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口裂け女はあなたの友

作者: 青柳伝草

   「口裂け女はあなたの友」


                      青柳 伝草


 突然、冷たい風が町を吹き抜け、落ち葉が舞った。

 道端に落ちていた、新聞紙が舞った。

 通りに歩いていた大勢の人々も風に吹かれ、ある者はポケットに手を突っ込み、ある者はコートの襟を立て、足早に通り過ぎていった。

 マスク姿の人が目についた。とても寒く、刺すように乾燥した日が続いていたのだ。

 ベージュのコートを着た髪の長い女も、白いマスクをしていた。

 その髪とマスクで、女の表情は窺えなかった。吹き抜ける風が、僅かに後ろ髪をゆらすことはあっても、その眼差しが見えることはなかった。ただ、ゆっくりと歩いていた。

 舞い上がった汚らしい新聞紙が、女の方まで飛ばされ、体に触れそうになった。

 一瞬なにかが、キラリと光った。

 新聞紙は音も無く二つに分かれて、女をすり抜けていった。そして、やはり音もなく、地面に落ちた。

 足早に歩く人達は、誰も女のことを気にとめなかった。女は、何もなかったかのように、そのまま歩き去った。切り裂かれた新聞紙も、またどこかに飛ばされていった。

 風の音が止むと、街には無言で歩く人々の足音が響いた。


 地元情報誌「ニューらいん」は、ここ数年確実に発行部数が落ちていた。

 地域密着の情報も、今はネットで、より早くより詳しく知ることが出来るのだ。誰のものでもなく、どこにあるわけでもない、ネットという物の怪の席巻により、地方情報雑誌は存在価値を失いつつあった。

 当然、その編集部となれば、物の怪にとり憑かれたように、活気のない、どんよりとした空気につつまれていた。

「ただいま戻りました」

 副島(そえじま)昌巳(まさみ)が、疲れた顔で戻ってきた。

 まだ若い男だが、シャレっ気なく無精ひげを伸ばし、若々しさを感じさせない男で、前髪もだらしなく伸ばし、それを面倒くさそうにかきあげた。

「ニューらいん」の編集は、古いビルの一室の、その一角だけで細々と行われていた。副島と目が合って軽く頭を下げる者はいたが、何か声をかける者はいなかった。副島も誰に話しかけることなく、自分の机の前にくると、野暮ったいダッフルコートも脱がず、とりあえず座って小さくため息をついた。そして、ショルダーバックから使い込んだ古いシステム手帳をとりだし、パラパラとめくってみた。

 今日の仕事は、「美味しいコーヒーが飲みたい・噂の喫茶店特集(地元編)」の取材だった。地元編といっても、都心編や近県編があるわけではない。ただ、地元をアピールしたいだけのようだ。しかし、近所で美味しくて噂になっている喫茶店など、すくなくとも副島は聞いたことがなかった。ただ、目についた純喫茶風の店に、取材を申し込んだだけだ。取材OKなら、もうそこが噂の喫茶店ということにして話を進めた。

 そんな取材ではあったが、副島はきちんとコーヒーを一杯ずつ飲んできた。コーヒーは嫌いではなかったが、今は、しばらく遠慮したい気分だった。

「胃がおかしい」

 副島は痩せた体を折り曲げ、腹をさすりながら言った。しかし、記事を書くのはこれからで、その場でしたためたメモを見つつ、一店一店の味を思い出して表現していくつもりだった。

「いよ、どうだった」

 隣の席の高嶋(たかしま)陽一(よういち)が、ちょうど喫煙所から戻ってきた。手にはコーヒーの紙コップが握られていた。

「今日は俺の隣で、あんまりコーヒー飲まないでほしいな」

「全部、きっちり飲むから大変なんだよ。僕だったら、口もつけないね」

「なんだよ。それは、失礼だなあ。だいいち、飲まないと記事書けないだろ」

 副島は、脱いだダッフルコートを椅子に掛けた。

「味なんて、そんな変わりっこないし、誰も分かっちゃないさ。いまどき、マズいコーヒー出す店なんてないんだから、全然問題ない。それより、店の外観とか雰囲気とか歴史とか、店員の印象とか、あと、まあなんか面白そうなエピソードなんかを拾っといて、それでもう記事としては完璧でしょ」

 いい加減なことを言う高嶋だが、外見はきっちりとしていた。サラサラに手入れの行き届いた髪、シワのないシャツとパンツ、剃り残しの見えない口元など、白い顔とも相まって、神経質そうにすら見えた。机の上も、雑然と資料がちらかっている副島と違い、多くのファイルや書籍が、整理され並んでいた。

「それで、取材は順調だったのか?」

「まあまあ。どこも協力的だったよ。一応、宣伝になるしね。うちみたいな小さい雑誌でも……」

 言ってしまってから、副島は少し気まずい顔をして辺りを見たが、誰も副島の言うことを聞いていなかった。

「ふうん。そういう取材は得だよな」

「ああ、でも一軒だけ、なんか嫌な顔して、あんまり協力的じゃなかった店があった」

「ほう。どこ?」

「三丁目の、焼き鳥屋の隣、知ってる? 『山本』って店」

「ああ、そこか。知ってるよ。あそこのマスター、無愛想だからな。まあ、そういう人もいるだろ」

「でも、もうちょっと協力的でもいいのに」

 副島は、俯いて嫌な顔をした。

「だから、そういうこともあるって。みんながみんな協力的じゃないさ……『山本』ねえ」

 何故か店の名前を繰り返し呟いて、高嶋は資料に目を戻した。たまたま、一緒に挟んでいた封筒が目に入った。

「あ、そうだ。ちょっと面白い手紙が編集に来てるんだけど、読んでみる?」

 高嶋は、封筒を指でつまんで見せた。

「へえ。誰から? 読者から?」

「ああ。小学三年生だそうだ」

「そりゃ、また若いね」

 チラっとだけ見ると、いかにも子供らしい、大らかな字が書かれていた。

 雑誌「ニューらいん」の読者層は幅広かった。可もなく不可もなく、当たり前ながら刺激的なことなど何もない内容は、ある意味、子供にも安心して読ませることができた。子供は好奇心旺盛で、地元のいろいろな情報に興味を持ってくれた。もっとも、最近は、その子供も、どれだけ読んでくれているか。

