第三章 上 選ぶ前の夜
選ぶ前の夜
論文は、もう閉じられている。
それでも、
その存在感は、
机の上に残り続けていた。
紙の束というより、
判断を迫るもの。
触れなくても、
こちらを見ている。
私は、椅子に腰掛けたまま、
しばらく動けずにいた。
二度目の夜から、
まだ、時間は経っていない。
百鬼夜行。
玉藻前の声。
境に触れた感触。
そして、
現代で見た、
ほんの一行の変化。
都の外に出没した異形を退けたとも伝わる。
あれは、
救いだったのだろうか。
それとも、
より深く、
彼を正史の曖昧な場所へ
沈めただけなのか。
考えれば考えるほど、
答えは遠ざかる。
私は、
自分の指先を見る。
前回、
血が落ちた場所。
今は、
何もない。
けれど、
この指は、
もう、
何をすればいいのかを、
知ってしまっている。
――血を垂らせば、行ける。
偶然ではない。
事故でもない。
選択だ。
胸の奥が、
ひどく、静かになる。
正史に関与していいのだろうか。
その問いは、
今度こそ、
はっきりと形を持っていた。
歴史は、
積み重なった結果だ。
一人の感情で、
触れていいものじゃない。
もし、
これ以上変えたら。
今、
私が生きている世界は。
この部屋は。
この時間は。
別の形に
なってしまうかもしれない。
怖かった。
それは、
夜の都で感じた恐怖とは、
まったく違う種類のものだった。
逃げ場が、
ない。
目を閉じると、
思い出してしまう。
荒れた夜道。
影が立ち上がる瞬間。
そして、
あの声。
「……怖かったか」
責めない問い。
確認するだけの言葉。
私は、
あのとき、
どうしてあの人を
信じてしまったのだろう。
助けられたから?
違う。
もっと、
単純で、
厄介な理由だ。
何も求められなかった。
感謝も、
説明も、
従属も。
その場に立って、
必要なことをして、
去っていっただけ。
あの背中を思い出すと、
胸の奥が、
ゆっくりと締めつけられる。
私は、
彼を好きになってしまった。
もう、
否定できない。
それは、
未来を望む恋ではない。
手を取り合うことも、
同じ時代を生きることも、
最初から、選択肢にない。
それでも。
彼が、
何もかもを引き受けた末に、
「悪」と書き切られる正史だけは、
どうしても、
受け入れられなかった。
――だから、行く。
理由を、
そうやって、
言葉にしてしまうと、
それは、
愛と呼ぶしかなくなる。
欲しない愛。
報われない愛。
評価を、
変えるためだけの感情。
私は、
論文を、
ゆっくりと開く。
同じページ。
同じ行。
けれど、
今はもう、
偶然に触れるふりはできない。
爪を立てる。
一瞬、
躊躇が走る。
この一滴で、
私は、
もう戻れなくなるかもしれない。
それでも。
「……ごめんなさい」
誰に向けた言葉か、
分からないまま、
呟く。
指先に、
痛みが走る。
赤が、
にじむ。
私は、
それを、
見届けたまま、
止めなかった。
血が、
行間に落ちる。
紙が、
それを受け取る。
世界が、
静かに、
裏返る。
今回は、
分かっている。
これは、
事故じゃない。
私が、選んだ。




