第17話 カッターに石榴
「へー、隆二さんも変な女の子に絡まれちゃったんだねー。それからずっとアフレコの練習つきあわされてたんだー」
バタン、カチャリ——
スティール製のロッカーを閉め鍵を下ろす翼は、しかめっ面で隆二に同情を寄せる。
「やさしーよなー、隆二さん。俺だったら、"うざいんだよ!"とか言って、キレてその教室飛び出しちゃうところだよ」
「まあまあ、翼さん」
バタン、カチャリ——
涼やかに笑い、そして翼同様ロッカーに鍵を下ろす。
その手にした冊子には、『新編 高等学校保健体育』の文字。
「我々は同じヤマコーの一年生ですから」
隆二がアルブル・オ・クロシェット・サクラこと鈴木花子と出会った翌日の空き時間。
隆二と翼は、四時間目は保健体育の授業ための準備をしていた。
「それに、自分はおなじ基礎コースで机を並べる関係ですからね。ましてや、自分には英会話の練習の相手をしていただいたという義理があります」
そして隆二は自分自身の席についた。
「その程度で義理が果たせるなら、造作もないことですよ」
「ふーん、隆二さんって、義理堅いんだね」
翼は同じく前方の席に腰をおろし、体勢を隆二へと向けた。
「あっ、他のクラスの生も入ってきたよ」
ぞろぞろと、他のクラスから男子生徒が教室に。
一年A組の教室は男子生徒のための保健体育の授業の会場となっている。
「こうしてみると、うちの学校って男子も結構いるんだねー。っていうか、こういう時ミヤミヤってどこで授業受けるんだろ」
「……一応、ミヤミヤさんが男性であったことは覚えていらっしゃったんですね……」
ぼそりと呟く隆二。
「ええ。ミヤミヤさんの場合は特別ですから。この時間はスクールカウンセラーの先生と特別な授業をおこなうとおっしゃっていました」
通信制・単位制の学校において、ミヤのように自分自身の性に違和感を持って入学してくる青少年も、少なからず存在する。
ヤマコーでは保健体育の授業の時間、そのような生徒はカウンセラーとのカウンセリングをおこなうことにより対応している。
「ミヤミヤさんのような方でも排除せず、きちんとその特性に応じて指導いただけるのですから」
隆二は柔らかく笑い、真新しいノートを開いた。
「ヤマコーの先生方には、頭の下がる思いですよ」
「実は俺も、あのカウンセラーの先生には世話になってるんだ」
恥ずかしそうに、照れたようにして顔を赤らめる翼。
「今は少し落ち着けるようになったんだ。前みたいに分けわかんなくなって暴れだすこと、少なくなるといいなぁ」
「大丈夫ですよ、翼さん。信じましょう、ヤマコーの先生方を」
隆二は、励ますような温かい笑顔を向ける。
「何よりも自分自身を信じましょう、翼さん。及ばずながら、自分も応援させていただきます」
「うん! 俺頑張るよ!」
翼は嬉しそうに、無邪気な笑顔を隆二に返した。
※※※※※
カツ、カツ、カツ——
「——えー、わたしたちの健康のあり方というのはぁ——」
色の濃い黒板に、真っ白なチョークを走り書きする体育教員。
カツ、カツ、カツ——
パンパンッ、豪快に手についたチョークを払う。
「このようにね、栄養バランスにあふれた食事や睡眠、こういった生物学的な面だけではなく、豊かな文化的生活、暖かな家庭生活などを含めた、生き方自体の質を高めていくことも必要なわけだな。それを——」
そして、教科書を片手に
「——じゃ教科書アンダーライン引いといて。カッコの中のアルファベットまでね。上から五行目の部分、“クオリティ・オブ・ライフ(Q.O.L)”という。覚えておこう」
その言葉に従い、力いっぱい赤鉛筆を握りしめ、ゴリゴリと当該箇所に線を引く隆二。
あまりにも力を込めすぎてしまったため、線がゆがんでしまった。
恥じ入るように頭をかき、気を取り直して改めて線を引きなおす。
すると
「せんせー!」
ばっと手を上げた人物が。
「質問があるんですけど!」
誰あろう一年A組の隆二のクラスメート、伊藤翼だった。
「おう、伊藤くん」
その言葉に反応し、体育教師は発言を促す。
「何でも質問してどうぞ」
「あのさー、先生、俺んち、結構俺のせいでお父さんとお母さん結構喧嘩して、ぎすぎすしてんだけどさー」
家庭の重要な事項を、あっけらかんと話す翼。
少しずつ突発的な行動は少なくなってきたとはいえ、やはり頭に浮かんだことをストレートに口にしてしまうところは相変わらずだ。
「そんなんだから、俺んち、ていうか俺って、“クオリティ・オブ・ライフ”がないってことなのかなぁ」
「伊藤くん、そんなことでかい声でクラス全体に言ってどうする」
体育教師は腕組みをしてその翼の向こう見ずな発言を笑い飛ばした。
ドッ、クラス中が沸き、翼も思わず照れ笑い。
「まあ、確かに家庭生活になかなか恵まれないというには、不幸なことかもしれないな。ただ——」
