第11話 自己紹介に身体測定
“お前はもう引き返しのつかないところに来ちまっているんだよ”
ぎりぎりと、奥歯同士がかじり合う嫌な緊張が顎に走る。
奥歯の根元からは、錆び付いた懐かしい味が広がる。
懐かしくあり、しかし思い出したくもない、古釘をしゃぶる様な血の味が。
“お前は一生忘れられねえんだ。肉を切る音、骨を絶つ感触、そして赤い血の生暖かをさ”
血の味は、久光が呪縛のように隆二に投げかけたその言葉を胸によぎらせる。
左手で頬杖をつく隆二。
その目と目の間には、海溝のような深いしわが刻まれる。
左手に添えられた右手は、石のような拳を作る。
もし、久光との間を隔てる透明の壁がなければ、自分は一体どのような振る舞いをしていただろうか、隆二は自身に問いかける。
「――です。よろしくお願いします――」
その硬い右の拳を、いくつもの命のやり取りの中で凹凸を減らした久光の顔面に叩き込んでいたのだろうか。
人差し指と中指、両の指を濁りきったその両目に突っ込んでいただろうか。
「――では次は……さん、自己紹介をお願いします――」
隆二は右の指で自分自身を戒めるかのように左の腕を締め上げる。
それだけは、あってはならない。
相手がいかに生粋のヤクザ、暴力団であるとはいえ、暴力による解決を望めば相手の立場となんらの代わりもない。
堅気の道を歩もうという隆二にとって、その行動はまさしく元の木阿弥だ。
「――ありがとうございます。それでは――」
そもそも堅気の人間として生きることを決めた自分自身にとって、久光など全く関係のない存在であるはずだ。
二人の間にあるのは、盃を交わした兄弟分としての絆ではない。
命を助けてもらったことへの恩、存在するのは、ただ“恩”の一字のみ。
「――さん。聞いていますか? ええと……さん――」
堅気の人間でも持つ、人間としての当たり前の感謝があるだけだ。
己自身に言い聞かせるように何度も心の中で繰り返すが、その心は冷たい氷のつぶてを伴う嵐のように荒れ狂っていた。
隆二はぶるぶると頭を振る。
そうだ、自分は安堂一家若頭の名を捨てたのだ。
自分へ与えられた新たな名、それは、やまびこ第一高等学校学校一年A組の出席番号――
「出席番号七番、榊隆二さん!」
「はっ!?」
自分の新しい呼び名、それが大声でこだました瞬間、隆二は驚愕して全身を硬直させる。
「え、あ、ああ」
この男には思いもよらぬような情けのない声を出して、その周囲を見回す。
そこには、二十人ばかりの、年若な青少年たち。
その青少年達が、いっせいに取り乱す自分自身を見つめている。
皆それぞれまちまちな服装に身を包み、あるものは微笑みながら、あるものは奇異な動物を見るかのような表情で。
そこは、やまびこ第一高等学校、通称“ヤマコー”の大浦キャンパス一年A組の教室。
十数メートル四方の白い壁に囲まれたその教室の中に、真新しい木製の机が所狭しと並べられている。
ようやく隆二が反応を示したことに安堵した教壇上の人物は、胸をなでおろして隆二に語りかける。
「ええと。榊隆二さん? あなたに、クラスの皆さんに、自己紹介をしていただきたいのですけれど……」
ふと隆二がその声の主を見れば、そこには一人の若い女性の姿。
いかにも、と言ったリクルートスーツに身をまとい、そしてきっちりと髪の毛を纏め上げている。
身長は百六十センチ程度だろうか。
年の頃合も、隆二と同じか、もしくは年下のようにも見える。
一言もなく、ぼんやりと自身を見つめる隆二に対し
「……だ、だめですか?」
その女性はおどおどと申し訳なさそうに言葉をつなげる。
「い、いえ。通信制でコースも少しずつ違いますが、一応は私が担任を受け持つクラスということですし……自己紹介を、と思ったのですが……」
「も、申し訳ありません」
こちらも申し訳なさそうに頭をかく隆二。
「なにせ、自分皆様と違いまして、教室で机に座るということ自体が久しぶりなものですから」
青少年たちからすればあまりにも律儀なその物言い。
それがこっけいに写ったのだろう、教室は大きな笑いに包まれた。
「リラックスリラックス!」
