式神の刃
柴田の指が、三つ目の窪みの真上でピタリと止まった。
彼の手を止めたのは、背後から聞こえた「異様な音」だった。
——チャプッ、チャプッ。
血の海を踏みしめる、ひどく規則的な水音。巨大歯車が鼓膜を劈く轟音を立てているこの空間で、通常の足音など聞こえるはずもない。だが、その足音はあまりにも「異質」だった。
リズムが、狂おしいほど安定しきっているのだ。よろめきも、足を引きずる気配もない。それはまるで、無傷の人間が平坦な廊下を歩くような、完璧に均等な足取りだった。
柴田が、ゆっくりと振り返った。
そこに、私がいた。
私は血の池のど真ん中に、真っ直ぐに立っていた。柴田は箱にチップを入れるのに集中していたため、私が床から立ち上がる全工程を見ていない。彼が振り返った時、私はすでに二本足で直立していた。
首に巻かれたガーゼの隙間からは、まだドクドクと血が滲み出ている。暗赤色の液体がガーゼを飽和させ、鎖骨を伝い、胸と両腕を赤黒く濡らしていた。私が倒れていた場所から現在位置まで、金属の床には真っ直ぐな血の足跡が十歩分、点々と続いている。
まるで、血溜まりの中から這い上がった死体が、そのまま歩いてきたかのように。
私の顔には、一切の「表情」がなかった。
脳の基幹システムが書き換えられた結果生じた、真の意味での「空洞」。眉はピクリとも動かず、口角は緩みきり、瞳孔のサイズも一定。顔面のすべての筋肉が、完全に弛緩した静止状態にあった。
頸動脈を切り裂かれ、血を流し続けている人間の顔に、こんな表情が浮かぶことは絶対にあり得ない。なぜならこの弛緩は、すべての痛覚シグナル、死の恐怖による反射、そして『俺は死にかけている』という認知そのものが「ゼロ」になって初めて成立するものだからだ。
柴田の指先が、窪みの上でわずかに震えた。
コンマ二秒で即座に抑え込まれた、極小の震え。だが、それは確実に起きた。第十区の底辺で何百という人間を殺してきた冷酷な監督者が、『自らの手で頸動脈を斬り裂いた相手が立ち上がり、歩いてきた』という物理的バグを前にして、指を震わせたのだ。
「テメェ……」
一言だけ発し、次の言葉が彼の喉の奥で詰まった。
私の目が、彼を見つめていた。
だが、その「見方」が違ったのだ。柴田はこれまで、人間のあらゆる目つきを見てきた。恐怖、憎悪、絶望、狂気、諦観。それらを正確に分類し、相手の次の行動を予測して完封してきた。恐怖する者は命乞いをし、憎悪する者は無謀な突撃をし、絶望する者は抵抗を放棄する。
しかし、私の目つきは、彼が知るどのカテゴリーにも属していなかった。
私の瞳の奥にあるもの——あるいは「決定的に欠落しているもの」——が、彼がこれまでの修羅場で培ってきた経験則を完全にエラーに陥れた。
今の私の認知フレームにおいて、目の前にいる「柴田」と、その傍らで回っている「巨大歯車」の間には、何の違いもない。どちらも『視界の一定の体積を占め、一定の質量を持ち、何らかの物理的挙動を行っている物体』に過ぎないのだ。
その視線が、柴田の強靭な心理障壁に決定的な亀裂を入れた。
彼は狂人を見たことがある。死を恐れない者も、拷問で自我が崩壊した肉人形も見てきた。だが、『意識が完全にクリアな状態で、目の前の自分を「自分と同じ生き物」としてすら認識していない目』を持つ人間に、彼は出会ったことがなかった。
「……あり得ねェ」柴田の声が、ようやく喉から絞り出された。彼の視線は、私の首のガーゼ——致命傷を隠す薄っぺらな布——に釘付けになっていた。「頸動脈だぞ。俺が斬ったのは頸動脈だ。テメェは——」
『もう死んでいるはずだ』という言葉は、最後まで続かなかった。
なぜなら、私がさらに一歩、前へ踏み出したからだ。
靴の裏で血が粘つく不快な音が鳴る。速くはないが、極めて安定した一歩。歩行によるわずかな振動で、首の傷口から再び暗赤色の液体が滲み、ガーゼの染みを広げていく。
