第10話 疵に久光
「――で、あんたは晴れて、高校生活をスタートさせる、ってわけかい」
右顔のみを引きつらせるようにしてニヤニヤと笑う男。
その微笑みはあくまでも皮相なものだ。
内面に何を抱えているのか、何一つ読み取ることができなかった。
「そんなかしこまった背広姿を拝見するのは、何年ぶりになるだろうねえ」
その顔つきからは、その年齢すらも読み取ることができない。
二十代なのか三十代なのか、はたまた四十代なのか。
あらゆるものを手の内に伏せるようにして、不敵な微笑をたたえ続ける。
「それに引き換え、こっちはなんだか惨めなもんさ」
粗末な作業着の上下に作業帽、その帽子を取れば、見事に刈り上げられた髪の毛が露出する。
「――ええ。本日は入学式でした」
四月の第一週、榊隆二はクリーニングしたての一張羅に袖を通し、区の公会堂を貸しきっておこなわれたやまびこ第一高等学校の合同入学式へと出席した。
多くの若者たちに混じり、様々な役員の言葉に耳を傾けながら、隆二はその若い希望を胸に膨らませた。
しかし、その膨らむ希望に染まらぬ部分が隆二の心の中に存在していた。
黒く、そして深く、決して何色にも染まらぬ部分が。
それは小さな疼きとなり、隆二の心の中に言い知れない不安をよぎらせた。
式の終了した後、そこここでおこなわれる記念撮影のフラッシュを背に、隆二はこの男のところへと足を運んでいた。
「まったく、娑婆って世界は、少しでもそこから抜け出ちまうと、完全に俺をおいて言っちまうんだな。恐ええ、恐ええ」
その男は、長い懲役期間においても取ることのできない、宿命的なタバコの脂に汚れた歯をむき出しにした。
「一家も解散して、これであんたも堅気として堂々とお天道様の下を生きていける、ってわけだ」
「自分はテキヤです、いや、テキヤでした」
頬の肉一つ動かさない硬い表情のまま、隆二ははその唇のみを動かし反論する。
「少なくとも、あなたのように違法な金を動かして、お勤めをするほどに落ちぶれていたつもりは、毛頭ございませんよ。久光さん」
伝えるべきことのみを伝えながらも、隆二の拳はじっと汗を握りしめる。
自分自身の内面、その一切を悟られてしまいかねない。
隆二はそれを警戒し、通常以上の警戒を以って心に蓋をした。
「いってくれるねぇ」
しかし見透かしたような微笑を浮かべる久光。
「盃かわした兄貴分に対してよ」
蓋をしたその隆二の心の動き、それ自体を楽しんでいるかのように。
隆二は、背筋にいやなものが流れ落ちるような感覚を覚える。
「もはや契は解消したはずです。あなた自身の手によってね」
「確かに。そうでなければ、俺とあんたがこんな――」
そう言うと久光は、芝居がかった大げさな仕草で、ぐるりと周囲を見回した。
隆二と久光、二人の間に存在る、アクリルで作られた目に見えぬ壁。
その目に見えぬ壁は、二人の現在の環境を分かつ嘆きの壁ともいえる。
一方は、足を洗った元テキヤの堅気として。
一方は、非合法ビジネスに手を出し懲役を勤める、現役の暴力団の構成員として。
コンクリートでできた無機質な部屋の中、二人の会話は一字一句刑務官の監視の元に置かれている。
「――こんな石造りの殺風景なところで、一献の酒もなく面を通すこともなかっただろうな。だけどな――うっ」
すると、今度は大げさに腹を押さえ、そしてこれも芝居がかった仕草で
「――この疵、忘れたわけじゃあるまいな?」
するりと作業着の腹をはだけて見せた。
「盃が解消されようが何しようが、俺はあんたの命の恩人なんだがな。この疵がある限り、その義理は一生かけても消えねえぜ?」
「……それについていまさら言挙げするつもりもございません」
隆二は目を閉じると、心を落ち着けるように一瞬無言になり、そして小さくため息をついた。
「未熟な自分のためにこさえさせてしまった疵です。だからこそ、所属する組と一家の垣根を超えて兄弟分の契りを交わさせていただきました。そのご恩に関しては……あくまでも堅気の一人の市民として……一生感謝させていただきます」
