表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/20

第一章 正史は静かだった

 正史は静かだった


目を開けると、

机の天板が、視界いっぱいにあった。


古い木目。

小さな傷。

さっきまで見ていた論文の影。


息が、詰まる。


一気に吸い込もうとして、

咳き込んだ。


「……っ」


声は、ちゃんと現代の音だった。

壁も、天井も、ある。

夜の土の匂いは、どこにもない。


戻ってきた。


その事実を理解するまでに、

少し時間がかかった。


指先を見る。

切れたはずの場所は、

薄く赤い線を残したまま、もう塞がっている。


机の上の論文は、

開かれたままだった。


行間に、

血の跡はない。


まるで、

最初から、何も落ちなかったみたいに。


私は、椅子に座り直し、

論文を、そっと閉じた。


胸の奥に、

まだ、ざらついた感覚が残っている。


夢だった、と言い切るには、

触れた土の冷たさが、

あまりにもはっきりしすぎていた。


私は、パソコンを開く。


検索窓に、

ゆっくりと、名前を打ち込む。


――蘆屋道満。


画面に、

見慣れた説明が表示される。


反逆の陰陽師。

妖を操り、都を乱した存在。

安倍晴明に敗れ、討たれた。


文章は、淡々としている。

評価は、一行で済まされている。


私は、

スクロールする指を止めた。


変わっていない。


一文字も。

一行も。


胸の奥が、

すっと冷える。


百鬼夜行。

結界の穴。

私の手。


すべて、

なかったことになっている。


――当然だ。


私は、

正史に名前の残る人間じゃない。


記録されるのは、

勝った者と、負けた者だけ。


そのどちらにも、

私は、含まれていない。


それでも。


画面に並ぶ

「悪」という文字が、

ひどく、目についた。


あの夜、

境の外で歪みを引き受けていた背中と、

どうしても、重ならない。


私は、

椅子の背にもたれ、

目を閉じた。


助けられたこと。

騙されたこと。

引き金に触れたこと。


そのすべてが、

正史には、書かれない。


――じゃあ、

私は、何をしたかったんだろう。


問いは、

まだ、形にならない。


ただ、

胸の奥に、

小さな違和感だけが残る。


論文を、もう一度、開く。


同じ行。

同じ文字。


でも、

さっきまでと、見え方が違う。


行間が、

やけに、広く感じられた。


そこに、

何かが、

落ちる余地があるような気がして。


私は、

無意識に、指先を見つめる。


まだ、白い。


血は、出ていない。


それでも、

なぜか、

分かってしまった。


これは、

一度きりの出来事じゃない。


あの夜は、

始まりだった。


正史は、

まだ、動いていない。


だから、

もう一度、

触れてしまうかもしれない。


理由は、

まだ、言葉にならない。


けれど、

胸の奥で、

確かに何かが、

静かに芽を出していた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