柴田の右手が、反射的に日本刀の柄を掴んだ。
「来るな」
声は冷徹さを取り戻していたが、その奥底には、今まで彼が決して見せたことのない成分が混じっていた。『防衛本能』だ。それは上位者からの命令ではなく、「ここから先に入ってくるな」という絶対的な線引きだった。
私は、止まらなかった。
二歩。三歩。
チャキッ、と。柴田が刀を抜いた。
だが、即座に斬りかかってはこない。身体の前で刀を水平に構え、切っ先を私に向けたまま牽制している。磨き上げられた刃の表面に、血まみれで蒼白な私の姿が映り込んでいる。深紅の光に照らされたそのシルエットは、どう見ても生きている人間のそれには見えなかった。
彼は待っているのだ。私が何らかの「予測可能な行動」——攻撃、逃走、崩壊、あるいは命乞い——を起こすのを。どれでもいい。私を彼の『人間の行動分類フォルダ』に再び押し込めるための、何らかのリアクションを。
私は、柴田から四歩の距離でピタリと足を止めた。
そして、彼の予測を根底から裏切る行動に出た。
右手をスッと前へ伸ばし、手のひらを上に向ける。そこにある「三枚のチップ」を、彼に見せつけた。
「終局の箱」私は言った。声は掠れ、失血による声帯への血流不足で酷くひび割れていた。「あの中に何が入っているか、俺は知っている」
柴田の瞳孔が、わずかに収縮した。
これは賭けだ。残り10%のライフを全額ベットした、不完全な情報に基づくブラフ。
第一フェーズで二回箱を開けたことで、「魂の共鳴」のパッシブスキャナーが、このゲームアイテムのデータ周波数にある程度チューニングされていたのだろう。首を切られたあの極限状態でも、能力は断片的な情報を自動で掻き集めていた。
データは不完全だったが、盤面をひっくり返すには十分だった。
『アイテムスキャン:終局の箱』
『内容物:【データ欠損】』
『内容物のドロップ率:100%。チップ3枚投入後、確定で排出』
『追加ルール(確定):開封者に「死亡判定」が発生する。なお、本ゲームにおける死亡判定は【今回は命中しない】。死亡判定が命中した場合、回避は不可能——【データ欠損】——』
『十二支の牌の仕様:【所有権リンク】——最初に物理接触を果たしたプレイヤーに永久バインドされる。譲渡不可——【データ欠損】——』
開封者の死亡確率は16.66%(六分の一)。回避不能。
そして、『今回はハズレ(死なない)』。
さらに重要なのが——クリア報酬である「十二支の牌」は、最初に触れた者にバインド(所有権が固定)されるというルールだ。
この二つの情報を組み合わせることで、極めて強固なロジックが組み上がる。
柴田は箱を開けてクリア報酬が欲しいが、開けた瞬間に六分の一の確率で即死するリスクがある(実際には死なないのだが、彼はそれを知らない)。そして、報酬は「最初に触れた者」に固定される。
つまり、柴田が『誰かに代わりに箱を開けさせて死のリスクを回避し、中身だけを奪う』という安全策を取ろうとしても、身代わりの肉人が箱を開けて中身に触れた瞬間、報酬はその肉人の所有物になってしまい、奪うことができなくなるのだ。
ハイリスク・ハイリターン。リスクを背負って開けた者だけが、報酬を得られるシステム。
柴田は、過去の経験からすでにこのクソみたいなルールを知っているはずだ。先ほどの部下とのやり取りを見るに、彼の戦略は間違いなく『自分で開けて、六分の一の即死を気合いで引かないことに賭ける』というものだった。
だが、いずれにせよ一つだけ確定している事実がある。
「私が先に箱を開ければ、クリア報酬は私にバインドされる。その後で柴田が私を斬り殺したとしても、バインドされた報酬は決して奪えない」ということだ。
これが、私の手札だ。
