第18話 サチュロスにペルセポネ
「……ありがとうね榊くん。これ、良かったら飲んで」
コトン、白い円卓の上におかれたコーヒーカップから、白い湯気がくゆる。
「あなたがいなかったら、あの子——鈴木さん、どうなっていたかは分からないわ」
隆二に向かい合うように座る、白衣を身にまとった養護教諭の女性。
年の頃は二十代後半から三十代前半といったところだろうか。
そして申し訳なさそうに、小さく首をかしげる。
「ごめんなさいね、あなたも授業を受けなければならないというのに。だけど今のあの子、あなたがいないとたぶん、だめだと思うから」
コーヒーのかぐわしい香りが、隆二の鼻腔をくすぐる。
「……あなたがお気に病む必要もございません。あのお方は、自分にとっての大切なお友達です」
ハンドルに指を掛けることなく、まるで湯飲みのようにカップを握ると、隆二はそれを一口含む。
「……そのお友達を置いて、どうして自分だけ授業を受けられましょうや」
コキコキと首を鳴らせば、ようやくその心持も平静を取り戻す。
白を基調としたコンクリートの壁を覆い隠すように打ち付けられた、木目も鮮やかな無垢の杉板。
無機質な印象を与えるモルタル作りの教室は、柔らかく温かな印象を以って隆二を包む。
その周囲には、身長・体重計を初め様々な測定器具が林立している。
そこはやまびこ第一高等学校の保健室。
顔中を吐しゃ物にまみれさせ、トイレから一歩も動けなくなったクロシェット、鈴木花子を、隆二は優しく抱き寄せ、その肩を抱いて保健室へと連れ立った。
クロシェットはカーテン一枚隔てたベッドに横になると、よほどの疲労が押し寄せたのだろう、床につくなり気を失った。
四時間目の授業が終了するまでは、まだ二十分程度の時間がある。
隆二の目には、『花粉症を予防しよう!』と言ったスローガンの掲げられた保健ポスターが写る。
くしゃみを我慢するかのような仕草で掲載されるモデルの少女のこっけいな表情に、隆二はなぜかいい様のないのない哀れみを感じた。
「ところで、クロシェ……」
ことん、隆二は暖かなカップをテーブルに置くと、眉間にしわを寄せ養護教諭に訊ねた。
「鈴木花子さんは、今どのような状態でしょうか」
「落ち着いてるわ。手首の傷も古傷だし、特に目立った外傷もないしね」
養護教諭が目配せしたカーテン多くからは、心地よい寝息が響いてくる。
「……それよりもねあの子、手に持ったカッターを手放そうとしないの。ほとんど気を失ったように眠っちゃったんだけど、ものすごい力で固く握り締められているわ」
そして、隆二のほうに向き直り
「……差し支えなければ教えてもらえないかしら。一体、あの子とあなたが、あのトイレでどんな話をしたのか」
※※※※※※
「——と言ったところです」
隆二は丁寧にクロシェットとのやり取りを伝えた。
「……正直なところ、自分はあまり頭の出来が良くないもので、鈴木さんの言っていた言葉、“石榴”の意味が分かりません」
そう言うと、再び隆二はコーヒーカップに手を掛ける。
すでにコーヒーはぬるみ、カップからはひんやりとした感触が伝わってきた。
「しかし、その言葉にいい様のない胸騒ぎを覚えました。“石榴”という言葉の裏には、何かもっと深いものが隠されているんじゃないか、と」
その隆二の言葉に、養護教諭が口を開こうとした、その時
コンコンコン——
出入り口よりノックの音が響いた。
「はい、どうぞ」
養護教諭が声で招き入れると、ガラリ、と扉が開けられる。
するとそこには
「……あ、あの、榊さん、榊さんがここにいらっしゃると……」
その姿に、隆二は慌てて席を立つ。
「……先生……」
隆二の担任を務める若い女性教諭が立ちすくんでいた。
「ごめんね、あなたのクラスの榊くん、少々借りてるわ」
すでに親しい関係なのだろう、養護教諭は担任に気さくに声をかけた。
