千華
田中のところに千華がやってきたのは、その日の朝早くだった。
真面目な彼女がアポイントも取らず、しかも父親の葬儀を無視してまでいきなりこんなところに押しかけてきたことを田中はいぶかしんだが、彼女はそれを説明してくれることもなく、1枚のメモ用紙を彼に渡した。メモには数人の名前が記載してあり、田中は見知った名前を何人かその中に発見する。
「……これは?」
「昨日、総督府が占拠された際、不審な反応をしていた職員のリストです」
総督府内にリ・アージュのスパイが紛れ込んでいるのなら、暴徒に対して他の職員とは違うリアクションを取るはずだと千華は思った。例えば、人目に隠れて暴徒達にリ・アージュとの橋渡しを持ちかける、だとか。だから千華は捕まっている間、それとなく職員達を観察した。
そして彼女の目に怪しく映った人間が、そのリストに記載されている名前の持ち主というわけだった。
「素人判断ですが、何らかの参考の一助になると思って持って参りました」
田中は机の上に置いてあった書類を1枚抜き出した。千華のリストと比べるように見る。
「残念ですが、今となってはあまり意味が無かったですね」
「どういうことですか」
静かに語気を荒げた千華をまあまあといなしつつ、田中は自分の持っていたその書類を千華に示してみせた。
総督府占拠事件・死傷者リスト。それがその書類のタイトルであり、長い表の中には千華が挙げてきた名前が全員入っていた。
その何名かに、チェックが入っている。
「ああ、その人達は死因がちょっと不審でして」
「不審……?」
「総督府の爆発じゃなく、何か別の要因で死んだようだと検視の人達が言ってましたよ。おそらく、ドサクサに紛れて口封じ、蜥蜴の尻尾切りって奴ですね」
「…………」
ああそうか、と千華は納得した。ランゾウがあそこにいたのは、フラギリスが使い切れなかった御霊石を回収するためだけではなかったのだ。
「無駄足でしたのね、私」
「敵が内通者を始末したということは、つまりはもう、我々の内情を探る必要がなくなった……ということです」
「それって……」
「我々のことなどもう相手にしていないか、彼等の最終作戦が始まるものと私は考えています」
田中が声を落とす。真っ直ぐ千華の目を見て続ける。
「鳳さん、あなたはもう本国にお帰りなさい。丑峰さんも連れて行くといい。もうあなたは充分に責を果たしましたよ」
「私は、まだ何も出来ていない……!」
「もう何も出来ないのですよ、鳳さん。あなたは戦い、しかし敗れた。その事実は、ここに居座り続けようが覆せやしません。ですがしかし、生きていれば、今日の敗北を教訓として、明日の勝利をつかみ取ることが出来るでしょう」
「……田中さん達はどうなされるのです」
「私達は一応、軍人ですし」
田中はヘラヘラと愛想笑いを浮かべた。
「給料分くらいは働きますよ」
童嶋○△□の前にも来客が訪れていた。
黄寺の見舞いから戻ってきた彼は、∀に引きずられるようにして、本国から運び込まれたという一台の新型テクターの前に連れて行かれたのだった。
コクピットに手と足がついただけ、といった外観の駆鎧よりも、より人型に近くなっている。その分伸びた全長と、両肩に背負った大砲と両腕に装備された巨大なクローが威圧的だった。
「燦鎧……?」
「そうだ。御霊石を埋め込むことで機体にヘルゲイターの能力を付加することが出来るとか、なんとか……」
詳しいことはこれを読んでおけ、と整備員が分厚いマニュアルを投げて寄越した。○△□はパラパラとページをめくったが、すぐに頭が拒絶反応を起こした。内容が頭に入ってくる気が全くしない。
「霊的機体駆動補助システム、か……。オカルトの領域だね」
そういう∀の手には、○△□が持つのと同じマニュアルがあった。よく見ればトリアも机の上にそれを広げて熱心に読んでいる。
「なんでおまえ達まで。2人には関係ないだろう?」
「童嶋○△□にはあれが見えないのか?」
トリアが指差した方向には、青と赤に塗られた燦鎧が鎮座しており、それぞれのパイロットが得意とする武装を取り付けられているところだった。
「ボク達の機体にも御霊石がはめ込まれるようだ。スパルナとトゥナ・ロアって、どんな神獣だい?」
「降神師でもない2人が、使えるのか?」
「127ページを読め」
トリアに言われて○△□はページをめくった。
霊的共振場を利用した相互干渉システムについて、という見出しがあった。
「概略すると、充分な能力を持った降神師が1人いれば、その半径2キロメートルにいる燦鎧のテクターインナーの霊的素養を向上させることが出来る……つまり、童嶋○△□が側にいれば、我々も神獣の力を利用できるというわけだ」
「…………」
固まって移動する限り、降神師が3人いるという計算になるわけだ。○△□の影響で霊能力を向上させられた2人がどのクラスまでの神獣を操れるようになるかはわからないが、心強い限りである。
――だというのに。
○△□は胸を押さえた。
このモヤモヤする感じは何なのだろう?
