有限の自由に泳ぐ
『そこで彼は……』
ペンを動かす手が鈍い。
一度止まってしまった手はなかなか次に動き出そうとはしないものだ。
カチカチカチカチとペンを何度も何度もノックするが、当然無駄な行為でしかない。
むしろその音に対する苛立ちすら湧き上がってくる。
机に倒れ込めばゴチン、と音を立てて額を打ち付けた。
一度強く目を閉じてまた開く。
目の奥の神経が痛むのは疲れ目だからだろう。
窓の外から流れ込む風が心地よくて睡魔が襲ってくる。
目を閉じていれば他の感覚が研ぎ澄まされ、その耳に届いてくる人の声と物音。
がこん、どこか聞き覚えのある音だった。
軽くもなく重くもなく、逆らうことなく、でも一瞬だけ足止めを食らったような音。
体を起こして窓の外を覗けばキラキラした太陽色の髪。
眩しい。
僅かに細めた目線の先には太陽色の髪とバスケットボール。
そうだ、さっきの音はあのボールがネットに入った音だ。
何の音なのかわかってスッキリするはずが、モヤモヤとした黒い何かが胸の中にある。
乾いた唇を舐めて窓の方へ身を寄せれば、先程よりも音が聞こえやすくなった。
太陽色の男に説教をする女の子の声が聞こえてくる。
ストリートバスケ用のコートは一応使用することは可能だが、教師からの許可を貰って使用することになっているのだ。
女の子が怒っているところを見ると恐らく許可なしだろうか。
カチカチ、ペンのノック音。
胃の奥底から何かが込み上げてきてモヤモヤして気持ちが悪くなる。
「いいだろー」と聞こえた声。
綺麗なフォーム。
この部屋から見ていても分かるくらい整ったそのフォームで放れたボールは、吸い込まれるようにネットをくぐり抜けた。
さっきの音とは違う。
引っ掛かりも足止めもない綺麗な音。
パサッ、とネットが揺れる音だけだった。
彼の髪の色のせいか天気が良すぎるせいか、キラキラしたものを見ているような気分になる。
でも、いい気持ちはしなかった。
バキッ……無機質な音を立てて使い物にならなくなったのはペン一本。
まだ半分くらい残っていたインクが溢れてくる。
床に落ちたそれは拭かなくてはいけないのだけれど、私はそこから動けない。
キラキラした、その瞬間を見たから。
ああいう瞬間は自分が体験しないと書けないことを知っていて、自分は体験出来ないものだと知っているから。
無い物強請り。
何て忌まわしきスランプ。
強く強く目を閉じて、また開けたら書こう。
新しいペンを出して、汚してしまった床を拭いて、インクまみれの手を洗って、壊したペンを捨てて、原稿を出して、その上に新しいペンを走らせて、書こう。
真っ白な原稿を文字で埋めるんだ。
それがきっと私に出来ること。