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ゲームをお楽しみください  作者: Lightver


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致命傷

第二フェーズのゲームは、第一フェーズよりも長く、複雑で、より悪辣だった。

その具体的な過程については、あまり紙幅を割いて振り返りたくない。というより、あの記憶自体がすでに薄いモヤに包まれ始めているのだ。大量の出血による生理的な記憶障害なのか、それとも脳が残酷すぎる映像を強制的にシャットアウトし、残された理性を保護しようとしているのかは分からない。

記憶に残っているのは、断片的な映像の羅列だけだ。

罠だらけの暗黒の回廊。ランダムに床の金属タイルが抜け落ち、その下には絶え間なく回転する肉挽き機のような歯車群が待ち受けている。

五人が同時にプレッシャープレートを踏まなければ開かない隔壁。それを成立させるため、アミールが藤堂の部下たちと極めて短い「一時休戦協定」を結ばざるを得なかったこと。

そして、毒ガスが充満する密室。入り口には密閉型のガスマスクがたった三つしか用意されていなかった。十二人が三つのマスクを奪い合うその狂乱の中で、頬骨を砕かれた者、首を絞められて白目を剥いた者、そして争うことを自ら諦め、防毒マスクなしで毒ガスの霧の中へ歩み入り、二度と出てこなかった者がいた。

アミールは、終始私のそばから離れなかった。

彼は一般の肉人を遥かに凌駕する体力と格闘センスで、本来私が受けるはずだった致命傷を少なくとも三度は肩代わりしてくれた。彼にとって「私を保護すること」の優先度は、自分自身の身を守ることよりも明確に高かった。

毒ガスの密室では、彼はマスクを一つ奪い取るや否や、それを強引に私の顔に被せたのだ。彼自身は濡らしたボロ布で口と鼻を塞ぎ、限界まで息を止めて最後まで耐え抜いた。密室を抜けた後、彼は五分間も激しく咳き込み、吐き出した痰にはべっとりと血が混じっていた。

なぜ、数時間前に出会ったばかりの人間に、ここまでの代償を払えるのか?

その疑問は、私の脳内に新設された「理性の回路」の中で何度も演算されたが、答えは出なかった。

唯一確かなことは、彼が守ろうとしているのは「私という人間」ではなく、「私が持っている何か(能力)」だということだ。彼は、私というカードに全張りをしている。私を生かし続けることで得られるリターンが、彼自身が払うリスクを上回るという冷徹な計算に基づいて。

そして今、第二フェーズの最終関門。

生き残ったすべてのプレイヤー——第一フェーズで二十数名いた肉人は、今やたった八名にまで減っていた——が、第一フェーズの時よりもさらに広大な円形のホールへと追い立てられた。

頭上を覆い尽くす巨大な歯車群、深紅のクリスタルが放つ不気味な光源、そして無数の爪痕や窪みが刻まれた黒光りする金属の床。何もかもが同じだ。

だが、ホールの中央に鎮座しているのは、「たった一つ」の箱だった。

暗銀色ではない。光を吸い込むような純黒の箱だ。通常の箱の三倍近い体積があり、高さは大人の背丈ほどもある。表面は滑らかな金属板ではなく、血のように暗赤色の光の紋様がびっしりと走っていた。その紋様は箱の角に沿ってゆっくりと脈打ち、まるで生き物の血管のようだった。

天面には、あの不気味に回転する赤い「?」マークはない。代わりに三つの窪み——生存チップとぴったり同じ直径を持つ、暗金色の円形の窪み——が並んでいた。

無機質なシステムアナウンスが、生き残った八名全員の脳内で同時に炸裂した。

『第二フェーズ最終関門:終局のラスト・ブラックボックス

『開封条件:生存チップ3枚の同時投入』

『箱の内容物:100%の確率で、当第十区のクリア報酬「十二支のトークン」3枚、および生存チップ20枚を獲得。ただし、開封者は16.66%の確率で「回避不能の即死トラップ」の対象となる。なお、箱を開封した者を正規の接触者とみなす』

『警告:本エリアはゲームエリアです。致死的な暴力への制限、および報復ペナルティは一切ありません』

三枚のチップ。

私はポケットを探った。二枚だ。第三ラウンドで手に入れたものと、藤堂組のジョニーから投げ渡されたものが一枚ずつ。第六ラウンドで引いたチップは、柴田に「通行料」として巻き上げられている。

アミールはチップを持っていない。彼はずっと私を守ることに専念していたため、箱を一度も開けていないのだ。

二枚では足りない。あと一枚必要だ。

この場にいる生存者の中で、確実にチップを持っていると確認できるのは、私(二枚)と——柴田だけだ。

第一フェーズで私から徴収した通行料に加え、第二フェーズの道中で死体のポケットから漁った分を合わせれば、奴の手元には少なくとも三〜四枚のチップがあるはずだ。

それはつまり、柴田が単独でこの「終局の箱」を開封できるということを意味していた。

そして事実、彼はそのつもりだった。

柴田はホールに入った瞬間から、他の肉人など一瞥もくれなかった。黒服たちが作る人垣の中央を悠然と歩き、その視線はホール中央の純黒の箱に真っ直ぐに固定されていた。その歩調には焦りも気負いもなく、まるで最初からそこにあると知っていた目的地へ向かうかのようだった。

彼は終局の箱の前に立ち止まると、スラックスのポケットから暗金色のチップを三枚取り出し、指の間に扇状に広げた。深紅の光の下で、チップの金属表面が重々しい光沢を放つ。

