異国
ヒエムス大陸の冬は厳しい。摂氏マイナス40度を記録する夜の間に降り積もった雪は、朝にはアイスキャンディのように固まり、雲の背中に隠れてばかりの弱い太陽光では汗もかかない。降雪量も多く、3日雪かきを休めばレンガの家でも潰れてしまうと言われている。原生植物は少なく農耕も困難、小動物を狩りに出ればむしろ氷原の王者である獰猛なオカセイウチに狩られる始末だ。
そんな死の世界にも似た一面の銀世界に、土饅頭めいた半球状の巨大建築物が点在している。山ではない。かつてこの大地を支配していたヒエムス皇国が潤沢な地下資源から得た巨万の富を注ぎ込んで造り上げたドーム都市である。巨大な鋼鉄の鋺が1つの都市を周辺の自然ごと覆い隠し、全てを押し潰そうとする雪から住人を守っている。
そのドーム都市の1つ『イヴェール』の郊外、山の上に立てられたある貴族の屋敷に大勢の人々が詰めかけていた。
彼等の目当ては屋敷の所有者ワーシカ・イーベルシュタイン卿が近々屋敷諸共手放すことになる秘蔵の宝石コレクションだった。哀れな没落貴族イーベルシュタインは宝石をオークションにかける前に自らのコレクションを一般に展示することでその入場料を借金返済の一助にしようと目論んだのだ。
コレクションの大半はたいしたものではない。好事家からすればガラクタ同然の品ばかりだ。だがたった1つ例外があった。鶏卵ほどの大きさのある、血のように赤い涙滴状のルビー。ヒエムス皇国滅亡と同時に流出したという王家の秘宝『アマンテ』である。
何故、王家の秘宝が田舎貴族の手に渡ったのか、イーベルシュタインの要領を得ない話からそれを理解するのは難しい。大切なのは、権威ある鑑定士によって保証された、紛れもない本物ということだ。
最後の皇女アシタナシア・ノワールヴナ・ヒエムスの悲劇的な伝説に登場する宝石は、イーベルシュタインが考えていた以上の集客力を発揮した。折しも今日は祝日、更に展示会の最終日とあって前日以上の客が押し寄せていた。
その人混みの中をかき分けるようにして歩く1人の少年がいた。年齢は15歳前後。現地の住民ではない。濡れたカラスのように黒い髪と黒い目、そして背中に背負った荷物から、ヤマト帝国からの観光客であると推測された。
観光客は――特にヤマト帝国人の姿はイヴェールでは珍しいものではない。だが彼は一目散にアマンテに向かう人の流れにただ1人抗うように動いていた。
その足取りは老人のようによぼよぼとしておぼつかないが、これはヒエムスの冬の寒さ――ドーム内であっても零度近い――と自分の体力を過信したツケによるものだ。バス代をケチって山の上に建つ屋敷まで歩いて登ってきた疲労が彼に重くのしかかっていた。
しかし、彼の目に暗い光が宿っているのは疲労のためだけではない。
もし見物客が少なければ、警備員達が彼を放置することはなかっただろう。だが人の流れを横切る彼の姿を目に留める者はいても、人混みをかき分けてまで彼を追いかけようとする警備員はいなかった。最も守らねばならないアマンテからは遠ざかっていっているのだし。
暗い目の少年は、展示場の隅、ほとんど誰もいない一角に辿り着いた。ガクガクと震える足で幽鬼のようにショーケースに歩み寄り、ガラスを鼻で突き破らんとするかのように顔を近づける。周囲の数少ない見物客達が眉をひそめて去って行った。
そこにあるのは、なんということもない水晶だ。掌にのる程度の大きさの、狐の尾を象ったようなかたちをしている。展示されている宝石の横にはイーベルシュタイン手製のキャプションにだいたいの相場が記されていたが、その水晶には子供が買うには高すぎるが大人が買うには苦労しない程度の額しかつけられていなかった。
だが、少年にとってその水晶の市場価格などどうでもよかった。
彼にとってこの水晶は養祖父の形見だった。根元にあたる部分に残る小さな傷がその証拠だ。彼が小さな子供の頃、誤ってつけてしまった傷。懐かしさが押し寄せ、少年は瞳に涙を浮かべた。
物の価値を知らない養父は二束三文で売り飛ばしたが、彼にとってはアマンテなどよりもずっと価値がある。
彼は涙を拭った。温かい滴が取り払われ、外気よりも冷たい眼差しがそこに戻る。素早く周囲を窺い、誰もこちらに注意を払っていないことを確認する。見物客も警備もアマンテのことばかりだ。そっと懐に手を伸ばす。そして、
