第二章 わずかなズレ
その後、わずかなズレ
戻るときは、
前よりも、あっけなかった。
落ちる感覚も、
息が詰まる感じも、
もう、身体が覚えてしまっている。
目を開けると、
机と、論文と、
夜の続きを拒むような蛍光灯の光。
私は、しばらく、動けなかった。
胸の奥に、
重たいものが沈んでいる。
それが、
後悔なのか、
恐怖なのか、
それとも、
別の感情なのかは、
まだ、はっきりしない。
論文は、
やはり、開かれたままだった。
血の跡は、
ない。
けれど、
前回と、
同じだと思うことが、
なぜか、できなかった。
私は、
パソコンを開く。
もう、
指は迷わない。
検索窓に、
同じ名前を打ち込む。
――蘆屋道満。
画面に現れた文章を、
一行ずつ、追う。
反逆の陰陽師。
妖を操り、
都を乱したとされる人物。
そこまでは、
同じだ。
私は、
息を詰める。
その先。
「……あ」
小さく、声が漏れた。
文章が、
一文だけ、
増えている。
一時、都の外に出没した異形を退けたとも伝わる。
注釈のような、
控えめな一行。
評価でも、
称賛でもない。
ただ、
“伝わる”とだけ、書かれている。
私は、
画面に、
指を近づける。
触れれば、
消えてしまいそうな気がして、
途中で止めた。
変わっている。
ほんの、
わずかだけ。
けれど、
確かに。
胸の奥で、
何かが、
ゆっくりと動く。
喜び、と呼ぶには、
静かすぎる。
それでも、
冷え切っていた何かが、
少しだけ、
温度を取り戻す。
――あの夜は、
無駄じゃなかった。
そう思ってしまった自分に、
すぐに、
別の声が重なる。
――でも、
私は、
また、
利用された。
正史は、
少しだけ、
動いた。
けれど、
代わりに、
彼は、
より深く、
曖昧な位置に置かれている。
悪とも、
守護者とも、
言い切れない。
それは、
救いなのか、
それとも、
より厳しい場所なのか。
私は、
椅子に、深く座り直す。
論文に、
視線を戻す。
行間が、
前よりも、
広く見えた。
そこに、
まだ、
書き込まれていない余白が、
確かに残っている。
私は、
指先を見つめる。
白い。
まだ、
何も、
落ちていない。
それでも、
分かっている。
次は、
偶然じゃない。
もう一度、
あの時代へ行くとしたら。
それは、
選ぶということだ。
正史に、
触れるということだ。
胸の奥で、
あの低い声が、
かすかに蘇る。
――声を、聞いた。
あの人は、
選ばなかった。
ただ、
引き受けただけだ。
私は、
まだ、
決められない。
けれど、
もう、
知らなかった頃には、
戻れない。
論文を、
そっと閉じる。
部屋は、
静かだった。
正史は、
まだ、
決定していない。
そのことだけが、
今は、
はっきりしていた。




