壊想
冬休みの思い出 1ねん3くみ しらくら まさし
晩ごはんのシチューを食べないでいると、お母さんはふしぎそうな顔をしました。
「どうしたの? スキでしょう、シチュー? キライになったの?」
ぼくは首を横にふりました。
「だったらどうして?」
正直に言うべきかどうか、ぼくは迷いました。お母さんはウソがキライだからです。正かくに言えば、自分以外の人間が自分にウソをつくのが大キライなのです。ウソをついたことがバレるとそれはもうものすごく怒られます。怒られるだけならいいけれど、ぶたれるのはいやだと思ったので、ぼくは正直に答えました。
「……お父さんが食べろって言ってるから」
ぱぁんと音がして、ぼくはイスごと床にひっくり返りました。床に打ち付けた肩と腰と、左のほっぺたが痛かったです。左耳がキーンとなって、はたらくのをやめてしまったようになりました。
「またあんたは気持ち悪いウソをついてッ! お父さんはねぇ、死んだのッ! もういないのよッ!」
お母さんはウソがキライです。より正かくに言えば、自分が考えている答えとちがうことを言われるのが大キライです。たとえまどガラスが割れたのが裏手のちゅうしゃ場で遊んでいたよその子供のボールによるものだとしても、お母さんがぼくのせいだと思えば、「ぼくがやりました」以外の答えはウソになるのです。
今回もそうでした。お母さんには、自分の後ろに立っているお父さんが見えていないみたいでした。だからお父さんがいるというのはウソになるのです。
「……床が汚れちゃったじゃない」
いまいましそうにお母さんが言いました。ぼくが倒れたときに手が当たったので、シチューの入ったお皿は逆さまになって床に落ちていました。
ピンポーン。その時、呼び鈴が鳴りました。お母さんは大きなため息をついて、ぼくの顔にぞうきんを投げつけました。乾いた状態で投げてくれたのは不幸中の幸いだと思いました。
「……キレイに片付けておきなさい。片付け終わったら、私がいいと言うまで部屋ではんせいしてなさい」
小さな声でぼくにそう命令すると、お母さんは玄関に出ました。ドアが開いたとたん、聞きなれたやかましい声がぼくのいるところにまで届きます。チャイムを鳴らしたのは、となりの部屋のおばさんでした。お父さんが死んでボシカテイになったぼく達が心配だと言ってよく押しかけてきます。本当のところは、おばさんが信じているしゅうきょう団体にお母さんかぼく、あるいは両方を入れたいのだとお母さんは言っていました。
おばさんの話はとても長いです。大きな物音――言うまでもなく、ぼくがビンタされて転げた時のものです――におどろいて様子を見に来たと言っていたのに、原因がわかっても帰りませんでした。おばさんは近所に新しくできたスーパーの話や、海の向こうで作られたテレビドラマの話を始めました。お母さんがイライラし始めているのが子供のぼくにさえわかるのに、おばさんはいつもまったくわかっていないようでした。それともわかったうえでわざとやっているのかもしれません。後でとばっちりを食う身としてはかんべんしてほしいと思います。
ぼくは床にこぼれたシチューを見ました。
それがテーブルに並べられたとき、お父さんはすごくうれしそうな顔をしました。おそう式のあと、お父さんはしゃべらなくなったけど、ぼくがそれを食べるのを「はやくはやく」と言わんばかりのまなざしで見つめていました。
今のお父さんのように、うっすらと青みがかって半とうめいになった人達は他にもいて、そういう人達が手まねきしたり指さしたりする場所に行くと、決まってひどい目にあいます。きれいなお姉さんが口をぱくぱくさせて、手がすり抜けるのもかまわず必死にぼくを引っ張ろうとするのでそっちに行ってみたら曲がり角でトラックがはな先をかすめていったり、優しそうなお爺さんが手まねきをするから近づいてみれば頭の上からうえきばちが落ちてきたりします。あの時たまたまくつヒモがほどけていなければ、今ぼくはここにいなかっただろう、と思います。ぼくが好物のシチューに手をつけられなかった理由は、つまりそういうわけだったのです。
『青い半とうめいの人』がぼく以外の人には見えないことは知っていました。でもお母さんなら見えると思っていました。なんといっても、親子だからです。だからお母さんも見えないのだとわかって、ぼくはとてもがっかりしたような、うらぎられたような気分になりました。
なんとなく、ぼくは床のホコリが混じらないように気をつけながらフローリングの床にこぼれたシチューをスプーンでていねいにすくい上げて、ぼくの皿にもどしました。そしてそれをお母さんのお皿に入れました。お父さんがにんまりと笑いました。青くて半とうめいになる前には見たこともない、楽しそうな笑顔でした。それまでは、いつも何かをこわがっているような、困っているのと区別がつかない笑顔ばかりだったのに。
おばさんの声が消えました。がちゃんとドアが閉まる音がして、お母さんの足音が近づいてきました。
「まだ片付け終わってないの。全く、お父さんに似てグズなんだから」
余計なことをしていたせいで、片付けがおくれてしまったのです。ごめんなさい、とぼくはあやまりました。お母さんにとっての真実は、ぼくがグズでノロマだから片付け終わっていないのであり、落ちたシチューをお母さんのお皿に入れていたから、というのはウソになるので言いません。