唯一の特技が奪われるから? そんな子供じみた感情はない。むしろヴァルハイトと奴に憑いた怨霊を祓うために戦力は喉から手が出るほどほしい。
燦鎧はその点申し分なかった。テクターのコクピットという比較的安全な場所で神獣の力を行使できる上、分断される危険もない。神獣の霊力を熱エネルギーに変換して撃ち出す霊子兵器というものも強力そうだ。
あまりにもタイミングよく現れた都合のいい兵器で、夢じゃないかと疑いたくなる。
……あまりにもタイミングがいい。
そうか。
「なあトリアちゃん、軍が最初にヘルゲイターと遭遇したのはいつだって言ってたっけ?」
「半年前だな」
「……率直に聞きたいんだが、降神師も神獣も何も知らなかった状態から、半年でこれだけのものが造れるのか?」
トリアは一瞬遠くを見て、答えた。
「厳しいな。軍独力では無理だろう」
「――それはそうだ。我々が強力に協力したからな」
トリアと∀が驚いたように背後を見る。いつの間にそこにいたのか、六十歳は超えているであろう恰幅のいい老人がそこに立っていた。
○△□だけはそれに反応せず、マニュアルに目を通したまま言った。
「羅厳の葬儀以来ですね。ご無沙汰しております、城野大臣」
「大臣!?」
∀が1歩後ずさる。
「この人はいつもこうやって隠れ身の術で背後からいきなり現れて初対面の相手を驚かせるのが趣味なんだ」
「趣味ではない。パフォーマンスという奴だ。魔術師というのはとかく舐めて見られるものなのでな。……久しぶりだな、童嶋の」
「大臣におかれましては、ご壮健そうで何よりです」
マニュアルを閉じて横に置き、○△□は城野鍠炎に向き直って改めて一礼した。
「2人とも紹介するよ。この方は城野鍠炎、ヤマト帝国宮廷大臣。降神師や魔術師、祈祷師なんかの大元締めって奴だ。で、大臣、こちらが浅間∀とトリア・ブルースクリーン」
「燦鎧の運転手だな」
それより、と○△□は眉間に皺を寄せた。
「協力したとはどういうことですか。神獣のこと、軍に流したのですか、大臣? 神獣に関わる内容は極秘事項であったはずです!」
「女1人の気を引くために街中で使った奴が言えることか。知っておるぞ、おまえがここに来てからの活躍ぶりは」
「…………」
返す言葉のない○△□を横目に、鍠炎は椅子に腰掛けた。
「最近は、目に見えぬものに敬意を払わぬ愚か者が多すぎる。世界の安定を陰で支えているのは我々だというのにな。だがぼやいているだけでは何も変わらん。この時勢にあっては、我々も目に見える力をつけねばならん」
「だから、軍に神獣の知識を流し、パイプを作ろうとしたのですか」
「そうだ」
「神獣同士の戦争で、神代の人々が滅亡したのを忘れたのですか!」
「あれは、両方が神獣を持っていたからだ」
「どの国を仮想敵にしているか知りませんが、敵だって命がかかれば戦場で鹵獲もするしスパイに盗ませもする。敵がこっちと同じかそれ以上の兵器を造るなんて、すぐですよ!」
「何もなくたって敵はより強い武器を造ろうとする。こっちが武器を持たなければ自動的にあっちも無防備になる、などということはない」
「…………」
○△□は歯ぎしりをした。今まで散々秘せ隠せ隠匿しろとガミガミ言ってきたくせに、都合が悪くなると自分から覆すのか、こっちに何の伺いもなく。
「今回の事件で、緋魅狐様の立場がお悪くなっている。おまえ達はこれに乗ってリ・アージュを掃討し、緋魅狐帝の御威光を、そしてこの度の騒乱が取るに足りぬものと知らしめるのだ」
「……いつからですか」
「なに?」
「いつから、軍と提携を?」
「……1年以上前だな」
1年前。養祖父――羅厳の死。
「羅厳がいなくなったのをいいことに、好き勝手したって事ですか!」
「現当主は協力的だったからな」
「まさか、自分達が神獣を好き放題するために、羅厳を!」
養祖父が生きていれば、神獣を兵器に転用しようなんて企てには決して首を縦に振らなかっただろう。まさかこいつ、養祖父を亡き者にして――?