「……中身を知ってるだと?」柴田の声は平静を取り戻していた。否定もしなければ、どうやって知ったのかと追及することもしない。彼が指定した箱を拒否し、腕を串刺しにされても顔色一つ変えず、頸動脈を斬り裂かれた後に立ち上がる男を前にして、彼は私の行動を「常識」で推し量ることを完全に放棄したのだ。
「テメェは死ぬぞ。開けた後にな」
私の顔面には、読み取れるような微細な表情は何一つ浮かばなかった。
痛覚という概念を消失して以来、顔の表情を作る情動の反射回路が物理的に断線しているのだ。嘘をつく緊張で瞳孔が開くことも、焦りで呼吸が浅くなることも、無理に作った笑顔のせいで口角が非対称に引きつることもない。
私の顔は今、完全にフォーマットされた純白のキャンバスだ。何も書かれていないのだから、どんな読心術のプロだろうと何も読み取れない。
柴田は、無言で私を睨みつけた。
「確率は六分の一、だ」私はその数字を口にした。私の指が、三枚のチップを転がす。「しかも今回は、その六分の一が『命中』する」
私は、嘘をついた。
魂の共鳴が弾き出したデータの中にあった【今回は命中しない(死なない)】という絶対的なコア情報を隠蔽し、真逆に捻じ曲げたのだ。
もちろん、パッシブスキャンの精度は低い。データ自体が間違っている可能性もある。
だが、私が賭けているのは「データが正しいかどうか」ではない。「柴田がそれを信じるかどうか」だ。
「……なぜ、今回命中すると分かる」柴田の声に、微細なヒビが入った。
恐怖ではない。彼は恐怖に支配されるほど柔な男ではない。だが、完璧な均衡を保っていた決断の天秤に、突如として見えない巨大な分銅を乗せられたような、強烈な「不確実性への忌避感」が滲んでいた。
「賭けるか?」私は問いかけた。「第十区の最底辺から今の地位に這い上がるまで、どれだけの血と時間を費やした? それを今、たった六分の一の確率に——『全額ベット』するつもりか?」
柴田の呼吸が、ピタリと止まった。
彼の頭の中に終局の箱に関するどんなデータが入っているか、私には分からない。だが、一つだけ確信していることがある。
柴田はこれまで何度もゲームを生き抜いてきた。ルールの裏側やトラップの仕様について、一般の肉人より遥かに膨大な知識を持っている。だからこそ、「お前の頭の中の情報をすべて読んだ」という私のブラフは、それが真実かどうかではなく、『柴田自身がそれを検証できない』という点において絶対的な破壊力を持つ。
どうやって検証する? 私の頭を叩き割って、私が何を読んだか確かめるか?
「選択肢は二つだ」私は淡々と告げた。「一つ。お前が自分で開ける。そして六分の一を引いて、ここで死ぬ。賭けたいなら止めない」
「二つ目は——」
「俺が、開ける」
柴田は、五秒間、私を射殺すような目で見つめ続けた。
彼の視線が、私の顔、首の致命傷、そして手の中にある三枚のチップを高速で往復する。彼は「綻び」を探していた。だが、見つかるはずがない。痛覚と死の恐怖をデリートされた人間が吐く嘘は、生理学的な反応において「真実」とまったく区別がつかないのだから。彼にとって私は、感情も表情も脈拍の乱れも読み取れない、完璧なエラー・オブジェクトだった。
「——柴田の兄貴」
背後から、一人の黒服が歩み出た。先ほど小指を切り落とされた男だ。切断面からはまだ血がポタポタと滴っているのに、彼は痛みの声一つ漏らしていなかった。左腕に彫られた黒い茨の刺青が、赤い照明の下で凄まじい迫力を放っている。彼は腰を深く折り、柴田の耳元で低く囁いた。
「俺が開けやす。この命、元々兄貴に拾ってもらったモンです」
柴田が、ハッと振り返る。
「無駄だ。報酬は最初に触れた者にバインドされる」私は冷徹に会話を遮った。
全員の視線が、一斉に私に突き刺さる。
「箱を開けた者が、中身に最も早く触れる」私は事実だけを述べた。「蓋が開いた瞬間、中身が露出する。その時、開けた人間の手が箱の真上にある。物理的に最短距離だ。別の誰かを身代わりにして開けさせれば、クリア報酬はその身代わりになった人間に強制的にリンクされる」
