰めるような言葉をかける。
「暴対法の規制に引っかかるから、もうお馴染みさんのところでは屋台構えられないよ、なんて聞かされてもな。おいらにゃあもう、お上に駆け込み訴えする気力なんてなぁ、湧かねえんだよ」
安堂は苦笑いし、そして再び徳利を隆二に差し出す。
「ほれ」
トクトクトク、隆二は無言でその徳利を盃で受ける。
「すまねえな。考えてみれば、お前さんの居場所なんて、この一家にしかなかったんだもんな。だがな、おいらぁ、実は少しほっとしてるんだよ」
深いしわの刻まれた、柔らかく暖かい微笑を隆二に向ける。
「おいらだって、この道の端くれとして五〇年生きてきたんだ。仁義ってもんがおいらたちの生き方においてどれほどの意味を持つかなんて、お前さんに言われなくたってよぉく知ってるつもりさね」
「ええ。存じ上げてます。そんな親だからこそ、子は命を預けられるんです。厳しい修行にも耐えることができるのです。金も色も、省みることなく」
すう、今度は小さく盃を傾け、そして微笑んだ。
「まだ自分のみの振り方は決まっちゃいませんが、お天道様の下、全うに生きていこうと思っています」
傍らに転がる徳利を取り出し、親と仰いだ安堂に一献を差し出した。
「それが親分が自分たちに教えてくれた、仁義ってものだと考えておりますから」
「相変わらず硬っ苦しいねえ、お前さんは」
にやり、まさしく子の成長を喜ぶ親の微笑を浮かべ、隆二から徳利を受けた。
「仁義、か」
つう、安堂は一口酒を含むと
「なあ隆二。お前さんさっき、“仁義の道を守り続けること、それこそが世俗に生きる堅気の人にはない、自分たちだけのもつ使命だ”なんていってたっけか」
「はい。堅気の方々が生きるために我慢しなければならない大切なもの、それを日陰者の自分たちこそが身を捨てでも守らなければなりません。それでなければ、自分たちの存在する意味などありません」
隆二の言葉に熱がこもり、心には火がともる。
「自分達は、金でははかれない大切なもののために、自分の命を紙切れのように、笑って差し出すことができなければなりません。そうでなければ……そうでなければ自分たちに生きる価値など存在しません」
「そうかい。そうだよなぁ。だがなあ、仁義仁義とお題目は立派でもよ、その仁義の看板を隠れ蓑にして、やりたい放題やってる連中だっているわけじゃねえか」
二口、三口で盃を空ける。
「いまやそんなもんは、おのれの腹を肥やすための看板になっちまっているのさ」
「それも……重々存じ上げています。仁義を看板に掲げながら、堅気の衆からみかじめ料だのなんだのを吸い上げる連中が存在すること」
ぎりぎりと隆二は奥歯をかみ締める。
「そういう連中により、仁義という言葉自体が忌まわしいものになりつつあることも」
「そこだよ。本当の意味での、おいらたちが信じた仁義なんてものは、元からおいらたちの世界にはないはねえんじゃねえのかな。いや——」
隆二の膳の上にある徳利を取ると、手酌で自身の盃を満たす。
「——いや、少なくとももうとっくの昔に消え失せちまったもんなんじゃねえのかな。よく言ったもんじゃねえか。“仁義なき戦い”なんてな」
『仁義なき戦い』おそらくはもっとも有名な部類に入るヤクザ映画であろう。
それまでの、英雄化され美化されたヤクザ映画の正反対を行く、いわば“実録もの”である。
登場するヤクザのほとんどすべてが金銭に目をくらませて私欲に走り、弱きをくじく社会悪として描かれている。
仁侠映画を地で行くヤクザも存在するが、その多くは無残な最期を遂げている。
仁義という看板すらかなぐり捨てた、むき出しの暴力に生きるヤクザの生々しい姿がそこにはあった。