だが、城野は呆気にとられた顔をして、慌てたように違う違うと手を横に振った。
「いやいやいや童嶋の若いの、それは陰謀小説の読み過ぎだ。私はそこまではせんよ。確かにしつこく説得しようと押しかけはしたが、殺すとか、そんな、罰当たりな」
あんたが造らせたのはその人殺しの道具だろうが、と言いかけたが、やめた。他人が他人を殺す分において想像力が働かないのは、聖人君子でもなければそう珍しいことでもないだろう。それを責めたら、自分にも手痛いしっぺ返しが来るような気がした。
なんといったって、自分はこれからリ・アージュと戦うのだ。ヴァルハイトはもちろん、その配下のデウステイマーを1人も殺さずに終わらせる自信など自分にはない。
むしろ、生き残る自信の方こそ、ない。
○△□は深く息をついた。わかってくれたか、と城野は肩を落とす。
「クズノハに関しては残念だったよ」
空気を変えようとしたのか、城野は明るく言った。
「こちらでも買い戻そうとしたのだが。あれほどの神獣が、まさかリ・アージュの手に渡ってしまうとは。燦鎧に使えれば最高の戦力になっただろ――」
城野は言い終えることが出来なかった。○△□の拳が、彼の頬に叩き込まれたからだ。
「クズノハを、兵器に使ったら、殺すッ! その時は宮廷庁だろうがヤマト帝国だろうが、塵ひとつ残さず皆殺しにしてやるッ!!」
「駄目だ、落ち着け○△□クン!」
∀が背後から○△□を羽交い締めにする。トリアも無表情のまま○△□の足にしがみついた。それを見て、ああなんかこういう妖怪いなかったっけ、と○△□の意識は急激に沈静化する。
「大臣殿!」
離れたところに立っていた黒服が駆け寄る。1人の黒服が○△□に拳を振り上げるのを、よい、と城野は制した。
「そこまで言うなら、リ・アージュを止めてみせるのだろうな、童嶋の」
「もちろんだ!」
「ならばよい」
城野は背を向けて歩き去った。
ヒエムスでの騒乱のおかげで、高柳達が勢いづいている。巧みに世論を操作し、おかげで緋魅狐帝の立場は日々悪くなっている。
そうはさせるものか。帝を守るためならば、武力をもってクーデターを起こすのも辞さない。まずは燦鎧でリ・アージュを掃討し、国民に、いや高柳政権に宮廷庁が儀式を執り行うだけの組織ではないと見せつける必要がある。
童嶋○△□にはその為に戦ってもらわねばならない。燦鎧のテクターインナーには彼が適任だ。手駒になりそうな他の降神師をこんなところで失うわけにはいかないからだ。
頬を1発張られるくらいなら見逃してやる、と城野は鼻息を荒くした。
千華が家に帰った時には、外はもう真っ暗だった。
葬儀を無視して家を出てきてしまって、流石に母は怒っているだろう。気まずさのあまり真っ直ぐ家に帰ることが出来ず無駄に時間を潰してしまった。
だが若い千華にとって通夜だの葬儀だのは形骸化した儀式でしかなく、スパイを特定する方がずっと重要に思えたのだ。それに、殺した当人が葬式に参列するなんてそれはそれでタチの悪い冗談に思える。
玄関を開く。只今戻りました、と呟くように言って、千華は違和感に気付いた。
家の中はいつも通りだ。
いつも通り。葬式があったはずなのに、そんな痕跡は全く見られない。たった半日家を空けただけで、こうも綺麗さっぱり切り替わってしまうものなのか。
居間に母はいなかった。恐る恐る探し回ってみると、母は自室にいた。引っ越し用のダンボールに荷物をまとめている。
あら、帰ってきたの、と母は微笑んだ。朝からいないから心配したのよ。
怒っている様子はない。
「……父様は?」
「あの男なら業者に頼んだわ。明日、骨が返ってくるはずよ」
「お葬式……」
「こんな大変な時に、葬式も何もないでしょう? どうせこっちには参列客もほとんどいないのに。棺を担ぐ手も足りやしない」
それより、と母は休みなくタンスの中の服をダンボールに移しながら言った。
「あなたも早く引っ越しの支度をなさい」
「引っ越し……?」
田中の言葉を思い出す。本国に帰れ。
いや、できない。
「私には、総督代理の仕事がまだ……」
「あなたはもう行かなくていい。久下淵さんに頼んでおいたから、後は彼に任せなさい」
「なんでそんなこと! ……御迷惑でしょう?」
「未来の妻のためなら安い御用ですと、快く引き受けてくださったわ」
だから嫌なんだ、と千華は黙って頭を抱えた。母は久下淵と自分を結婚させたがっている。最悪なことに向こうは乗り気だ。千華が冷たく当たっても照れ隠しか子供らしい我儘としか思ってくれない。それどころかそれを受け容れる自分の包容力に自己陶酔し、一層燃え上がる始末だ。
伴侶として久下淵は悪い物件ではない。むしろ好条件だ。愚痴っても嫌味としか思われないくらいに。親戚友人ひっくるめても、反対してるのは千華だけだ。貴咲もこの件に関しては消極的賛成の立場をとっている。