体育教員は腕組みを解くと、その両腕を教卓におき、一人ひとりの目を見つめるようにして語りかける。
「——ただ、少なくとも君たちにはまだ未来がある。君達もこれから結婚して家庭を築くだろう。そのときに、自分の大切な奥さん、そして子どもたちを大切にしてやればいい。自分が得られなかったものを、奥さんや子どもに与えてあげればいい。誰かに与える幸せ、それだって“クオリティ・オブ・ライフ”なんだ」
“そんな俺もなんだかんだで中華料理屋構えてさ、所帯持って、こうやって今は一人娘を、馬鹿みてえに学費の高い私立の女子校に通わせてるんだよ”
隆二の心によぎるのは、蓬莱の店主の言葉。
蓬莱の店主、そしておかみさんは、朝から晩まで必死に働きながら、弱音一つこぼすことなく、一人娘の祥子に愛情を注ぎ生活を守り続けている。
その店主の言葉、そして姿に感じた、一本筋の通った力強さ。
市井の人々の中に存在する、と安堂が言った“仁義”、隆二は“クオリティ・オブ・ライフ”という言葉にその一端を垣間見たような気がした。
その瞬間だった。
ガンッ!
廊下からなにか大きなものがぶつかった様な音が聞こえる。
「なになになに? 何が起こったの?」
パニックを起こしかける翼。
翼のみならず、一年A組に集まった男子生徒が体を硬直させ、混乱の表情を浮かべる。
教室の前方のドアのガラス越しに、誰かが早足で賭けて言った姿が見えた。
猛然と駆け抜けたその速さに、男子生徒たちは一体何が起こったか状況を把握できない。
しかし、隆二は何かに感づいた。
一瞬だけ目に留まった、青い花のモチーフのヘッドドレス。
大きな音を廊下から響かせる、廊下を切り裂くような固いブーツのヒール音。
間違いない——
「申し訳ありません、先生」
その人物が誰であるかを革新した隆二は、ガタッ、席を勢いよく立ち上がりる。
「少々自分にお時間をいただきたい。先ほどのお方は、自分のお友達です」
そう言って教員に対し慇懃に頭を下げると、そのまま教室の外へと駆け出した。
※※※※※
ドンドンドンドン——
「どうしたの? 一体何があったの? ここを開けて頂戴!」
保健体育の女性教員が、トイレの出入り口のドアを叩く。
しかし、全く返事がない。
「——ん! ん! んん!」
女性教員は、力ずくでその扉を開けようとする。
しかしモップか何かでつっかえ棒がしてあるのだろう、扉は一センチたりとも動かない。
「鈴木さん、ここを開けて! 一体何があったか、話を聞かせて!」
ドンドンドンドン——
懇願の声と、扉を叩く音だけが、むなしく廊下に鳴り響く。
その音を聴きつけて、ヤマコーの教員たちも女子トイレに集まって来る。
そしてその中には、榊隆二の姿も。
「先生——」
隆二は取り乱す女性教員の肩に手を置き、その顔に涼やかに微笑みを浮かべる。
「鈴木花子さんは、自分のお友達です。ここは自分に任せちゃぁいただけませんか」
こくり、女性教員はうなずく。
「……クロシェットさん……」
隆二は静かに鈴木花子、アルブル・オ・クロシェット・サクラに語りかける。
「……聞こえていらっしゃいますか。自分です。隆二です。榊隆二です」
「……りゅーじ?……」
ようやくトイレの奥から響いてきたのは、弱弱しく平板なクロシェットの声。
「……ごめんね、りゅーじ、あっちへいって……今そういう気分なの……わたしなら、大丈夫だから……」
「ええ、存じ上げています」
一呼吸おくと、慎重に言葉を選びながら、隆二は静かに口を開く。
「ただ、自分はクロシェットさんと話がしたいだけなんです。もしよろしければ、自分をこの中に入れてはいただけませんか」
一分だろうか、それとも五分だろうか。
しばらく、無言の時間が続いた。
だめか——
隆二が諦めかけたその時
「……いいよ……りゅーじだけなら……」
ようやく女子トイレの中から返ってきたクロシェットの言葉。
「……りゅーじとだけ……りゅーじとだけ話す……」
隆二は、そして周囲の教員たちは、ほっと胸をなでおろす。
「それでは、こちらの扉を開けてはいただけませんか」
隆二はガタガタと扉をスライドさせようと試みる。
「このままではそちらのほうへと足を運ぶことも儘なりません」
「……無理……ドアの後に思いっきりモップを踏み込んじゃったから……」
内部より響くクロシェットの声。
「……たぶん、わたしの力では開けられない……」
「……そうですか……」
すると、隆二は後方にいる教員たちに対し訊ねる。
「……申し訳ありません、少々手荒な真似をさせていただきますがよろしいでしょうか……」
その言葉に、無言でうなずく教員たち。
その様子に、隆二も無言でうなずきを返す。
そしてドアから数メートルの距離を取り、軽く駆け出すような仕草を見せて膝を大きく抱え込むと
「ふんっ!」
ガキイッ!
