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デウステイマーズ~降神戦隊~  作者: 削畑仁吉
20/24

出陣


 雪を蹴立てて、赤、青、紫に塗り分けられた鉄の巨人が走る。

 それを迎え撃つかのように雪原迷彩を施した戦闘車両が銃弾を乱射。巨人達は散開。


『DTパープル、砲撃、どうぞ』

「了解」


 ○△□は両肩のキャノン砲を発射した。御丁寧にもサーベラスの頭を模したデザインが施された砲身――両肩と頭部で三つ首というわけだ――から光の束が吐き出され、敵陣を直撃する。狙いをつける必要もなかった。機体の向きを変えればそのまま光の線も移動し、敵の装甲車部隊は一掃された。

 

「コイツは……強力すぎる」

『本気出しすぎですよ、童嶋さん』


 田中の呆れたような声が後方の指揮車から届く。コクピット内の、明らかに無理矢理付け加えましたといった風情の霊力値測定計器なるものが示す値はほぼゼロになっていた。

 ○△□の背中を冷たいものが走った。

 神獣の力を利用してテクターという枠組みを超える能力を発揮するというのが、彼の乗っている燦鎧(さんがい)という機体だが、あまりにも容赦なく神獣の力を吸い上げてしまう。これでは、気がつけば神獣が死んでいたことにもなりかねない。造った奴が神獣を使い捨ての電池とでも見なしているのか、それとも技術的限界なのかはわからないが、使用に際しては細心の注意が必要だった。


「レッド、ブルー、霊力値には充分気をつけてくれ」


 しかし引き返して不具合を修正してもらう余地などなかった。∀とトリアに注意を呼びかけることだけが今の○△□に出来る全てだ。

 桃色に塗装された駆鎧が○△□の機体をトレーラーに接続する。マニピュレーターの動きに淀みがない。器用なものだと○△□は感心する。

 

「はい、出来ました。出発してください」


 桃色の駆鎧に乗っているのは貴咲だ。駆鎧に乗ったのは昨日が初めてだったはずだが、戦闘面では兎も角、機体操作は上々だ。もしかしてこのメンバーの中で一番操縦が下手なのは自分じゃないだろうかと○△□は思う。


『では、先を急ぎますよ。降神戦隊、発進』

「結局部隊名、それで行くんですか?」


 一行は走り出した。目指すはヒエムス山脈、レガド鉱山。

 


 * * * * * * * * * * * * * * *



 リ・アージュのアジトが判明したのは一昨日のことだ。

 判明したというと自ら探し出したようなニュアンスを伴うが、実際は向こうが自分から明かしてきたのだった。

 

「ヒエムス山脈にレガドという鉱山があるのですが、そこでリ・アージュが大陸中の独立運動家に集合を呼びかけているようなのです」

「向こうさん、遂に隠れもしなくなったな」


 そうだろうな、と○△□は思う。アレクシィ――ヴァルハイトの目的は勝利ではない。ヒエムス全土を戦乱の渦に巻き込むことだ。


「アヴェリア、大君(タイクーン)の援軍はあてに出来ません。彼等も自国領地内の秩序維持で手一杯――という口実で高みの見物を決め込むことでしょう」


 あるいは漁夫の利を狙っているかですね、と田中は付け加えた。


「テロリストが集まっているなら」∀が手を挙げた。「その鉱山に爆撃をかけたらどうかな。一網打尽でしょう」

「誰がやるんですか? それをするのに最もいい場所にいる軍隊なら、今壊滅状態ですよ。まあ、我々のことなんですけどね」


 本国に援軍要請はしているが、ヒエムスを切り捨てたがっている彼等がどれだけ迅速に動いてくれるものか。他国に援軍を求めるにしたって、田中程度の立場で上を飛び越えて話をつけるなんて真似は出来ない。


「そして、何をするにしたって――」


 田中はブラインドの隙間から外を見た。田中達のいる貸倉庫は、海と、そしてヒエムス人のデモ隊に包囲されていた。こちらを遠巻きに見つめる人々の目は殺気立っていて、張り詰めた敵意が見えるかのようだ。「余所者は出て行け」的なことの書いてあるプラカードを持っているならまだ可愛いもので、


