第四章 下 引き金のいらない夜
引き金のいらない夜
異変に、
最初に気づいたのは、
私だった。
空気が、
重い。
これまでとは、
質が違う。
境が、
“こちら”を向いていない。
「……来る」
呟いた声は、
誰にも拾われない。
それでも、
足は動いた。
私は、
走る。
逃げるためじゃない。
確かめるために。
玉藻前は、
すぐに見つかった。
闇の奥、
以前なら必ず、
私を待っていた場所。
「今回は、
早いですね」
玉藻前は、
穏やかに微笑む。
その表情に、
もう、迷いはない。
「……やめてください」
私は、
はっきりと言った。
「この夜は、
あなたが動かなくても、
持ちこたえます」
玉藻前は、
小さく首を振る。
「いいえ」
静かな否定。
「この夜は、
“完成”に近すぎる」
完成。
その言葉に、
胸が、
ひどく嫌な音を立てる。
「均衡が、
一人の陰陽師に
寄りすぎています」
視線の先。
都の中央。
人々の輪の中。
自然に、
役割を引き受ける影。
――道満。
「それは、
正しい形ではありません」
玉藻前の声は、
冷えている。
「だから、
崩します」
「……私が、
止めます」
言い切った。
迷いは、
もう、ない。
私は、
玉藻前から、
距離を取る。
逃げる。
捕まらない。
以前の私とは、
違う。
境が、
私を必要としていない。
だから、
足は、
自由だった。
玉藻前は、
追わない。
代わりに、
空を見上げる。
「あなたが、
いなくても」
その声が、
夜に溶ける。
「百鬼夜行は、
起こせます」
瞬間。
地鳴り。
結界が、
外側から、
叩かれる。
以前のような、
“一点集中”ではない。
人の悲鳴。
怒号。
恐怖。
民そのものを、
燃料にしている。
私は、
立ち止まった。
息が、
詰まる。
――そうか。
今回は、
私じゃない。
私が、
引き金じゃない。
それが、
はっきりと、
分かった。
朱の光が、
一斉に立ち上がる。
安倍晴明。
必死に、
内側を守っている。
そして。
道満が、
動く。
以前よりも、
速く。
以前よりも、
迷いなく。
外へ。
歪みの源へ。
私は、
その背中を、
ただ、見る。
追いかけない。
呼ばない。
もう、
私の役割じゃない。
百鬼夜行は、
起きる。
確かに。
けれど、
形が違う。
道満は、
一人で、
引き受けている。
民を、
盾にしない。
私を、
使わない。
彼は、
完全に、
“この時代の人”になっていた。
私は、
胸の奥で、
静かに、
崩れ落ちる。
――私は、
必要なかった。
それは、
敗北じゃない。
むしろ、
完成だった。
玉藻前は、
闇の中で、
小さく笑う。
「……あなたは、
役目を終えました」
その言葉に、
怒りは湧かない。
事実だから。
夜は、
やがて、
静まる。
百鬼夜行は、
鎮められる。
犠牲は、
出た。
けれど、
都は、
壊れなかった。
私は、
一人で立っていた。
境の外。
誰にも、
気づかれない場所。
それでも、
胸の奥は、
不思議と、
静かだった。
――これで、
よかった。
そう、
思えてしまった。




