第三章 下 引き金の場所
引き金の場所
最初に感じたのは、
逃げなければならないという衝動だった。
理由は、はっきりしている。
この夜は、
私が中心に置かれている。
玉藻前の視線が、
そう告げていた。
「……下がって」
道満の声が、
低く、短く落ちる。
命令ではない。
選択肢を渡す声。
私は、
一瞬だけ迷ってから、
頷いた。
走る。
夜の道を、
何度も通ったはずの場所を、
息を切らして駆ける。
風が、
追ってくる。
いや、
追っているのは、
風じゃない。
気配だ。
数ではない。
質でもない。
向き。
すべてが、
こちらへ向いている。
――私だ。
私は、
この夜の“重心”になっている。
足音が、
乱れる。
どこかで、
結界が、
きしむ音がする。
朱の光が、
遠くで揺れた。
晴明が、
内側を固めている。
その事実が、
逆に、胸を締めつける。
私は、
内側に入れない。
入ってはいけない。
走りながら、
理解してしまう。
この夜は、
逃げ切れない。
「……っ」
足を取られる。
転んだ衝撃が、
腕に走る。
立ち上がろうとして、
その前に、
影が落ちた。
上からではない。
周囲から。
絡め取られる。
妖。
前回よりも、
はっきりと、
意思を持っている。
逃がさない。
私は、
声を出そうとして、
喉が、音を拒否する。
「やはり」
やさしい声が、
頭上から落ちてくる。
玉藻前。
歩いてきた、
というより、
そこに“現れた”。
「あなたは、
ここに来る」
逃げることも、
計算のうちだった。
「……離してください」
声は、
かろうじて出た。
玉藻前は、
首を振る。
「それは、
できません」
その言葉は、
あまりにも静かで、
あまりにも冷たい。
「あなたは、
ここにいる必要がある」
「……何のために」
問いは、
分かっていて投げている。
玉藻前は、
答えを、隠さない。
「百鬼夜行の、
“焦点”になるためです」
胸の奥が、
凍る。
「あなたは、
境を開いた」
「なら、
境は、
あなたを通って、
溢れる」
私は、
歯を食いしばる。
逃げようとした。
抵抗しようとした。
けれど、
妖の拘束は、
不思議なほど、
痛みを伴わない。
――だから、
余計に、
恐ろしい。
「安心してください」
玉藻前は、
続ける。
「あなたが、
死ぬ必要はありません」
それは、
救いの言葉の形をしている。
「ただ、
“在る”だけでいい」
私は、
息を吸う。
胸が、
強く、鳴る。
――この夜は、
私を、
通過点にする。
闇が、
集まる。
一体、二体ではない。
数えられない存在が、
私の周囲で、
形を取り始める。
百鬼夜行。
今回は、
逃げ場がない。
「……道満さん」
呼んだ声は、
届かないと思っていた。
けれど。
空気が、
変わる。
低い術の流れが、
妖の気配を、
一段、沈める。
「……呼ぶな」
道満の声。
苛立ちではない。
痛みを含んだ声。
彼は、
私の方を見ない。
見ないまま、
妖を制する。
「ここは、
俺の役割や」
私の周囲に、
新たな影が重なる。
守るための、
妖。
「引き金は、
もう引かれとる」
そう言って、
初めて、
こちらを見る。
「……だから、
これ以上、
背負うな」
その言葉が、
胸を裂いた。
私は、
首を振る。
「……私が、
ここに立った」
それは、
逃げの言葉じゃない。
「だから、
私が、
見届けます」
道満は、
一瞬、目を伏せる。
それから、
低く息を吐いた。
「……ほんまに、
厄介な場所に、
立ちよったな」
それは、
呆れにも、
怒りにも、
どちらにも聞こえた。
百鬼夜行は、
止まらない。
闇は、
私を中心に、
京へ向かう。
晴明の朱が、
必死に、内を守る。
道満の妖が、
外を引き受ける。
私は、
その中間に、
縛られたまま立っていた。
――私は、
この夜の、
引き金だ。
それを、
はっきりと、
理解してしまった。
涙は、
出なかった。
ただ、
胸の奥が、
ひどく、
静かだった。
夜は、
やがて、
終わる。
けれど、
この感覚は、
消えない。
私は、
一線を越えた。
そう、
分かっていた。