「ところで、頼んでいたもの持ってきてくれた?」
「あ、は、はい」
そう言うと、女性教諭は慌てて保健室に足を踏み入れ、養護教諭に固いカバーに包まれた冊子を手渡した。
「……これです。訓育資料」
「悪いわね、使い走りみたいなことさせちゃって」
ねぎらいの微笑を向ける養護教諭。
「今日はB組担任の吉野先生が出張だったから。頼みやすい人につい頼んじゃうのよね、あたしって」
そう言うと訓育資料を開き、隆二の担任の女性教諭とともに点検を開始した。
※※※※※※
「——何か分かりましたでしょうか」
隆二の問いかけに反応をすることもなく、表情を固めたままの二人の女性教諭。
養護教諭は、パタリ、訓育資料を閉じ
「……この資料と、榊くん、あなたから聞いた鈴木さんの言葉から、大体の事情が分かったわ……」
眉間を押さえ、表情を強張らせたまま口を開いた。
「……けれど、ごめんなさい。男の人に……いえ、いかに友達同士であっても、わたしの口から言うことはできないわ」
そう言うと、眉間にしわを寄せ、頬杖をついた。
「……なんていうか、おぞましくてとても自分の口からは言いたくないの……」
担任の教員は、自身の体を抱きしめるようにして、言葉なく小刻みに体を震わせる。
「……いえ、気に病む必要はございません……」
隆二は、再びコーヒーを一口含んだ。
「……その詳しい内容を、自分が知る必要なはいでしょう。ただ先生方、あなた方のその表情から、鈴木花子さんが言葉に尽くしがたいようなことを経験された、ということには思い及びました……」
その両者の態度、そして女子トイレにおけるクロシェットの態度から隆二は何かを察していた。
「……自分はその心の痛み、それだけを感じ取ることができれば、十分です」
涼やかな表情を浮かべ、コトリ、カップをテーブルに置いたその瞬間、隆二の表情が硬直する。
隆二は一切の言葉を発することなく立ち上がる。
「榊くん!?」
「え? な、何——」
動揺する二人に目を配ることなく、すばやく二人の女性教員の後へと移動し
シャッ——
力ずくでカーテンを開けた。
するとそこには——
「きゃあっ!」
隆二の担任の女性教諭が、顔面を蒼白にして叫ぶ。
カチリ、カチリ、カチリ——
「……りゅーじ……」
捨てられた子犬のような表情のクロシェットは、気を失っても手放すことのなかったカッターの刃を自身の古傷の上に重ねようとしていた。
「や、やめて鈴木さん!」
女性教諭は取り乱し、慌ててクロシェットの元に駆け寄ろうとする。
「こんなことしちゃだめ! あなたは何一つ悪くはないもの! 悪いのはあなたの新しいお——」
スッ——
「え?」
取り乱す女性教諭を押しとどめるように、その目の前に差し出されたゴツゴツとした手。
その手の主、隆二は涼やかな視線を女性教諭に向け微笑んだ。
まるで、自分自身にすべてを任せて欲しい、というかのように。
そして女性教諭のその肩に重ねられる、養護教諭の手。
まるで、ここは彼にすべてを任せましょう、というかのように。
「……少し顔色は良くなられたようですね、クロシェットさん……」
隆二は例の涼やかな微笑を浮かべ、クロシェットの横に座った。
ギシリ、七十キロを優に越える隆二の体重に、保健室のベッドもきしむ。
「短時間でもぐっすりお眠りになられるというのは、やはりいいことなのかもしれませんね」
「……石榴をたべちゃってたことをママにはなしたの……」
カッターを古傷にあてがったまま、放心状態でかすれた言葉を口にするクロシェット。
「……そうしたらね……わたしがママにものすごくおこられたの……なんどもたたかれて……なみだもでなくなるくらいいやなことばをなげつけられたの……」
「……つらい思いをされたのですね……」
相槌を打ちながら、その気持ちを推し量るようにして言葉にし、そしてクロシェットに返す隆二。
「……ママはね……あのあくまをえらんだの……わたしじゃなくってあのあくまを……」