柴田は、部下たちの方を見なかった。
ずっと、私を見ていた。
彼の視線の「質量」が、これまでのどの瞬間よりも重く、濃密になったのを感じた。私の言葉の真偽を分析しているのではない。「私という人間そのもの」を解剖しようとしている目だ。
頸動脈を斬られてもなお直立し、対等に交渉を仕掛けてくる男。すべての致死トラップをくぐり抜けてきた男。痛みと血への恐怖を喪失し、不気味なほどの空洞な目で自分を見つめ返してくる男。
「……ふざけんな。兄弟の命の方が重てェんだよ! 報酬なんかどうでもいい! ここをクリアできりゃそれでいいんだ。テメェが開けろ!」
柴田は、私に向かってそう怒鳴ったのではなかった。
私の身代わりになって箱を開けようとした部下——指を落とされても決して悲鳴を上げず、決死の覚悟を決めている茨の刺青の男——に向かって吐き捨てたのだ。
「兄貴、俺は——」
「黙れッ!!」柴田は部下の肩をドンッと突き飛ばした。全力ではないが、明確に「箱から遠ざける方向」へ突き飛ばした。「テメェが昔、路地裏で三人にドスで囲まれた時、俺が石原と一緒に飛び込んでテメェを背負って逃げたよな。俺はあの時、二十七針も縫ったんだぞ。テメェがこんな得体の知れねェ箱の前で犬死にしたら、俺の二十七針が無駄になっちまうだろうが!!」
茨の刺青の男が、何かを言いかけて口を噤んだ。その目が真っ赤に充血していた。指を切り落とされた激痛からではない。
「兄貴……」
「全員、下がれ」柴田は振り返り、五人の部下たちと正面から向き合った。声は落ち着きを取り戻していたが、そこにある温度は、先ほどの事務的な冷酷さとは全く異なっていた。極道の「重み」があった。「お前ら五人、誰一人としてあの箱には触るな。分かったな」
五人の部下たちが、一秒間、重い沈黙に包まれた。
やがて、石原と呼ばれた金属の義手を持つ男が、静かに口を開いた。
「……兄貴、ルールは六分の一です」石原の声は低かった。彼の金属化していた前腕はすでに生身の肉体へと戻っており、無数の古傷に覆われた腕が露出している。彼は茨の刺青の男のように感情を剥き出しにはせず、一言一言を噛み締めるように遅いテンポで言った。「俺たち五人が、それぞれ単独で一つずつ箱を開ければ、六分の一の確率は分散できます。ですが、もし兄貴が——」
「『もし』はねェ」柴田がピシャリと遮った。「触るなと言ったら、触るな」
石原は口を閉じた。だが、その両拳がギリッと強く握り込まれた。
柴田が、再び私へと向き直った。
彼の表情は、このわずか十数秒の間に劇的な変遷を遂げていた。異常な存在(私)を分析する冷徹な目から、部下の義侠心に触発された激情へ、そして今——すべてを腹に収め、完全に覚悟を決めた「静寂」へと。
だが、その静寂は以前の彼が被っていた仮面とは違う。第十区の底辺で感情を殺すために作り上げた冷血な外殻ではなく、極道としての「決断」を下した後の、絶対的な安定だった。
「テメェが開けろ」彼が言った。「クリア報酬の牌は、三枚ともテメェのモンだ。その代わり、副賞のチップ二十枚は俺がもらう」
一拍置き、柴田の口の端がフッと吊り上がった。それは、ヤクザ特有の投げやりでブラックなユーモアを含んだ、不敵な笑みだった。
「チップ二十枚ありゃ、テメェが死んだ後、少しはマシな棺桶を見繕ってやれる。この底辺じゃ、死体はドブに放り投げられるだけで、ボロ布一枚掛けてもらえねェからな。テメェが俺の身代わり(鉄砲玉)になってこの大博打を打ってくれるんだ。柴田は恩知らずじゃねェ。最低でも——」
彼は自分の胸ポケットをポンと叩いた。血まみれのキーがチャリンと鳴る。
「最低でも、上等な鉄板くらいは被せてやるよ。ドブネズミに囓られねェようにな」