「柴田の兄貴、俺がやりやすか?」傍に控えていた黒服の一人が、低い声で尋ねた。16.66%の即死リスクを身代わりしようというのだ。

柴田はその部下を氷のような目で睨みつけた。

次の瞬間、チャキッという鋭い金属音とともに日本刀が振られ、その部下の小指が床にポロリと転がった。

「テメェ、俺を誰だと思ってやがる!」部下の悲鳴を無視し、柴田が吠えた。「前から言ってんだろうが。俺は絶対にビビらねェ。クリア報酬(十二支の牌)は、俺自身のこの手でもぎ取る! それで死ぬなら本望だ! それが極道の、男の生き様ってもんだろうが!」

彼は血の滴る刀を下げたまま、三枚のチップを高く掲げ、箱の天面にある三つの窪みへと近づけた。

だが、そこから一瞬、ピタリと動きを止めた。

柴田はゆっくりと振り返り、群衆を見た。ただ視線を流したのではない。獲物を探す「サーチ」の目だ。生き残った八人の顔を一人ずつ舐め回すように確認し、最後に——私で視線を止めた。

「おい、テメェ」彼が言った。「こっちへ来い」

隣に立つアミールの全身の筋肉が、ギリッと音を立てて硬直したのが分かった。

「テメェの持ってるチップごと、こっちへ来い」柴田は私を真っ直ぐに見て言った。「ジョニーとかいうチンピラの話なんか聞く必要はねェ。藤堂の連中は俺より遥かにタチが悪いぞ。今後は、この俺がテメェの面倒を見てやる」

その言葉が、ホール全体を一瞬の凍りつくような沈黙に陥れた。

柴田は、私を連れて行くつもりだ。

この第十区の最底辺から、上の階層へと。

「……行くな」アミールの押し殺した声が、私の耳元に波のように押し寄せた。

「なぜだ?」

「タダで引き上げるわけがないだろう」アミールの言葉は極めて早口で、一言一言が私の鼓膜に張り付くように響いた。「あいつは第一フェーズの時点で、すでにお前の異常性に気づいている。二回連続で箱から生き延び、あいつの命令を拒否し、腕を串刺しにされても顔色一つ変えなかった。あいつはお前の『利用価値』を計算しているんだ。あそこに行った瞬間、お前はあいつの完全な所有物モルモットにされるぞ」

「だが、俺はこの底辺から抜け出さなきゃならない」

「あいつの犬として抜け出すのと、棺桶に入って抜け出すのに違いはない!」アミールの右手が、私の右腕(無事な方の手首)をガシッと掴んだ。あまりに力が強すぎて、皮膚の下の橈骨とうこつがミシミシと軋むのが分かる。「お前はチップを二枚持っている。俺がどうにかして、あと一枚調達する。この箱は、俺たち自身の力で開けるんだ」

「どこから調達するつもりだ?」

「心配するな。当てはある」

彼の左手が、また無意識の癖のように自身の腰のあたりを掠めた。あのボロ布の裾に隠された、握り拳ほどの長方形の硬い膨らみ。

「来るのか、来ねェのか!」ホールの中央から、柴田の苛立った声が響いた。「三つ数えるぞ」

「一」

アミールの手が、さらにギリッと私の腕を締め上げた。

「二」

「行かない」私は、柴田の方へ向かってハッキリと声を張った。私の声は、広大な金属のホールの中でひどく空虚に、頼りなく響いた。「俺のチップは、俺自身のために使う」

柴田の表情は、ピクリとも変わらなかった。私の目を二秒間無言で見つめ、やがて口の端にほんのわずかな弧を浮かべた。

「……いいだろう」彼が言った。

「いいだろう」と言い終えるより早く、彼の右手はすでに動いていた。

日本刀が鞘から放たれるその速度は、これまでのどの抜刀とも次元が違っていた。

これまでの彼には、刀を抜く際に一種の「儀式的なタメ」があった。ゆっくりと、優雅に、刃鳴りを空気に響かせるような演出的な動作。だが、今回はそれが一切なかった。刀が鞘から滑り出た瞬間、金属が擦れる音すらも極限まで圧縮され、「シッ」という微かな風切り音しか聞こえなかった。

その速さは、もはや「抜いた」というレベルではない。鞘の中にあった刀が、次の瞬間には別の空間に「出現」していた。

柴田の最初の一撃は、私に向けられたものではなかった。

彼は、アミールを斬った。

正確に言えば——彼が狙ったのは、私の手首を強く掴んでいた「アミールの右手」だった。

刃が横から滑り込み、人間の手首の関節の可動域では絶対に防げないような異常な角度——切っ先が一度下に沈み込み、そこから跳ね上がるような軌道で、アミールの前腕の外側(橈骨)を正確に狙い打った。

腕を切り落とすためではない。「握力」を根こそぎ破壊するための非情な一撃だ。

「ッ!」

アミールの左手が猛然と私の胸を突き飛ばし、同時に、私を掴んでいた右手を限界の速度で手前に引き戻した。

かろうじて刃の直撃は避けたものの、切っ先は彼の前腕の外側に十五センチほどの深い裂傷を刻み込んだ。すぐにドクドクと鮮血が溢れ出す。

強く突き飛ばされた勢いで、私は後方へ三歩よろめいた。

柴田は私を追撃しなかった。彼の第一の標的は最初から私ではない。私を守る最大の障壁であるアミールを、まず無力化する腹だったのだ。

私が突き飛ばされたのと同じコンマ数秒の間に、柴田の身体はすでに「第二撃」のモーションに入っていた。

今度の踏み込みはさらに速く、刀身が深紅の光の下で一本の銀色の残像を引いた。彼は一歩深く踏み込み、柄頭を軸にして刀をクルリと回転させると、逆手での極めて低い横薙ぎを放った。標的は、アミールの「膝」だ。