千華だって家庭は持ちたい、可能なら子供も欲しい。でもその相手は久下淵ではない。だが貴咲を自分の結婚相手として紹介しようものなら、一生、陽の目は当たるまい。同性愛に対してヤマト帝国は寛容ではない。生涯独身を貫いた方がまだ周囲の理解を得られるというものだ。
第1、貴咲だって千華のことは親友以上には考えられないだろう。
「本国に帰ったって、仕事があるわけじゃないんでしょう? ならこのまま私が総督代行を続けた方が……」
「それなら心配要らないわ、千華。これからは本当のお父様が守ってくださいます」
「…………え?」
今、何を言ったんだ、この人は?
呆然とする千華に、母は座るよう促した。
「今まで黙っていてごめんなさい。あなたが今まで父親と思っていた男は、本当の父親ではないの」
いきなりの告白に、千華は返す言葉が出てこない。
ドラマや映画で同じような場面を見たことがある。主人公がショックで大声を上げるのを見て、思春期までならいざ知らず大の大人がそこまで取り乱すようなものかと白けたものだったが、実際我が身に降りかかってみると想像以上に衝撃的だった。
「あなたの本当の父親は――」
業界では誰もが知っているような重鎮の名前を母は挙げた。かつて父の部下だったが、今では比べるべくもない地位にまでのし上がっている男だ。おかげで千華は、母が誇大妄想に囚われたのだと思った。
しかし思い返してみれば怪しい部分がなかったわけではない。出世してからもその男はよく父を訪ねてきていたし、千華が誕生日や人生の節目を迎えた際には必ずプレゼントを贈ってきた。
お父様より偉い方なのですよと母に言われた時は、そんな偉い人がわざわざ訪ねてくる父はすごいのだと無邪気に喜んでいたものだったが、あれは父が慕われる上司だったからではなく……。
「あの時、あの人は既に政略結婚が決まっていて、私とは結婚できなかったの。でも私は、あの人との間の子供を喪うなんて出来なかった」
だから母は自分と我が子を養ってくれる相手を探した。手の届く場所にいて、ライバルがおらず、その中で最も経済的に安定していたのが、千華が今まで父親と信じて疑わなかった男だった。
「……父様は」
それだけの文字を吐き出すのに、ひどく苦労せねばならなかった。
「だからお父さんじゃないのよ、千華」
「お父様は、このことを御存知だったのですか」
「そんなわけないじゃない。あの男が気付くと思って?」
そんな愚鈍な男だったからこそ、母につけ込まれたのだ。
「……どうして、そんな、ひどい、ことを」
「ひどい?」
母は心底不思議そうな顔をした。
「誰かから盗ったわけじゃないのよ。むしろ私が結婚してあげなければ、あの男は一生家庭を持つ幸せを得られなかったと思うわ。あの男だって私のことを愛してると言ってたのだし、実際幸せだったはずよ? むしろ感謝してもらわないと」
それはあなたが騙していなければの話だ、と千華は思った。
「少し前にあの人から手紙が来たわ。奥様が亡くなられて、私を後添えに迎える用意をしてある、娘と一緒に来て欲しいって」
母は笑顔で一通の手紙を差し出してきた。千華が受け取らなかったので、その前に広げる。
紙には何も書かれていませんでしたとか、紛うことなく母の筆跡でしたとか、そういうオチであればどんなによかっただろう。
限界だった。
千華はトイレに駆け込んで、胃の中身を吐き出した。どうしたの、お腹の具合が悪いの、と母が心配そうに千華の背をさすろうとするのをはねのける。
母が気持ち悪い。浮気だとか托卵だとかそういうものより、他人を欺き続けたことに良心の呵責をこれっぽっちも抱いていないのが心底不気味だった。
「いいから、来ないで!」
「どうしたのよ、千華……。あなたには優秀な人の血が流れてるんだから、あの男みたいなワケのわからないことしてはいけないわ」
それで、再び嘔吐感が来た。
自分には2人の血が流れている。女を孕ませておいて責任もとらずに玉の輿に乗って、知らずしてそれを押しつけられた相手に平気で顔を合わせられる男と、そんな男を二十年近く愛し続けておいて騙した男には情すら見せない――それをおかしいとも思わない女の。
「……もういい、私が出て行く」
胃液を吐き終わった後、それだけ言うのが精一杯だった。
違うのよ千華、と外套を取りに戻る千華に母が追いすがる。私達はそんな浮ついた関係じゃないの。確かにあの人が政略結婚をしたのは嫌だったけど、それは彼の夢のために仕方なくでワタシタチノアイハホンモノナノ。
相手をしたくなかったので、外套はあきらめた。口をすすいで家を出る。戸惑いの表情を浮かべる母だった女の目の前で叩きつけるようにドアを閉めると、身を切るような寒さが千華に襲いかかった。だからどうした。もうどうにでもなれ。
行くあてなど考えていなかったが、気がつくと貴咲のマンションに向かう道を歩いていた。見上げれば、もう彼女の部屋の灯りが見える。
――それで?
