神獣
「ねえ、初対面の相手つかまえて、悪霊とか酷くない? しかも○△□君まで駆除とか言い出すし!」
「だったらなんでそんな相手についてくるんですか」
「えー、せっかく生きてた頃ぶりに会話できる相手と巡り会ったんだからさ、お話ししようよ?」
○△□は一度腹ごしらえをしてから対策を立て直すことにした。
麓までのバスは満席に近かったが、○△□の隣、誰も座っていないはずの席に座ろうとする者は誰もいない。アシータ・ナーシャと名乗る幽霊の少女がそこで鼻歌を歌っているのを感じ取ったのかも知れない。この国には霊感の強い者が多いのか、それともアシータの特異性によるものなのか。顔に青アザを作った自分の所為だとは思いたくなかった。
一番最初に見つけた、家族経営と思わしき小さなレストランのドアをくぐる。中途半端な時間帯の所為だろうか、やや薄暗い山小屋のような内装の店内には常連客らしき4、5人の集団がカウンターを占拠しているばかりだ。猜疑に満ちた視線が一斉に向けられたが、数秒で彼等は興味を失ってくれた。アシータがまだついてくるのを見越して、○△□はカウンターから最も離れたテーブルに陣取る。この地の価格帯は知らないが、メニューに記載された料理の値が財布を圧迫しないことがわかって安心する。
「……君、ケチ? 『銅貨失くして首を吊る』タイプ?」
水とハンドタオルを運んできた娘に、最も安いメニューを注文した○△□にアシータは呆れたように言った。
「…………」
「生きてた頃には来なかったけど、この店知ってる。ここの店長は極度の事なかれ主義者なの。よくいう『兎が耳を塞げれば耳の穴は撃たれまい』ってタイプ。あの常連客もだいたい似たようなもの。あなたがどこかのテロリストと大声で作戦会議をしてたって、追い出したり他人に吹聴したりしない。だから安心してお姉さんとお話ししよう?」
アシータは満面の笑みで両手を広げた。期待に輝く瞳に○△□の渋面が映っている。
幽霊である事を除けば凡庸に見えるこの少女は、○△□の人生と同じかそれ以上の時間、誰とも会話できないでいたらしい。そう考えると少しこの少女が哀れになって、○△□は話してもいいかという気分になってきた。どうせ誰にも言いふらせまい。
「……わかりましたよ。あなたと根比べして勝つ自信がありませんから」
「やった!」
注文したものが運ばれてきた。ハムとレタスだけの小さなサンドイッチが4つ。値段に見合った乏しい内容だが、むしろこれくらいの方が食べ過ぎで頭が回らなくなるようなことにならずに済むというものだ。……と、○△□は自分に言い聞かせる。軽い財布が吐かせる悲しい自己欺瞞。
「俺は子供の頃から、その……いわゆる幽霊と呼ばれるものが見えていました。両親を喪った後、その才能を買われて、降神師の家に引き取られました」
「降神師?」
「おおざっぱに言えば、お祓いとか祈祷とか占いとか、そういう儀式全般を取り扱う宮廷庁管轄下の職業です」
「じゃあ○△□君は公務員なんだ、その年齢で。すごいね」
○△□の祖国であるヤマト帝国は緋魅狐帝と呼ばれる仮面の巫女を名義上の最高権力者とする宗教国家である。それ故に、宗教的行事や加持祈祷は日常的かつ重要事で、それらを取り仕切る呪術師や占星術師、魔術師といった職業は国家資格を要する公務員として宮廷庁の管理下に置かれている。
「降神師の表向きの仕事は降霊儀式を行うものとされていますが、裏の、最も重要な仕事は、凶事招来型浮遊存在――俗にいう悪霊を排除することです」
「……どうして排除するの?」
アシータが眉をひそめる。悪霊からすれば当然面白い話ではないだろう。
「あなた達悪霊が、生者の不幸、破滅、死を望み、仲間を増やそうとするからですよ」
「わたしはそんなこと望んでないし、してないッ!」
彼女は怒りを露わにした。心理戦に自信があるわけではないが、嘘を言っているように見えない。○△□は素直に謝っておくことにした。