アミールは十分に速かった。第一撃を被弾した直後、即座に全面防御の態勢に入り、重心を落として両腕を盾のように構えていた。

しかし、柴田の横薙ぎはあまりにも低く、速く、そして軌道が狡猾すぎた。アミールは跳躍して刃をかわすしかなく、そして跳んだ瞬間——空中で身をかわす手段(逃げ場)を完全に失った。

柴田が待っていたのは、まさにその「滞空状態」だった。

柴田は左足で床を爆発的に蹴り、アミールが空中に浮いているそのわずかなタイムラグの間に、自身の身体を強引にねじ込ませた。

武器は刀ではない。己の「足」だ。

鋭い前蹴りが、まだ空中にいるアミールの胸骨のど真ん中を、恐ろしいほどの精度で打ち抜いた。

ドゴォッ!!

その蹴りの威力は、柴田のスリムな体格から弾き出される物理法則を完全に無視していた。

蹴りが放たれた瞬間、私は異常な視覚情報を捉えていた。柴田の右手が握る日本刀の刀身に、極めて淡い「純白の光の紋様」が、柄から切っ先に向かって急速に流れ込んでいたのだ。何らかの莫大なエネルギーが刀を媒介にして外部へ出力されているかのように。そして左足が蹴り出された瞬間、彼の足首にも同じ白い光がバチッと一瞬だけ弾けた。

その常軌を逸した蹴りの衝撃が、アミールの胸骨を砕き、脊椎へと一直線に突き抜けた。

アミールの巨体が、空中で完全に「くの字」に折れ曲がった。跳躍のベクトルが強制的にキャンセルされ、水平方向への猛烈な後方ベクトルへと変換される。

彼の背中が、恐ろしい速度で吹き飛び、ホールの壁面で回転し続けている中型歯車に激突した。

ガァァァンッ!!

金属と肉体が激突する重濁音が、ホールの中で三、四秒ほど反響して消えた。稼働中だった歯車が衝撃で一瞬噛み合わせを外し、耳を劈くような金属の軋み声を上げたが、すぐに何事もなかったかのように回転を再開する。

アミールの身体が歯車からズルズルと滑り落ち、金属の床にドサッと重く叩きつけられた。

彼は、動かなかった。

彼の背中には、えぐれたような深い横向きの擦過傷が刻まれていた。回転する歯車の刃が、皮膚と肉を無惨に削り取った痕だ。麻布は完全に引き裂かれ、その下から血まみれの背筋が露出している。

だが、さらに深刻なのは「胸郭」だった。胸骨へのあの一撃は、間違いなく肋骨を複数本叩き折っている。彼が息をするたびに胸の起伏が明らかに非対称で、右胸は陥没したように全く動いていなかった。

それでも、彼はまだ動こうとしていた。

両手を血だまりの床に突き、なんとか上体を起こそうと身悶えする。ゴボッ、と口から大量の血の塊が溢れ出し、金属の床に赤黒い飛沫を散らした。

ここまでの攻防、全体でわずか四秒。

柴田が抜刀してから、アミールが歯車に叩きつけられるまで、たったの四秒しか経っていない。

この四秒間、私は指一本動かすことができなかった。

脳内の「理性の回路」は、柴田が抜刀した最初のミリ秒で、完全にオーバーフローを起こしてフリーズしていたのだ。彼の速度、刀の軌道、そしてあの蹴りに付随していた異常な発光現象。それらの情報の密度と複雑さは、私の処理能力の限界をはるかに突破していた。

柴田がゆっくりとこちらへ向き直った時、私は無意識に二歩、後ずさりしただけだった。

そして、彼の刀が来た。

その一太刀は、無音だった。

風を裂く音も、金属が空気を切り裂く鋭い唸りもない。刃が空気を通り抜ける軌跡は、肉眼では追いきれないほど滑らかで、静かだった。

右下から左上へ、スッと一本の銀色の残像が走ったかと思うと、それが私の「首の右側」を通り過ぎた。

「通り過ぎた」。そう表現するしかない。

なぜなら、その太刀筋があまりに速すぎて、「今まさに首を切り裂かれている」というリアルタイムの痛覚情報を処理することすら、脳に許されなかったからだ。

私の意識が『たった今、何かが首に触れた』という遅延シグナルを受信したのは、刃がすでに切断のプロセスを終え、私の皮膚から完全に離れた後だった。

そして、血が来た。

それは、直接的な「噴射」だった。

極めて細く、強烈な圧力を持った鮮烈な赤い血の柱が、私の首の右側からプシュゥッ! と音を立てて噴き出した。

その軌道と角度は精密な噴水のように美しく、破裂した高圧ホースから吹き出す水流そのものだった。血柱の射程は恐ろしく長く——少なくとも一・五メートルは飛び——正確に私の背後にある金属の壁を直撃した。暗赤色の液体が錆びた壁にぶちまけられ、無数の蛇行する赤い川となって床へと流れ落ちていく。

頸動脈だ。

奴が切断したのは、私の頸動脈だ。

【ライフ:10%(-55%)】

視界のど真ん中で、鮮烈な赤いデジタルの数字が狂ったように明滅した。

10パーセント。さっきまで65%あったライフが、一瞬にして10%まで激減した。私の生命力の半分以上が、たった一太刀で文字通り「蒸発」したのだ。

身体が、急速に連鎖的なシステムダウンを始めた。

血圧の急激な低下により、まず両足の筋肉が完全に通電を絶たれたように力を失う。一秒と保たず膝が折れ、私は金属の床にガクンと跪いた。

視界が急速に暗転していく。照明が落ちたのではない。網膜への血流供給が絶たれたことで視覚信号の処理速度に強烈なラグが生じ、周囲の景色がすべてピンボケしたスローモーションのように見え始めたのだ。

