第五章 上 最後に選ぶ場所
最後に選ぶ場所
指先の痛みは、
もう、驚きではなかった。
論文を開く。
行間は、
これ以上広がりようがないほど、
白い。
書き換える余地が、
残っているというより、
終わらせる余地が残っている。
私は、
それを、
はっきりと理解していた。
これが、
最後だ。
ここで血を垂らせば、
私は、
もう戻れない。
戻れない、というのは、
死ぬという意味ではない。
“必要とされる場所”に、
二度と立てない、という意味だ。
それでも、
迷いはなかった。
正史は、
もう、
彼を悪と呼びきれなくなっている。
あと一歩。
それだけで、
十分だった。
「……これでいい」
声に出すと、
言葉は、
意外なほど、軽かった。
爪を立てる。
血が、
にじむ。
落ちる。
論文が、
それを、
拒まない。
世界が、
静かに、
反転する。
⸻
今回は、
風の音が、
最初から、
荒れていた。
夜が、
ざわついている。
けれど、
以前のような、
不安定さはない。
玉藻前の気配は、
はっきりしている。
――焦っている。
私は、
それを、
感じ取った。
「……失敗しましたか」
独り言のように呟くと、
答えるように、
空が、ひずむ。
玉藻前は、
以前よりも、
遠くに立っていた。
距離ではない。
力の届きにくさ。
「想定より、
早かったですね」
微笑みは、
まだ、崩れていない。
けれど、
余裕が、ない。
「結界に、
穴を開けることは、
できませんでした」
私は、
静かに言う。
玉藻前は、
否定しない。
「ええ。
彼が、
都に馴染みすぎました」
“彼”。
名前を出す必要は、
もう、ない。
「だから、
次の手を打ちます」
玉藻前は、
視線を、
都の内へ向ける。
朱の気配が、
いつもより、
弱い。
「……晴明さん」
胸の奥が、
きしむ。
「四神の結界は、
保たれています」
玉藻前は、
淡々と続ける。
「ただし、
支える者が、
疲弊している」
それは、
戦いの形が、
変わった証だ。
一点突破ではない。
長期の、
消耗戦。
「百鬼夜行は、
起こせませんでした」
玉藻前は、
一拍置いて、
言う。
「……一度は」
その言葉の意味を、
私は、
すぐに理解した。
「弱らせることは、
できた」
玉藻前は、
静かに頷く。
「だから、
次は、
隙を使います」
胸の奥が、
冷える。
今回は、
私じゃない。
完全に、
構造が、
変わっている。
私は、
一歩、
都の外へ進む。
以前なら、
止められていた。
でも、
今は、
誰も、
私を止めない。
境が、
私を、
“ただの人”として
扱っている。
その事実が、
少しだけ、
寂しくて、
少しだけ、
救いだった。
朱の光が、
揺れる。
安倍晴明が、
膝をつく。
それが、
遠目にも、
分かった。
「……間に合わない」
誰かが、
そう呟く。
その瞬間。
空気が、
変わった。
遅れて、
でも、
確実に。
夜の外側から、
低く、
深い流れが、
都へ入ってくる。
妖。
けれど、
敵ではない。
――来た。
私は、
息を止める。
「……ほんま、
厄介な夜やな」
聞き覚えのある声。
最後に、
来ると、
知っていた声。
蘆屋道満が、
結界の外側から、
現れる。
以前のように、
歪みを背負っていない。
逃げ場としてでも、
異物としてでもない。
選択として、
妖側に立つ者として。
玉藻前が、
初めて、
はっきりと、
表情を歪めた。




