第二章 上 もう一度、夜へ
もう一度、夜へ
論文は、前よりも軽く見えた。
紙の重みが減ったわけじゃない。
私の側が、少しだけ慣れてしまったのだ。
机に向かいながら、
私は、ページをめくる手を止めていた。
前回のことを、
夢だと呼ぶには、
あまりにも具体的すぎる。
土の冷たさ。
夜の匂い。
境の外で、歪みを引き受けていた背中。
そして、
「悪」と書かれた名前。
指先が、
論文の端をなぞる。
――偶然だった。
そう思おうとした。
一度目は、確かにそうだったはずだ。
けれど、
この位置に、
この紙に、
この名前がある。
その一致が、
ひどく落ち着かない。
チクリ、とした痛み。
「あ……」
今度も、
声は、間に合わなかった。
赤が、落ちる。
行間に。
前と、同じ場所に。
血は、迷わず吸い込まれた。
「あ……っ」
視界が、歪む。
今回は、
落ちる感覚を、知っている。
だから、
怖さは、少し遅れてくる。
息が詰まり、
音が抜け、
世界が、裏返る。
次に目を開けたとき、
私は、夜の道に立っていた。
月は高く、
都は、まだ眠っていない。
前よりも、
少しだけ、人の気配が多い。
それが、
逆に、不安だった。
歩こうとして、
立ち止まる。
前回と、同じだ。
ここは、
夜になると荒れる。
頭では分かっているのに、
身体が、
どう動けばいいのかを忘れている。
足音。
一つ。
二つ。
背後から。
心臓が、
強く打つ。
「……っ」
逃げようとして、
足がもつれる。
前回よりも、
早く、囲まれた。
灯り。
乱れた衣。
酒の匂い。
同じ構図。
「今度こそ……」
声は、
途中で切れた。
身体が、
強張る。
――また、何もできない。
そう思った瞬間。
空気が、
沈んだ。
音が、
一段、低くなる。
地面から、
影が、立ち上がる。
前回と同じ。
けれど、
今度は、
その存在を、
私は、はっきりと認識していた。
妖。
男たちは、
悲鳴を上げる暇もなく、
影に絡め取られ、
夜の外へ弾き飛ばされる。
私は、
その場に立ち尽くしたまま、
動けなかった。
怖さよりも、
理解が先に来る。
――また、だ。
影は、
役目を終えると、
音もなく消えた。
「……怪我はないか」
背後から、
低い声。
分かっていたのに、
それでも、
胸が、強く鳴った。
振り向く。
月明かりの下に、
蘆屋道満が立っている。
前よりも、
はっきりと見える。
目の静けさ。
無駄のない立ち姿。
私と、夜のあいだに立つ位置。
「……あなた」
声が、
震えた。
道満は、
私を一度だけ見て、
すぐに視線を外した。
「ここは、夜になると荒れる」
前と、同じ言葉。
けれど、
今度は、
それが、
胸に、ちゃんと届いた。
「女一人で歩く場所やない」
責めない。
命令しない。
ただ、
事実だけを置く。
私は、
やっと、息を吸った。
「……ありがとうございます」
その言葉に、
道満は、
少しだけ、首を傾ける。
「礼を言われるほどのことは、
してへん」
そう言って、
少し間を置く。
「……怖かったか」
私は、
一瞬、迷ってから、
頷いた。
「はい」
正直だった。
怖かった。
けれど。
「……でも」
言葉を探す。
怖さだけじゃ、
なかった。
妖が現れたとき、
夜が、静かになった。
あの感覚を、
どう説明すればいいのか、分からない。
道満は、
私の言葉を、
待つ。
急かさない。
「……静かでした」
そう言うと、
道満は、
ほんの一瞬だけ、
目を伏せた。
「……そうか」
それだけ。
理由も、説明もない。
その沈黙が、
ひどく、優しかった。
「今日は、もう帰り」
そう言って、
踵を返す。
私は、
思わず、呼び止めた。
「……あの」
道満が、振り返る。
「あなたは……
どうして、助けてくれたんですか」
問いは、
ずっと、胸にあった。
道満は、
少し考えるように間を置いてから、
静かに言った。
「声を、聞いた」
それだけ。
誰の声かも、
なぜ聞こえたのかも、
語らない。
「……それだけや」
その言葉が、
胸の奥に、
深く、残った。
彼は、
何も求めない。
感謝も、
理由も、
名前すら。
私は、
その背中を見送りながら、
気づいてしまう。
この人を、
「悪」と呼ぶ世界に、
自分が戻ってしまうことが、
耐えられない。
まだ、恋だとは言えない。
でも、
もう、無関心ではいられない。
夜の道に、
私は、一人残った。
胸の奥で、
静かに、
何かが、形を持ち始めていた。