「……失礼しました。でも、少なくとも俺の国にいる悪霊はそうなんです。彼等は何も動かせませんし、基本的には何も喋りません。また基本的に小さな縄張りから移動しませんが――」
「それはこの国でも同じだよ。喋るのはわたし以外見たことない。でも喋らないからって、そういう――不幸を望んでいるって決めつけるのはどうかな? 『すぐ首吊りにする裁判長はすぐクビになる』って言葉、知らない?」
「そのことわざは知りませんが、実際、幼い子供や気力の弱った人間が悪霊によって事故や事件の起きやすい場所へ無意識的に誘導されるという事例は幾つも存在します。かく言う俺自身、子供の頃から幾度となく体験しています」
「……むう」
アシータがふくれっ面を作る。納得は出来ないが弁護をする材料もないといった様子だ。彼女と話すことで悪霊についての新たな知識を得るのは望み薄のようだった。
○△□は続ける。
「悪霊によって誰かが死に追いやられると、その分悪霊が増える。そうやってその場にいる悪霊が一定数を超えると、彼等は集合し1体の大きな力を持った存在となり、不幸に導く者から不幸を生み出す要因、気から鬼へと変化します。彼等の存在自体が不運な事故の発生原因になる」
「それ、ホントに霊の所為? ただの偶然や生きてる人の過失を押しつけてない?」
「統計上、鬼に変化した悪霊のいる場所で事故や事件が多発するというデータが出ています。彼等を排除することで減少するというデータも」
「…………」
「悪霊を完全に撲滅することは現実的にみて不可能ですが、だからといって放置するわけにはいかない」
「それであなた達降神師の出番というわけ? それはまあいいとして、あの水晶はいったい何処で出てくるの? もしかしてその、悪霊の排除にあの水晶がいるの?」
サンドイッチを水で流し込みながら○△□は頷く。
「あの水晶、正確には水晶以外の宝石の場合もありますが、俺達降神師はそれらを御霊石と呼んでいます。その中には神代の獣、神獣が封印されています。悪霊に触れ、殺すことが出来るのは神獣だけです」
「何なの、その神獣って……」
「さあ? 俺達が知っているのはそういうものが古くから存在し、それが悪霊退治に利用できるということ、そしてその使役手段だけです」
○△□は嘘をついた。
神獣のルーツを彼は知っている。降神師の間で伝わる伝承の中では、かつてこの惑星には現生人類の登場以前、現代よりも遥かに発展した科学文明が存在していたとされている。彼等超古代文明人は大きな戦争の果てに滅亡したが、その戦争で主力兵器として使われていたのが、野生動物の遺伝子を操作して生み出された人工戦闘生物だった。11兆造られたというキマエラは最終戦争時にその多くが破壊されたが、残ったものは宝石状の記憶端末に封印されたまま地中に眠っている。
降神師の開祖はその超古代人類の生き残りだったという。キマエラが悪霊に対して有効な戦力となることを知った彼は、悪霊に脅かされる一方の人類にキマエラを記憶端末から解放・封印し使役する技術を伝えた。だがその技術を使えるのは一部の人間――悪霊を見ることの出来る、俗にいうところの霊感が強い者達だけだった。
それが降神師のはじまりである。そしてその長い歴史の中で、遺伝子操作によって生み出されたただの生物兵器はいつしか神格化されて神獣と呼ばれるようになり、彼等の眠る名前もないような記憶端末は御霊石と呼ばれるようになった。
超古代人は人類が自分達同様、キマエラによる戦争の激化で滅亡しないよう、その技術を公にしないことを厳命した。そして良くも悪くも、その約束は現代まで果たされている。人類の滅亡回避というよりは既得権益を守るためというのが主眼になってしまっているが、それは致し方のないことだろう。
「要するに、あなたと鴇貞さん達は悪霊専門の殺し屋で、それには御霊石の中に眠る神獣が必要ってわけね。でもあなたのあの水晶に対する食いつきよう、ただの商売道具ってレベルじゃなかったと思うけど」