もはやクロシェットは、ただ決められた言葉を語ることのみをプログラムされた機械だった。
その体を微動だにせず口のみを動かした。
「……わたしね……東京のおばあちゃんのうちにあずけられたの……ママは……ほんとうのパパとくらしたあのいえであくまといっしょにくらしているわ……きっとよごれちゃったわたしとなんかいっしょにくらしたくないんだわ……」
「あなたは汚れてなんていません」
隆二はそっとクロシェットの手に自身の手を重ねる。
「ただ、あなたがそう思い込んでいるだけです。あなたは若く、美しいお嬢さんですよ」
「……それでずっとおばあちゃんのいえの、わたしのへやにひきこもったわ……そこはわたしのおしろなの……あにめとかまんがとか……みんなわたしにやさしいわ……だれもわたしをきずつけないもの……だれともあうひつようなんてないもの……あにめのきゃらくたーといっしょなら……わたしはわたしらしくしゃべれるわ……」
「良いお友達に恵まれましたね」
隆二は温かな言葉を掛け、クロシェットのその言葉を受け入れた。
「自分には長らくそのような友達などおりませんでしたから。羨ましく思います」
「……わたしだってこのままじゃいけないとおもうの……だけどじごくのざくろをたべちゃったらこっちのせかいにかえれなくなっちゃうの……そんなときむしゃくしゃして……いらいらして……どうしてわたしはざくろをたべちゃったことママにはなしちゃったんだろう……そうすれば……わたしががまんすればみんななかよくいっしょにくらせていたはずなのに……ほんとうの……だいすきなパパとくらしたあのいえで……そんなときにね」
カチャカチャ、カチャカチャ——
クロシェットは何度もカッターの刃を出入りさせる。
「……こうしてきずをつけるの……いたいけど……きもちいいの……だってね……しなないかぎりはいきているんだもの……いまもね……ものすごくきりつけたいの……」
胸を締め付けられるようなその様子に、女性教諭は目を背け、そして目に涙を浮かべる。
しかし隆二は
「そうですか。それはあなたにとって大切な儀式だということですね」
涼やかに微笑をたたえて言った。
「あなたは、自分自身の腕を切り刻むことで、自分自身に“落とし前”をつけよう、そうなさっているのでしょう」
「……おとしまえ?」
ようやく表情が動いたクロシェット。
「ええ、落とし前、です。いろんな意味がありますが、自分自身の罪悪をあがなうために自分自身を傷つける行為です」
隆二はカッターをもてあそぶクロシェットの手を掴み、言葉を続ける。
「中には、小指を切り落とすような人もいます。しかし、あなたは見たところ小指を切り落とすというような、取り返しのつかないところまではいっていないようですね」
こくん、クロシェットは無言でうなずいた。
「今あなたは、なんとしても自分自身の手首を傷つけたくてたまらない、そうですね」
コクリ、クロシェットは再びうなづいた。
「そうですか」
隆二は涼やかな微笑をクロシェットに向けると、そしてカッターに添えたその手を解放した。
「ではあなたのその心、自分が見届けて差し上げます。よろしければ、自分の目の前で、あなた自身をお切りつけなさい」
「…………え?」
「ちょ、ちょっと榊さ——」
慌ててその言葉を押しとどめようとした女性教諭の腕を、養護教諭が無言で強く掴み、そして首を振る。
「ただし、刻んでいいのは、今までどおり薄皮の一枚だけです」
隆二は更に言葉を続ける。
「もしそのヤッパがあなたの手首に完全に食い込もうとしたとき、そのときは大事に至らぬよう、全力であなたをお止めいたします。それでいいですね」
「……いいの?」
と訊ねるクロシェット。
すると、隆二は柔らかく微笑み
「何の二の句を継げましょうや」
励ますように、やさしくその肩を抱いた。