「農具って、こうしてみると薙刀なんかよりよっぽど武器の風格があるよねぇ」


 臨戦態勢の人々を見て∀が呑気にそんなことを言った。口元が笑っている。既に彼の頭の中では、薙刀と鋤鍬(すきくわ)のバトルが繰り広げられているのだろう。


「これではここから出ることも出来ませんね」

「さて、どうやって蹴散らしますか?」

「どうせなら、どうやって穏便に済ませるかって訊いてくださいよ。一応こっちは文明国の軍隊なんで、問答無用ってワケにはいきません」

「1人2人血祭りに上げれば、ビビって逃げると思いますけどね」

「かえって逆上するかもしれませんよ。あとそういう発想から離れてください浅間さん」


 1人の兵士が挙手する。


「上の連中は自分達の戦果など期待してませんし、せいぜい燦鎧の実験がしたいだけでしょう。このまま何もしなくていいのでは?」

「それは駄目です」


 即座に否定したのは、田中ではなく○△□だ。


「リ・アージュは悪霊によって動かされる組織です。奴等はとにかく生者を殺して殺して殺し尽くすことだけを考えている。ここで止めなければ、いつかヤマト帝国本土にまで被害は拡大するでしょう」

「悪霊って……」


 兵士達が微妙な顔をする。していない者は○△□の言う悪霊を何かの比喩表現だと処理したのだろう。神獣やそれを利用した兵器を目の当たりにしてもなお、彼等にとって幽霊はファンタジーでしかない。目の当たりにする事は一生ないからだ。

 ○△□は窓の外の群衆に目をやる。彼等の背後で悪霊達が群れをなし、悪鬼へと成長し始めている。リ・アージュが本当に蜂起を呼びかけたのはテロリストでもレジスタンスでもなく奴等だろう。

 リ・アージュによって市民の恐怖と不安がヒエムス中の悪霊を活性化させ、悪鬼を生じ、その悪鬼が呼び込んだ不幸による死者がまた悪霊となる。

 そうやってヴァルハイトは世界中を悪鬼で埋め尽くすつもりなのかもしれなかった。


「ここから市民を出来るだけ傷つけず脱出して鉱山に向かう方法は、あります」


 全員の目が○△□に向けられる。期待よりもむしろ猜疑が強い。当然だ。


「∀、おまえとおまえの燦鎧を貸してもらう。いいか?」

「かまわないよ、○△□クン」


 戦える、と聞いて∀の笑みが深くなる。


「田中さん、いつまでに用意できればいい?」

「明日の朝までに」

「じゃあ、それまでに準備を整えておいてください」


 ○△□は部屋を出た。∀がその後を追う。

 少しして、貸倉庫から赤い燦鎧が出撃した。群衆から野次が飛ぶ。


「やっぱり、このまま轢き殺すのが手っ取り早いんじゃないかな?」


 爽やかな笑みを浮かべて∀が言った。台詞の内容と表情のミスマッチに○△□は苦笑したくなる。

 ○△□に指示され、∀がファンクションパネルを叩いた。

 燦鎧には、関節の自由度が他のテクターより広く設定されている。神獣を憑依させたとき、よりその力を発揮できるよう神獣に合わせた形態をとるためのものだ。

 つまりは、変形。

 ∀の燦鎧――燦鎧飛型は飛行型の神獣に合わせ、鳥のような形に変形できた。両脚が180度回転し、かかとにあった爪が前方に揃えられる。手首が腕に引き入れられ、腕が折り畳まれる。前傾姿勢をとると背中に回されていたパーツが前方に倒れて機首となり、テクターの特徴でもある3本目の足が起き上がって尾翼となる。両肩側面の大型シールドが横に広がり、翼となった。

 群衆からどよめきが起こる。


「……変形したけど、飛べるのか?」


 ∀は珍しく不安そうだ。


「おまえの神獣、スパルナは空の王者だよ。あと燦鎧を造った人を信じろ」

「ボクは今まで、最初に飛行機を発明した人は勇気があると思っていたが……本当に勇気があるのは発明者以外で最初に飛行機に乗った人だった」


 ブツブツ言いながら、∀がアクセルを踏む。機体が加速しながら群衆に突っ込んでいく。もちろん実際に突っ込む前に離陸するつもりだが、向こうからは轢き殺すつもりに見えているだろう。悲鳴が上がる。


「そういえば○△□クン、今思い出したんだが!」

「なんだよ!」

「ボクはテクターの操縦訓練は受けたが、飛行機の操縦訓練は受けてない!」

「……神獣を信じろ!」


 思い返せば、普通に神獣を使うのと、テクターに埋め込まれた状態では扱い方も違ってくるのではないか。○△□の心に一抹の不安が過ぎったが、今更ブレーキを踏んでも大惨禍は免れ得ない。

