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第一章 中 優しい声の人

 優しい声の人


道満が去ったあと、夜は急に広くなった。


さっきまで、あれほど近かった闇が、

今は少し距離を取っている。

怖さが消えたわけではない。

ただ、張りつめていた何かが、ゆるやかにほどけただけだ。


私は立ち上がろうとして、

足元がふらつくのを感じた。


「……あ」


声にするより先に、

身体が傾く。


その瞬間、

横から、柔らかい力が添えられた。


「大丈夫?」


声は、驚くほど穏やかだった。


振り向くと、

そこに立っていたのは、

さきほどの荒れた気配とはまるで違う人物だった。


背は高く、

衣は整っている。

月明かりを受けた顔立ちは、

妙に整いすぎていて、

どこか現実味が薄い。


「驚いたでしょう」


そう言って、

私の腕を支える手に、力を入れすぎない。


触れ方が、上手すぎる。


「この辺りは、夜になると物騒なのです。

怖い思いをなさいましたね」


責めない。

詮索もしない。

ただ、私が“被害者”であることを、

当然の前提として扱う声。


胸の奥が、

ほっと緩む。


「……ありがとうございます」


やっと、それだけ言えた。


「礼には及びません」


男は微笑んだ。

薄く、けれど完璧な笑み。


「私は、玉藻前と申します」


名乗り方が、ひどく丁寧だった。

音のひとつひとつが、

よく磨かれている。


「ここは、あなたのような方が

一人で歩く場所ではありません」


その言葉に、

さきほど道満が言ったことが重なる。


――女一人で来る場所やない。


同じ内容なのに、

受け取る印象が、まるで違う。


玉藻前の声は、

私の不安を、先回りして撫でる。


「よろしければ、

少し休んでいかれませんか」


指さされた先には、

人目を避けるように建つ、小さな社があった。


断る理由を、

咄嗟に見つけられなかった。


私は、頷いてしまう。


社の中は、

外よりも暗い。

けれど、不思議と落ち着いた。


玉藻前は、

私の向かいに座る。


距離は近すぎず、遠すぎない。

声を落とすときの間も、

ちょうどいい。


「怖かったでしょう」


再び、その言葉。


私は、少し迷ってから頷いた。


「……はい」


嘘ではなかった。

けれど、全部でもなかった。


妖が現れた瞬間の、

あの、妙な静けさ。

それは、怖さとは別の感覚だった。


玉藻前は、

私の答えを深掘りしない。


代わりに、

視線を、外へ向ける。


「京は、今、歪みを抱えています」


独り言のように、

それでいて、聞かせる声。


「人の心と、

人ならざるものの境が、

少しずつ、薄くなっている」


言葉の意味は、

すぐには分からなかった。


けれど、

なぜか、否定する気にもなれない。


「だから、時々、

あなたのような方が、

巻き込まれてしまう」


――あなたのような方。


その言い方が、

引っかかった。


私は、

この時代の人間ではない。

それを、彼は知らないはずなのに。


「……さっきの方は」


思い切って、口に出す。


「蘆屋道満さんは……」


名前を出した瞬間、

玉藻前の表情が、ほんのわずかに揺れた。


気づかなかったふりをしたけれど、

確かに、揺れた。


「ええ」


すぐに、微笑みが戻る。


「危うい方です」


言葉は柔らかい。

けれど、含まれているものは、冷たい。


「力がありすぎる。

そして、その力を、

人の側にだけ使うつもりがない」


それは、

正史で読んだ評価と、よく似ていた。


「けれど、あなたは助けられた」


玉藻前は、そう続ける。


「……それが、彼の厄介なところです」


守るのか、壊すのか。

善なのか、悪なのか。


どちらにも転びうる存在。


「京を守るためには、

四神の結界が必要です」


玉藻前は、

静かに言葉を重ねる。


「その均衡が崩れれば、

大きな災いが起きる」


胸の奥で、

嫌な予感が、芽を出す。


「もし、その均衡を守るために、

少しだけ、

手を貸していただけるとしたら……」


“少しだけ”。


その言葉が、

やけに軽かった。


私は、すぐに返事ができなかった。


社の外で、

夜の風が鳴る。


その音の向こうに、

さきほどの道満の背中が、

なぜか浮かぶ。


「……考えさせてください」


そう言うと、

玉藻前は、穏やかに頷いた。


「ええ。

無理に、とは申しません」


そう言いながら、

もう一歩、

私の内側に踏み込んでいることを、

そのときの私は、まだ理解していなかった。


社を出ると、

夜は変わらず、暗かった。


けれど、

私の中には、

二つの声が、残っていた。


やさしく、整った声。

そして、

夜と同じ高さにあった、低い声。


どちらが正しいのか、

そのときは、

まだ、分からなかった。


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