「――あなた、それが好きなの?」
突然背後から声がかけられた。少年は身体ごと振り返り――、だが何もなかったかのように180度ターンしてショーケースに向き直る。
声の主は彼と同年代の少女だった。
凡庸、というのが第一印象。器量が悪いわけではないが、かといって美少女と呼ぶのは大袈裟すぎる。ダークブロンドを三つ編みにしているのが古くさい民族衣装と相まって野暮ったい。芝居をするなら村娘Aの役がよく似合うだろう、と少年は思った。
彼女が生者であれば。
少女はぼんやりと青白く輝いていた。目を凝らせば、背後の壁が透けて見える。
そう、彼女は俗にいう幽霊というものだ。
厄介なときに厄介な相手に出会ってしまった。少年は――童嶋○△□は、懐に忍ばせた金槌から指を離した。
○△□には他の多くの人間には見えないものが見える。青白く光る半透明の存在。彼等は人間に対し敵意や害意を抱いているらしく、神出鬼没性や不可触性を利用して事ある毎に嫌がらせを行ってくる。綺麗な女性に引っ張られてみれば曲がり角でトラックと衝突しそうになったり、好々爺然とした老人に呼び寄せられて近づくと頭上から植木鉢が落ちてきたり、とにかくロクな目に遭わない。おかげで枕元に死んだはずの人間が立っていただの、身体の上に見知らぬ女が乗っかっていただの、鏡を見ると肩に手首だけが乗っかっていただの、その程度のことではもはや驚きたくとも驚けないようになってしまった。
彼等はいったい何なのか。
特徴は俗に言う幽霊に近いし、○△□達も便宜上幽霊だとか悪霊だとか呼んでいるが、○△□としては幽霊イコール死者の魂という考えには異議を唱えたい。肉体が滅びた後も意識や自我が残るなら、人は何をもって終わればいいのだろう。誰からも忘れ去られたときが終わりだなんて見苦しい言い逃れにしか聞こえないし、あらゆるものが栄枯盛衰するなかで魂だけが永遠不滅の存在であるなど、魂を持つ者の願望でしかあるまい。そもそも魂なんてものが実在するのか。人間の意識とは脳内の電気信号の副産物でしかないという意見の方が○△□には現実的な考えのように聞こえる。
昔からそう言われているからというだけで『魂の存在』や『幽霊はさまよい出た死者の魂』が正しいと信じ込むなど、雷を天の神々の武器と信じて疑わなかった大昔の人間を笑えないではないか。仮に奴等がそう名乗ったとしても、それが嘘でも思い込みでもなく真実だと、誰が保証してくれるのか。
○△□の支持する考えは、死んだ誰かの姿を取っている、あるいはそう見えるだけで、あれらは何か全く別のものではないか、というものだ。しかしその考えにしたところで明確な論拠はない。正直なところ、○△□がその説を支持するのはそうであってほしいという彼自身の願望によるものだ。往来を歩く恋人達や仲睦まじい家族連れが、遺された方の不幸を嬉々として望む醜い存在になるなど信じたくはなかった。
悪霊になった父――いや、父の姿をした悪霊――に死を願われたことが、自分で考える以上に傷を残しているのかも知れない。実際、○△□はその後ショックで自閉症のようになるまで追い込まれたのだ。
回復できたのは、同じように幽霊が見える養祖父のおかげだ。彼があれらとの付き合い方を教えてくれたからこそ今の○△□がいるといって過言ではない。その養祖父はもうこの世を去ったが、彼の教えは今も○△□の中で生きている。
その教えに従うのなら、○△□が背後の少女に取るべき行動はただ1つ、徹底的な無視だった。
だが少女はしつこい。
「ねえ、見えているんでしょう、わたく――わたしのこと?」
ねえねえ、と彼女が背中をつつくのを感じる。実際には幽霊との物理的接触は不可能なのだが、○△□ほど彼等に対する感受性――俗にいうところの霊感――の強い者であれば視線や気配を感じ取るばかりか、触覚さえ擬似的に発生する。
「えー、絶対見えてるって。ここにきて見えてない人のふりって、ちょっと無理があるんじゃないー?」
左から、右から、少女が顔を覗き込んでくる。鬱陶しい。今まで見てきた悪霊達が積極的に動くタイプではなかったのに比べると、なんというフットワークの軽さだろう。ヒエムスの悪霊はみんなこうなのだろうか? 街中で見かけた悪霊はそうでもなかったはずだが。
