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第一章 上 血が落ちた夜

 血が落ちた夜


論文は、静かだった。


声もなく、主張もせず、

ただ古い紙の重なりとして、机の上に置かれている。

黄ばんだページの端は波打ち、

何度も読まれてきた痕跡だけが、かすかに残っていた。


私は、その論文を読み返していた。

理由は、はっきりしていない。

卒論でも、研究でもない。

ただ、気になってしまったのだ。


――蘆屋道満。


正史の中で、はっきりと「悪」と書かれた名前。

安倍晴明に敗れ、

都を乱した術者として簡潔に処理されている人物。


記述は短く、感情がない。

善悪の理由も、背景も、ほとんど書かれていない。


それが、どうにも引っかかっていた。


ページをめくる指先が、少し乾いていた。

冬でも夏でもない、

集中しすぎたとき特有の、微妙な渇き。


紙の端に、引っかかりを感じる。


一瞬だった。


チクリ、とした痛み。

反射的に指を引く。


「あ……」


小さく声が漏れた。

見ると、人差し指の先が切れている。

深くはない。

けれど、赤は思ったよりもはっきりしていた。


血は、迷わず落ちた。


論文の上。

行と行のあいだ。

ちょうど、蘆屋道満の名が書かれた、そのすぐ下。


ぽつり、と。


赤が紙に吸い込まれる。

繊維に沿って、ゆっくりと滲む。

まるで、最初からそこに落ちることが決まっていたみたいに。


「あ……」


慌てて指を押さえた、その瞬間。


文字が、揺れた。


いや、文字ではない。

行間が、ずれた。


目の錯覚だと思った。

疲れているのだろうと、そう判断しようとした。


けれど。


机が、遠のく。


床が、消える。


音が、一瞬、すべて抜け落ちる。


――息ができない。


視界が裏返る感覚。

高いところから落ちるときに似た、

内臓だけが先に下へ引っ張られる感覚。


声を出そうとして、

口が開かない。


次に意識が戻ったとき、

私は、冷たい地面の上にいた。


土の匂いが、強い。

湿り気を含んだ、夜の匂い。


空が、低い。


建物はあるのに、

どこにも現代の灯りがない。

月の光と、遠くの松明だけが、闇を切り取っている。


「……どこ……」


声が、ひどく小さかった。

自分の声なのに、

自分の耳にすぐ戻ってこない。


立ち上がろうとして、

足に力が入らないことに気づく。


着ている服も、

さっきまでと違っていた。

布が重く、動きにくい。


胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。


――冗談じゃない。


夢だと思いたかった。

けれど、土の冷たさは、はっきりと現実だった。


遠くで、声がする。


笑い声。

荒い言葉。

複数の足音。


嫌な予感が、

理屈より先に身体を支配する。


「……まずい」


そう思ったときには、もう遅かった。


人影が、いくつも近づいてくる。

灯りに照らされて、乱れた衣と、酒の匂いが分かる。


囲まれている。


言葉を投げられる。

意味を理解する前に、

距離の近さが、恐怖を呼び起こす。


一回目だ。

私は、ここで何もできない。


声が、出ない。


足が、動かない。


身体が、現実を拒否している。


――終わった。


そう思った、その瞬間。


空気が、変わった。


音が消えたわけではない。

ただ、別の気配が、夜に混じった。


地面から、影が立ち上がる。


人の形をしているのに、

人ではない。


輪郭が、揺れている。

闇よりも濃い、存在。


妖。


男たちが悲鳴を上げる前に、

足を取られ、倒れ込む。

叫び声は途中で切れ、

夜の奥へと散っていった。


私は、その場に座り込んだまま、

ただ、それを見ていた。


怖い、という感情が、

なぜか、浮かばなかった。


代わりに、

ひどく静かな気持ちが、胸に広がる。


影は、役目を終えたように、

音もなく消えていく。


そのあと。


背後から、声がした。


「……怪我はないか」


低い声。

落ち着いていて、

夜と同じ高さにある声。


振り向く。


そこに、男が立っていた。


月明かりの下で、

顔立ちははっきりしない。

けれど、目だけが、異様に静かだった。


「ここは、夜になると荒れる」


責める調子ではない。

事実を述べるだけの声。


「女一人で来る場所やない」


私は、何も言えなかった。

ただ、頷くことしかできない。


男は、それ以上、何も聞かない。


私と、夜のあいだに立つ。

庇う、というより、

最初からそこが立ち位置だったかのように。


「……助けて、くれたんですか」


やっと出た声は、

自分でも驚くほど震えていた。


男は、少し間を置いてから首を振る。


「妖がやった。

俺は、声を聞いただけや」


その言い方が、

なぜか、胸に引っかかった。


力を誇らない。

自分の行為を、主張しない。


ただ、そうだった、と言うだけ。


「……蘆屋道満や」


名乗りも、淡々としている。


正史で読んだ、その名前。


――悪。


頭の中で、その文字が浮かぶ。


けれど、目の前の男と、

どうしても結びつかなかった。


「今日は、もう帰り」


そう言って、男は踵を返す。


去っていく背中を、

私は、ただ見ていた。


夜の闇に溶ける、その姿を。


理由も分からないまま、

胸の奥に、

小さな違和感だけを残して。


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