 燦鎧飛型の御霊石に向かって○△□は念じた。


「飛べェェェ――――!」


 機首が浮き上がった。群衆の手前ギリギリで燦鎧は上昇に転じる。衝撃波で人々が薙ぎ倒されたが、それくらいは我慢してもらおう。

 

「すごい、飛んでる、飛んでるよ○△□クン!」


 貸倉庫上空を旋回しながら、さっきまでの怯えた顔が嘘のように∀が目を輝かせている。


「そうか、これで皆を運ぶんだね?」

「燦鎧で指揮車やトレーラーを運ぶとか、無理でしょ」


 スパルナ本体の力を使ったとして、何時間何往復かかるのだろう。その間、民衆がじっと待ってくれているだろうか。


「このまま住宅街まで俺を運んでくれ。機体は目立つから隠すか、俺が戻るまで逃げ回っててくれ」

「了解」


 ∀の燦鎧は都市部に突っ込んでいった。




 ○△□はマンションの一室をノックしようとして、勢いよく開け放たれたドアに腕を思い切り弾かれた。


「あれ、童嶋君?」


 悶絶する○△□を貴咲が心配そうに覗き込む。


「ごめんなさい、今忙しいの……。今度埋め合わせはするから」


 そう言って立ち去ろうとする貴咲の手を、○△□はなんとか掴むことが出来た。


「こっちもあなたに用があるんです」

「……チカちゃんが、昨夜お母さんと喧嘩して家を出たきり帰ってきてないの」


 だから急いでるの離して、と貴咲は腕を振ったが、○△□はそれを許さない。


「俺も総督代理捜しに協力します。だから丑峰さんに――いや、アステリオーに頼みたいことがあるんです」

「アステリオーに? 神獣使いのあなたが?」

「リ・アージュが周囲のテロリストを集めて、一大蜂起を行おうとしてるんです。何をするつもりかは知らないけど、ドーム都市を壊すのも辞さない奴等だ、放っては置けない。……神獣も大勢出てくるぞ、アステリオー」

「……やめて童嶋君、私は今それどころじゃ……」


 だが、貴咲の足は動かなかった。貴咲が目を丸くする。アステリオーが○△□の話に興味を示したのだ。敵であるはずのデウステイマーが自分にどんな話を持ちかけるつもりなのか興味を示している。○△□がこの日サーベラスの御霊石を携帯していなかったのも一役買っていた。


「1人じゃいつまでも勝ち進んでいけないって、わかってるはずだ、アステリオー。俺と、俺達と手を組まないか」

「…………」


 貴咲の中でアステリオーは沈黙している。


「おまえがどうして神獣を滅ぼしたがってるのか知らないよ。もしかしたらその理由は、人間にとっても大事なことなのかもしれない。でも俺には、全てを捨ててでも取り戻したい神獣がいる。俺と一緒に戦い続けてくれたサーベラスも喪いたくない。悪霊から身を守るためにも、人類に神獣は必要だ。俺とおまえは、本来的には敵同士だ」


 それでも、と○△□は拳を握る。


「リ・アージュは打倒(たお)さなきゃいけない。降神師として、童嶋○△□として、アシータと約束したんだ」

「『リ・アージュなど、どうでもいい』ってアステリオーは言ってる」

「奴等が神獣を戦力として使うのなら、敵と同じことだろ。クズノハと俺の仲間以外の神獣を倒すのを手伝ってやる。だからおまえも悪霊退治に協力してくれ、アステリオー!」


 アステリオーは思案した。あの合体神獣相手でも、人質さえ気にかけなければ苦戦はすれども勝てていた。戦力面において人間からの助力など必要ない。

 しかし、この惑星で活動を続けるには貴咲の助力は必要で、彼女の意向を無視するわけに行かない以上、人質を無視すれば、という前提自体が成り立たない。

 手札は必要か。別に永久的にクズノハとサーベラスを見逃さなければならないというわけではないのだし――。

 

 アステリオーが返答しようとしたその時、しかしその瞬間、割って入った者がいた。


「待ってくれ。アステリオーには、おれ達リ・アージュと来て欲しい」

「!?」


――リ・アージュだって?