聴覚も遠のいていく。頭上で鳴り響いていた巨大歯車の轟音が急速にフェードアウトし、誰かが世界のボリュームつまみを無段階で絞っているかのようだった。

頸動脈の切断。

人間の生理学的な常識に従えば、主要血管の破裂から失血性ショック状態に陥るまで、およそ十〜十五秒。ショック状態から脳死に至るまでは、血流の遮断度合いにもよるが、最速で一分もかからない。

私は、死にかけている。

その認識だけが、奇妙なほどクリアに脳内に浮かんでいた。

死にかけている。あと十数秒。ショック状態。そして脳死。

これらの情報が、まるで他人のカルテの所見を読むかのように、急速にブラックアウトしていく意識の表層に整然と並べられていく。そこには明確な論理と条理があるだけで、「感情」はゼロだった。

痛覚という概念は、すでに生贄として捧げられている。「恐怖」という感情が拠り所とする足場は、もう私の脳には存在しないのだ。

首の致命的な傷口は、私の知覚の中ではただの『赤い液体が高速で流出している物理的な切り口』に過ぎず、いかなる生理的アラート(痛みや焦り)も伴わなかった。

心拍数は爆発的に跳ね上がっていた。これは自律神経系の自動プロトコルであり、意識でコントロールできるものではない。だが、この心拍の加速が私にもたらすのは「死の恐怖による胸の締め付け」ではなく、ただの冷たいデータの羅列だった。

『現在、心拍数上昇中。目的:脳や心臓など中枢器官への血流圧を維持するため。しかし、主要な供給ルート(頸動脈)が破裂しているため、この代償システムは完全に無効エラーである』

無効。

私は死ぬ。あと十秒。いや、八秒か。

柴田は、すでに刀を鞘に収めていた。

跪く私を一瞥することすらなく、背を向けてホールの中心にある「終局の箱」へと歩き出している。チャキッ、と刀が鞘に収まる軽い音が響き、彼は白い手袋で柄に飛び散ったわずかな血の飛沫を優雅に拭い取った。その歩みは、日曜日の公園を散歩しているかのように悠然としたものだった。

彼は、私をすでに「死体」として処理しているのだ。

頸動脈の切断は助からない。現代の高度な医療設備すら存在しないこの地下の屠殺場において、この傷は確定した死刑宣告に等しい。

彼の判断は、完全に正しい。

「常識」に従えば、の話だが。

常識。

その二文字が、急速に崩壊しつつある意識の暗闇の中で、一瞬だけ鋭くスパークした。

常識——『痛覚は身体の警告信号である』。これはすでに失っている。

常識——『出血すると、人間は死ぬ』。

もし——

「もし」を検証している時間は、もう一秒も残されていなかった。

生存本能が、「理性の回路」が完全にシャットダウンするのと同時に、私の脳の全権限を強制的に掌握した。論理的な推論も、損益の分析も、いかなる高次脳機能も経由しない。それは頭蓋骨の最も深い場所にある、あの「魂の共鳴」の扉に向かって、弾丸のように一直線に突っ込み、激突した。

扉が、開いた。

前回のように、隙間をこじ開けて光を覗き見するようなセーブされた状態ではない。

今回、扉は完全に「吹き飛ばされた」。枠ごと木端微塵に砕け散ったのだ。

深紅のデータストリームは「噴出」などという生易しいものではなかった。完全なる「爆発」だ。私の視界は一瞬にして圧倒的な深紅の光の海に水没し、左下の視界を塞いでいた純黒の四角形すらも、一時的にその光の奔流に飲み込まれた。

頭蓋骨の内側から伝わってきたのは、もはや張り裂けるような頭痛ではない。「構造的な破壊」——脳みその内壁を覆っている何らかの重要な膜が、ベリベリと強制的に剥がし取られているような凄惨な感覚だった。

両方の鼻の穴からドッと鼻血が噴き出し、首から噴出する血の柱と混ざり合って、私の顔の半分を深紅のドロドロの塊に染め上げた。

あの、凝固した血のような暗赤色の警告テキストが再びポップアップした。フォントサイズは前回よりも巨大で、点滅のサイクルも狂ったように速く、一文字一文字が網膜に焼き付いて残像を残した。

『警告:深度共鳴へのアクセスが「無償枠」を完全に超過しました』

『代償の徴収:「常識」を永久に生贄サクリファイスとする』

『対象常識:【出血は、死をもたらす】』

『※「常識」のブラックボックス侵食率が7%に増加します。続行しますか?』

『決断猶予時間:残り2秒』

二秒。

私の意識には、すでに広範囲にブラックアウトの斑点が浮かんでいた。視界が急速に収縮していく。周囲の景色が消え去り、トンネルの奥から覗き込んでいるように、中央のほんの一部の領域だけがぼんやりとした色彩と形を保っている状態だ。

聴覚は、ほぼ100パーセント消失した。自分の狂ったような心拍音すら、もう聞こえない。

『続行』。

暗赤色の文字列が、ガラスのように砕け散った。

ブツンッ。

前回とまったく同じ、頭蓋骨の奥底から響く重く不快な切断音。しかし、今回はそのダメージが桁違いだった。前回が「ペンチで導線を一本ねじ切られた」程度だとすれば、今回は「油圧プレス機でマザーボードを丸ごと粉砕された」ような破壊的な欠落感だった。