 とはいえ、読者からのお便りは貴重だった。

 分かってはいたが、

「急いで記事書かないといけないから、後で・・・・・・」

「いや、まあ、簡単に言えば、『ムラサキカガミ』を忘れたいんだけど、どうしたらいいでしょう、っていう内容」

「ムラサキカガミ? 忘れたい? なんだそれ」

 副島には意味が分からず、呆然と高嶋の顔を見つめた。

「知らないのか? ムラサキカガミ。子供の頃、結構話題になったけどなあ。地域によるのかもしれないね」

「子供の頃かあ。あんまり記憶ないんだよね。どういう意味? ちゃんと説明してくれよ」

「話は単純。ムラサキカガミっていう言葉を忘れることができなかったら、二十歳の誕生日で死ぬんだよ。何故死ななきゃいけないのか? どうやって死ぬのか? 何の因果か? 何の応報か? そんなこと知らない。呪いか、魔法か、陰謀か、なんだか訳が分からないが、とにかく死ぬ。絶対に覚えていたら死ぬ」

「へえ、そりゃすごい」

 妙に興味を感じた副島は、さっそくペンをつかみ、手帳の隅に「ムラサキカガミ」と走り書きをした。

「死ぬことになるんだから、僕も子供の頃、けっこう怖がってたな。もちろん、無事に二十歳の誕生日は過ぎたけど」

「はあー、うまいこと考えたやつがいるもんだ。ムラサキカガミ、って何のことだかよく分からないけど、なんか、いかにも意味がありそうだもんな。それで、忘れなきゃいけないんだろ? 忘れないようにするってのは、何とでもなるかもしれないけど、忘れるってのは、意識して出来ることじゃないよ」

「普通はな。例外もあるけど。たとえば、子供の頃によっぽどの辛い体験をすると、その記憶を無くしてしまうこともできるそうだ」

「そうか? まあ、どっちにしても、子供を怖がらせるには良くできた話だ。いったい誰が考えたのかな? 作家か?」

「誰が作ったか分からないけど良くできた話。それが都市伝説ってもんだ。いくら面白い話でも、作り込みが透けて見えるような話は、都市伝説にはならない。もし作った人がいたとしても、そいつの手を離れて、話が勝手に広がり続ける。なにしろ伝説だから」

「都市伝説か・・・・・・いけるなあ」

 ペンで唇を叩きながら思案顔の副島を見て、高嶋は鼻で笑った。

「やめとけよ。今まで都市伝説を扱った書籍は山ほど出てるし、いまさらって感じだよ。だいいち、うちはオカルト雑誌じゃないんだから、あんまり変なことは書いちゃまずいだろ」

「うーん、そうだなあ。でも、軽く、ちょっとだけ、地元に伝わる都市伝説とか怪談を集めて、小特集みたいな感じで取り上げるのも、悪くないんじゃないか」

「あんまり、新鮮な話は集まらないと思うけどね」

「聞いたような話でもいいんだよ。地元の話だと、よりリアルに感じるだろ」

「そんなに言うなら、あっちに相談してみれば」

 高嶋は、窓際に座る編集長をあごで差した。

 編集長の男は、彼らよりいくらか歳をとっていたが、落ち着きが無く、いつも苦い顔をしていた。

 副島が目をやると、シャツの上に茶色のカーディガンを着たその男は、やはり苦い顔をして、パソコンのモニターを見つめていた。指は動かさず、ただ見つめていた。

「いい予感はしないけど……ちょっと話してみるか」

 重い足取りで近づいていき、すぐに机の前まで来たが、まるで気付かないかのように、目も合わせなかった。

「すいません。ちょっとよろしいですか」

「副島君」

 話しかけたのは副島だが、編集長はまるで聞くつもりがないかのように、自分から話を始めた。

「アレ。やり直し」

「あれ?」

「それだよ、ソレ」

 編集長は、机の隅に、邪魔そうに置いてある、原稿を指差した。

「あ。これは、僕が書いた原稿ですね」

「君は何年編集やっている。こんな原稿じゃ使えないよ」

「はあ……」

 編集長は、細く濁った眼で副島を見つめた。

「君は何も分かってないな。一行目に誤字があるんだよ。これが、どれだけ致命的か分からんのか」

「いや、それは、あとで校正……」

「一行目で誤字があると、読者は、作者を信用できなくなって、もう続きを読む気が失せてしまう。そんなことも知らないのかね」

「すいません」

「謝らなくてもいいから、さっさと書き直しなさい」

「はい、……で、内容は?」

「なに?」

「その、内容は、いかかでしたか」

「知らないよ。一行目しか読んでないって言っただろ。いいから早く書き直せ」

 退散しないと、コーヒーでもぶっかけられそうな勢いだったので、副島は原稿を掴んで、そそくさと編集長の机を後にした。

 自分の机に戻ると、隣で高嶋がニヤニヤしていた。

「切り出せなかったようだね」

「そんな雰囲気じゃないだろ。まあ、いつもあんな感じだし、もともと俺のミスだけに、返す言葉ないね」

「なんだったら、勝手に取材してみればいい」

「え」

 高嶋は意外なことを言い出した。

「どうせ、この雑誌いつまで続くか分かんないし、次はどこに配属されるかも分かんないんだ。最低限やることだけやって、後は好きなことをするのもいいだろ」

「そりゃ、そうかも……いや、でも、最低限やることだけで、いっぱいいっぱいだよなあ」

「そうだな。一人じゃ、大変かもね」

 しかし、自分が直接手伝うのは、気が進まなかった。自分には、他に仕事が山ほどある。

 ふと、新人の菅谷(すがや)涼子(りょうこ)が浮かんだ。小さくて先のない編集部だが、どういう訳か一応新人が配属され、高嶋が教育担当だった。新人とはいっても、一年が経とうとしていたのだ。もう、高嶋が何か指導することは、ほぼなくなっていた。

「まあ、でも、俺が好きでやりたい事だから、しょうがないか。もちろん、手伝ってくれるなら、助かるけど」

「残念だけど、僕はやらないよ。でも、菅谷さんなら、少しは手伝えるかもしれない。彼女の勉強の為にも、一緒にやってみたらどうだ。僕が、話をつけてやる」

 副島は微妙な笑顔を見せた。

「う~ん、菅谷さんか。いや、菅谷さんを悪く言う訳じゃないよ。出来る人だと思うけど。思うから、逆に巻き添えにしたくないというか、まあ、巻き添えというのは大袈裟かもしれないけど、どうなるか分からない取材だし、あくまでも個人的に進めたほうが、いろいろと、責任とか・・・・・・」

