第四章 上 置いていかれる夜
置いていかれる夜
血を垂らす前から、
分かっていた。
今回は、
前と同じにはならない。
論文を開いたとき、
行間が、
これまでよりも広く見えた。
書き換えられた部分が、
増えている。
余白が、
私のためではなく、
世界そのものの都合で
広がっているような感覚。
私は、
しばらく、そのページを眺めていた。
迷いは、
もう、形を変えている。
正史に触れていいのか、
という段階は、
すでに過ぎた。
今、
私の前にある問いは、
もっと単純で、
もっと残酷だ。
――私は、
もう、必要なのだろうか。
それでも、
指を切ることを、
やめる理由にはならなかった。
爪を立てる。
痛みは、
前よりも、
遠い。
赤が、
静かに滲む。
血が、
行間に落ちる。
世界が、
反転する。
⸻
今回は、
着地が、
さらに静かだった。
音も、
衝撃も、
ない。
気づけば、
私は、
夜の道に立っていた。
けれど、
胸の奥が、
ざわつかない。
嫌な予感が、
ない。
それが、
ひどく、
不安だった。
都は、
明るかった。
夜だというのに、
灯りが多い。
人の声が、
遠くまで届く。
怒鳴り声ではない。
悲鳴でもない。
生活の音。
「……?」
私は、
歩き出す。
誰にも、
止められない。
誰にも、
囲まれない。
その事実が、
じわじわと、
胸に染みる。
前回まで、
ここは、
必ず、
何かが起きる場所だった。
なのに。
「道満さま」
声が、
聞こえる。
振り向くと、
人だかりの向こうに、
見覚えのある背中があった。
蘆屋道満。
けれど、
立ち位置が、
違う。
境の外ではない。
逃げ場でもない。
人の輪の中。
誰かが、
何かを頼み、
彼は、
それを聞いている。
「……それは、
無理やな」
軽い調子。
拒絶ではない。
「せやけど、
こっちは、
俺が引き受ける」
人々が、
頷く。
疑わない。
恐れていない。
私は、
足を止めた。
胸の奥が、
静かに、
音を立てて崩れる。
――ああ。
もう、
私が割って入る隙は、
ない。
道満は、
説明しない。
弁明しない。
ただ、
そこに立って、
役割を果たしている。
誰も、
彼を“悪”として
見ていない。
少なくとも、
この夜には。
私は、
一歩、
後ずさる。
誰にも、
気づかれない。
気づかれないことが、
当たり前になっている。
それが、
答えだった。
――私が、
何かを言う必要は、
もう、ない。
それでも、
胸の奥は、
痛まなかった。
代わりに、
奇妙な、
安堵がある。
この人は、
もう、
一人で立っていられる。
私が、
いなくても。
その事実が、
嬉しくて、
同時に、
ひどく、
怖かった。
夜風が、
頬を撫でる。
私は、
その場を離れた。
気づけば、
自分の足音が、
とても小さく感じられた。
この夜は、
まだ、
終わっていない。
けれど、
私の役目は、
もう、
削られ始めている。
そう、
はっきりと、
分かってしまった。




