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椅子を抱えて彼女の元へ急いで帰るころには日が傾きはじめていた。
それでもエーギルの人影を見つけると大きく手を振って出迎えてくれたのだから駆け寄らない理由が無いわけがない。
「そんなに急いで来なくったって大丈夫なのに」
「ソフィリアの顔が早く見たかった」
こんな歯の浮くようなセリフを恥じることもなく堂々と言うのだから始末に負えない。こっちの顔は湯気でもでそうな熱さなのに。
むう、とちょっと睨むとエーギルははにかんだ。
「ソフィリア、あんまり可愛い顔をされると頭が真っ白になる」
素か、これがエーギルの素なのか。
「え、エーギル、いつまでも椅子を抱えてないでこっちに来て座ってよ、疲れるでしょう?」
「別に我は疲れないが、そなたは疲れるだろうな」
椅子をゆっくりとおろしてエーギルは何かを確かめるようにゆっくりと座った。
ソフィリアははっとして思い出した。
「エーギルは…ひとではないの、よね」
「そうだ」
ひとではないなら何だというのだろう、ソフィリアはひとでは無いという人の形をした生き物を知らなかった。
「あなたは…なになの?」
「ドラゴン」
「ドラゴ……っ?!」
ドラゴンといえば、決してひととは交わらないという雲の上で暮らすという、異形の生物だ。
存在はする、たしかにときどき、とびきり天気がいい時、雲ひとつない青空が広がる日に黒い点のような鳥のようなものが飛遊する影を見ることはある。
けれどそれとて、決して手の届かぬ存在。
あの大空を飛ぶ生き物が自分の目の前に?
「ド…ラゴン、がどうして…私の目の前にいるのかしら」
「ふむ、ソフィリアは口は堅いか?」
「え?ええ」
こくんと頷いた姿を見て彼は口を開いた。
それをあわてて止める。
「エーギルだめよ!私なんかの言葉をすぐに信じちゃ!!」
彼は意味が分からなさそうに首をかしげた。
「しかし、そなたは口が堅いのだろう?秘密は守るのだろう?」
「そう、だけど!」
正確に言うと話す相手がいない。
誰とも口を利かず、誰とも視線を交えることもなく暮れる日を眺めて、静かに眠りにつく。そういう1日をずっとずっとすごしてきた。
話す相手がいないだけで、私がその気になればあなたの秘密を簡単にばらしてしまう、そういうことだって出来るのに。
「では、何も問題はない。そうであろう?」
「……ええ」
なぜそんなまっすぐな眼差しを向けてくれるの?
「ドラゴンは成熟したと認められると、1万歳になると親の許しを得ずとも好き勝手生きても良いことになっている」
「い、いちまんさいっ?!」
「ああ、それで齢1万を超えると、ドラゴンは雲の下へ降りて人の格好をして遊ぶ」
「くもの、したへ」
「それで、はじめて雲の下へ降りた日我はソフィリアを見染めた」
「へえっ?」
もうどこから突っ込めばいいのか分からない。
「エーギルは…ドラゴンで…1万歳になったから…ひとの姿になって雲の下に…?」
彼の話をなぞるように反復すると、うれしそうに頬を染めて柔らかく笑んだ。
「ソフィリアに会うために」
「エーギル…あの、あの…わたし」
「ソフィリア、そなたはこの家の外に出たことが無いのであろう?世界が狭すぎるのだから、そなたの理解が越えることがあっても何も不思議な事はない」
「そ、そうなの?エーギルでも分からない事あるの?」
彼は「ああ」と言った。
「ソフィリアが何を考えて、何が好きで、何に心躍らせるのか、海に住むというひとはどんな姿をしているのか、雲の下に住まうひとは何をしているのか」
「わからないの?」
「わからないな、何も分からない、だから知りたい」
エーギルが言う言葉は全て真っ当な理屈に聞こえた。
それは全てなんて自分本位なのかと言いたくなるほどの暴論に近いけれど。
彼を信じる彼女にはそうは聞こえなかった。
「ねえ、エーギル?じゃあ私はあなたの知らない〝ひと〟の話を聞かせてあげる。そのかわりこの家の外に出られない私に外の世界の、あなたの知っている世界を教えて?私、あなたの話を聞きたいの」
「ソフィリアの話を聞けるのなら」
窓辺の椅子にはいつも彼が腰かけて小鳥のさえずりに耳を傾けるように彼女の声を聞いた。
それがこの世の何にも変える事の出来ない至福だった。
彼女は彼が雲の上から雲の下へ降りてくるのを待つことが楽しみで、でも胸が潰れそうな痛みを伴って一人の時間を過ごした。
彼が窓を叩いて名前を呼ぶ声が待ち遠しい、はやく、はやく来ないかな。
それが恋だということなんて、2人は気付きもしなかった。
気付いたってだれにも止められなかった。
はじめから落ちてしまった恋に、2人は名前をつけることのできない感情を持ち寄っていつまでも寄り添っていた。
今回も読んでくださってありがとうございます!
次話も乞うご期待☆