「まあまあ」

 高嶋は笑って副島の肩を叩いた。

「いいんだよ。二人で遊びに行くような気でやれよ。おまえは大丈夫だろうし、彼女が、今取り組み中の仕事に支障がでるようだったら・・・・・・そんな事ないと思うけど、僕がフォローするよ。それに・・・・・・」

「それに?」

「ダメそうだったら、やめちまえよ」

 そう言って笑った高嶋は、自分の仕事に戻った。


 喫茶店「山本」には、営業途中といった風情のサラリーマンが一人、コーヒーを飲んでいた。口ひげをたくわえた、頭の薄いマスターは知らん顔で新聞を読んでいた。

「すいません」

 客がレシートを持って、勘定を払おうとしたが、全く気付かれなかった。

「すいませんっ。お勘定」

 少し大きな声で言った。マスターは面倒くさそうに立ち上がった。

 そして、何も言わずお金を受け取ると、その後、やはり何も言わず、さっさと座って新聞を読み始めた。サラリーマンは、軽く舌打ちしたが、それ以上何も言わず店を出た。

 マスター以外誰もいない店内に、気の抜けた有線の音楽が流れていた。

 カラン、とドアの開く音がした。マスターは、そちらを見ようともせず、新聞に目を落としていた。勝手にどこかに座るだろうと思っていた。

 ところが、入ってきた人物は、どこにも座らず、ゆっくりとマスターに近付いた。そして、正面まで来て立ち止まった。さすがにマスターは顔を上げた。

 コートを着た、髪の長い女が立っていた。

「……」

 小さな声でなにかを言ったが、よく聞き取れない。何故なら、女はマスクをしていたのだ。

「なに?」

 マスターは、少し強い調子で言った。

「……きれい?」

「なんだって?」

「あたし、きれい?」

「なに言ってんだ?。おまえ、おかしい……」

 マスターの声は途中で切れた。

 鮮血が辺りに飛び散った。


「都市伝説っていえば、学校の怪談ですよね?」

 菅谷涼子の思い付きの一言で、とりあえず二人は地元の小学校に行ってみることにした。

 夕日が、通りを歩く人々の影を長くするなか、学生の会社面接のような紺のスーツの上にコートを着た菅谷は、副島をリードするように、斜め前を歩いていた。

「若竹小学校っていう学校なんですけどね。私の母校じゃないです。私がこの辺りに越してきたときは中学生でしたから。妹の母校なんですよ。でも、妹からそういう話を聞いた記憶はないし、いい話が聞けるか分からないですが、とりあえず私と無関係な学校じゃないから、少しはやりやすいかな、と」

「取材しやすい、とか、やりにくい、とかで選んじゃだめだと思うよ。取材は、まず……」

「分かっていますよ。でも、まあ、いいじゃないですか」

 菅谷は笑った。少し丸い顔、少し大きな眼、少し大きい口と、古典的な美人顔ではなかったが、明るくて生きいきとして魅力的な表情は、暗い怪談の世界とは縁遠いものだった。

「それに、あまり怖い話はNGだよ」

「本当に怖い話はね。今どきの小学生が、トイレの花子さんを本気で怖がっていたりしませんよ。こういう話を、今の子供は怖がって面白がっている、くらいのノリでいいんじゃないですか?」

「そりゃあ、まあ・・・・・・」

 この企画の主導権が、早くも奪われつつある。副島は、ふとそんな事を思った。結果的にやりたいことが出来れば、まあ、どちらでも良かったが。

「・・・・・・とりあえず、話が拾えればいいけど」

 菅谷に言ったのか、自分に言ったのか、副島は小さく呟いて歩いた。

「ところで、副島さん、兄弟はいるんですか?」

「ああ、姉が一人いた。でも、俺がまだ小さい時に、死んだらしい。だから、姉のことは何も覚えてないんだ。うちの親も、姉のことは何も話さないしね。こっちから聞いても、やっぱり話そうとしない。まあ、分かる気はするけど。だから、何も覚えてないうえに、何も知らないんだ」

「そうなんですか・・・・・・すいません、変なこと聞いちゃって」

「別に。なにしろ、記憶が全く無いんだから、どうも思わないさ」

 表通りを外れ、静かな住宅街に入りこんでいった。

 自転車に乗って犬を散歩させている老人とすれ違った。老人はよろよろと自転車をこぎ、むしろ犬がそれに付き添っているようにも見えた。すれ違いざま、老人は二人を全く気に掛けなかったが、犬の方は走りながら、二人を見上げた。

「・・・・・・例えば、人面犬とか、知ってる?」

 街があまりに静かなので、副島が話し掛けた。

「オジサンの顔をした犬で、喋ったり、高速道路を走ったりするんですよね? 『ほっといてくれよ』とか言うんでしたっけ。なんか、笑っちゃいます。それこそ、怖くない話です。都市伝説も、話が膨らみ過ぎると、ギャグに近いものになると思いますよ。昔・・・・・・、江戸時代とか、ほんとに、それくらいの昔も同じかもしれませんね。例えば、のっぺら坊とか一つ目小僧とか、そういった妖怪、いますよね。あれも、本気で怖がってたというより、皆笑ってたんじゃないですか。そんなわきゃねーよ、みたいな感じで」

「どうだろう? そうかもしれないけど、やっぱり一部は本気で怖がっていたんじゃないかな。自然に対する畏怖、未知のものに対する恐怖だよ。それは、現代も同じで、人面犬だって、最初に噂が広がった頃は、真面目に怖がられていたと思うんだ。たしか、最初はサーファーの間で噂されていたらしいけど」

「サーファーにとって一番怖いのは、海でしょ? それが、陸を走る人面犬を怖がっているってのも、おもしろいですね」

 菅谷は、少し皮肉っぽく笑った。

「まだ着かないの。そろそろ暗くなってくるよ。小学生だと、もうこの時間誰も残ってないだろ」

「う~ん、そうかもしれませんね。まあ、先生からでも、何か話が聞ければいいじゃないですか」


 二人は、その後も無駄話を続け、案の定、小学校に着いたときには、生徒は誰一人残っていなかった。

 歴史のある学校らしいのだが、校舎自体は数年前に新築され、古い校舎は既に取り壊されていた。新しくきれいな校舎に、何かが出そうな不気味さは全く無かった。だが、敷地内の一部、例えば鉄製の重々しい扉が固く閉められた古い倉庫や、かなり昔に生徒によって造られたと思われる意味不明なオブジェなど、いい雰囲気を出しているものもあった。