ぼくはもくもくと作ぎょうをつづけました。お母さんはイスに座って足をくんで、タバコをすいながらぼくを見下ろして、ときどき思い出したかのように、ほらそこにジャガイモが落ちてる、とか、おまえは本当にダメな子だ、とか、私がいなけりゃ何も出来ないんだから、とか言ってきます。ぼくは何も言い返さず、ずっとうつむいていました。お母さんも今、さっきのお父さんのような笑顔を浮かべているにちがいないと思ったので、なんとなく、見たくなかったのです。
片付けが終わると、お母さんはぼくを部屋に押し込めました。いいと言うまで何があっても出てきちゃいけないし、それまで部屋でゲームをしたりしてもいけないからね。もう何回聞いたかわからないいつものおやくそくを言っていました。いいつけをやぶるとひっぱたかれたり水ぜめにあうので、言われなくても守るつもりです。ぼくはとっくに冷え切っているだろうシチューのことを考えていました。
お母さんは新しいのと取りかえてしまうのだろうか、あたためなおすのだろうか、いや、めんどうくさがりだからそのまま食べるのだろうか。
「もう小学生になるのにしょうもないウソをついて、ダメな子。しょうらいロクな大人にならないね、絶対」
捨てゼリフを吐いて、お母さんはぼくの部屋のドアを閉めました。そう、ぼくは今年の春、小学生になったのです。小学一年生です。もうようち園の小さい子どもじゃないし、ましてや何もわからない赤ん坊でもありません。
ぼくの部屋が本当は部屋じゃなく押し入れだということも知っているし、お母さんがおじさんとほけん金のためにお父さんに毒を飲ませて殺したことも知っています。そしてそれがたまたま上手くいったのに味をしめて、ぼくを同じ手で殺そうとしたこともです。
白状すると、シチューが床にこぼれるように倒れたのはわざとだし、中身をお母さんのお皿に入れたのもなんとなくじゃなくわざとです。でもお母さんにとってはウソなのだから、たとえこれでお母さんが死んでもぼくは何も悪くないと思います。
ぼくが入れたていどの量で死ぬかはわかりませんでした。死ぬなら死ぬでいいし、死ななければ死なないでいいと思いました。いくらでも機会はあるはずです。お母さんにお父さんが憑いているかぎり、ぼくが勝つと思いました。
ぼくは声が出ないようにして泣きました。お父さんはぼくが毒入りシチューを口にするのを楽しみに待っていたし、ぼくがお母さんを殺し返すのも止めようとしなかったからです。
青い半とうめいの人達がふつうの人間を殺したいほどにくんでいることはうすうす理解していたけれど、たとえ相手が家族であってもそれは同じなのだということ、つまりお母さんだけでなくお父さんもぼくが死ねばいいと思っていることがわかって悲しかったのです。
居間で何か大きなものが倒れる音がしました。何かがあばれている音もしました。またおばさんがたずねてくるんじゃないかとヒヤヒヤしましたが、今度は来ませんでした。ぼくを呼んでいる声が聞こえたような気がしたけど、きっと気のせいでしょう。行ってみた方がよかったかもしれません。だけど、何があったとしても部屋を出てはいけないとお母さんが言っていたので、行きませんでした。
すぐにまた静かになりました。
≪先生より≫まさしくんはゆうれいがみえるんだね、すごい!
かんじをたくさんしっているのもいいことです。
でも、おかあさんがなくなられたのを、おもしろおかしくウソのおはなしにするのはやめましょう。そういうのはふきんしんといって、たいへんよくないことです何時までも逃げられると思うな。
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少年は息苦しさに目を覚ました。
まず目に映ったのは、起き上がればすぐさま頭をぶつけそうな低い天井、次に視界に入ってきたのは毛布の上から自分の身体に覆い被さる人間の頭頂部だった。
そいつが頭を上げる。
顔を隠すほどの長い髪が流れ、その下にあるものが覗く。青白い燐光を放つ病的な肌をした女。女が瞼を開く。その下に収まっているべき眼球はなかった。眼窩は赤黒い空洞になっており、そこから粘性の高い黒い液体がダラダラと溢れ出した。
「汚いッ!」
少年は――童嶋○△□は、反射的に女の顔面に拳を叩き込んだ――叩き込もうとした。だが拳は女の顔を通り抜けて天井に激突する。○△□は声にならない呻きをあげて身悶える羽目に陥った。
女の姿は、すう、と消えた。わざわざ探さなくとも、安さに見合った広さしかない寝台車のベッドには隠れるどころか潜り込むスペースも存在しない。
「わかってたのにな……やっちまったよ……」
赤くなった拳に息を吹きかける。
朝っぱらからろくでもない。夢見も悪かったし――と○△□はぼやく。夢の中で○△□は小学生だった。まだ童嶋○△□ではなく白蔵○△□であった頃。母が死んだときのことを作文に書いて先生に添削される、そんな夢だった。
現実には、母親が死んだ時のことは作文に書くどころか人に話したことさえない。好物はシチューじゃなくてきつねうどんだし、お節介な隣人もいなかった。
だが、実母に殺されかけたこと、自分が母を殺し返したことは事実だった。
そしてもちろん、死んだはずの父が見えていたことも、だ。