「まあ、その事を忘れさえしなければ、俺は何も言うことはねえよ」
久光は満足そうに裾を、バックルのないベルトにつられた作業ズボンにしまいこんだ。
「それよりも、せっかくのあんたの、弟分の入学式に何の祝いの品も届けられねえのは心苦しいねえ。今度、うちの若いもんに何かしら届けさせようか」
「それについては、固くお断りさせていただきます」
隆二は、礼儀を重んじるこの男には珍しく、何の婉曲もなく厳しい口調で断言した。
「以前にも申しました。あくまでも、我々の関係は一人の男同士の関係だったはず。互いの組を介在させるような付き合いなど、あってはならないことです。それに、自分はもう一介の堅気のものです。そういう付き合いであれば、今後はお断りをさせていただきます」
「……嫌われたもんだねえ。仁義にそむこうが何しようが、俺はあんたの兄貴だったってのによ」
またもへらへらとした笑いを浮かべる久光、しかし、その目の奥に眠る心は全く以ってうかがい知ることはできなかった。
「じゃあ聞くけどよ、そんなあんたが、この不肖の元兄貴分に、しかも入学式の晴れの日にだ。一体何の用件があるってんだい?」
「うちの庭場の件です。一家が解散して、うちの庭場は全てお上の監視の元におかれています」
久光のその視線、その心の中に深く広がるどろどろとした闇に飲まれないようにいっそう壁を厚く作ると、隆二はその理由を説明した。
「いさかいごとは無用です。もし面会にこられたお方がいらっしゃれば、そう申し送っていただきたい」
安堂一家亡き後の庭場、すなわち縄張りの争いにより、蓬莱軒を始め常連客、周辺の住民たちに迷惑がかかるのを未然に防ぎたい。
それが隆二自身の言い分だった。
「ああ、そうかい。そんなことは屁でもねえよ」
軽口を叩くかのように、へらへらとした締りのない微笑を隆二に向けた。
「こういっちゃ悪いが、いまさらテキヤ稼業の露天のシマ、好き好んで手を出そうなんてのも、あんまりねえだろうからな。了解したよ。だけどな――」
その瞬間、久光の顔からへらへらとした笑い顔が消えうせた。
「うそぶいてんじゃねえよ」
眉間にしわがより、顔中が引きつったような不穏な相貌が浮かぶ。
「違うだろ。あんたがこの俺に、わざわざ面会に来た理由はよ」
「そんなつもりはございません」
その殺気を受け流すように、涼やかな表情を作り応える隆二。
「自分は自分なりの仁義を見つけるために堅気となるのです。ですから――」
「お前はな、どう考えても“こっちがわ”のに人間なんだよ」
久光は、餌を目の前にした野犬の唸りの如くに卑しく唸る。
「言ってやろうか? お前はな、迷っているんだよ。それだけじゃねえ、確かめに来たんだよ。お前の中の暴力性を、狂気を」
大きく目を見開き、久光は一般人ならばすくみ上がる様な表情と声で、隆二の心に揺さぶりをかける。
「仁義だなんだって理由をつけてはいるが、お前はもう引き返しのつかないところに来ちまっているんだよ。お前は一生忘れられねえんだ。肉を切る音、骨を絶つ感触、そして赤い血の生暖かをさ」
その言葉に、隆二の表情は一変する。
「……何が言いてえんだ、チンピラぁ……」
こちらも大きく目がひん剥かれ、そして、目元に必殺の気迫がこもる。
「そうだよ、その表情……それこそがあんたの本性さ……」
恍惚とした表情で、両手を広げ天を仰ぐ久光。
「そうでなければ、“阿修羅に帝釈”なんて背負ってられねえやな? 武勇無双の雷神と正義の神、同時に背負って自分の戒めとしたって所なんだろうけどな、やっぱりあんた、阿修羅を背負う必要はなかったと思うぜ? 善悪を越えた武勇の雷神帝釈天、あんたにはそれだけで十分だよ」
隆二の拳は、血がにじむほどに強く握りこまれる。
「久光……てめえ……」
もしここに二人を隔てるアクリルの板がなければ、目の前のこの男に対し何をしでかすか判らないほどに。
「……いいねえいいねえ……心地いい……びんびんくるよ……あんたの狂気……」
