前編
「アゼリア、聞いてくれ。こうなったらもう、婚約は、取り消すしかない。僕が愛しているのは、君ではなくナンシーなんだ。君との結婚などありえない」
このひとは、突然何を言い出したのだろう。
ロックハート侯爵家主催の夜会の場で、当主の娘であるアゼリアに対し、その婚約者として招かれているサヴェージ伯爵家次期当主の青年、ジェイクは唐突な打ち明け話をしてきた。
アゼリアは、ひとまず落ち着こうとゆっくり瞬きをして「ジェイク?」と婚約者の名を呼んだ。
途端、いかにも貴族らしい身なりをした黒髪の青年ジェイクは、顔をくしゃっと歪めて「やめてくれ、君はもう僕のマイスイートではない」と言い出した。
苦悩するジェイクの横には、ハニーブロンドで愛らしい顔立ちの令嬢が、深刻そうな表情を浮かべて寄り添っている。
「ジェイク、ごめんなさい。あなたを苦しめることになって、私は本当に申し訳ないと思っているの」
「ナンシー、君が自分を責めることはない!」
ジェイクは芝居がかった叫び声を上げ、相手をひしっと抱きしめた。
流れるような愁嘆場に「え」とアゼリアは間抜けな声を漏らしてしまった。
(お二人の距離、近過ぎませんか?)
婚約者であるアゼリアを差し置き、その目の前で別の令嬢と抱き合うジェイク。
大勢の招待客たちの目に、ふれるわけにはいかない光景であった。
アゼリアは周囲を気にしつつ、小声で「ジェイク、場所を変えましょう」と提案する。
途端、ジェイクは大仰なほどのため息をついた。
「ジェイク、ジェイク! 『ああしましょう』『こうした方がいい』『私の言うことを聞いて』君はいつも常識人ぶって、僕に指図ばかりする! たかが婚約者で、結婚もしていないのに。いったい何様のつもりだ。侯爵令嬢というのは、そんなに偉いのか?」
調子の外れた大声は、それまで騒動に気づいていなかった参加者たちの注目を集めた。
誰? サヴェージ伯爵家の令息と、アゼリア嬢では? と、囁きを交わす声が耳に届く。
これではもう、ごまかしようがない。
(わざわざゴシップのネタを提供しなくてもいいでしょう、よりにもよって侯爵家が主催の夜会で!)
アゼリアには後継者たる兄がいて、侯爵家では継ぐ財産もないことからジェイクと結婚して「伯爵夫人に収まる」それだけ見れば、縁談としては悪くない。
一方、サヴェージ伯爵家は現在、領地経営がうまくいかず、投資にも失敗したとのことで、資金繰りが非常に厳しいと聞く。アゼリアの持参金を頼みにするどころか、すでにロックハート侯爵家からほぼ無利息に近いかたちで、貸付も受けているのだ。実質、援助である。
婚約段階から、両家は結婚後を見越してすでに動いてきた。
それは、当事者とはいえジェイクの一存で軽々しく「取り消すしかない」と言えるようなものではない。ましてや侯爵家主催の夜会で、別の令嬢と抱き合いながらなど「浮気が本気になった」と周囲に受け取られてしも仕方のない状況だ。
熱に浮かされているにしても、もう少し穏便にできなかったのかしら? と、アゼリアはジェイクの軽挙妄動に呆れ果てていた。
しかし、ここで理性的ではない発言をしようものなら、「捨てられた女の怒り」などと発言を切り取ってゴシップ紙に書き立てられかねない。そうなると、世間には「アゼリアにも問題があった」と受け止められ、被害者どころか加害者のような印象付けがなされてしまう恐れがある。
あくまでも、理性的に対応しなければ。
「どちらが偉いとか、そういう話ではなくて、私とあなたは婚約者として対等な立場です。あなたが私に伝えたいことがあるとしても、それをこういった場で話す必要はありますか? 二人で話して解決しない問題であるとあらかじめわかっているのならば、お互いの両親や信頼できる方の立ち会いも必要になることでしょう。私の言っていることは、わかりますね?」
可能な限り、穏やかな声を心がけたつもりであるが、言い終える前にすでにナンシーという令嬢は目にいっぱいの涙をためていた。そして、わっと声を上げて泣き出すと、ジェイクに取りすがった。ジャケットが濡れるのもいとわず、ジェイクはナンシーを胸に抱きしめる。
そして、アゼリアへ鋭い視線を向けて言った。
「本当に君は、わからず屋だな。真実の愛によって結ばれた僕とナンシーのことが、それほどまでにうらやましく、憎らしいのか? よくも次から次へとそんな意地悪を口にできるものだな! この冷血漢が!」
人前であることも構わず怒鳴りつけられて、アゼリアは次の言葉に悩んだ。