 ○△□と貴咲は弾かれたように声のした方向を振り返る。あんたは、と○△□が呟いた。

 スクロプ戦後に現れ、姿を消した禿頭の男が立っていた。

 久しぶりだな、と○△□に向かって彼は照れくさそうに言った。久しぶりですね、とぎごちなく○△□は返した。日にち的にはそう経っていないはずなのに、あの日のことはもう遠い昔のことに思える。

 男は貴咲に向き直ると、膝をついた。土下座する。


「あの時はどうも、すみませんでした!」


 初対面の人間にいきなり平伏され、貴咲は戸惑う。


「あの、あなたに謝られる理由がわからないんですけど……」

「おれ――、いえ、自分は、ヘルマン・ヴラドリーヴィといいます」

「ヘルマン……?」


 貴咲の中でその名前に当てはまる人物は1人。でもその男は、目の前の男とは似ても似つかない、見間違えなど出来ないくらい奇怪な容姿をしていたはずだ。


「自分は、そのヘルマンです」


 額を地にこすりつけたまま、彼は言った。


「アステリオーさんのおかげで、おれは生まれ変わる――いや、生まれ戻ることが出来たんです」




 貴咲が初めて目にしたヘルマンの姿は、怪物じみたものだった。

 しかし生まれた時からそうだったわけではない。今貴咲の前にいる彼の姿こそが本来の彼の姿だった。

 

 ヘルマン・ヴラドリーヴィは、ヒエムスの低層労働者だった。特に秀でたところもないが劣ったところがあるわけでもなく、温厚ではあるが人並み外れて善良というほどでもない、家族からも仕事仲間からもそこそこ慕われそこそこ軽んじられる、そんな何処にでもいるような特徴のない人物だった。

 あの日、足を滑らせて薬品槽に落下するまでは。

 引き上げられたのがもう少し遅ければ死んでいたが、あの場で終わっていればその方が幸せだったかもしれない。数週間にわたって吐き気や発熱、痒み、激痛――このまま死ぬのではないかと思われるような苦痛が彼を苛んだ。

 それを潜り抜けた先に待っていた世界も、また地獄だった。

 あの化学薬品がどのような影響をもたらしたものか、彼の顔や身体は、似ても似つかない不気味な形に変貌していたのだ。

 家族や友人、同僚――彼を取り巻いていた人々は面白いくらいあっさりと彼を見放した。体裁を取り繕ってくれるならまだマシで、露骨に不快感を表に出して彼を追い払った。理由も無く石を投げつけられ、棒で叩かれ、入った店から追い出された。彼等にとってもはやヘルマンは人間ではなかった。

 そんな状況で、いつの間にか人間性までもがヘルマンから離れていった。

 

 ある日、暴力衝動を持て余したチンピラに囲まれた。人間をいたぶるのに躊躇しない連中だ、人間ではないヘルマンは格好の矛先だっただろう。

 多勢に無勢。武器もない。ヘルマンに勝ち目などなかった。喜色満面の表情で奴等は殴りかかってきた。

 その時、時間が止まった――ようにヘルマンには見えた。実際には、ヘルマン以外の時間の流れが極端に遅くなっていたのだった。

 ヘルマンは1番近くにいたチンピラの頭を掴み、壁に叩きつけた。相手の頭蓋は卵の殻を割るように容易く砕けた。ヘルマンにとっては普通にぶつけたつもりでも、向こうにとってはその何十、何百倍の速度で叩きつけられたに等しいのだから当然だ。

 暴漢達を全て肉塊に変えるまで、ヘルマン自身の主観時間を持ってしてもそう長くはかからなかった。

 それからしばらく、ヘルマンは自分の手に入れた能力を把握するための実験を繰り返した。実験台は初めての時のように喧嘩を売ってきた破落戸(ごろつき)であったり、あるいは何の関係もない善良な市民だったりした。

 時間停止ではなく、自分が速く動ける能力。有効時間は客観時間において1分だが、ヘルマンの主観では5分。能力の停止は即座に行えるが、発動には意識の集中が必要。不意に飛んできた攻撃をかわすには間に合わない。

 しかし肝心の能力の有効利用方法に関しては全く思い浮かばなかった。人間でなくなる前から、ヘルマンは細かいことを考えるのが得意ではない。

 結局、荒事の中で目覚めた能力は荒事の中でしか活用手段を見いだせなかった。加速能力は闘争を日常とする社会でヘルマンを出世させたが、いくら闇の社会で名を轟かせても彼に対する周囲の扱いは日の当たる世界でのそれと大差なかった。

 光であれ闇であれ、人間の棲む世界に人間でなくなった自分の居場所はないのだと、ヘルマンは思った。

 しかし、唯一彼に気さくに話しかけてくる者がいた。

 それがランゾウだった。

 人間としての外見を失った者同士の共感? 仲間意識? いや、そんな生温い感傷など化物には存在しない。単に左右から爪弾きにされた者同士がぶつかっただけだ。ランゾウに対して友情などというものは抱いていないし、向こうもそうだろう。