 外から見ると、職員室らしき部屋だけが明るく、他の教室は全て真っ暗だった。闇の中、誰もいない校舎を歩くのも、それはそれで面白そうだが、学校荒らしと間違われてもいけないし、取材とは関係ないので、真直ぐ明るい部屋に向かった。

 職員室の中も外観と同様、明るく清潔な所だった。ただ、机の上が雑然としているのは、建物が新しくなっても変わらないようだった。

 幸いなことに、菅谷の妹を覚えていた教師がいたので、すぐに打ち解けて話をすることができた。

「都市伝説、というと?」

「まあ、ぶっちゃけたところ、怖い話なんかです」

「怖い話かあ・・・・・・、何かあったかな」

 だいぶ髪が白くなって、いかにもベテランといった風貌の教師は腕を組んだ。この教師が、菅谷の妹を覚えていた教師だった。

「仮に、何か話があったとしても、我々教師は、生徒の前でそれを肯定するようなことを言っちゃいけないのです」

 若い教師が、隣から口を挟んだ。菅谷の妹との縁は無かったが、話が面白そうなので、会話に加わってきたのだ。

「聞いた話なのですが、二十年以上前で、よその学校でちょっとした問題があったらしいのです。あるクラスで写真を撮ったら、何か写っていたのですね。まあ、いわゆる心霊写真です。現物を見てないので、どれくらい鮮明に写っていたか知らないのですが、おそらく、言われれば顔に見えないこともない、そんな程度じゃないですか。でも、一人が見える見えると騒ぎ出したら、それに乗っかってくる子もいる訳で、そうやって、話が広がってくると、もう誰も否定できなくなる。仲間外れになりたくないですから。

 まあ、ここまではよくある話です。放っておけば、沈静化しますよ。ところが、担任の教師もそれを見た。その教師は・・・・・・おそらく、まだ若い教師だったと思います。当時のオカルトブーム世代ですね。これは心霊写真だ、というような肯定的なことを言っちゃった。それが、結果的に騒ぎを大きくする原因となって、しまいにはマスコミまで取材に来るような大騒ぎになってしまった。これは、教師が否定的な態度を示していれば、騒ぎは広がらなかったのです。なんだかんだ言って、教師の発言は児童にとって重いのですよ」

「・・・・・・なんか、そう言われちゃうと、ミもフタもないんですけど」

 菅谷が不満そうな顔で言った。

「いやいや」

 苦笑いを浮かべながら、その若い教師は手を振った。

「まあ、これは、あくまで公的なスタンス。実際、僕は怖い話が好きで、夏なんかは、生徒にせがまれれば話すし、そういう教師は少なくないと思いますよ。私的な立場で怖い話を楽しむのと、公的な立場でオカルティズムを肯定するのとの、その微妙な違いが重要なのですね」

「う~ん、分かったような、分かんないような。じゃあ、固い話はやめて、その、生徒に話す、怖い話ってのは?」

 まるで児童のように、菅谷は怖い話をせがんだ。

「いやいや」

 また苦笑いで手を振った。

「相手が子供だから出来る話ですよ。おそらく、今ここでお聞かせしても、なんだその話か、と思われるだけです。はっきり言って、どこからか聞いた話のパクリですね」

「はあ。・・・・・・例えば、夜の学校で幽霊に追いかけられて、トイレの中に一晩中隠れていて、朝になったので安心して、ふと顔を上げると、上からじっとこちらを見つめていた、とかってやつですか」

「あはは。それは、子供達に受けましたね。昔からよく聞く話で、特にこの学校のトイレだけに伝わる話という訳ではありません」

「何か・・・・・・大した話じゃなくてもいいんですが、この学校に昔から伝わる話というものはないですか?」

 ずっと黙っていた副島が、やはり、あまり喋らないでいた、ベテラン風の教師に尋ねてみた。

「伝え聞いた話がないこともない。いや、ないどころか、私も、実際にその現象は確認したことがある」

「本当ですか?」

「あんまり期待されると困るのだけどね。現象なんていうほど、たいしたものじゃないんだ。ただ、まあ、この学校の一つの伝説ではあるな」

「へえ、知らないなあ。是非教えてくださいよ」

 若手教師が目を輝かせた。

 ベテラン教師は立ち上がり、窓に近づくと、暗くなった校庭を見つめた。

「まず、これは本当の話かどうか確認していないけれども、私がまだこの学校に来る前というから、かなり昔の話だな。ここで、事故があったらしい。真夏の炎天下の中、長時間運動をさせられていた生徒が、日射病で倒れた。その生徒は結局、そのまま意識が戻ることなく亡くなったらしい。それからだそうだ。その生徒が倒れた場所は、いつも乾いているという。まるで、その子の渇きを表しているように。・・・・・・そんなことがあると思うか?」

「まさか。ありえませんよ。雨が降れば、校庭はどこも水浸しです」

「その通り。確かにそうだ。雨が降っても濡れない場所など、あるはずがない。しかし、グラウンドのある決まった一部の場所が、いつも一番初めに渇くのも確かなんだな。気にして見ているから、間違いない。それが、ちょうど人ひとり立てるくらいの場所で、そこだけが、非常に早く乾くんだ。島村君にも、今度教えてあげるよ。誰でも確認できるはずだ」

 島村と呼ばれた若い教師は、窓からグラウンドを見た。

「へえ。そういうことが、あるのですか」

 菅谷もグラウンドを見渡した。わずかな街頭の灯りでしか見えなかったが、この頃の乾燥した空気の中で、どこも乾ききっているようだった。

「実際は、どうなんだろうな。そこだけ地質が違うとか、表面から見えない地下の形状か何かで、そこだけが水はけがいいとか、ちゃんとした理由があるような気はするんだ。でも面白いだろ? 誰かが、その現象に気付いて、話が創作され、それが語り継がれているんだとしたら」