“阿修羅に帝釈”は、強烈な横蹴りをトイレの扉へ叩き込んだ。
ベコッ、アルミの扉に雪駄が食い込む。
更に
「らあっ! うらあっ!」
二発、三発と横蹴りを叩き込むと
ドンッ!
ドアは破壊され、トイレの内部へとめり込んだ。
ふう、小さなため息をつき、額の汗をぬぐう隆二。
「お騒がせして、申し訳ありませんでした」
背後で呆然と立ちすくむ教員たちに対し、頭を下げる。
「それでは、そちらに参ります」
クロシェットに声をかけてトイレの中へと足を踏み入れた。
※※※※※※
しん、痛いほどの静寂に変える女子トイレの中を、隆二は一歩一歩足を進める。
すると自身の雪駄が、何かを蹴飛ばしたような感覚を覚える。
しゃがみこみ、その蹴飛ばした何かを摘み上げる。
それには見覚えがあった。
タータンチェックのレザーのリストバンド。
間違いない、クロシェットが固く左手首に巻きつけていたものだ。
隆二はそれをポケットにしまいこみ、一番手前の個室の中に笑顔を向ける。
「ここにいらっしゃったのですか、クロシェットさん」
「……りゅーじ……」
便器を抱え込むようにしながら、隆二を振り向くクロシェット。
アイラインは冷や汗ににじみ、髪の毛は汗ばんだその頬にへばりつく。
嘔吐した形跡だろう、口角には黄色い胃液が糸を引いている。
右手には、錆びついて真っ黒になった工作用のカッター。
そして本来革のバックルのリストバンドできつく止められていたはずの左手首には——
「古傷——のようですね。生傷ではありません」
隆二がクロシェットの左手首に見たもの、それはすだれのように刻まれた、無数の切り傷だった。
「安心いたしました。大事には至っていないようですね」
隆二は片膝をおろし、真っ直ぐにその視線に並び、涼やかな微笑を向けた。
「大丈夫です。今ここには、クロシェットさん、あなたと自分しかおりません。よろしければ、ここに至るまでのあなたの心持、自分にお聞かせ願えませんでしょうか」
するとクロシェットは、隆二のほうへと向き直り、魂の抜け殻のような表情で口を開く。
「……保健の授業だったの……りゅーじたちといっしょ……」
氷のような表情で、その視線は放心しきったように宙を仰ぐ。
「……幸せな生活を送るために、っていう授業だったの……“クオリティ・オブ・ライフ”っていう話……」
「ええ、そうでしたね。自分たちもです」
うなずきながら相槌を撃つ隆二。
「“クオリティ・オブ・ライフ”、生活の質を高めなければならない、と。健康な体だけではない、暖かな家庭など、様々な側面から測られる幸せな生き方、というところでしょうか」
「……そしたらね……むかしのことおもいだしちゃったの……」
すると、カッターを手にしたまま、横座りで自分自身をきつく抱きしめるクロシェット。
その目からは更に生気が消え行き、瞳の焦点は移ろい、呼吸は小さく荒くなる。
「……ママ、と……新し、い、パ、パ……パパはあ、くまなの……地獄、の、皇帝、な、の……」
ハッ、ハッ、ハッ、呼吸は更に小さく刻まれると、それに合わせて体中が痙攣を始める。
「……たべ、ちゃい、けな、かった、の…………た、べちゃ、たら……も、う帰れ、なくなっ、る、の……地、上の、世、界に……」
その額には冷や汗がにじみ、アイシャドウはまるで黒い涙のように頬を伝う。
「……だ、から、内緒、だ、たの……マ、マに、は、ずっと……だ、けど、新し、いパパ、は、マ、マ、の目を、盗ん、で、わたし、に、たべさせ、続け、る、の……わた、し、もう、たべた、くな、か、たから……マ、マに、しゃべっ、ちゃっ――」
すると、クロシェットの体に大きな発作のようなうねりが起こる。
クロシェットは口を押さえ、そして便器に向かって何度も嘔吐いた。
隆二は無言で、その肩を抱きしめる。
すでに胃液も出なくなったクロシェットは、大きく息をつく。
そして肩を震わせ、消え入りそうな声で呟いた。
「……たべちゃったこと……地獄の石榴……パパからもらった……地獄の石榴……わたしはもう……地獄に住み続けるしかないの……」