 そう思っていた。

 突然、元の姿を取り戻すまでは。

 アステリオーの力だと、ヘルマンにはわかっていた。あの時――貴咲と○△□、ヘルマンを乗せたワゴンが冷たい湖面に落下した際、僅かな間だけ意識を取り戻したヘルマンは自分達を見下ろす炎の巨人を見たからだ。

 炎の巨人は貴咲だけを救うつもりだったのだろう。だがそれに巻き込まれる形で○△□とヘルマンも神秘の恩恵を受けたのだ。○△□の傷が消えたように、ヘルマンの身体も元に戻った。

 自分の身に起こったことは到底信じられるものではなかった。動転したヘルマンは、逃げるようにして森の中に姿を消した。貴咲に正体がばれれば、アステリオーに殺されると思い込んでいたからだ。

 リ・アージュのアジトに帰らず、イヴェールの街を彷徨った。中身はそのまま、外見が変わっただけだが、突然石をぶつけられることも、入店を拒否されることもなかった。加速能力は喪失していたが、そんなものはさしたる犠牲ではない。店員が、道をたずねた相手が、笑顔で応対してくれるという喜びに比べれば。

 それに伴って、失っていた人間らしいメンタリティも戻ってきた。

 何年かぶりにヘルマンは自分以外の人間のことを考えた。最初に浮かんだ人物はランゾウだった。奴にもこの奇跡を与えたい、とヘルマンは考えた。


「――だから、お願いだ」


 ヘルマンは土下座をしたまま、手を合わせる。


「あんたにはひどいことをした。ランゾウもおれも償いきれないことを償いきれないだけやってきた。虫のいい話だってわかってる。わかってる、だけど、どうかランゾウを人間に戻してやってくれ。その上で罪を償えというなら何百年だって牢屋にぶち込まれるし、晒し首にだってなる」


 だからお願いだ、と繰り返す。


「死ぬのなら、人間として死なせてやってくれ」


 貴咲は困惑を浮かべている。ハイそうですかと大人しく頼みを聞くには、あまりにも怖い思いをさせられた。実際炎の巨人がいなければ死んでいたのだし、千華だってどうなっていたかわからない。

 貴咲は無意識に○△□を見た。


「勝手なこと言うなよ、あんた」


 ○△□はヘルマンの襟首を掴み上げて土下座をやめさせた。ほらこんなに謝っていますよ、誠心誠意頼んでいますよ、これで願いを聞き届けなければあなたが外道ですよ――とでも言いたげなパフォーマンスには反吐が出る。


「罪を償うとか、お縄につくだとか、そんなの当たり前なんだよ。あんた達は無条件でそうするべきなんだ。要求なんか出来た義理か」


 そう言いながら○△□は、一歩間違えれば自分もヘルマン達のようになっていただろうなと考える。ヒエムスに着たばかりの頃、あの時クズノハを取り戻すためなら宝石展示会にいた人々を死なせてしまうことだって厭わなかった。

 今は、出来ない。少なくともやりたくない。それでクズノハを手に入れても、アシータや、∀や、トリアや、田中を――みんなを失ってしまう。

 もちろんクズノハだって失いたくない。


――そうか、だから俺は戦うんだ。


 ○△□はヘルマンから手を離した。

 結局、彼が今まで悪霊を倒してきたのは、降神師だったから、そういう決まり事だったから、でしかなかった。自分を裏切った実父への復讐でもあった。

 ……だけど今は。


「ヘルマンさん、リ・アージュの情報を売る覚悟はありますか」


 これ以上思考を続けると泣き出してしまいそうな気がして、○△□は現実的な問題に立ち返った。ヘルマンが息を呑む。


「丑峰さん、これはもちろんあなたとアステリオーが決めることですけど、この人がリ・アージュを倒すのに手を貸してくれるなら、その程度のことはしてあげてもいいと思う」

「『その程度、とか随分簡単に言ってくれるな?』ってアステリオーは言ってます。『まあ、簡単なんだけど』とも」


 私もそれでいいよ、と貴咲は微笑んだ。


「どうする? まさかあれだけ、死刑にでも何でもしろとか大口を叩いておいて、嫌だとか言わないよな?」


 ヘルマンは黙って頭を下げた。




 その日の夕刻、田中達が籠城する貸倉庫を包囲していた人々は1機のテクターに先導される炎の巨人の姿を目撃した。

 巨人は準備万端の田中達が乗り込む指揮車や整備トレーラーを抱え上げ、群衆の頭上を飛び越えて北の空へと消えていった。

 


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