「目先の金に目がくらんだ連中が掲げてるのが、まさしく仁義って看板なのさ。そんな連中だけがうまい汁を吸うような世の中なんだよ」
ぐっ、盃の酒を一気に喉に流し込む。
「資本家と政治家の手先に成り下がっちまうような連中が、仁義の二の字を汚していくのを、もうおいら見たかねえ。だからおいら、一抜けた、させてもらうんだよ」
「もはや、自分たちの掲げている看板は、腐りかけの匂いを放っています」
憤り、悲しみ、寂しさ、あらゆる物を溶かし込み、隆二はくい、と盃を干す。
「自分達が仁義の心をなくしたら、それこそ真底のヤクザ者、暴力団になってしまいます。そうはなるまいと、必死に今まで筋目を通しながら生きてきました」
コトリ、自分の感情を力づくで押さえつけながら、丁寧に盃を下ろす。
「親分のおっしゃるとおりです。もはや、この世に仁義なんてものは存在しないのかもしれません」
「しかし、お前さんはそれでも“かのように”振舞ってきた。違うかい?」
トクトクトク、隆二のなくした涙を代わりに流しきるかのように、掲げるもののない盃に酒を注ぐ。
「その“かのように”の振る舞いこそが、何よりも尊い代物なのさ」
そしておもむろに隆二の目を見つめ、そして力強く語った。
「それに隆二よ。本来仁義の二の字、おいらたちヤクザもんの専売特許にするべきものじゃあないんだよ」
その言葉に、隆二は戸惑いの色を隠せない。
「すいません、親分。自分にはとんとおっしゃる意味が——」
すると安堂は改めて羽織をまとう。
「今から、ちっとばかし難しい話をするよ」
そして座布団を引き寄せて居住まいを正した。
「まあ、年寄りのたわごとだと思って耳を傾けてくれ」
「は、はい」
隆二も慌てて胡坐をとき正座を結ぶ。
「じゃあ、いくぜぇ」
すう、長々と鼻から息を吸い込むと、安堂は一気にそれを吐き出した。
「顔淵仁を問ふ。子曰はく、『己に克ちて礼に復るを仁と為す。一日己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰す。仁を為すは己に由る、而して人に由らんや』と。顔淵曰はく、『請う其の目を問わん』と。子曰はく、『礼に非ざれば視ること勿かれ。礼に非ざれば聴くこと勿かれ。礼に非ざれば言ふこと勿かれ。礼に非ざれば動くこと勿かれ』と。顔淵曰はく、『回不敏なりと雖も、請う斯の語を事とせん』と」
今までの人生の中で、一度も耳にしたことのない、妙に平板ではありながらも、どこか心を打ち震わせるその言葉。
隆二は戸惑いながらも、安堂のその言葉に言いようのない感覚が体に走ったのを感じた。
「……それは……それはどちらさんの一家の、どなたさんの口上でございますでしょうか」
「口上って……まあ、お前さんらしいやね」
自身の言葉を香具師の売り口上と勘違いした隆二に、安堂は苦笑した。
しかし、自身が腹のそこから力を込め、吐き出した言葉が子分の心をいくらかでもゆるがせたことに、確かな手ごたえを感じ取る。
「今の一節はなぁ、口上でも浄瑠璃でも都都逸でもねえよ」
安堂は丁寧に、そして教え諭すようにして語った。
「おいら達が必死になって守ろうとしてきた、“仁”と“義”てなぁどんなもんか、一生かけて考え出したお人の言葉なんだ」
隆二は感動の唸りを上げる。
「そんなすごいお方がいらっしゃったとは……そのお方は、親分の御知り合いか何かでしょうか?」
新しいおもちゃを与えられた子どものように、この男には似合わない無邪気な声で訊ねた。
「……知り合い……まあ、いいか……」
安堂は顔をしかめて頭をかき、そして答えた。
「そのお方ってのはな、おいらたちが生まれる何千年も前の中国の偉い学者さんだ。名前はな、孔子先生、って言うんだ」