「……しつこいな」
最終的に、○△□は根負けした。最大限に不快感を表した顔で振り返る。結果、おどけた猿の顔真似をした少女の顔を直視してしまい、盛大にむせる羽目になった。完敗である。
「わたしはアシータ・ナーシャ。シータでいいよ」
よし、と満足げな顔でガッツポーズをする少女に対し、○△□は苦虫を噛み潰したような顔をするしかない。低次元な争いだったが、低次元故に敗北感を強く感じてしまう。
「……童嶋○△□だ」
「ドージマ・マサシ? ヤマト人だよね? ヤマト文字でどう書くの? わたし、あなたの国の名前好きだよ。文字一つ一つに沢山の意味があるのが……」
「それより、ウチの国の言葉、上手だな」
○△□は強引に話題を変える。親どころか役所の受付まで頭がどうかしていたとしか思えない自らの名前、それも文字に関しては、相手が幽霊でなくとも触れられたくなかった。
「死んでから『フォキア人が行って帰ってくる』くらいしたからね」
とにかく長い間である、という意味のヒエムスの慣用句を彼女は使った。
「君の人生と同じくらいの時間、退屈に耐えてきたお姉さんと根気比べで勝とうなんて十年早いわ」
「なんだ、見かけは子供でも中身はオバサンか。道理で羞恥心がないわけだ」
「オバサンじゃなく、淑女と言いなさい」
「淑女は公衆の面前で猿の顔真似なんかしな……しません」
○△□にとって悪霊は全て敵だ。たとえ相手が亡き養祖父の姿をとっていてもそれは変わらない。だが敵とはいえ年長者と会話する以上は、敬意を抱けなくとも敬語を使うべきだろうか? 逡巡した結果、○△□は敬語で接することにした。
気にしなくていいのに、と困ったようにアシータがはにかんだ。悪霊が悪意を含まない笑顔を浮かべるのを○△□は生まれて初めて目撃した。まともに会話が成立していることも彼の常識を大きく覆す出来事である。
(まるで普通の人間と会話しているのと何も変わらないじゃないか)
○△□は片眉を上げた。驚くという感情の鈍麻した彼にとって、それは普通の人間なら大声を上げているくらいの驚嘆に相当する。
長年の謎とされてきた、悪霊達が本当はどういうものなのかについて彼女から聞き出せるかもしれなかった。だが○△□には今、それよりも遥かに優先すべき問題があった。
「この水晶が、そんなに大事なの? 遠くから見てたけどさ、皆アマンテの方にばかり関心が行ってて、他の宝石見てる人達もアマンテの前から人が減るのを今か今かと待ち焦がれてる。でも君は、獲物を見つけたオカセイウチみたいに脇目もふらずその水晶にやってきた。何か思い入れがあるの? 水晶が特に好きとか?」
「いいでしょう、別に。あなたに何か関係あるんですか」
礼儀は守るが仲良くする気は毛頭ない。それに人前で幽霊と話して変人扱いされるのも避けたい。これから自分がやろうとすることを考えれば尚更だ。
○△□は懐に手を忍ばせた。此処に来る途中で買った金槌の柄の感触を確かめる。
幸い、誰もいない空間に向かって1人でブツブツ喋っている奇妙な少年に対し警備員や他の客達は注意を向けていなかった。相変わらずアマンテにしか目がいっていない。
さあ、この金槌でガラスを叩き割り、目当てのものを掴んで、そして――。
「ちょっと、何するつもり!? 強盗なんてやめなさいよ!」
鬼気迫る表情で静止した○△□を不審に思い、その懐を覗いたアシータが大声を上げる。もちろん、幽霊である彼女の叫びは彼女自身と○△□以外の誰の耳にも届かない。
「静かにしてもらえませんか、気が散ります」
「○△□君、あなた――、あなたね、自分のやろうとしてること、わかってる?」
「これは、この水晶は俺の養祖父の形見なんです。不心得者によって勝手に売られたものを正当な持ち主の元に取り返す、何がいけないんですよ?」
「だからって、何をやってもいいというわけではないでしょう? 犯罪じゃないの。亡くなられたお祖父様が喜ぶと思って?」
「人は死んだら終わりですよ」
幽霊が本当に死んだ生者の成れの果てかどうかは関係がない。悪霊となればあまねく生者の死を望む敵となるのだから、敵の感情など考える価値もないという意味だ。
「どうしても取り返したいのなら、持ち主に頼むか、オークションで競り落とせばいいでしょう!」
