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正史を選ばなかった、それが愛でした

 正史を選ばなかった、それが愛でした


戻ってきたとき、

部屋は、朝の光に満ちていた。


夜の続きのはずなのに、

窓の外は、もう明るい。


世界は、

何事もなかったように、

進んでいる。


私は、

椅子に座ったまま、

しばらく動けなかった。


長い夢を見ていたみたいに、

身体が、少しだけ重い。


机の上。

論文は、閉じられている。


もう、

血の跡はない。


もう、

落とす必要もない。


それが、

分かっていた。


私は、

ゆっくりと、

パソコンを開く。


最後の確認。


もう、

怖くはない。


検索窓に、

名前を打ち込む。


――蘆屋道満。


画面が切り替わる。


私は、

最初の一行を、

息を止めて読んだ。


平安期の陰陽師。安倍晴明と並び称される存在。

都の外に溜まる歪みを引き受けた陰陽師として知られる。


指先が、

震えた。


続きが、

にじんで見える。


妖を使役し、都の均衡維持に関与したとする伝承が多く残る。

評価は後世まで分かれるが、悪として断定する史料は少ない。


私は、

画面から、

目を離した。


胸の奥が、

静かに満ちていく。


涙は、

すぐには出なかった。


代わりに、

深い息が、

ゆっくりと落ちる。


――変わった。


完全に。


悪ではない。

敵でもない。

異端でもない。


選んで引き受けた者。


それが、

彼の名前の隣に、

残っている。


私は、

そっと、

目を閉じた。


未来は、

変わっていない。


この部屋も。

この朝も。

この世界も。


何も、

壊れていない。


変わったのは、

たった一つ。


彼の評価だけ。


それで、

十分だった。


私は、

論文を開く。


真っ白な行間。


もう、

血を落とす必要はない。


私は、

ペンを手に取る。


静かな朝の中で、

ゆっくりと書き始める。


――正史は、恋を記録しない。


書いて、

少しだけ、笑った。


そうだ。


この物語は、

残らない。


私の名前も。

私の選択も。

この時間も。


けれど。


それでいい。


好きな人が、

救われた。


それだけが、

ここに残る。


窓の外で、

風が動く。


光が、

机の上を滑る。


私は、

小さく、

息を吐いた。


「……これでよかった」


声は、

とても静かだった。


正史を選ばなかった。

でも、

後悔はない。


これが、

私の愛の形だった。


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