部屋を見上げたまま、千華は硬直した。貴咲に会うのか。会ってどうする。私が一緒にいても貴咲には迷惑にしかならない。貴咲が男と腕を組む光景を、きっと私は許容できない。あの子の幸せを、陰に日向に邪魔し続けるだろう。
じゃあどうする、思いの丈をぶちまけるか? 恋愛的な意味で好きです、愛していますと? 人の愛情を平気で踏みにじるような2人の間に生まれた下種のサラブレッドが、愛だって?
貴咲の笑顔が浮かぶ。今の自分には眩しすぎる。父親と信じていた男だって平気で殺せるような自分が触れていいものではない。
――もうおまえの父なんかやめたッ! ヒエムス総督でも、ヤマト帝国人でもない! フラギリス・ペルダン・ベンガンサ! アレクシィ陛下がつけてくださった新しい名前だ!
父は騙されていたことを知らなかった。それでも結局千華を切り捨ててしまったのは、やはり、性根が腐っているというのは臭いや雰囲気でわかってしまうものなのだろう。
千華は近くにあった木製のベンチに力なく腰を落とした。すぐに、誰かが隣に座った。ドサリと音がしてベンチが揺れる。
今は1人になりたいのに、こんな夜中に邪魔な奴――そう思って睨みつけてみれば、何と隣にいたのはあの包帯男だった。
「こんな夜中に1人で外出とは、寂しいな総督代理? 彼氏いないんならなってやろうか?」
「……男はもう一生要らない」
千華がそう言うと何故かランゾウはクックと笑った。
「そうだな、オレも女は当分ゴメンだね」
「何しに来たの」
「散歩だよ、買い出しついでに」
「嘘」
「おまえ、テロリストはずっと穴蔵で鉄砲磨いてるとか思ってないか?」
パトカーが目の前を通り過ぎ、そのまま角を曲がって消えた。
「武装警察もヘルゲイターには打つ手なしだし、それでなくとも余所の国の奴等のために同胞と戦うことを疑問に思わないヒエムス人なんかいねえさ。おかげで随分オレ達みたいなのには住みやすくなったよ、此処も」
「…………」
「逆に一等市民様には住み辛くなっただろうぜ。さあ、送ってやるから帰りな。タチの悪い奴に襲われても知らねえぞ、ってオレの方がタチ悪ぃか! ウヒャヒャヒャヒャ!」
ランゾウは酒が入っているようだった。ヒエムスの酒はヤマト帝国人には強すぎる。
「帰りたくない」
千華は力の無い目で夜空を見上げた。ドーム都市の天井に星明かりはない。
「行く場所もない――」
ぐらりと千華の身体が崩れた。ランゾウの身体にしなだれかかる。
おいおい、と見返したランゾウは、荒い息をつく彼女の上気した肌と珠のように流れる汗を目にした。額に手を触れると、これが人間の体温かと驚くほどの熱が包帯を通して伝わってくる。
ランゾウは千華の手を肩に回した。身長が違いすぎて歩きづらい。やむなくおんぶに切り替えた。
――お父さん、と千華が力なく呟いた。
せめてお兄さんと言ってくれ、とランゾウはぼやいたが、順当に子供をもうけていれば実際これくらいの娘がいてもおかしくないことに気付いて泣きたくなった。




