第四章 名前のない余白
名前のない余白
戻ったとき、
部屋は、いつもより静かだった。
音が、
一段、遠い。
机の上の論文は、
相変わらず、開かれたまま。
けれど、
紙の白が、
少しだけ、眩しい。
私は、
深く息を吸って、
パソコンを立ち上げた。
もう、
確認することに、
恐れはない。
検索窓に、
同じ名前を入れる。
――蘆屋道満。
画面に並ぶ文章を、
ゆっくり、追う。
悪。
反逆。
妖。
そうした言葉は、
まだ、消えてはいない。
けれど、
それだけじゃない。
安倍晴明と対峙し、異なる手法で都の均衡に関与した陰陽師。
評価は時代や史料によって分かれる。
私は、
その二文を、
何度も読み返す。
断定が、ない。
断罪も、
称賛も、
同じ重さで並んでいる。
――フラット。
これが、
私が、
四度も血を垂らして、
辿り着いた場所。
胸の奥で、
静かな納得が、
広がる。
それと同時に、
別の感覚が、
遅れてやってきた。
「……あれ」
私は、
ページを、
少し戻す。
脚注。
参考文献。
研究史。
そこに、
小さな違和感。
以前、
何度も目にした、
一つの論文名が、
見当たらない。
私が、
最初に血を落とした、
あの論文。
検索しても、
ヒットしない。
「……そう、か」
声は、
思ったよりも、
穏やかだった。
私が、
介入した記録は、
正史に残らない。
正史を、
歪ませた存在は、
いつだって、
正史からこぼれ落ちる。
それは、
自然なことだ。
私は、
自分の名前を、
検索してみる。
論文。
発表。
引用。
数が、
減っている。
ゼロではない。
けれど、
確かに、薄い。
輪郭が、
削られていく感覚。
不思議と、
怖くはなかった。
むしろ、
納得が先に立つ。
――私は、
残る側じゃない。
残るべきなのは、
彼の評価だ。
私は、
椅子に、
深く腰を下ろす。
窓の外は、
夕暮れだった。
世界は、
変わらず、
回っている。
私が、
少し、
薄くなったくらいで。
それで、
いい。
ふと、
胸の奥で、
あの低い声が、
かすかに響く。
――引き受けるだけや。
彼は、
そう言っていた。
私も、
同じだ。
正史に、
名を残さない役割を、
引き受けただけ。
それが、
愛だった。
この時点で、
私は、
次に血を垂らす理由を、
もう、知っている。
最後の夜は、
私が消えるためじゃない。
彼が、
選ばれるための夜だ。
論文を、
そっと閉じる。
指先は、
まだ、白い。
けれど、
その白さが、
永遠じゃないことを、
私は、
もう、恐れていなかった。