 ベテラン教師は、屈託の無い笑顔を見せた。

「でもさあ・・・・・・あ、いや、でもですね、いくら昔のこととはいえ、そんな死亡事故があったら、記録ぐらいは残っていますよね?」

 菅谷が質問した。それに対し、ベテラン教師が笑顔のまま答えた。

「いやあ、事実だったとしても、記録に残っているかどうか。歴史のある学校だから」

「昔の学校はですね、教育指導の過程で、誤って生徒を死なしても、大した問題にはならなかったのですよ。たぶんね」

 若い教師島村も笑顔で言った。

 なるほど、怖い話だ。副島は、そう思った。


 翌日、菅谷はいつも通り、他の先輩よりも早めに出勤すると、高嶋がもう座っていた。

「あれえ、早いですね」

「昨日、作業に思ったより時間がかかっちゃってね。遅くなると、帰るのも面倒だから、そのまま泊まったんだ」

「へえ」

 そう言われてよく見ても、髭も剃っているようだし、髪もきれいだし、帰っていないようには見えなかった。

「本当はどっかに泊まったんじゃないですか?」

「違うよ。ここで寝てた。ちょっと前までは、この編集部も、もっと忙しくてね。徹夜もよくあったからな。だから、給湯で髭剃ったり頭洗ったりするのは、慣れてるんだ」

「ああ、なるほど」

 高嶋が流し台で髪を洗っている姿を想像しつつ、パソコンの電源を入れた。

「・・・・・・そういえば、このパソコン、時々誰か使ってません?」

「どうして?」

「消したはずの電源が、いつのまにか入ってることがあるんです。あと、しばらく席を外して戻ってくると、自分が最後に使った画面と違う画面が開いてたり。まあ、それは思い違いかもしれませんが」

「ふうん」

 高嶋は、少し眠そうな目で、菅谷のパソコンを見つめた。

「僕は知らないなあ」

「そうですか。まあ、中に入ってる情報は、取材に関するものだけで、それも、あたしの取材ですからね。大したものは無いんですけど。特に個人情報は入れてないし、ウィルスのチェックも欠かしてないですから、そっちの心配もないし、まあ、いいんですよ。でも、使うんなら、ひとこと言ってくれてもいいと思いません?」

「そういうことに無頓着な連中が多いからな。もし気になるのなら、パスワードの設定をして、ロックしちゃえばいい」

「そうすると、今度は、あたしが面倒なんですよ」

「じゃあ仕方ない」

 高嶋は、後は興味なしといった様子で、机の上の本を読み始めた。結構な厚みのある本で、それには菅谷が興味を持った。

「何読んでるんですか?」

「うん? ちょっとね、今ハマってるんだ。仕事とは全然関係ないんだけど」

 チラリと表紙を見せると、それは切り裂きジャックに関する本だった。

「・・・・・・面白いですか?」

「面白いというか、興味深いね。一九世紀末に突然現れて、五人を殺害し、そのまま消えてしまった」

「五人も殺したんですか」

「最近の連続殺人鬼と比べれば、可愛いものだ。でも、犯人は分からないままだ。おそらく、永遠に分かることはない。だから、いろいろと想像力をかきたてられるね。実際、巷では、いろいろな説がある。これも、一種の都市伝説かな」

「はあ」

「僕の考えでは、犯人は一人じゃないね。三番目の殺人と四番目の殺人は、同じ夜に起こってる。そんなに近くはない場所でだ。かなり慌しい犯行ということになるが、犯人は慎重な人間だ。無理はしない。おそらく、どちらかは、別の人間による犯行だ」

「共犯者がいた、ってことですか?」

「共犯ではないだろう。誰かと組んで、犯行をするような人間とは思えない。楽しみは、独り占めするもんだ。言ってみれば、模倣犯だな。殺人は伝染する。新聞で見た殺人に興奮を覚えて、自分でも殺ってみたい衝動を押さえられなくなるんだ。それを、本家の切り裂きジャックが、自分の手柄にしてしまったわけだ」

「なるほど」

 菅谷には、これだけ熱心に語る高嶋が珍しかった。

「もう一つ考えられることがある。犯人の目的だ。いや、もちろん、動機なんか分からない。ただ、最初から、殺すべき目標は一人だったんじゃないかな。それが、最後の被害者だ。いかにも、快楽連続殺人のように見せかけ、目的を達成すると、さっさと消えてしまった。本物の異常者だったら、行動を押さえることは出来ないはずだ。必ず殺人は繰り返したはずだ。誰でもいいから、殺すことが目的なんだから」

「・・・・・・」

 菅谷が困惑したような顔で、黙って高嶋を見つめていた。

「・・・・・・無駄話はこれくらいにして、仕事でもしようか」

 高嶋は、その厚い本を、机の隅に追いやった。


 夕暮れのうつろな日差しの中、駅前の繁華街には、大勢の人間が行き交っていた。寒さが身にしみて、誰もが自然と足早になった。しかしそこで、じっと立っている副島の姿があった。

 都市伝説を語り継いで、ときには話を広げているのは誰だろう。それには、実に沢山の人間が関わっているはずだ。しかし、大人になればなるほど、そういった話に興味がなくなる。大人にとって、もっと興味のある話がいくらでもあるのだから。逆に子供は、そういった話に興味津々だ。だが、小さな子供には、話を語る能力を十分には持っていない。そうなると、都市伝説を伝承する主役は、やはり十代の若者達であろう。