その言葉に、嘲りの色は一切なかった。彼は本気だった。
彼のロジックの中では、私が箱を開ければ『確定で死ぬ』ことになっている。
『お前が俺の代わりに死ぬ。なら、お前の死に様は俺が最低限保証してやる』。
これが、柴田という男の「仁義」だった。歪みきった、残忍な、絶対的暴力のヒエラルキーの上にしか成り立たない掟。——だが、それは紛れもない本物だった。
「交渉成立だ」私は短く答えた。
終局の箱へと歩み寄る。
右手に握り込んでいたチップを一枚ずつ、三つの窪みへとセットしていく。
カチャッ。カチャッ。カチャッ。
箱の表面を這い回っていた暗赤色の光の紋様が、突如として脈打つ速度を上げた。
『3枚の生存チップの投入を確認。終局の箱を起動します』
『死亡判定:ルーレットを実行中——』
視界のど真ん中に、ホログラムの巨大なサイコロが出現した。深紅の六面体が、三秒間、目にも留まらぬ速度で回転し——
ピタリ、と停止した。
上を向いた面——【5】。
『死亡判定結果:セーフ(生存)』
『カウントダウン:10:00。制限時間内に当エリアから退出してください』
生き残った。
最初から、分かりきっていた通りに。
箱の四面の外装が、ガシャンと外側へ開いた。
上段のトレイには、鈍く光る「十二支の牌」が三枚。下段のトレイには、生存チップが二十枚。
私は右手を伸ばし、三枚の牌すべてをガシッと鷲掴みにした。
三筋の氷のような冷たいエネルギーが、手のひらを突き抜けて骨の髄まで浸透してくる感覚。右腕がビクッと一度痙攣した。
三枚の牌——癸子、癸丑、癸寅。今、そのすべての所有権が私にバインドされた。
柴田は、四歩離れた場所から動かなかった。
日本刀の柄に手をかけたまま、彼の視線は私の顔に——正確には、まだ五体満足で立っており、瞳孔もハッキリと焦点を結んでいる私の「目」に、真っ直ぐに注がれていた。
彼の表情に、この瞬間、決定的な「崩壊」が訪れた。
困惑。純度100%の、理解不能な事態に対する困惑。
完璧に組み上げたはずの数学の公式が突如として破綻し、何度変数を入れ直して再計算しても、絶対に答えが合わなくなった時の、あの完全なパニック。
彼は、すでに私という存在の「精算」を終えていたのだ。
頸動脈からはまだ血が流れ続け、肉体は極限状態。たとえ箱の即死判定をすり抜けたとしても、失血でもう数分と保たないはずだ、と。だから棺桶の手配まで律儀に約束した。
だが、私はここに立っている。クリア報酬の牌を三枚とも手にして。生きて。
彼が、ハッと振り返った。いや、身体ごと振り返ったのではない。
瞳孔がかすかに脈動し、視線が私の顔から外れ、何もない中空の一点にピントを合わせ、また私の顔へと戻ってきた。
それは、脳内の記憶を限界速度で巻き戻し(リプレイ)している人間の、典型的な眼球の動きだった。
彼は、私が放った一言一句をリワインドし、検証していたのだ。
『開けた後、お前は死ぬ』——彼はこれを信じた。私の表情、呼吸、発汗、すべての嘘発見器が完全にフラットだったから。
『今回は、死の判定が命中する』——これも信じた。同じ理由だ。
だから彼は私に箱を開けさせ、仁義として棺桶まで約束した。
そして、箱が開いた。死亡判定はハズレた。私はピンピンして生きている。クリア報酬はすべて私に所有権が固定された。
彼は、その論理チェーンの「断層」を必死に遡り、そして——
見つけた。彼が決定的なミスに気づいた瞬間を、私はこの目で見た。
柴田の瞳孔が、限界まで針のように収縮した。唇がワナワナと震え、声を出さずに口の形だけで、一つのフレーズを反芻した。読唇術など必要ない。彼が何を言ったかは痛いほど分かった。
『必ず死ぬと分かっているのに——なぜ自ら開ける?』
これこそが、絶対的な矛盾だった。
もし私が本当に「自分が開ければ100%死ぬ」と信じ込んでいたなら、なぜ自ら進んで開封を申し出たのか?
