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それから雲の下に何度も何度も降りるようになった。
そして目的ももたずふらふらとほっつき歩くのではなく、あのまちのあの日に通った道をまっすぐ進んで…あの家の窓が見えるところまで通うようになった。
一日通うごとに数歩ずつ、近づくことにした。
ただ、窓辺で何かしている彼女の横顔を眺めるだけで心が満たされていく。自分はそれでよかった。
とうとう彼女の窓辺のすぐそばまできてしまった。
来てしまったのはいいが、間近に近づけばさすがに彼女も無視する事はできない。
ある日、彼女は水晶をはめ込んだ窓を開けた。
「…えっと?」
「…………」
窓辺で裁縫をしている彼女は遠慮がちに見上げた。
「あなたは…だれ?」
「………」
「名前は?」
「なま、え…?」
「よかった、おしゃべりできるのね」
彼女は安堵の表情を浮かべて、微笑んだ。その微笑みだけで痺れに支配されてしまう。
しかし、その笑みを浮かべた顔に、返す言葉が見当たらないことに胸がズキリと痛んだ。
「あなたは…誰?どうしていつも窓辺にいるの?」
「…名前はない…ここにいるのは…そうだな、説明しようとするととても難しいな」
真剣に考え込む顔を見て彼女は苦笑した。
「名前を訊ねているんだから、私から名乗らないと失礼よね…私はソフィリアよ、あなたは?」
「名前は持っていない」
「…不便じゃないの?」
また少し考え込んだ。不便も何も、これまで名乗る機会も必要もなかった。しかし…
「そうだな…今、名乗る名前がないことに不自由を感じているな…」
「じゃあ、私はあなたの事をなんて呼べばいいのかしら?」
水晶のように清く澄んだ瞳から目を逸らせずに、思考回路が停止して言葉が出てこない。これほど言葉に不自由を感じたことも、これが初めてだ。
「…好きに呼びなさい」
「じゃあ…エーギルって呼んでもいい?」
「好きに呼びなさい」
そういうと、彼女はちょっと面食らって黙ってしまった。これはまずかったかもしれないとあわてて言葉をつけたす。
「…意味は?」
「へ?」
「名前には…意味や思いがあると…聞いた」
彼の言葉を全て聞き届けると、今度は彼女の方があわてて顔を真っ赤に染め上げた。
「えっと、えっと……あのね、エーギルっていうのは…海に住む人の、ことでね」
「うみ?」
「うん、そう、海…、青くて果てのない湖のこと。でもただの湖じゃないの、ただ一つしかないのに、西にも東にも…北にも南にだってあるの!ひとつしかないのにすごいでしょう?!」
「それは…そうだな…それで海にはひとは住めるのか?」
「わからない…けど、あなたのことそう呼んでみたいなって」
「海は好きか?」
「…いつか見てみたい」
その返事では会話がかみ合っていないような気がして首をかしげると、「つまらなかった…?」と悲しそうに彼女が見上げるものだから「そんなことはない」と言い張ってしまう。
「エーギルはどこに住んでるの?なにをしているの?」
「雲の上、で…」
「えっ?!」
その驚きようが可笑しくて、可愛らしくて思わず頬がゆるんでしまう。
「あ…、」
驚いた顔のまま今度は彼女はぽかんと、少し間抜けな顔をした。よくもそんなに表情が変わるものだと感心してしまう。
「どうした?ソフィリア、雲の上に住んでいるのは…そんなに…おかしいか?」
「いえ…変じゃないけど…ホントはとっても変だけど…」
「どっちなんだ」
ソフィリアは首をかるく横に振ってぱちぱちと自分の顔を叩いた、目を覚ますためにする仕草に似ているが少なくとも彼女は寝起きではない。限りなく無限に近い表情の多彩さに、甘い痺れに翻弄される。
「あなたの笑った顔…はじめて見たから、ちょっとびっくりしたわ」
「…?笑っていたか?」
「気づいてなかったの?」
「…では、あなたの…ソフィリアの話は退屈でもつまらなくもないということだな」
もっともらしく頷くエーギルにソフィリアはまた笑う。
彼女は何度も笑うけど、そのたびたびに違うように笑ってみえる。だから笑うたびにうっとりと見惚れてしまう。
「エーギルは雲の上に住んでいるの?雲の上なんかに住めるの?」
「事実私は住んでいるのだから、住めるのだろうな」
「私でも住める?」
「それは分かりかねる、ソフィリアは翼をもっていないだろう?」
彼女は今度こそ驚きに言葉をなくし、何度も瞬いた。光りのまぶしさに瞬くのによく似ていた。
「ソフィリア?」
「あなたには…エーギルには…翼があるの…?」
「ある」
「そ、それじゃあ…あなたは人ではないの?」
「そうだ」
率直すぎる答えにソフィリアは瞬きと浅い呼吸を繰り返した。
「エーギル…あなたこんなところにいては駄目だわ…」
「駄目…?ソフィリアの話を聞いていたいのに?あなたの声をもっと聞いていたいのに?」
言葉を覚えたばかりの子どものように心の感じるままをためらうことなくぶつけられると、耳まで熱くなる。わけもなく鼓動が速くなるのを自覚した。
ソフィリアの話を聞いてくれる人、聞いていたいと言ってくれる人…いつか見てみたい景色の名前で呼んだ人………。
「エーギル…あのね…」
「ソフィリア、いつかみたい景色があるのなら教えて欲しい、先に探して…連れて行きたい」
窓の外を眺めていた。
見えない海を外の景色に重ねて思い描いていた。
自分の体は他人よりも弱くて、走る事も出来ないけれど…ここで生きることを許してもらっている。
生活の面倒は見てくれているけれど、誰にも必要とされたことは無い。
必要なものだけを与えられて、ここに置いてほったらかされて、ただ窓の外を眺めていた。
そうだ、私は彼が、エーギルが窓の外にみえたあの日から、ずっと胸を躍らせて…彼が窓辺へ来てくれるのを待っていたんだ。
海神の名前があきらかになりましたね!
彼が名前を名乗らない理由や、彼が海に恋焦がれる理由がこれから少しずつ彼らの言葉で紡がれていきます!
今回も読んでくださってありがとうございます!
では次話も乞うご期待☆