「あの御霊石には、今は亡き俺の養祖父にして師、童嶋羅厳の形見であり、彼の持つ最強の神獣、天孤クズノハが記録されているからです」
「……どうしてそれほどのものが、ワーシカのコレクションに?」
「俺の養父、童嶋征一郎が売り飛ばしてしまったんですよ」
○△□は目の前の皿に視線を落とした。残り1つになったサンドイッチをつまみ上げる。
「最近はうちの国でも魔術や呪術に対して否定的な人間が増えていますが、養父は典型的な科学至上主義者、いえ呪術排斥論者なんです。そういう人間にとって、降神師だの神獣だの悪霊だのは嘘でしかない。社会の健全な発展に有害な存在で、だから養父は養祖父の仕事道具を売れるものは売り払い、売れないものは廃棄してしまいました。売り払うにしても、よりにもよって、降神師以外の、本来の価値もわからない人間相手に……ッ!」
アシータが息を呑む気配がした。ああ、きっと今自分は酷い顔をしているのだろうと○△□は思う。降神師を未開の詐欺師と呼んではばからない征一郎の顔が脳裏をよぎり、彼は手の中のものをグチャグチャに握り潰しそうになる衝動と戦わなければならなくなった。
「養祖父以前の降神師達が残した資料も、貴重な道具も全て灰になり、御霊石も全て売り払われました。これだから幽霊の見えない人間は――自らの狭い世界観から外れるものを嘘と決めつけて疑わない愚民は始末に負えない……!」
○△□は降神師の修行を禁じられ、全寮制の学校に幽閉された。養父に○△□に対する悪意があったわけではなく、ただ義理の息子を『まともな世界』に戻してやりたいという親心のつもりだったのだろう。だがそれは○△□自身が望んだわけでもなければ居心地のいい世界でもなかった。1年後、寮を飛び出した○△□は売り払われた御霊石の捜索を開始したのだが、すぐ暗礁に乗り上げた。水晶としては形が独特なだけでそこまで価値があるものではなかったらしい。他の質の悪い水晶達とまとめて箱詰めされた後の足取りをつかむことは、もはや神ならぬ身には不可能であった。
アマンテがオークションに出されるというチラシの片隅に載せられた、他の出品物のサンプル写真の中にクズノハの御霊石が含まれていたこと、それを発見できたのは奇跡という他ない。
「……そう。色々あったのね、あなたも」
アシータがしみじみと呟く。黄寺から『マザコン』と呼ばれたことについては追求しないでおいてくれたのは意外だった。腐っても年長者、他人の触れられたくないであろう部分には触れない分別があるらしい、と○△□は少しだけ目の前の少女を見直した。
「そういえば、なんで『マザコン』って言われたの?」
忘れていただけだったらしい。見直したのを見直す必要があるようだった。
○△□ははぐらかすのを早々に放棄した。相手は年単位でコミュニケーションに飢えた狼だ。怒りや拒絶でさえ嬉々として受け取るだろう。そしてこちらが欲しい情報を話すまで永遠につきまとうに違いない。向こうには時間が無限といっていいほどあるのだ。
「神獣は基本的に獣です。まるで会話をしているように御霊石を持つ者の意志を酌み取ってくれますが、実際に会話は出来ません。ですが稀に、人に化け、人語を話す神獣も存在します。クズノハはその希少な神獣で、童嶋家に引き取られたばかりの俺の母親代わりをやってくれました」
初めて童嶋家にやってきた日のことを○△□は思いだした。彼女の優しい微笑みに、新しい環境と、隣に座る怖いおじさん――正確にはお兄さんと呼ぶべきだった――に不安と緊張の極みにあった自分はどれほど救われただろう。
神獣でありながら、クズノハは立派に母親としての役目を果たしてくれた。少なくとも自分の思い通りのことを言わないからといって理不尽に暴力を加えはしなかったし、二束三文の金欲しさに息子を毒殺しようともしなかった。
それまで他人に懐かない子という評価を受けていた○△□は、童嶋家に引き取られると半年も経たないうちにクズノハにべったりとまとわりつくようになった。幼児退行したかのような甘えぶりで、そのせいで鴇貞や他の弟子達――特に黄寺からはよくからかわれたものだ。
