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3話

 皆が見守る中、紙に最初に触れたのは、令奈だった。

 誰かが読めと言ったわけではない。低い卓の中央に積まれたそれが、あまりにも整いすぎていて、放っておくほうが不自然に思えただけだ。紙は厚く、端が揃っている。長いあいだ置かれていたにしては、傷みが少ない。

 令奈は一枚目を取り上げ、軽く息を吸った。

「……滞在者への基本事項、だって」

 声に出した途端、その言葉が場に落ちる。

 誰も口を挟まない。ただ、聞く姿勢だけが、自然と揃った。悠は、視線を紙から外さずに、周囲の気配を探っていた。

 ここに書かれていることが重要なのは分かる。同時に、重要すぎる可能性も感じていた。

 令奈は、淡々と読み進める。

「この場所は、一時的な滞在を目的として設えられた拠点である。短期間であれば生活に支障はない。水、火、明かり。それぞれ、自由に使用できる」

 その一文ごとに、奈々美がわずかに頷き、修子が視線を落とし、日向が無意識に空間を思い描く。

 読まれている内容と、さきほど自分たちが確認した事実が、静かに重なっていく。

 悠は、胸の奥に小さな違和感を覚えた。これは説明だ。だが、安心させるための説明ではない。

 令奈の声は止まらない。

「この場所は安全であるが、恒久的な安全を保証するものではない。ただし、汝らの行動によっては、変化する場合がある。」

 そこで、初めて、空気が少し変わった。

 誰かが、背筋を伸ばす。誰かが、息を吐く。

 悠は、その変化をはっきりと感じ取っていた。

 ここから先は、聞くべき情報ではなくなるかもしれない。それでも、まだ止める理由は見つからない。

 令奈は、二枚目に手を伸ばした。

 紙がめくられる音は、思ったよりもはっきりと響いた。

 二枚目。

 令奈は、ほんの一瞬だけ視線を走らせてから、読み上げる。

「……この世界の性質について、だって」

 言葉の調子は変わらない。

 けれど、その見出しだけで、空気が一段、重くなるのを悠は感じた。

 令奈は続ける。

 「この世界は、汝らの世界で起こり得た可能性の1つであるが故に、均衡が崩れし時、汝らの世界を巻き込み消滅する可能性がある」

 誰かが、小さく息を吸う音がした。

「この世界と、私たちの世界は、一心同体ということ、だと思う。」

 令奈の噛み砕いた説明。

 悠は、頭の中で言葉をなぞりながら、なぜか「乾ききらない空」を思い出していた。

 令奈の声が、淡々と続く。

 「この世界は、争いと災害により、崩壊と消滅の危機を起こしている。外部から来訪した存在は、この状態に影響を与える可能性がある」

 その一文で、晶の視線が、わずかに鋭くなったのを、悠は見逃さなかった。

 同時にはっきりとした沈黙が落ちた。

 「影響」。その言葉だけが、卓の上に残る。

 令奈は、読み進める。

 「ただし、その影響は、一様ではない」

 悠は、無意識に指先を握り込んでいた。

 「それらの差異は、来訪者の性質によるものではない。行動の取り方と、関わった時間の長さに依存する」

 ――時間。

 その単語が、胸の奥に、ひっかかる。

 令奈は、次の行を読みかけた。

 「現在は、かろうじて均衡を保っているが――」

 そこで、悠は、ようやく確信した。

 この先は、今、聞くべき内容ではない。

「ここで止めよう」

 強い口調で言い切り、悠は最後の行を手で隠した。

 しかし、彼だけは見ていた。人によっては正気を保てなくなるかもしれない、その先を。

 悠が紙を畳むと、部屋に静けさが戻った。

 誰も、すぐには口を開かなかった。抗議も、同意もない。

 ただ、息を吐く音が、いくつか重なった。

 令奈は、紙を束ね直し、机の中央に戻した。

 何も言わない。だが、その動きは「今はここまでだ」と認めているように見えた。

 早紀が、ゆっくりと頷く。

「……判断は正しいと思う。少なくとも、今日は」

 誰かが笑おうとして、やめた。

 誰かが肩を落とし、誰かが、ようやく床に寝転ぶ。

 結依が、静かに言った。

「今日は、休もう。ここまで、よく持ったよ」

 その言葉で、場の緊張が、ようやくほどけた。

 悠は、卓から離れ、1人家の外に出た。夜の森は静かで、風の音だけが一定の間隔で続いている。空を見上げると、満天の星が瞬いていた。

 足音がして、先生が隣に立つ。

「さっきの判断だけど」

 責める調子ではない。確認に近い声音だ。

 悠は、少しだけ考えてから答える。

「……今、全員が知る内容じゃないと思いました」

「怖かった?」

 悠は首を振る。

「怖い、とは少し違います。あれを全部読んだら、今日という時間が終われなくなる。そんな気がしました」

 先生は、すぐには返事をしなかった。森の向こうを見て、しばらく黙っている。

「続きを、見たんだね」

 断定だった。悠は、否定しなかった。

「一行だけでした。……でも、十分でした」

 先生は、小さく息を吐いた。

「なるほど。それなら、止めて正解だ」

 理由を聞かれることはなかった。

 その代わり、先生は少しだけ笑う。

「大学の時も、君はそうだった。全部分かる前に、みんなに“ここまででいい”って言える」

 その言葉に、悠は何も返せなかった。

 先生が先に、家へ戻る。

「今夜は休め。続きを考えるのは、明日でいい」

 一人残された悠は、再び空を見上げる。見てしまった一文が、頭の奥に、静かに浮かんだ。

 ――均衡が崩れた場合、汝らの世界と身体諸共、全て消滅する。

 それは、警告というより、事実だった。

 悠は、目を閉じる。

 だからこそ、今は終わらせた。それだけでいい。

 このリアルすぎる非現実は、まだ始まったばかりなのだ。

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