視界の左下の隅に居座っていた「黒い四角形」が、突如として肥大化した。

米粒ほどのドット抜けから、親指の爪ほどの大きさの「真っ黒な染み」へ。輪郭は不規則に歪み、和紙に落ちた墨汁のようにジワジワと視界を侵食している。7パーセント。

それと同時に、私の中から「ある概念」が根こそぎ引き抜かれた。

『出血は、死をもたらす』。

このたった十文字の概念。これが脳内に存在していた時、私の肉体は複雑な生存プロトコルを自動でバックグラウンド実行していた。

『大量の出血を検知』→『生命に対する重大な脅威と判定』→『恐怖・不安の情動をトリガー』→『自律神経系の極限ストレス反応を起動』→『末梢血管の収縮、心拍数の爆発的増加、全身の筋肉の過緊張』→『止血行動・逃走・あるいは救助を求める行動の誘発』。

今、この一連のプログラムの『トリガー条件』そのものが、OSから完全に削除されたのだ。

自律神経系が必死に実行していた代償メカニズム——心臓の異常な拍動、末梢血管の収縮——が、一斉に「停止」した。機能が破壊されたのではない。実行する「理由」が失われたのだ。

私の脳内システムは、もはや「出血」という現象を、緊急対応すべき脅威イベントとして認識しなくなった。

心拍数が、180から一気に90台の平常値へと急降下した。

血圧の低下がピタリと止まった。止血できたからではない。肉体が「失血に対抗しようとする無駄なあがき(代償行為)」を完全に放棄したからだ。

心血管系のすべてのリソースが、「エマージェンシー・モード」から「通常モード」へと切り替わった。

これは、医学・生理学の観点から言えば、完全に狂った、あり得ない現象だった。

頸動脈から間欠泉のように血が噴き出しているのに、心臓は「ん? 何か起きてるか?」とでも言わんばかりに、リラックスした平常のビートを刻み続けているのだから。

だが、まさにこの「生理学的な狂気」こそが、私の命を繋ぎ止めた。

全身の代償メカニズムが完全停止したことで、心臓がパニックを起こして血液を全身へ全力でポンプし続ける行為そのものが止まった。ポンプの出力が急激に落ちれば、当然、頸動脈の裂け目から噴出する血液の「勢い」も落ちる。

強烈な血の柱は、数秒でホースの噴射から「湧き水」へ、そして「じわじわとした滲出」へと減衰していった。

血が止まったわけではない。肉体が、自発的に血を外へ送り出す(=心臓が全力で血液を押し出す)という自殺行為をやめたのだ。

ショック状態は、起きなかった。

既知のすべての医学的常識に従えば、頸動脈の切断後、十〜十五秒以内に失血性ショックに陥るのは絶対に避けられない。だが、『出血すれば死ぬ』という大前提の常識が認知機能からデリートされた結果、私の肉体は「ショック状態へと移行する生理的プロセス」の実行コマンドを喪失してしまったのだ。

十秒前には完全にブラックアウトしているはずだった私の意識が——まだ、稼働している。

視界はひどくぼやけ、思考も薄弱だが。確かに、稼働している。

『常識の生贄サクリファイス完了。認知システムの再構築リビルドを実行中——』

『「出血」は脅威イベントリストから除外されました。関連するすべての生理的ストレス・プロトコルを無効化ディスエーブルしました』

『「常識」のブラックボックス侵食率:7%』

私はゆっくりと頭を下げ、自分の首元を見た。

傷口はかなり大きかった。右側の頸動脈のラインから鎖骨のくぼみ付近まで斜めにパックリと開いており、その角度と深さから、柴田が片手での逆手薙ぎで肉を「削ぎ落とす」ように斬ったことが分かった。傷は深く、切り裂かれた肉の奥に赤黒い筋肉の層と、管の壁を半分以上スライスされてドクドクと脈打つ「頸動脈の断面」がむき出しになっていた。

血は依然としてその血管の断面から溢れ出しているが、その速度は致命的なレベルからはほど遠かった。最初の爆発的な噴射から、ゆっくりとした律動的な湧き出しへと変わり、心臓が平常のビートを刻むたびに、暗赤色の液体がトプン、トプンと少量ずつ押し出されるだけになっていた。

私は、それをただ静かに見つめていた。

私の頭の中の反応は、こうだ。

『首に切り傷が一つある。その傷の奥に、損傷した血管が一本ある。その血管から、赤い液体が外へ流れ出ている』。

ただ、それだけ。

恐怖はない。焦燥感もない。「俺は死にかけているんだ!」というパニックもない。

なぜなら、『血が出すぎると死ぬ』という因果関係のロジックが、私の思考回路の基礎部分からスッポリと抜け落ちてしまったからだ。

今の私の歪みきった認知フレームにおいて、「自分の首から血が流れ出ていること」と、「洗面台の蛇口から水が流れていること」の間には、本質的な違いが何もなかった。どちらも単なる『液体が開口部から一定量流出している』という、客観的な物理現象の一つに過ぎない。

これは、狂っている。間違っている。

間違っていることだけは、分かっているのだ。

脳内の「理性の回路」の奥底で、かすかな論理の声が何度もエラー警告を鳴らしていた。

『お前の認知機能は決定的にバグっている。お前は今すぐ恐怖すべきだ。傷口を全力で圧迫止血すべきだ。お前は——』

だが、これらの「〜すべきだ」という論理的な最適解は、肉体に対する「実行権限(アドミニストレータ権限)」を完全に喪失していた。意識の表層にフワフワと浮かぶ単なるテキストデータへと成り下がり、それに応じた感情のトリガーも、生理的な筋肉の反応も一切引き起こせない。