正直、今でも自立できている自信がない。
「それじゃ、強盗に走る気持ちもわからなくはないかな。男の子っていつまで経ってもお母さんが好きだから」
「それはどうでしょうね。愛するに値しない母親だっています」
実母のことを、○△□はまだ許してはいない。
「……出ましょう。そろそろ戻らないと」
「あきらめないの?」
「俺は、全財産をはたいてここに来ました」
「……そう」
退路はもはやない、と言外に告げた○△□に対して、アシータは悲しそうに目を伏せた。
店主に勘定を告げる。ひとしきり独り言をブチまけていた不審な異国の客に対しても、店主は訝しむような素振り1つ見せず淡々と送り出した。
ヒエムスの夜は長く暗い。午後4時前には疑似太陽の光も消え、空は暗黒に支配されている。ドームの向こうにあるはずの月や星の輝きも、厚い雪に隠されて見えない。
結論からいうと、○△□の目論見は失敗に終わった。対策も何もない。屋敷の周囲は武装警察の装甲車に取り囲まれ、○△□は屋敷の門扉をくぐる前に不審者として拘束されてしまった。
「あきらめろって言っただろ……」
庭に張られたテントの中、後ろ手に縛られた○△□を前に鴇貞は頭を抱えていた。
「いいか、オークションには俺達なんか想像も出来ない豪華な生活をしてる連中がアマンテ欲しさに集まってきてるんだ。警告なしに撃ち殺される可能性だってあるんだぞ」
「厳重すぎません?」そう言ったのはアシータだ。「たかだか宝石のオークションでしょう?」
「……たかだかじゃない。国宝だぞ」
幽霊の声が聞こえない他の警備員や武装警官の耳に入らないよう、鴇貞が声を落とす。何もない空間に話しかける変人と思われて無駄に人望を落としたくはない。
「それにおまえ……知らないのか? 最近この国じゃ、独立運動がお盛んだってな」
「そうなんですか?」
○△□が驚いた顔をする。それを見て、鴇貞は頭を抱えた。
「国外旅行するなら現地の情勢くらい調べとけ。自分の国から出たことのない奴は自分の国の常識が世界どこでも通用すると思うから……」
○△□達が生まれる前に、全世界を巻き込む大きな戦争があった。その戦争が引き金となってヒエムス皇国は滅亡し、現在ヒエムス大陸は戦勝国によって分割統治されている。近年になって、ヒエムス人の間でこの現状に不満の声が高まっていた。そしてそれは小規模とはいえ武力による闘争にまで発展している。
ちなみにイヴェールは○△□の母国であるヤマト帝国の管理下にある。
「別にとりたてて税金の取り立てが厳しいとか、社会的格差があるとか、そういうのはないはずなんだがな。ま、単純に自分達の土地が名目上自分達のもんじゃないってのが、やっぱ駄目なんだろうな」
「つまりワーシカは、そんな人達が増えてる状況で、その人達が信奉する国家の秘宝を売りさばこうとしてるんですか?」とアシータ。
「俺達の上司も止めたんだが、あの貴族様はとにかく金が欲しいらしくてな」
鴇貞が大袈裟にため息をつく。
「それでこの厳重な警備ってワケだ。にわか泥棒の出る幕じゃない。ドンパチが始まる前にとっとと帰りな。……おい、黄寺。聞こえるか。マザコン御曹司がやっぱり来てやがった。麓までエスコートして差し上げろ」
鴇貞が無線機に呼びかける。なんで俺が、と不満を露わにした声が○△□にまで聞こえてきた。
「なるほど、話はわかりましたよ、兄さん」
それまで黙って話を聞いていた○△□が立ち上がった。
「こうしましょう。穏便にオークションで競り落としますから、兄さんが立て替えて下さい。必ず返します」
鴇貞とアシータは顔を見合わせる。
「これっぽっちも話が伝わってないみたいなんだが? それにすまんが、金なら俺が貸して欲しいくらいだ」
「博打でも打ちましたか」
「博打はもう卒業した。カジノだよ、カジノ」
「…………」
「とにかくさっさと帰りやが――」
その時だった。机に置かれたトランシーバーが耳障りな音を立てる。