アゼリアの感覚として、意地悪と言われるような発言をしたつもりはない。だが、いまのジェイクは何を言っても悪くとらえて、アゼリアが言ってもいないことを、あたかも言ったかのように言い返してくる。声の大きさからして、ジェイクの言い分の方が広範囲に届いていることだろう。噂が広まれば、アゼリアだけでなく、ロックハート侯爵家の名にも傷がつく恐れがある。
さすがに、これ以上は見過ごせない。
(最初から見ていたひとがいるのは、むしろありがたいことと受け止めるべきね。どう見ても、これはジェイクとその浮気相手に、私が難癖をつけられているだけだって、わかるはずだから――)
アゼリアは、そう信じて疑っていなかったのだ。
しかし、そこからの展開はおおよそアゼリアの予想にはないものだった。
* * *
“すばらしい!! 己の信念を曲げず、愛するひとの手をとる。これぞ真実の愛”
“感動したわ。今日の夜会に出席して、彼らの愛を目にすることができて、本当に良かった”
“二度と味わえぬような体験でした。子々孫々「真に愛するひとを大切にする」その素晴らしさを伝えていきたいと思います”
翌日、社交界新聞の一面を飾ったのは、愛を貫いた貴族令息の美談。
絶賛のコメントが列挙されていて、批判している者は誰もいないという有り様。
「何これ」
朝食の席で兄からゴシップ誌を受け取り、一読してアゼリアは唖然とした。
「見ての通り」
優雅な所作でお茶を飲んでいた兄のカロンは、アゼリアの困惑をさらりと受け流す。
(こんな馬鹿なことってある? どう見てもあれは彼の向こう見ずな不貞であって、若気の至りで、最低最悪な裏切りだと思いますけど? なぜ絶賛……)
不幸中のほんの少しの幸いといえば、紙面のどこにもアゼリアを非難する内容がなかったことだ。もっともこの一件がどこからどこまで「不幸」で「幸い」なのか、アゼリアには一考の余地のあるところである。
大勢の前で、軽率な振る舞いをする相手と結婚する前に縁が切れて良かった……そう思えば「良いことづくし」とみなして良いかもしれない。
ジェイクに対しては、婚約者として親切に接してきたつもりだが、燃えるような恋情を感じたことはなかった。
彼の浮気に気づかぬまま結婚した場合、自分は「愛する二人を引き裂いた悪女」となり、二人は自分を邪魔者と陰で罵りながら交際を続けたのかと思えば、このタイミングで発覚して良かったのだとすら思う。
没落寸前の伯爵家は、このあと侯爵家からの援助を受けにくくなるばかりか、これまでの貸しについても「話し合い」となるだろう。それはひとえに令息の振る舞いの結果であり、アゼリアからすると「頑張ってください」としか言いようがない。
ここまで考えて、アゼリアは「そうは言っても」と腑に落ちない思いを抱く。
「今季の社交界では、目玉になる一大事だと思うのですけれど。あれほどのゴシップを、海千山千の社交界のお歴々が好意的に受け入れて『真実の愛、婚約破棄』いいじゃないって流してしまうなんてこと、ありますか?」
前夜、もやもやを吐き出しそびれていたアゼリアは、家族だけの場だけに遠慮なく自分の考えを口にしてみたものの、居合わせた両親と兄は平然としたものだった。
「そういうことも、稀によくあるんじゃないか?」
普段は切れ者と評判の父、ロックハート侯爵にとぼけた口調で言われて、アゼリアは即座に「ないと思います」と言い返した。
「ああいう情緒的かつ短絡的で、自分のことだけしか考えていない幼稚な振る舞いは、社交界では業火を浴びるはずです。誰も彼もがなんとなくたら~んと受け入れるだなんて……!」
「あら。アゼリアはいったい、何を望んでいるというの? 『他に好きな相手がいる、没落寸前の貴族の嫡男』がそこまで惜しかったの?」
婚約を決めるときには何かと後押ししていたはずの母にまでそんなことを言われて、アゼリアは絶句する。どういうわけか「到底問題にはなりえないこと」を、アゼリアだけが気にして騒いでいるという扱いである。
とどめのように、兄のカロンが言い放った。
「相手なら他にいくらでもいるだろう。次がある、次が」
まるで「失恋して、未練がましくジェイクを思っている」かのような言い方だった。
(なに? どうして? 私がおかしいの? 「貴族の娘として生まれたからには」って親の決めた相手に嫁ぐつもりになっていて、その梯子を外されたことにびっくりしているのだけど……これって私がおかしいの?)