隆二の右前方にいる少年がはやし立てるように声をかける。
「切り替えていこ、切り替えて! もうワンチャンあるからさ!」
そのおどけた様子に、教室内は更なる笑いに包まれる。
そして隆二も、幾分かの照れが同居した苦笑いを浮かべ頭をかく。
「それでは」
小さく呟くと、隆二はすっくと立ち上がる。
パンパンパン、と手を叩き
「ほら! 皆静かに静かに!」
先ほどの少年が騒々しく静寂を促す。
その言葉に従うように、年上の新しい仲間への好奇心に胸を躍らせるクラスメートたち。
そのクラスメイトに向かい、まずは一礼、頭を下げる。
「自分は、榊隆二と申します」
面接の時の経験によるものか、リラックスした面持ちで、涼やかな微笑をたたえて口を開く。
「当年とって二十四になります。中学校を、紙切れの上だけですが卒業して以来、安堂興業というところで日銭を稼いで生きてまいりました。このたび一念発起いたしまして、皆様若い方々と一つ屋根の下机を並べることになりました」
「なんだ、見た目どおりおっさんじゃん!」
先ほどの少年が、茶々を入れる。
しかし、その無邪気な様子には、親愛の常こそ感じられど、一片の悪意も感じられない。
「ええ。その通りおっさんです」
“おっさん”という言葉を潔く受け入れ、隆二はその顔をいっそうほころばせた。
「おっさんですし、十年以上もまともに勉強したことはございません。とりあえずは基礎コースでしっかりと、中学校のことの勉強をやり直していきたいと考えております。ご面倒になることも多くございますが、ご厄介になります」
やはりどう考えても堅苦しすぎる口上の後に、更に深々と頭を下げた。
――パチパチパチパチ――
教室中が、大きな拍手に包まれた。
「よろしくね、榊さん!」
相当なお調子者なのだろう、少年からも明るい声が浴びせ開けられる。
一通りの拍手が過ぎ去った後、隆二は木製のいすに腰を落とす。
ふと右隣を見れば、一人のクラスメートの姿。
長い髪の毛を後ろで結び、七部丈のジーンズに、白いブラウスとニットを身にまとっている。
かくいう隆二も、白いワイシャツにブルージーン、そして足元は履き馴染みの雪駄、と、稼業を営んでいた頃同様のラフなスタイルだ。
ヤマコーでは一応制服が存在するが、標準服の名のもとに服装自体は自由化されている。
隆二と目の合ったその少年は、にこり、と穏やかな微笑を隆二に返す。
肌の色は透き通るように白く、その面立ちはやや丸みを帯び、そしてその瞳はやや茶色みがかっていた。
お人形のような少年だ、それが隆二の最初の印象だ、
いやむしろ、その服装によってようやくその目の前にいる人物を少年と認識できただけであり、その性差の把握に、隆二は一瞬の混乱を覚えていた。
自身へとむけられたその笑顔に、隆二はあの涼やかな笑みを返す。
「どうも。隣の席になったのも何かの縁です。ご迷惑をおかけいたしますが、よろしくお願いいたします」
「――では次は……さん、自己紹介をお願いします――」
いすに座りながらも律儀に自身に向き合い、丁寧に頭を下げる隆二に対し
「はい。よろしくお願いします」
にっこりと微笑を返した。
「僕は、宮川美弥っていいます。よしや、って呼んで下さい」
「ええ。美弥さん。自分の事は、好きに呼んで下すって結構ですので」
頭を上げた隆二は、そういって返した。
「はい。けど、そんなにかしこまらなくっていいですよ」
柔らかく、やや男性にしては高めの声で美弥少年は言った。
「じゃあ、僕は榊さん、って呼ばせてもらいますね」
※※※※※
「榊さん! 榊さん!」
自己紹介の時に隆二に茶々を入れた少年が、人懐っこそうにまとわりつく。
「なあなあ、榊さん。榊さんって、今までどんな仕事してきたの? ねえねえ!」
「いや、たいした仕事ではないですよ」
白いワイシャツのボタンをはずすと、その下にはタイトな黒いヒートギアに包まれた厚い胸板が露出する。
「まあ、言ってみれば小売業といいますか、サービス業といいますか。そんなところでしょうか」
「うわー、榊さんって、結構マッチョだね!」
その少年は、隆二の言葉に耳を貸そうともせずに大きな声で叫んだ。