絶対に死ぬ人間が、クリア報酬を手に入れて何の意味がある? 所有者が死ねば報酬は回収フェーズに戻るだけで、私には何のメリットもないはずだ。
私が自ら箱を開けに行った理由が成立するのは、たった一つの条件下においてのみ。
『自分が絶対に死なないことを、最初から知っていた場合』。
『今回は死の判定が命中する』という私の言葉が、真っ赤な嘘だった場合。
最初から最後まで、私が彼を完全にペテンにかけていた場合のみ。
柴田の表情が、完全に一変した。
亀裂が入った程度ではない。彼が被っていた分厚い仮面が、内側から爆破されたように粉々に砕け散ったのだ。
第十区の底辺で長年かけて築き上げた『すべては自分の掌の上にある』という絶対的支配者の自負が、『名もなき最底辺の肉人に、まんまとコケにされた』という事実によって木端微塵にされた。
粉砕された仮面の奥から露わになったのは、ひどく混沌とした感情だった。
激怒。屈辱。己の判断ミスに対する愕然とした自己否定。
そして——そのさらに奥底にある、もっと根源的なもの。
『恐怖』だ。
私という一個人の暴力に対する恐怖ではない。私が象徴する「規格外の異常性」に対する恐怖だ。
頸動脈を斬られても平然と立っている男。微細な表情一つ顔に浮かべない男。空洞の目で相手を見透かす男。そして、百戦錬磨の自分の目の前で、心拍数一つ乱さずに完璧な嘘をつき通した男。
柴田はこれまで、人を観察し、人を操り、反抗する者を徹底的な暴力で踏みにじることで、この底層の秩序を維持してきた。
だが、彼の手法はすべて「人間は必ず読み解ける」という大前提の上に成り立っていた。恐怖する者は震え、痛みを感じる者は悲鳴を上げ、嘘をつく者は必ずどこかに隙を見せるという法則。
私は、その法則を根底から破壊したのだ。
「テメェ……」柴田の声が、ギリギリと歯の隙間から絞り出された。一音一音に、錆びた金属をこすり合わせるような強烈な殺意がこもっている。「俺を、ハメやがったな」
「ああ」私は答えた。
否定しなかった。言い訳もしなかった。場を和ませるような弁明も一切口にしなかった。
この土壇場において、嘘を重ねることに何の意味もない。それよりも遥かに重要なのは、『自分が相手をペテンにかけた事実を、堂々と認めること自体が、最大の武器になる』という点だ。
俺はお前を完全に騙し切った。しかも、お前の目の前でそれを平然と認めてやる。その事実が、相手のプライドと理性を限界まで削り取るのだ。
柴田の右手が、刀の柄の上でだらりと脱力していた状態から、爆発的な力で柄を握り込む動作へと切り替わった。指の関節がメキメキと鳴る。
「……石原」彼が低く呼んだ。
「はいッ」義手の黒服が即座に応える。
「そこの二十枚のチップを拾え。そして、兄弟たちを連れてここから出ろ」
石原の動きが、ピタリと一秒間停止した。「兄貴——」
「俺がやる」柴田が、刀を抜いた。
その抜刀音は、これまでのどの抜刀とも異なっていた。儀式的なタメも、優雅な演出も、わざとらしく刃鳴りを響かせるような虚栄も一切ない。
刀が鞘から滑り出るそのコンマ数秒のプロセスは、まるで呼吸の合間に無意識の溜息を吐き出すように、極めて短く、完全なる無音だった。純度100パーセントの、効率的な「殺意」。
「兄貴!」茨の刺青の男が、一歩前へ飛び出した。「俺たちも一緒に——」
「行けって言ってんだろうがッ!!」柴田が咆哮した。
それは敵に向けた怒声ではない。身内に向けた怒声だ。
彼は、自らの手で兄弟たちを強引に引き剥がそうとしていた。これから起きる惨劇が、自分一人のエゴによる「私闘」であることを確実にするために。
五人の黒服たちの表情が、その瞬間、一斉に複雑に歪んだ。
石原がギリッと拳を握りしめた。金属の義手に青白い回路の紋様が一瞬だけスパークし、すぐに消える。茨の刺青の男は目を真っ赤に充血させ、切り落とされた小指の断面からポタポタと床に血を落としている。特殊な軟剣(ムチのようにしなる剣)を構えていた男は、静かに剣を丸めて鞘に収め、完全に戦闘態勢を解除した。掌の上で圧縮空気の球を練り上げていた男も、フッと能力を解除する。
最後に動いたのは、石原だった。
彼は無言のまま終局の箱の前に歩み寄り、下段のトレイから二十枚のチップを無造作にポケットへと突っ込んだ。そして柴田の正面に立ち、足を止める。
二人の視線が、一秒間だけ交錯した。