その顔には、皮相なものではない、心の底からのとろけるような笑顔が浮かぶ。
「……あんたを拾ったのが、安堂なんかじゃなくて俺だったら、って毎日想像しているよ。きっと血も涙もない、最高の極道が生まれていたはずさ……」
隆二の心に、抑えきれないほどの殺気がこみ上げる。
「……そろそろ口を閉じろや……」
「ついでに言ってやるよ。安堂があんたに、徹底的に仁義ってもんを叩き込んだ理由が分かるかい?」
しかしそれでも口をとじようとしない久光。
「安堂も気づいてたのさ。気づいて、あんたにたがをはめようとしていたのさ。あんたの中に眠る暴力性、狂気、そして――」
ガタン――
「――失礼します」
隆二が勢い良く立ち上がると、年季の入った安物の椅子が後に倒れた。
刑務官は一瞬体を緊張させたが、振り返ることもなく同じ姿勢を保ち続ける。
隆二はふるふると肩を小刻みに震わせる。
その呼吸は浅く速く、そして形相は鬼のように固まる。
しばらく無言のまま呼吸を整えたかと思うと
「申し訳ありません。本日はこれで失礼いたします」
そういって、すばやく踵を返した。
「今日はいいもん見させてもらったよ」
久光の表情は、あのへらへらとした軽薄な微笑みに戻った。
「久しぶりに堪能させてもらったよ。“阿修羅に帝釈”の、全身の毛穴が広がるような、そんな殺気をさ」
すると久光の額から、全身から、大量の冷や汗がにじみ出た。
「安心したよ。どんな環境に身をおこうが、人間の本質は変わらねえってな」
その言葉に、隆二のあゆみはピタリと止まる。
「あんた、めでたく高校卒業しても、身の置き場もないだろう。よかったら、うちんとここいよ」
その隆二の後姿に、久光は慰めるような言葉を掛ける。
隆二を懐柔し、自身のふところに包み込もうとするかのように。
「まあ俺もその頃には、めでたく娑婆ん出て、バッジもらえる立場になってるだろうからよ。なあ、そしたらまた、兄弟分の盃、改めて交わそうや。そして一緒に組構えようぜ。なあ。あんたと俺が一緒ならさ、できねえことなんかなんもねえよ」
隆二はその言葉にも一切の考慮を示すことなく
「失礼します」
その言葉のみを残し、振り返ることなく面会室を後にした。
※※※※※
ビイィィィィィイ――
刑務所を後にし、駅へと向かう隆二の後を襲う、けたたましいクラクション。
その音に顔をしかめながら振り返ると、その目の前には
「よう、わしだ」
「……佐渡さん……」
※※※※※
「今日、入学式だったそうじゃねえか」
パトカーの助手席、バックミラー越しに佐渡が話しかける。
「俺も出席したかったんだがな、すまねえ。いまでかいヤマ抱えててな」
「いえ、お気持ちだけで十分です」
後部座席、リラックスした表情で隆二は応えた。
「それにしても、堅気の身分でパトカーでの送迎、なんだかおかしな心持です」
「まあ、そういうなや。わしの入学祝だと思ってくれや。それより……」
すると、柔らかな笑顔を一転させ、真剣な表情に変わる佐渡。
「……久光の野郎に、なんか吹き込まれていやしねえだろうな?」
「ご心配なく」
涼やかな微笑で応える隆二。
「以前の安堂一家の庭場、荒らして堅気の衆に厄介かけるようなことが無いよう、釘をさしておいただけですから」
「そうか。それなら何もいうことはねえよ」
そう言うと、佐渡はがさごそと足元の紙袋をあさり
「ほれ」
隆二に小さな包み紙を手渡した。
「紅白饅頭でも渡そうと商店街の和菓子屋に寄ったんだがな」
隆二がその包みが身を開くと、そこには
「……出来立てですね、熱々だ」
からりとした心地の良い衣に包まれた、餡のたっぷりつまったたい焼きだった。
「こっちの方がどうにもうまそうに思えてな」
ひょい、隆二の手元からその一匹を手に取ると、もしゃもしゃとほおばった。
「ほら、あったかいうちに食え。わしのもう一つの入学祝だ」
すると隆二は苦笑し、頭をかいてその一つをほおばった。
「……うまいもんですね。熱くて、甘くて……紅白饅頭より、よっぽどこっちの方が好きですよ、自分……」