自分の思ったことをそのまま口に出さないと気がすまない性格なのだろう。
「榊さん、俺の自己紹介聞いてなかったでしょ!? 俺、伊藤翼って言うんだ。よろしくな!」
そういって、上半身裸のままで右手を差し出した。
「ええ、こちらこそ」
そう言って隆二はその右手を握り返す。
その教室よりもやや広い一室には、たくさんの男子生徒が。
皆上半身Tシャツの姿。
その日は顔合わせのロングホームルームの後に、身体測定が指定されていた。
隆二のクラスの男子生徒たちも、全員そこで測定の順番を待っている。
隆二もヒートギアとハーフパンツに着替え、その隣で一方的にまくし立てる翼の言葉を受け流しながら、為すところなく腕を組んで順番を待ち続ける。
すると、その視線の先には、壁に背中をつけ、もじもじとうつむく一人の少年の姿。
「――あれは」
歩をすすませ、その少年の下に歩み寄る隆二。
そして、その少年に語りかける。
「――美弥さん、どうかしたんですか」
「――あ……榊……さん」
するとその少年、宮川美弥は、頭一つ背の高い隆二を見上げるようにして顔をあげた。
「……え、と……」
隆二と目を合わせると、その全身を一瞥し、視線をはずすようにして再びうつむいた。
「どうかいたしましたか、どこか体調でも――」
心配そうに、その肩に手をかける隆二。
すると、美弥は何かにおびえたように肩を振って隆二の手をはずす。
「美弥さん……」
ホームルームでの明るい、柔和な笑顔とは打って変わったその様子、隆二は戸惑いを覚えた。
「どうしたの、榊さん」
能天気な声を上げ、二人の後から近寄る翼。
「あれー? 君俺たちと同じクラスだよねー? 確か……宮川美弥君! 俺の自己紹介聞いてた? 俺の名前は伊藤翼ねー! よろしく!」
そういって、先ほど隆二にしたのと同様、その右手を差し出す。
その右手を、美也は無言で恐る恐る握る、いや触り返す。
するとそのよそよそしい様子に
「なんだよなんだよ」
親密な関係を強要するような翼は不満そうな言葉を口にする。
「そんな警戒しなくたっていいじゃん」
「まあまあ。翼さんも、美也さんも。仲良くしましょうよ」
両者をとりなすように間に割って入る隆二。
「これから三年間、同じクラスで過ごすのですから。それよりも、早く身体測定を終えないと、先生方やお医者様方にご迷惑がかかります。早いところ、済ませましょう」
「まあ、榊さんがそういうなら……」
しぶしぶとその言葉を受け入れる翼。
コクリ、無言でうなずく美弥。
「だったらさ」
すると翼は、つかつかと美也に歩み寄り
「早く着替えなよ、宮川くん! 榊さんも言ったけど、早く着替えないと他の人に迷惑になっちゃうだろ!」
そういって、美也の白いブラウスのボタンを無理やりはずそうとした。
「……ちょ……いや、だって……」
強引に服を脱がせようとする翼の腕を、美弥は振りほどこうとする。
「翼さん」
その様子を見かね、隆二は翼の腕を掴んでやめさせようとする。
しかし、自分の中の正義感、良かれと思った行動をしていると考えている翼は
「早く脱ぎなよ、宮川くん。皆の迷惑になっちゃうだろ」
そう言い張ってその手を緩めようとしない。
「……い、いやだって……」
独善的ともいえる翼のその手に、ついに美屋の堪忍袋の緒が切れる。
「やめてったら!」
胸元を押さえ、大きく腕を払って怒鳴り声を上げた。
その叫び声に、その身体測定の会場はしん、と静まり返る。
その視線は、いっせいに隆二と翼、そして美弥の三人に集中する。
「……あ……」
自身のあげた叫び声に、美弥自身が驚き、戸惑いの表情を浮かべる。
義也はうつむき、胸元を押さえて呟く。
「……ご、ごめん、大きな声を出しちゃって……」
すると、おもむろに顔を上げたかと思うと、弱弱しい微笑を浮かべる。
その瞳は、心なしか潤みを増しているかのようにも見える。
「……その……ごめんね!」
美也はそう言うと、逃げ出すように測定室を飛び出した。
隆二と翼、そしてヤマコーの男子生徒は、あっけにとられたかのようにその後姿を見送るほかなかった。