前夜は、騒ぎになるのを面倒に思って、即座に部屋に引き揚げてそのまま寝てしまった。
起きたら騒ぎは続いていると覚悟していたのに、ただの祝い事になっていた上に、一番騒ぐべき家族まで受け入れてしまっている気配である。
絶対におかしい。
まるで、寝て起きたらよく似た異世界に来てしまったみたいだ。
突然の婚約破棄が、無責任と謗られることなく、むしろ讃えられる、謎の世界……。
「すみません。ちょっと寝直します。今日はたいした予定がなかったと思いますので、私は断固として寝直すことを選択します。誰も止めないでください」
これ以上、わけのわからない会話を続けるのも気が進まないと、アゼリアは席を立つ。
そのとき、妙な視線を感じて食堂を見回した。
両親、兄。給仕にあたっていた使用人。
見慣れぬ金髪の男。
アゼリアは、無言のまま眉をひそめた。
(誰?)
純白の騎士服のようなジャケットを身に着け、その肩に輝くような金髪を流したその男は、おそろしく綺麗な顔立ちをしていた。高く通った鼻梁に薄い唇、香気漂う目元の造形も青く澄んだ瞳も美しい。すらりと背が高く、顔も小さく、いかついわけではないが軟弱さもない体つきで、抜群に見目が良かった。
すれ違った誰もが、いまのは現実の人間かと何度見かしてしまうような麗しさである。
その美貌は大いに気になるのだが、それ以上に引っかかるのは、ここがロックハート侯爵家の食堂で部外者が立ち入るような場ではないことである。
当然、面識もない。
そうであるにもかかわらず、何をするでもなく相手はぼーっと立っている上に、誰もその存在を気にしている素振りが見られない。
「なんで……?」
口の中でごく小さな呟きをもらしたとき、半信半疑のような顔でアゼリアを見てきていた相手がハッと息を呑んだ。
「俺のこと、見えてます?」
よく通る、響きの良い低音で尋ねられる。
アゼリアは、目を瞬いた。
(見えてるかって……)
彼が不思議な問いを発したというのに、両親や兄、使用人の表情や態度には、何の変化も見られない。つまり、その振る舞いを見る限り、アゼリア以外の者に声が聞こえている様子はなく、そこに謎の男が立っていることにも気づいていないようなのだ。
戸惑うアゼリアに対し、テーブルの向こう側から相手は身を乗り出してきた。
「絶対、見えてますよね。見えてるし聞こえてる。他と反応全然違い過ぎる。あの、昨日の件で話があるので、ちょっと場所を変えて話しませんか? ここでいきなり話し始めると、俺のこと見えない他の皆さんがびっくりすると思うので」
早口で、提案される。
それが、奇しくも前の晩にアゼリア自身がジェイクに提案したのと似通った内容であったことに、アゼリアは妙な因縁を感じて、笑ってしまった。そして、相手に頷いてみせた。
金髪の男は、妙に安堵したように表情を和ませてから、自分の胸に手をあてて名乗ってきた。
「フレミングと申します。天使です。天界から人間界へ、天使昇格最終試験のために来ています。昨日は私の手違いでとんでもないことをしてしまったみたいで、どうにかあなたとお話したいと思っていたんです」