 といった結論に至った副島は菅谷と共に、彼ら彼女らが多く集まるファーストフード店に行って、話を集めてみることにしたのだ。

 やがて、その菅谷が早足でやって来た。

「お待たせしちゃってすいません。ちょっと家をでるときバタバタしちゃって」

「いや、そんなに待ってないよ」

「ところで、さっきの女性は知り合いですか?」

「え?」

「今、女の人と話してませんでした?」

 副島は心当たりがなく、キョトンとした。

「あれえ。髪が長くて、ベージュのコート着た女の人が、副島さんの近くにいて、話してるように見えたんですけど」

「さあ・・・・・・、そういう女性がいたことにも気付かなかったな」

「そうですか。副島さんに顔を近づけて、何か話し掛けてるように見えたんですよねえ」

「見間違えだよ。誰もいなかった」

「はあ」

 菅谷は怪訝そうな顔で、辺りを見回したが、それらしい女は見当たらなかった。

「ま、いいか。それより、今日は楽しみですね。中高生のナマの話が聞けるんですから」

「聞けるかどうか。アポなしだからな」

「大丈夫ですよ。なんか話してくれますって」

「君はいいよ。ついこの前まで十代だったんだから」

 副島が菅谷に言ったが、二人に大きな歳の差がある訳ではなかった。

「そんなことないですよ。この年頃は世代間の乖離が激しいですから。あたしだって、そうそう話についていけるかどうか」

「確かにな。そこいらの高校生は、乖離なんて言葉めったに使わない」

「へへ。最近覚えた言葉なんですよ」

 ファーストフード店の前に到着し、中を窺って見た。夕方ということもあり、予想通り制服を着た若者で溢れていた。

 自動ドアが開くと、目の前に喧騒の世界が広がった。

 何が楽しいのか、それとも何が不満なのか、皆、周りを気にすることなく、ひっきりなしに話をしていた。

 最初菅谷は、髪が金色の派手目なグループが目に入り、そちらに近付いて行こうとした。副島がそちらに目をやると、その中の男子がジロリと睨んだ。

「あ、あそこのグループはやめよう」

「え? なんで?」

「なんていうか、あんまり、いい話知ってるように見えないんだ・・・・・・。こっちなんて、いいんじゃない?」

 結局、あまり派手ではなく、普通に制服を着た、男二人女二人のグループに声をかけてみた。同じ高校の遊び仲間だった。菅谷と副島は、そのテーブルに同席することができた。

「都市伝説ってどうゆうの?」

 女の子の一人が、ポテトを片手に、菅谷に尋ねた。

「まあ、簡単に言えば、噂話かな」

「へぇー、噂話を集めてんだー」

「噂なんて、いっぱいあるよ。でも、急に言われると、ぱっと思い出せないよね。なんか覚えてる?」

 もう一人の女の子が言った。しばし、四人は顔を見合わせた。

「あ、そういえば、あったあった」

 男子二人の中で、目鼻立ちの通った、比較的格好いい方が突然思い出したようだった。

「別の高校の友達の話なんだけど、そいつの後輩の男子がさ、塾の帰りに、やばい連中に拉致られて・・・・・・」

「ちょっと待った」

 話の内容が、ちょっと穏やかではなさそうなので、副島は遮った。

「そういうナマナマしい話は、ちょっと、ね。もっと、気楽に聞けるような話の方がいいんだけどなあ」

「あ、そう・・・・・・」

 四人は再び顔を見合わせた。

「・・・・・・あたしが聞いた話なんだけどさ」

 今度は一人の女子が、何か思い出したようだ。

「テレビのさ、番組の、ヤラセってやつ? けっこう、あるみたいよ。ほら、あの、ドッキリで・・・・・・」

「それも、都市伝説とは、ちょっと違うんじゃない?」

 副島が突っ込む前に、美形ではない方の男子が突っ込みを入れた。その女子は、ちょっと嫌な顔をした。

「じゃあ、こうしよう」

 副島は提案をしてみた。

「話を絞ろう。あんまり現実的じゃない、そう、例えば、幽霊だとか、おばけだとか、そういった話にしよう。なんか、ないかな?」

「ふうーん」

 皆、記憶を探っているようだった。

「そうそう。テレビで思い出したんだけど」

 もう一人の女子が言った。

「日曜の夜なんかに、番組が全部終わっちゃったあと、変なカラー画面、あるじゃない? 試験放送って言うんだっけ? あの放送ってのは、実は霊界と繋がってるらしいのね。だから、その画面をずっと見てると、霊が出てきて、そっちの世界に引きずり込まれるんだって」

「マジ?」

「ホントかよ」

 グループ内でのウケは上々だったようだ。

 副島にとって、語る人の力量の問題もあるかもしれないが、大して面白いとは思わなかった。しかし、別の意味で興味があった。それは、アナログ時代の砂の嵐として、映画の中で見たことのあるシーンだったからだ。その映画が噂の原点である可能性が高いが、彼らは、その映画のことなど、おそらく知らずに、実際にあったかもしれない話として噂しているのだ。

「あ、ごめん」

 また、美形でない男子が話に割り込んだ。

「それで思い出した話があった。幽霊の話じゃないんだけど」

「・・・・・・」

「どっか地方のテレビ局であった話らしいんだけど。深夜、放送が全部終わったとき、徹夜でスタッフが番組の編集作業をしてたらしいんだ。そのとき、うっかり操作をミスって、VTRの一部が放送されちゃったんだって。すぐに気が付いて、実際に放送されたのは数秒なんだけど、その局に、問い合わせの電話が何本かあったんだって」

「・・・・・・それで?」

 どこが面白いの、とでも言うように、他の高校生達は彼の顔を見つめた。

「だって、変な話だろ? 放送はとっくに終わってるのに、誰がわざわざ局に電話なんかするんだ?」

「なるほどね」

 副島は呟いた。都市伝説と言えるかどうかは分からないが、興味のある話だった。テレビを消し忘れて寝てしまったり、部屋から出て行く人は少なくないだろう。しかし、そんな人達は、問い合わせなどするわけがない。つまり、放送が終わったテレビを、ちゃんと観ている人がいるということなのだ。その人達は、テレビの中に何が見えているのだろうか。