石原が、わずかに顎を引いた。深いお辞儀ではない。数度だけ頭を下げただけだ。それは声を出さない、極限状況における極道たちの最も簡潔な「別れの儀式」だった。
柴田も、石原よりもさらに浅い角度で、顎を引いてそれに応えた。
石原が踵を返した。残る四人の部下たちがそれに続き、出口の通路へと向かって歩き出す。
茨の刺青の男が、私の横を通り過ぎる際、ピタリと一歩足を止めた。
殴りかかってくるか、突き飛ばされるか、最低でも呪詛のような悪態を浴びせられるかと思った。
だが、彼は何もしなかった。ただ、私をジロリと一瞥しただけだった。
その一瞥に、単純な憎悪はなかった。極限まで圧縮された、名状しがたいほど重く、複雑な感情の塊。
そして彼は去った。
五人分の革靴の足音が順番に遠ざかり、やがて通路の奥へと完全に消え去った。
広大なホールには、三人だけが残された。
私。柴田。そして、重傷を負って壁際で膝をついているアミール。
頭上では、巨大な歯車が狂ったような轟音を立てて回り続けている。
柴田は、四歩離れた場所で刀を正眼に構えて立っていた。
剥き出しの日本刀が、深紅の光を照り返している。刀身に純白の光の紋様はない。式神のエネルギーの奔流も感じられない。彼は、式神を召喚しなかった。
必要がないと判断したのか。それとも、己の能力(式神)すら介在させたくないほど、この殺戮を「自分個人の手」で終わらせたいのか。
「……テメェの頸動脈は、俺が斬った」柴田が口を開いた。声は不気味なほど静かだった。台風の目の中のような静けさ。表面上は凪いでいるが、その境界線のすぐ外側には、すべてを粉砕する破壊のエネルギーが凝縮されている。「今も血は流れ続けている。今は意地で立っていられても、五分後には地面を這いずり回っているはずだ」
彼は刀の切っ先を、真っ直ぐに私の喉元へと突きつけた。
「俺から殺しに行く必要はねェ。あと一箇所、どこか適当な血管を裂いてやるだけでいい。テメェの身体には、もうそれ以上流すだけの血は残っちゃいねェんだからな」
彼の言う通りだ。現在のライフは10%——いや、この数分間で8%まで落ち込んでいるかもしれない。これ以上の追加の出血は、間違いなく私のライフを即座に「ゼロ」にする。
アミールは私の左斜め後ろ、およそ三歩の距離にいる。
振り返らなくとも、彼の状態の悪さは背中で感じ取れた。第二フェーズのトラップで負傷した右肩、歯車に抉り取られた背中の肉、そして折れた肋骨が肺を圧迫するヒューヒューという不規則な呼吸音。
だが、彼の腰にはまだ「工業用ネイルガン」が隠されている。改造された致死の金属杭は、まだ銃身の中で眠っているはずだ。
もし柴田が突っ込んできた場合、アミールが私の最後の防衛ラインとなる。
そして、柴田もそれに気づいていた。
柴田の視線が私の左肩をスッと掠め、背後のアミールをコンマ数秒だけ捉え、再び私へと戻ってきた。
「テメェの後ろでヒィヒィ言ってるそのデカブツ」柴田は冷たく言った。「最初から最後までテメェの盾になってたな。そいつ、腰に何か隠し持ってるだろう——工事現場用の『ネイルガン(釘打ち機)』か? 俺の部下どもはあんな廃品には見向きもしなかったが、俺の目は誤魔化せねェ。テメェらがここに入場してきた時から、そいつの腰のラインは不自然に歪んでいた。左側が右側より二センチ低く、重い鉄の塊がぶら下がっているシルエットだったからな」
その凄まじい観察眼に、私は背筋が——いや、もはや悪寒を感じる機能は喪失している。だが、「理性の回路」の中で強烈なアラートが鳴り響いた。
柴田は、アミールが武器を隠し持っていることを『最初から知っていた』のだ。知っていて、これまで一切警戒する素振りをしなかった。
それはつまり、彼の中で工業用ネイルガンの脅威度が「取るに足らないレベル」だと評価されていることを意味する。射程が短く、初速が遅く、貫通力に限界がある廃品兵器など、式神と神速の抜刀術を持つ自分にとっては致命的な脅威になり得ない、と。
「石原たちは行った」柴田は深く息を吸い込んだ。胸元の血まみれのキーが、呼吸に合わせてチャリンと揺れる。「ここには俺たちしかいねェ。テメェの命は、今テメェ自身の手の中にある。クリア報酬の牌も、テメェの手の中だ。——だが、一つだけ考えてみたことはあるか?」
柴田は、刀の切っ先で私の目の前の空間を、スッと一突きした。
「——テメェはそれを抱えたまま、本当にここから『生きて出られる』と思っているのか?」