私は、スローモーションのようにゆっくりと右手を上げた。

指先が、首の傷口に触れる。二本の指が切り裂かれた肉の隙間に入り込み、脈打つ頸動脈に直接触れた。血管が指の腹の下でドクン、ドクンと鼓動し、そのたびに生温かい液体が押し出されてくる。

私は二本の指で、血管壁の裂け目をキュッと摘んで塞いだ。

止血のためではない。「止血しなければ」という切迫した動機は、『血が出れば死ぬ』という本能的な常識によって駆動されなければ発生しないからだ。

そうではなく、ただ「理性の回路」が冷徹な計算結果を提示したから実行しただけだ。

『この血管の液漏れをこれ以上放置すれば、ライフの数値(現在10%)がさらに低下する。ライフの数値が規定値を下回れば、システムが「ゲームオーバー(死亡)」と判定し、強制終了される可能性が高い』、と。

これは、純度100%の純粋な論理演算の連鎖だ。そこに生物としての生存本能は一滴も混ざっていない。

私は傷口の血管を指で摘んだまま、血の海と化した床からゆっくりと立ち上がった。

見渡す限りの血だ。すべて、私の血。

私が跪いてから立ち上がるまでのわずかな間に、金属の床にはテーブル半分ほどの面積を持つ暗赤色の血だまりが広がっていた。深紅のクリスタルの照明の下では、血の色が金属の床と同化してしまい、表面にギラリと光る粘ついた反射だけが、そこが液体の海であることを示していた。

柴田は、すでに「終局の箱」の真ん前に立っていた。

右手に三枚のチップを高く掲げ、上体をわずかに前傾させ、箱の天面にある窪みへと今まさにチップをはめ込もうとしている。黒服の部下たちは、彼の背後を扇状に囲み、完璧な防衛ラインを敷いていた。

誰も、私のことなど見ていなかった。彼らの常識プロトコルの中では、『柴田の刀で頸動脈を切り裂かれた人間は、数秒で動かなくなるゴミ袋と同義であり、警戒する価値すらない』のだから。

柴田の左足が、最後の一歩を前に踏み出した、その瞬間。

血にまみれた、氷のように冷たい手が、死角である床下から這い上がるように伸びて——彼の左の足首を、万力のような力でガシッと掴んだ。

五本の指が、高級なオーダーメイドの革靴とスラックスの裾の隙間に深く食い込む。指の関節が白くなるほどに締め付けられ、私の爪が高級な生地を突き破って肌にめり込んだ。その握力は、柴田が踏み出した足を空中で強制的にロックするほど強烈だった。

柴田が、ハッと視線を落とした。

そこに、私がいた。

血の海の中に跪いたまま、首を横断する凄惨な切り傷からはまだタラタラと血を滲ませている。顎、胸元、両腕は真っ赤な血糊でドロドロに汚れ、顔色は紙のように、いや、蝋細工のように不気味なほど蒼白だった。大量の失血により、表皮の毛細血管から血液が完全に抜け落ちているのだ。

しかし、私の両目は、カッと見開かれていた。

瞳孔はしっかりと焦点を結んでいる。焦点が定まらない虚ろな目でもないし、ショック症状の初期に見られる、眼球が上方へ反転した白目でもない。

私は、柴田の目を、真っ直ぐに、静かに見つめ返していた。

柴田の表情に、明確な「亀裂」が走った。

驚愕、というほど分かりやすいものではない。彼のヤクザとしての長年の修練は、顔の筋肉がパニックを露骨に表出することを決して許さない。

だが、彼の右目の目尻が、ピクッと一瞬だけ痙攣した。おそらく彼自身すら自覚していない微細な表情マイクロ・エクスプレッション。この地下の檻で何年もの間、何十、何百という肉人を解体してきた冷酷な殺人鬼が、『自らの手で頸動脈を切り裂いた人間が、なおも目を見開いて自分の足首を掴んでくる』という常軌を逸したバグを前にして、顔面神経が引き起こした、0.3秒にも満たない不随意のストレス・エラーだった。

「テメェ……ッ!」

一言だけ吠え、彼の言葉は途切れた。

彼は信じられないというように視線を落とし、私の首の傷口をガン見した。

傷の長さ、深さ、位置。それは誰よりも彼自身が一番正確に把握している。自分が振るった太刀筋であり、何の血管をどれだけの深さで断ち切ったか、彼の手応えが記憶しているのだ。外頸動脈の分岐点、管の壁を半分以上削ぎ落とす致命的な一撃。三十秒以内にプロの外科医による血管縫合手術が行われなければ、失血量はどんな人間であろうと不可逆的なショック死に至らしめる。

それなのに、私は彼の目の前で生きて跪いている。首からはまだ血が滲み、顔には血の気が一滴もない。しかし、ショック症状は起きていない。顔面痙攣も、瞳孔の散大も、教科書に載っている失血性ショックの初期症状が、何一つ起きていないのだ。

彼の視線が、傷口からゆっくりと上がり、私の両目とぶつかった。

私の目に、「恐怖」はなかった。

強靭な精神力で恐怖を克服しているわけではない。恐怖という感情システムを駆動するための二つの絶対的な根幹OS——『痛みは危険のサインである』と『血が出れば死ぬ』——が、私の脳から物理的に消去されているからだ。