「俺がそんな金持ちに見えますか?」
○△□は鼻で笑った。
「社会のルールは、所詮社会における強者が定めたものです。弱い者は煮え湯を飲まされ続けるか、強くならなくてはならない。でも、本当に欲しいものは大抵、俺が強くなるまで待っていてくれない……」
そうだ、と○△□は奥歯を噛みしめる。子供の頃、法に則った手段を選んでいたら、きっと自分は母親に殺されていた。
「――法や倫理なんて、糞食らえだ」
「おっかないこと言うなよ」
「?」
何気なく口に出した言葉に、誰かが呆れたように返す。アシータの声ではない、男の声だ。振り向いた○△□の視界がスパークした。顔面に強い衝撃。手から離れた金槌が、床に落ちて硬い音を立てる。
殴り飛ばされたと理解したのは、床に仰向けになった自分を発見したときだった。○△□の視線は天井をさまよい、そして自分を見下ろす1つの目とぶつかる。
その目の持ち主を、○△□は知っていた。
「鴇貞兄さん……?」
「よう、愚弟」
眼帯の男が不敵に笑う。
「お兄様?」とアシータ。
「朱川鴇貞。兄弟子です」
「兄弟子? カラテか何か?」
「おいおい」鴇貞が髪をかき上げる。「悪霊相手に人の個人情報喋るなよ。まあ、知られて困るもんじゃないが」
「この人もわたしが見えるの?」
「見えるし声も聞こえるよ。だから間に合った」
「オレを無視すんなよ」
鴇貞の後ろから、三白眼の若者が顔を見せる。
「ああ、黄寺か。鴇貞兄さんが尻尾を生やしたのかと思った」
「どういう意味だッ! あと『さん』をつけろよ、後輩ッ!」
黄寺瞬が○△□を睨み上げる。年齢は上だが、黄寺の身長は○△□より小さい。
ガガッ、と鴇貞の胸に取り付けられたレシーバーがノイズを発した。どうしましたか、とレシーバーの向こうの人物が問いかける。なんでもねえよ、と鴇貞はぶっきらぼうに返し、通話を切った。
「兄さん、ここの警備をやってるんですか?」
「ああ。ここで揉め事を起こされたら困るんだよ。それでなくとも忙しいってのに。おまえの目的は、アレか?」
鴇貞がショーケースに向かって顎をしゃくる。○△□は黙秘した。黄寺が床に転がった金槌を拾い上げ、ひらひらと振ってみせる。
「童嶋流の次期当主予定だった奴が強盗とは落ちぶれたもんだな、ええ? もっとスマートにやるつもりなかったのかよ? ま、勘当された身じゃ穏便にオークションなんてやる余裕はないよな? むしろヤマトからヒエムスまでの列車賃がよくあったもんだ」
○△□は黄寺から金槌をひったくろうとし、だが鴇貞にそれを阻止された。
「邪魔しないでください、兄さん。養祖父の――師匠の形見、ひいては童嶋流の秘宝が見世物になっているのを、指を咥えて看過されるおつもりですか」
「ははっ、なーにが師匠の形見だ、童嶋流の秘宝だ?」黄寺は冷笑。「おまえはクズノハが欲しいだけだろ、このマザコン」
「…………!」
○△□の顔が赤くなる。
「悪霊が隣にいるのに滅するどころかお喋りしてる奴に童嶋流の誇りについて語って欲しくないね。ああそうか、おまえ今御霊石持ってないんだったな? じゃあ、おまえもう降神師じゃないわけだ! 道理で悪霊と仲良くお喋りしてるわけだ」
「違う、この女とはさっき会ったばかりで、御霊石さえあればちゃんと駆除します!」
「ちょっと? 駆除ってどういうこと!?」
アシータが割って入るが、彼女の声に耳を傾ける者はいない。
「だいたい、盗んだ後はどうするつもりだったんだ? 鴇貞さんにもオレにもクズノハは制御しきれなかったんだぞ」
「兄さんは兎も角、おまえに出来ないってのは俺にとって問題じゃないよ、黄寺。それに俺は充分に研鑽を積んだ。今の俺なら制御できる」
鴇貞はため息をつく。
「その増上慢、命取りになる前に兄弟子としては叩き潰してやりたいところだが、生憎今は忙しい。さっさと帰れ。後ろの悪霊も、今は殺さないでおいてやる」
「誰が悪霊よ!」
アシータは鴇貞を睨みつけたが、○△□はうなだれるようにして背を向けた。腕力では一回り年上のこの男に敵わないと知っているからだ。
「頼むからあきらめてくれよ。クズノハだって、ただの綺麗な石として天寿を全うした方が幸せなはずだ」
立ち去る弟弟子の背に鴇貞は諭すように声をかけた。だが言葉は○△□の胸にまでは届かなかった。