第一章 下 穴が空いた夜
穴が空いた夜
夜は、すぐには壊れなかった。
社を出てしばらくのあいだ、
都は、ただ静かなままだった。
さきほどの出来事が、
まるで夢だったかのように。
それが、かえって不気味だった。
玉藻前は、
一定の距離を保ったまま歩いていた。
近すぎず、離れすぎず。
迷ったら、声をかければ届く位置。
「少し、遠回りになりますが」
そう言って、
人の少ない道を選ぶ。
私は、
その選択に疑問を持たなかった。
疑う理由が、
見当たらなかったのだ。
「京の内側と外側には、
目に見えない境があります」
歩きながら、
玉藻前は語る。
「四神の結界、と呼ばれるものです」
その言葉に、
胸の奥が、ひどく小さく鳴った。
「普段は、
人も妖も、
それを意識せずに過ごしています」
声は、落ち着いている。
教え諭すというより、
事実を並べているだけの口調。
「けれど、歪みが溜まると、
境は、脆くなる」
立ち止まる。
そこは、
都の縁だった。
道の先が、
闇に溶けている。
灯りが、
不自然なほど、届かない。
「……ここは」
言いかけた私に、
玉藻前は、やさしく微笑む。
「心配はいりません」
その言葉が、
呪文のように効いた。
「ほんの、少しだけです」
“少しだけ”。
また、その言葉。
「ここに溜まった歪みを、
外へ逃がしてあげればいい」
逃がす。
閉じ込めるのではなく、
解放する。
聞こえは、
とても正しかった。
「そうすれば、
都の内は守られます」
守る。
その言葉に、
私は、無意識に頷いていた。
玉藻前は、
小さな符のようなものを取り出す。
紙でも、布でもない。
何かの“境目”を写し取ったような、
曖昧な形。
「触れてください」
差し出されたそれを、
私は、見つめる。
胸の奥で、
さっきの低い声が、
かすかに響く。
――ここは、夜になると荒れる。
――女一人で来る場所やない。
けれど、
その声は、
もう遠い。
目の前にあるのは、
穏やかで、整った声。
「あなたは、
ここにいるべき人ではない」
玉藻前は、
そう続ける。
「だからこそ、
歪みの影響を、
受けやすい」
それは、
説明のようで、
選別だった。
「少し、
手を貸していただければ」
私は、
深く考える前に、
手を伸ばしてしまった。
触れた瞬間。
空気が、裂けた。
音ではない。
感触でもない。
境目が、
“ほどけた”。
視界の端で、
闇が、濃くなる。
嫌な予感が、
一気に形を持つ。
「……っ」
言葉を発するより先に、
風が、逆流した。
遠くで、
聞いたことのない音がする。
重なり合う足音。
低いうなり声。
人ではない、
複数の気配。
「……何、これ」
声が、震える。
玉藻前は、
もう、私を見ていなかった。
視線は、
闇の向こう。
「始まります」
その声には、
さきほどまでの温度が、なかった。
夜が、崩れる。
闇の裂け目から、
影が、流れ込む。
一つではない。
十でもない。
数えきれない存在が、
京へ、なだれ込んでくる。
百鬼夜行。
言葉を知らなくても、
それが何かは、分かった。
「違う……」
後ずさる。
けれど、
足が、動かない。
私の背後で、
何かが、確かに“開いている”。
四神の結界。
その、綻び。
――私が、触った。
その事実が、
遅れて、胸に落ちる。
遠くで、
朱の光が立ち上がる。
安倍晴明。
結界が、再構築される。
内側を、必死に守っている。
同時に、
都の外で、
別の気配が、動く。
妖が、妖を制する気配。
低い術の流れ。
――蘆屋道満。
彼は、
内へ入らない。
境の外側で、
溢れ出たものを、引き受けている。
守っているのに、
守りの内側には、いない。
その姿を見た瞬間、
胸が、ひどく痛んだ。
私は、
何をしてしまったのだろう。
「大丈夫ですよ」
玉藻前の声が、
背後から落ちる。
振り向くと、
彼は、少し離れた場所に立っていた。
巻き込まれない距離。
安全な位置。
「必要なことでした」
その言葉が、
決定的だった。
これは、事故じゃない。
選ばれた結果だ。
私は、
ここに立たされただけ。
夜は、
やがて、収束する。
百鬼夜行は、
完全には防げない。
被害は、出る。
そして、
責任は、
誰にも明確に帰されない。
翌朝、
人々は言うだろう。
――妖が出た。
――都が乱れた。
――蘆屋道満が、関わっていた。
私の名前は、
どこにも出ない。
私の手が、
結界に触れたことも。
私は、
その場に立ち尽くしたまま、
夜が終わるのを見ていた。
胸の奥に、
冷たいものを残したまま。
それが、
すべての始まりだと、
このときは、まだ知らなかった。