柴田の目に映る私の瞳は、気味が悪いほどに「空洞カラッポ」だったはずだ。

その空洞は、絶望よりも底なしで、諦観よりも徹底している。人間の脳のOS(常識)が強制的に再フォーマットされた後にポツンと残された、正常な人間とは根本的に構造が異なる「異質な何か」の目。

「テメェは、一体何なんだ……?」柴田が、呻くように言った。

彼の声に、出会ってから初めて、極めて微小な「不確実性ブレ」が混じっていた。

私は、答えなかった。

右手で彼の足首をガッチリと掴んだまま、左腕——三本の鋼針に串刺しにされ、巻かれたガーゼが血で真っ赤なゼリー状になっている廃用の腕——をゆっくりと持ち上げ、彼の腰にある日本刀の柄を、スッと指差した。

刀を奪おうとしたのではない。ただ、「指差した」だけだ。

左腕を上げた瞬間、『魂の共鳴』の余波が網膜の裏側でチカチカと明滅した。

新たにスキルを起動したわけではない。前回のディープ・ダイブ(深度共鳴)の際に、脳のキャッシュメモリに一時保存されていた「残骸データ」がロードされたのだ。

柴田の刃が私の首を切り裂いた、あの一撃。刃が私の皮膚に接触していた物理的な時間は0.1秒にも満たなかったが、魂の共鳴のパッシブスキャナーは、その0.1秒の間に「ある重要な情報」を自動で吸い出していた。

それは、大量のノイズが混じった、極めて断片的なデータ。柴田の記憶ではない——あの日本刀「そのもの」の解析データだった。

あの刀は、ただの鋭利な鉄の塊ではなかったのだ。

キャッシュデータが網膜上で復元され、不完全なテキストとして組み上がっていく。

『アイテムスキャン(パッシブ・低解像度):銘刀「業鬼丸ごうきまる」』

『所持者の固有能力スキル刀魂とうこん——』

『サブ機能:式神召喚(全5体)——データ欠損、詳細情報の解析不能——』

『※スキャン精度が不足しています。完全なプロファイルを取得するには、対象との深度共鳴が必要です』

五体の、式神。

データはそこでブツリと途切れていた。あの日本刀は、人を斬るためのただの武器ではない。柴田の「固有能力の媒介コントローラー」なのだ。『刀魂』というのが彼のスキルの名前であり、そのメイン機能は「業鬼丸」という刀を通じて、五つの異なる特性を持つ式神を召喚すること。

五種類の式神。それらが一体どんな姿で、どんな物理法則を無視した攻撃を仕掛けてくるのか、発動の条件は何なのかは分からない。

しかし、この断片情報だけでも、私にとっては決定的な戦術的アドバンテージ(変数)だった。今後のあらゆる戦闘において、柴田は単なる「剣術の達人」ではなく、少なくとも五つの未知の超常的オプションを隠し持つ「異能者」として計算式に組み込まなければならない。

先ほどアミールを蹴り飛ばした際、彼の足首に一瞬だけバチッと光った純白の紋様。あれもおそらく、式神の能力を己の肉体にバフとしてエンチャント(付与)した結果なのだろう。

これらの情報が、失血でクロックダウンしながらも稼働を続ける私の脳内で、冷徹にファイリングされていく。

柴田は、私の持ち上げた左腕の指先を凝視し、その瞳の奥の「ブレ」がさらに一段階深くなった。彼は私の右手が掴んでいる自らの左足を軽く踏み込み、鬱陶しいゴミを振り払うように強引に脚を引き抜こうとした。

私は、さらに右手の指の力をギリッと込めた。

筋力によるものではない。今の私の肉体コンディションでは、本来の筋力の二〜三割しか出力できないはずだ。これは、痛覚のリミッターが外れたことによる「異常な火事場の馬鹿力」だった。

五本の指が彼の足首の両側に食い込み、革靴とズボンの隙間に強引にねじ込まれ、私の爪が高級な革に突き刺さる。指先の皮膚が摩擦でズル剥けになり、下の赤い肉が露出して血が滲む。だが、痛みのフィードバックがないため、脳が「これ以上力むと指が壊れる」というブレーキ(自己防衛本能)をかけないのだ。

柴田の眉間が、ついに不快感に歪んだ。

「……離せ」

「チップを」私は言った。声は掠れて極端に小さく、蚊の鳴くような音量だった。しかし、一語一語の発音は異常なほどハッキリしていた。「一枚、返せ。第一フェーズでテメェが俺から巻き上げた、通行料だ」

その瞬間、巨大歯車の回転音だけが支配するホールに、絶対的な静寂が落ちた。

私は、たった今自分の頸動脈を切り裂いた死神を相手に、ディスカウントの交渉を持ちかけているのだ。

首の傷口からは、指で押さえている隙間からまだ血が滲み出ている。ライフは残り10%。全身の血液の半分が失われているというのに。

しかし、私の脳はこれを「異常事態」だとは一切認識していなかった。

なぜなら、『血が出れば死ぬ』という因果律が、私の世界から消去されているからだ。

柴田は、私を見下ろしたまま五秒間沈黙した。

五秒後、彼はチャキッと日本刀を腰の鞘に完全に収め、スラックスのポケットからチップを一枚取り出した。

暗金色のコインが白い手袋の指先でクルリと遊ぶように回転し、彼はゆっくりと腰をかがめると、自らの足首を握りしめている私の右手の手の甲の上に、チャリンとそのチップを乗せた。

「テメェは……本当に面白いイカレ野郎だな」彼が言った。

そして彼は足を上げ、革靴の硬い踵で、私の指の関節を「コツン」と軽く踏みつけた。骨を砕くような踏みつけではない。ただ、物理的に手を離させるだけの、計算され尽くした的確な力加減。

