第三章 好敵手という名
好敵手という名
戻った、という感覚は、
もう、驚きを伴わなかった。
身体が、
この移動を覚えてしまっている。
目を開けると、
机。
論文。
静かな部屋。
すべてが、
前と同じ形をしている。
それなのに、
胸の奥だけが、
まったく別の重さを持っていた。
私は、
しばらく、動けずにいた。
第三の夜。
逃げて、捕まって、
引き金になった夜。
あの場所に、
自分が立っていた感覚が、
まだ、皮膚の内側に残っている。
論文を、
そっと閉じる。
代わりに、
パソコンを開いた。
もう、
躊躇はない。
検索窓に、
同じ名前を打ち込む。
――蘆屋道満。
画面が切り替わる。
現れる文章。
私は、
一行目から、
違和感を覚えた。
反逆。
悪。
そうした言葉が、
少し後ろへ退いている。
代わりに、
別の言葉が、
目に入った。
安倍晴明の好敵手として名を残す。
私は、
その一文を、
何度も読み返した。
好敵手。
敵であり、
対等であり、
否定しきれない存在。
完全な悪ではない。
英雄でもない。
けれど、
「ただ討たれた存在」では、
もうない。
胸の奥で、
何かが、
静かにほどける。
――変わった。
はっきりと、
変わってしまった。
私が、
あの夜に立ったことで。
引き金になったことで。
犠牲になったことで。
そのすべてが、
この一行に、
圧縮されている。
私は、
画面から、
目を逸らした。
嬉しい、とは、
言えなかった。
後悔だけでも、
ない。
ただ、
確かな実感がある。
――私は、
正史に、
触れてしまった。
戻れない場所に、
足を置いた。
それでも。
好敵手。
その言葉は、
「悪」よりも、
ずっと、
彼に近い。
あの夜、
境の外で歪みを引き受けていた背中を、
否定しない言葉だ。
私は、
椅子に、
深く腰を下ろす。
論文を、
もう一度、開く。
同じページ。
けれど、
行間が、
また、広がっている。
ここで、
終わる気がしなかった。
まだ、
余白がある。
まだ、
書き換えられていない部分が、
残っている。
指先を見る。
白い。
けれど、
次に何をすればいいのかを、
この身体は、
もう、知っている。
胸の奥で、
あの低い声が、
かすかに響く。
――引き金は、
もう引かれとる。
私は、
ゆっくりと、
息を吐いた。
次に血を垂らすとき、
それは、
もう、迷いではない。
この世界が、
どこまで変わるのか。
そして、
自分が、
どこまで消えていくのか。
それを知るために、
私は、
まだ、
止まれなかった。