こちらイワノフです、とうわずった声がスピーカーから流れる。
「どうした?」
≪アンドレイが――アンドレイが死んでますッ!≫
「落ち着け、今何処だ?」
だがトランシーバーはそれっきり沈黙する。鴇貞は叩きつけるように部下に指示を出す。
「武装警察に通達ッ! 敵が南西方向から敷地内に侵入した模様ッ! 警備員が2名襲われ、1名死亡、もう1名も死亡したものと推定されるッ! 最大限に警戒、オークションを中止――」
その時、大地が揺れた。テントがミシミシと悲鳴をあげ、吊り下げられた電球が振り子のように弧を描く。
あれは、と誰かが叫んだ。周囲を見回したアシータは、屋敷の屋根に信じられないものを見た。
彼女の視線の先、半壊した屋根の上に、神が鎮座していた。
獅子の下半身を持つ巨大な鷲。造型もさることながら、その大きさも異常だ。鷲や獅子どころか、象をも優に超える大きさである。自然界で生まれたものとは思えない。
きっとあれが、あれこそが。
「――神獣」
神獣は一声鳴くとその巨大な翼を広げた。それだけで突風が吹き荒れる。装甲車の上面に取り付けられたサーチライトが、神のごとき威容を持って君臨する巨大な獣の姿を照らし出した。神獣が土煙を舞い上がらせながら浮上。屋敷からゆっくりと浮かび上がるその姿に、包囲した人々からどよめきが上がる。
大地を睥睨する猛禽の目が、アシータを見据える。降神師達が悪霊退治に神獣を使うのであれば、神獣が霊を目視できるのは当然だろう。自分とて安全ではないのだ、殺される――そう思った。アシータは静かにへたり込む。もはや物理的な肉体は存在せず、抜かす腰もないというのに、身体はまだ生きていた頃の生理現象に縛られる。
「あれは……グリュプスか」
鴇貞が呻く。グリュプスと呼ばれた神獣は威嚇の声を上げた。防弾メットの下で武装警官達の顔が驚愕と畏怖に凍りつく。発砲命令がくだされたが、予想もしていなかった光景に皆魂を奪われていた。2度、3度と発砲命令が繰り返され、ようやく我に返った者から突撃銃を撃ち始める。不揃いで躊躇いがちな射撃。初めて銃を手にしたルーキーに戻ったようだった。
そんな警官達を嘲笑うようにグリュプスが鳴く。
「ライフル弾が効いていない……?」
誰かが発したその言葉は、無情にも真実だった。
グリュプスが動いた。ロケットのような速さで装甲車の一台の上に舞い降りる。風圧で周囲にいた警官達が倒れ、地を転がる。グリュプスの猛禽のような右前脚が装甲車をつかむと、鋼鉄の車体はアルミ缶のように凹んだ。
神獣の翼が舞い、そのまま装甲車は天高く持ち上げられた。車内待機していた警官が窓から脱出。逃げ遅れたサーチライトの操作員がジタバタと腕を振り回しつつ悲鳴をあげるのを、アシータ達はただ見ていることしか出来なかった。
グリュプスが、くの字に折れ曲がった装甲車を地に投げつける。直撃を受けた他の装甲車や警官達が薙ぎ倒された。
「神獣が、人を襲っている……」
○△□の肩は怒りに震えていた。
「あれはなんなんだよッ! なんなんだよ、あれはッ! あいつ等、何考えてやがるんだッ!」
「どうしたの、○△□君?」
「神獣ってのは、悪霊を滅ぼすためのものなんだぞ! それが、アレじゃただの兵器じゃないか! それは、やっちゃいけないんだよッ!」
「……ああ、そうだな」
人が変わったように怒り狂う○△□の肩を鴇貞がそっと叩く。
降神師達にとって神獣とは悪霊を倒すための道具というだけではない。神から授けられた、文字通り神聖な獣なのだ。それがただの暴力装置として運用されている。降神師としての職業倫理に忠実であればあるほど、目の前の現実には怒りしか感じられない。
「安心したよ。そう言えるおまえはやっぱり今も変わらず、羅厳先生の孫、根っからの降神師なんだな」
「兄さん……」
「神獣に関する知識が外部に漏れたらしい。おかげでテロリストが神獣を兵器として使う始末だ。俺がこの国に来たのは、神獣を悪用する連中を掃滅し、可能なら神獣に関する知識を奴等の手から取り上げる任務を宮廷庁から与えられたからだ」