私の手は、弾かれたように床に落ちた。

柴田は乱れたズボンの裾をパパンと払い、一度も振り返ることなく「終局の箱」へと歩みを進めた。黒服たちがそれに続き、再び隙のない扇形の防衛陣形を再構築する。

私は自分の血でできた水たまりの中に跪いたまま、右の手の甲に乗せられた一枚のチップを見つめていた。

三枚、揃った。

ポケットの奥に隠し持っている二枚——自分の力で引いたものと、藤堂組のジョニーから渡されたもの——そして今取り返した一枚。合計三枚。

「終局の箱」を開封するための条件はクリアした。

しかし、柴田も同じく三枚持っている。彼は今まさに、箱の天面の窪みにチップを嵌め込もうとしている。このままでは、奴に先を越される。

私は床の血だまりに両手をつき、立ち上がろうと力を込めた。だが、血が多すぎた。手をつくたびに赤い海が潤滑油のように滑り、金属の床を虚しく引っ掻くだけだった。

その時、背後から無骨な太い腕が伸びてきて、私の右腕をガシッと掴み、血の池から強引に引きずり起こした。

アミールだ。

彼は私の真後ろに立っていた。その顔色は、私の蝋のような蒼白さと大差なかった。土気色の肌の下には不健康な青黒い血管が透け、口の端には吐き出した血の塊がまだこびりついている。

歯車に削り取られた背中の傷からは、ボロボロの麻布を突き抜けて大量の血が滲み出している。彼の呼吸はひどく重く、息を吸うたびに不規則な震えとゼーゼーという異音が混じっていた。間違いなく、肋骨が複数本砕けて肺を圧迫している。

それでも、彼は両足でしっかりと立っていた。

「お前、首が——」アミールは一言だけ発し、言葉を呑み込んだ。私の首の傷口の惨状を見たのだ。まだ血が滲んでいるが、動脈からの噴出はなく、ショック症状も起こしていない。

『どうしてまだ生きているんだ』とは、彼は聞かなかった。

この数時間で、私の抱える「常軌を逸した異常性」については、嫌というほど目の当たりにしてきたのだから。

彼は手元に残っていた最後の半巻きのガーゼを取り出すと、素早く私の首に数周巻きつけた。その締め具合は絶妙だった。傷口からの出血を面でしっかりと圧迫止血しつつも、気管を圧迫して呼吸を妨げない、完璧な応急処置。

「……歩けるか?」彼が低い声で尋ねた。

「ああ。歩ける」

「なら、行くぞ」

柴田の黒服の中には、こちらが動き出したことに気づき警戒の視線を向けてくる者もいたが、柴田本人は見向きもしなかった。彼は今、二枚目のチップを終局の箱の窪みへと慎重に嵌め込んでいる最中だった。

三枚のチップ。三つの窪み。現在は二枚目をセット中。

一刻の猶予もない。

アミールが私に肩を貸し——というより、客観的に見れば重傷のアミールの方が限界に近く、実質的には私が彼を支えているような状態だったが——二人三脚で終局の箱の方向へと歩き出した。彼の左腕が私の腰をしっかりと抱え込み、右腕はだらりと体側に垂らされている。

彼の右腕が私の腰のあたりを通過した時、ボロ布の下にある「あの膨らみ」が再び私の視界に入った。

今度は、距離がゼロに近いほど密着している。歩く動作の反動で麻布の裾がペラッとめくれ、その一瞬の隙に、膨らみの正体が私の目に飛び込んできた。

暗灰色の無骨な金属のボディ。弾倉マガジンのような四角い構造。そして、短い黒のプラスチック製グリップ。

【工業用ネイルガン(釘打ち機)】。

その認識が脳内でパチッとフラッシュした時、私の中に「驚き」や「焦り」といった感情は一切湧き起こらなかった。

ネイルガンとは何か。有効射程距離はどの程度か。人間の肉体に撃ち込んだ場合の殺傷能力はどれくらいか。それらのデータが、「理性の回路」の引き出しに静かにファイリングされ、必要な時に瞬時に引き出せるよう待機状態に入っただけだ。

アミールは、服の下に殺傷能力のある工業用ネイルガンを隠し持っていたのだ。第十区の最底辺の檻にいた時から、ずっとだ。

安全エリア(インターバル)では使わなかった。あそこで致死的な暴力を使えば、千倍のペナルティが自身に跳ね返るからだ。だが、制限のないゲームエリアにおいてすら——彼はこれまで一度もこれを使わなかった。

つまり、彼は「その時」を待っているのだ。

長く隠し持っていたこの最強のジョーカーを切るに相応しい、たった一度の完璧なタイミングを。

終局の箱が、眼の前に迫る。

柴田の右手が、三枚目のチップを掲げ、最後の窪みの上へとゆっくりと下ろされようとしていた。

三枚のチップ。

私はポケットに右手を突っ込み、三枚の暗金色のコインを強く握りしめた。

爪が、手のひらの肉に深く食い込む。

痛みは、ない。

視界の左下の隅で、あのブラックホールのような黒い四角形が、視界の7パーセントを静かに侵食し続けている。

「アミール。助かった。ここから先は、俺の仕事だ」

私は、彼を驚かせ、そして私自身をも驚かせるほど淡々とした声で言った。表情一つ変えることなく、アミールが腰に回していた腕をスッと押し退け、たった一人で、柴田の背中へと向かって歩き始めた。

頭上では、巨大な歯車が、狂ったような轟音を立てて回り続けていた。

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