「ね、面白い話ですよね?」

 グループ内の反応が鈍いので、副島の方に向かって言った。

「うん。面白いと思うよ」

「他にも何か、面白い話思い出せるかもしれないですけど、そのときは、また聞いてくれますか?」

「そりゃ、もちろん。いつでも連絡してよ」

 副島は、自分の名刺を取り出した。

「ちなみに、君、名前は?」

「あ、藤原といいます」

「藤原君ね・・・・・・」

 副島は名前を手帳に書きとめ、ついでに連絡先も聞いておいた。菅谷も一応、横でメモしていた。他の三人は、特に名乗る様子もなく、勝手に飲み食いを続けていた。


 ベージュのコートを着た女が、並木道に立っていた。枯葉が舞う並木道には、学校から帰る小学生、中学生、そして高校生で一杯だった。

 ある者は、楽しそうな顔をして、ある者は疲れた顔をしていた。そして誰もが、自分のことに精一杯なのか、他のことに夢中なのか、その女を気にしなかった。

 彼女は、じっと出番を待っていた。

 顔には大きなマスクをして、手には鎌を持って。

 やるべきことは決まっていた。

 どうしてなのか。どうなるというのか。

 そんなことは、些細なことだ。


「ウコンって試してみたことありますか。肝臓にいいらしいんですよ」

 編集部に戻った菅谷が、コートを脱ぎながら言った。都市伝説は忘れて、健康食品の話で盛り上がっていた。

「DHAがいいって聞いたな。集中力がつくとか、なんとか言ってた」

 副島も上着を脱ぎ、椅子に腰を下ろしながら言った。副島の机は菅谷の正面だった。

「へえ。集中力ですか」

「うん。どうも最近、集中力に欠けてるようなんだ。ときどき、気が付くとボーっとしてるんだよね」

 副島は頭を振った。

「ふうん。そうなんですか」

 話しながらも自分のパソコンに電源を入れた。パソコンの壁紙に使用しているハリウッドスターの画像が、大きくモニターに写し出された。

「菅谷さんは、そういうことない? いつも集中できてる?」

「そうですねえ・・・・・・」

 話しながらも、指はパソコンを操作していた。

「ボーっとはしてないですけど、作業とは関係ない、どうでもいい別のことに気がいっちゃうことはありますね」

「うん、それもよくある」

「例えば、さっき会った高校生の四人組。女の子二人は、格好いいほうの男を狙って、密かに火花を散らしていましたね」

「へえ、そうかあ?」

「さりげなく自分をアピールしたり、相手の足を引っ張ろうとしたり、やってるんですよ。そして、もう一方の男は、彼女達にとってどうでもいい存在なんです。彼も、それが薄々分かっていて、面白くない。いつかは、格好いいほうの男を出し抜いてやりたいと思ってる。でも、表面上は皆仲良く見せかけようとしてますから。まあ、怖いというか、なんというか」

「よく見てるな。いや、でも、ほんとかなあ。考えすぎじゃないか」

「まあね。しょせん、あたしの妄想ですけど」

 菅谷はメールのチェックをしていた。いくつかのメールの中に、何も書かれていない空白のメールがあった。一瞬何だろと思ったが、見たこともない送信者だったので、あまり気にせず削除した。

 フロアには何人かの社員が残業していたが、あまり忙しくない「ニューらいん」の編集部では、副島の隣に高嶋が一人残っているだけだった。

 高嶋は二人に関心を示すこともなく、黙々と仕事をしていた。

「ねえ、副島さん」

 急に菅谷は顔を上げ、副島の顔を見つめた。

「えっ、何?」

 悪戯でもするような笑顔で、菅谷は言った。

「今の取材、とっても興味深いんですけど、ちょっと物足りないんです。そう思いません? だから、どうでしょう。ここの意向とは違ってもいいから、もっと刺激の有りそうな取材をしません?」

「ええ? ・・・・・・でもなあ、やっぱり、これも仕事なんだから」

「別の仕事はきっちりやってるんだから、いいじゃないですか。あんまり怖くない都市伝説なんか、つまんないですよ。もっとゾッするような怖い話、集めてみたいと思いません? もし、いい取材ができたら、別の雑誌に話を持っていってもいいし」

「うーん・・・・・・」

「あぶない、あぶない」

 副島が返答に困っていると、横から高嶋が口をはさんだ。

「いや、別に、ここの編集部が嫌だとか、そういう意味じゃなくて、ただ・・・・・・」

「違うよ。僕が、あぶないって言ったのは、そういうことじゃない」

「・・・・・・じゃあ、なんですか?」

「あんまり、変な世界に足を突っ込むと、やばいよ。・・・・・・呪われるかもな」

「え?」

 菅谷と副島は、ポカンとした顔で高嶋を見つめた。

「冗談だよ。冗談」

 そう言って、高嶋は笑った。副島の知る限り、普段は人を脅かすような冗談は言わないので、少し奇妙な気がした。

 ちょうどその時、副島の真上の蛍光灯が切れかかり、チカチカと点滅した。

「ほら。呼んでるよ」

 高嶋のつまらない冗談に、副島は苦笑いを浮かべた。

「ひとつ、面白いネタがある」

 冗談話のおまけ、といった風で、高嶋が言った。

「どんな?」

「最近、この辺りの中高生の一部で、口裂け女が噂になっているそうだ」

「口裂け女? まさかあ」

 菅谷は笑った。

 口裂け女が初めて日本中で話題になったのは、かなり昔のことだった。

 しかし、都市伝説や怖い話に少しでも興味のある人間なら、知らない者はいない。近代日本都市伝説において、最も重要な存在だ。

「まあ、僕も詳しくは知らない。チラっとそんなことを聞いただけだ。どこで聞いたかも、よく覚えてないし。テレビだったか、雑誌だったか。でも面白そうだろ? ちょっと調べてみたら?」

「なんでしょうね。さっきは危ないとか言って、今度は、そそのかす気ですか? 副島さん、どうしましょう?」

「ん? う、うん。そう、どうしようか・・・・・・」

 副島は言葉を濁した。少し顔色が悪かった。


「副島さん・・・・・・?」

 菅谷さんが心配そうに声をかけた。

 それぞれ何とか時間を作り、怖い話の取材の為、喫茶店で待ち合わせをしていた。先に座っていた副島は、生気の無い顔で、目の前のコーヒーに口をつけた様子もなく、外を眺めていた。

「あ、ああ」

「大丈夫ですか?」

「え? 別に何もないよ。ちょっとぼうっとしてただけ」

「そうですか・・・・・・」

 菅谷はコートを脱いで、副島の向かいに座った。

「あの・・・・・・何も無いならいいんですけど・・・・・・気のせいかもしれないし。でも、なんか、ちょっと顔色が良くないですよ。それも、昨日・・・・・・考え過ぎだったらすいません。昨日、高嶋さんが、口裂け女の話を切り出したとたん、おかしいような気がするんですが」

「そうか・・・・・・」

 副島は、しばらく黙っていたが、やがて重い口調で話し始めた。

「実は自分でも感じてた。何か、すごく嫌な感じがしたんだ。触れてはいけない事に触れたような、関わってはいけないことを聞いてしまったような。でも原因が分からない。もしかしたら、何かトラウマがあるような気がする。でも、何も覚えてないんだ。もっとも、トラウマとなるような記憶って、自分で封印してしまうらしいからね。何か、封印した記憶がないか、自分の中でずっと探ってみたんだよ。でも、何も思い出せないんだ」

「へえ、そういう事ってあるんですね」

「でも、そうやって考えているうちに、最初の嫌な感じも、あまり感じなくなってきた。ただの気のせいかもしれない」

「じゃあ、口裂け女の話題に触れてもいいですか?」

「え?」

「実は、そういう副島さんには申し訳ないんですが、私、すごく興味持っちゃったんですよ、口裂け女のこと。それで、自分なりに、ちょっとだけ調べてみたんです。聞いてくれます?」