「……俺が燻っている間に、そんなことが……。でもなんで、神獣の情報が外部に漏れた……? まさか、養父さんが養祖父ちゃんの蔵書を売った所為……?」
「おまえは、なんでそう変なときだけ勘が鋭いかな」
鴇貞は悲しそうな顔をした。
「許してやれよ。征一郎は征一郎で、いろいろあったんだよ」
だが降神師として真面目すぎるが故に、○△□は養父を許さないだろう、と鴇貞は嘆息する。神経質そうで実際繊細な友人の横顔が脳裏をよぎった。
「俺が持ってる御霊石は1つだけだ。おまえは?」
「ありません」
「なら、今ここでおまえに出来ることはない。この場は避難しろ。落ち着いたら陸軍基地に来てくれ、俺の名前を出せば――」
爆音が鴇貞の声をかき消した。また一台、装甲車が大破したのだ。
「陸軍を呼び出せッ!」
武装警察の指揮官が叫んだ。その声には苦渋が滲んでいる。もはやあの怪物は警官隊の戦闘能力を超えている。軍に出動を要請するしかない。
ヤマト帝国から派遣されてくる駐留陸軍と、現地採用のヒエムス人が多く含まれる武装警察は犬猿の仲である。頭を下げるのはこの上ない苦痛だ。出発前に軍など不要、警官隊だけで充分と啖呵を切ったのが今となっては悔やまれる。だが、プライドの為に部下を無駄死にさせた男と呼ばれるのはもっと嫌だ。
問題は、助けが到着するまで何人が生き残れるか、ということだった。
サーチライトや強化レーダーではなく強力な火砲を搭載したタイプの装甲車を持ってきていればと悔やんだが、銃弾をも通さぬ巨大生物との死闘など、出発前の自分が予想できるはずがない。
「軍に応援を要請したッ! それまであの化物を此処に足止めするんだ、決して市街地に出すなッ! 我々武装警官の使命を思い出せッ! それは法と市民の生命財産を守ることだッ! 各員、身命を賭してこれを為せッ!」
警官隊による一斉射撃が再開された。上官の檄が功を奏したのか、今度の射撃に躊躇いは見られなかった。しかし戦意を取り戻したとて、彼等の武装は神獣相手には非力すぎた。そもそも距離が開きすぎていて当たらない。
「まったく……。いいか、必ず避難しとくんだぞ!」
○△□の拘束を解くと、鴇貞はテントを飛び出していった。ポケットから黒い水晶を取り出す。
その後を追ってテントを出た○△□は、グリュプスが大きくクチバシを開くのを見た。
「危ないッ!」
○△□がアシータを突き飛ばそうとし、当然すり抜けて1人芝生の上を滑る。次の瞬間、何かが凄まじい勢いで○△□の頭上を通過していった。おそるおそる瞼を開いた○△□は、背後の林に円形の穴が広がっているのを見た。
「大丈夫、○△□君ッ!?」
「ああ、そっちは――訊くまでもないか。何やってんだ俺は」
○△□は舌打ちした。まったく今日の自分はどうかしている。悪霊をかばおうとするなんて。
「今のはなに?」
「ソニックボイス。えっと……真空波を口から発射して当たったものを破壊する神獣の兵装です。いや、分子振動波だったっけ……」
焼かれて灰になった羅厳の蔵書に記載されていた伝承を脳から絞り出す。毒性に関しての記述はなかったはずだ。そうであって欲しいと祈る。
「口からそんなものを吐くとか、なんでもありなの、神獣って?」
「神獣は物質存在であると同時に霊的存在でもあります。肉と物理法則にがんじがらめにされた人間から見れば、何でもありに見えるでしょう。でも不死身でもなければ無敵でもない」
そんなことより兄さんは――? ○△□は屋敷のある方向を見る。
その瞬間、世界から音が消えた。
揺らめく炎。漏れたガソリンに引火したのか、粉砕され黒煙を上げる装甲車。火達磨になって地を転がる警官達。その全てがミュートにした動画を遠くから見ているように、急速に現実感を失っていく。
○△□の前に人が立っていた。
ただし、下半身だけで。
少し離れた場所で、黒い水晶を握ったままの右腕の先端が無造作に転がっていた。