「・・・・・・まあ、是非聞かせてほしいな」

 最初から副島の様子などお構いなし、という調子で、副島としても、そう答えるしかなかった。

「まず、彼女がいつどこで生まれたか、ですが、もちろん正確なことは分かりません。私の得た情報では、昭和五十年頃に近畿地方で最初の噂が発生したらしい、ということです。夜、暗い道に女が立っていて、よく見ると口が耳まで裂けていた、という他愛もない噂のようです。最初は彼女も控えめだったんですね。それから数年は、そんな調子で大人しく、近畿地方のみの地味な活動をしていたようです。ところが、どういう心境の変化か、昭和五十四年初頭になって、突然アクティブになるんですね。赤いコートに白いマスクというファッションが出来上がり、自分から『私、きれい』と聞くようになります。実際、絶世の美女らしいんですが、それで『きれい』と答えると、『これでも?』と言ってマスクを外す。それを見た人は『ギャーッ』というわけですね。そう。この時はまだ、ただ驚かすだけだったんです」

 取材ノートを見ながら、熱をこめて菅谷は説明を続けた。

「彼女のアクティブさは、行動パターンだけでなく、行動範囲にも現れました。近畿地方をあっというまに制圧すると、全国に飛び回り、六月頃には早くも首都圏でも噂されるようになりました。ここで、都会の毒に染まったのか、何かに目覚めたのか。彼女は、ついに人を殺すようになりました。凶器は、カッターナイフ、メス、チェインソーなどなど様々ですが、一番良く使われたのは鎌のようです。あ、でもやっぱり、一応殺す前に『私、きれい』と聞くらしいですよ。それを聞かないことには始まらない、お約束事ですね。しかし、『きれい』と答えても『ブス』と答えても、殺されたり助かったりしてますから、まあ、そのへんは気まぐれだったようです。ちなみに、首都圏で噂される頃には、既に、北海道でも沖縄でも噂が広まっていたらしいですから、すごいですよね。しかし、話はどんどん変になってきました。ポマードという言葉で逃げ出すとか、べっこう飴を与えると助かるとか、百メートルを五秒で走るとか、荒唐無稽になっていって、マスコミが取り上げる頃には完全にリアリティを失い、やがて消えていきました。その後、人面犬が噂になったとき、飼い主は口裂け女だ、なんて話もありましたが、まあそれは、都市伝説というより、ジョークに近いでしょう」

「ふーん」

 副島は頷いた。

 口裂け女について、きちんとした話を聞いたのはこれが始めてだった。しかし、前に感じたような、「嫌な感じ」はなかった。やはりトラウマなどないのかもしれない、と思った。

「ついでに、調べられる限り調べてみましたが、当時の実際の事件で、それらしい事件はなさそうですね。それらしい被害者も、見当たりませんでした」

「あたりまえだ。本当の事件だったら、それは都市伝説じゃないだろ」

「そういうもんですか?」

「そういうもんじゃないかなあ」

「そうだけど・・・・・・じゃあ、切り裂きジャックは? あれなんて、ほとんど都市伝説化してると思いません?」

「切り裂きジャックかあ・・・・・・、微妙だな」


 二人が話を続けていると、若い女の子三人が店に入ってきた。

「あ、来た来た。こっちよ」

 菅谷が立ち上がって、手を振った。女の子達は、落ち着いた様子で、軽く頭を下げた。

「どうぞ、ここ座って」

 菅谷は立ち上がり、副島の隣に移った。

 三人は姉妹かと一瞬思うくらい、顔が似ていた。ちょっと丸顔で色が白く、同じような黒ぶちの眼鏡をして、同じようなロングヘアだった。普段着だったが、黒を基調としたファッションも似ていた。

 彼女達は、近くの高校で百物語倶楽部というサークル活動をしていて、それを菅谷が見付けてきたのだった。活動内容は、簡単に言えば怖い話を収集することで、まさに菅谷と副島の求めていた人達だった。

「じゃあ、どんな話をしましょうか」

 三人の中心に座った、おそらくリーダー格の女子が言った。

「まあその前に。前にも聞いたけど、一応あらためて自己紹介してくれない? ちなみに、こっちに座ってるのは、副島さん。同じ編集部で、あたしの先輩。一緒に取材してるの」

「あ、どうも、よろしく」

 突然紹介された副島は、慌てて頭を下げた。

「よろしくお願いします」

 三人の女子は、とても落ち付いていた。

「私は安原といいます。こっちが藍田で、こっちは引田です」

 藍田と引田が、軽く会釈した。リーダー格なのが安原だった。

「それで、どんな感じの話が聞きたいでしょうか? 結構、私達いろいろな話を知ってますよ」

 仕切り屋の安原は、そう言って笑みを浮かべた。他の二人は無表情のままだった。

「やっぱ犯罪系の怖い話より、幽霊系のほうが題材としてはいいかな。犯罪、それも実話が絡んでくると、いろいろと問題があったりするのよ。幽霊系でも、なるべく怖いやつ、ゾッとするやつがいいな」

 そう言いながら菅谷は、話を録音する器械をセッティングしていた。妙に楽しそうだった。

「幽霊ですか・・・・・・じゃあ、引田さん。あの、後ろ向きで入ってくる話。あれなんていいんじゃないかしら」

「ああ、そうね。じゃあ、その話からさせてもらうわ」

 どうやら、誰がどの話をするのか分担が決まっているらしかった。引田はメモも何も見ず、やや上目づかいで話しを始めた。

「これは、私の友だちのお兄さんが体験した話なんですけど。そのお兄さんは、東京の早稲田大学に通ってまして・・・・・・まあ、大学はあまり関係ないんですが、とにかく東京のアパートで生活していました。多分、今もしてると思いますね。そのお兄さん、夏の暑い夜なんかは、窓を全開にして寝るんです。一階なのに。無用心といえば無用心ですが、男の一人暮らしですし、ボロいアパートですから。見たわけじゃないですけど。エアコンが付いているかどうか知らないんですが、付いていたとしても、一晩中入れっぱなしだと電気代もかかりますしね。

 話は去年の夏です。暑かったですよね。やっぱり窓を全開にして寝てたんです。だけど、風の無い日は暑いですよ。その日も風が無くて、なかなか眠れないでいたんです。眠れないけど、とにかくゴロゴロしていました。そして、ふっと窓を見ると、ちょうど誰かが入って来ようとしていたんです。一瞬ドキッとしましたが、すぐに、それが仲の良い先輩だと分かりました。その先輩は、ちょっと図々しいというか、変わったところがあるというか、それ以前にも、夜中に突然窓から訪問していたことがあるんですね。お兄さんも大雑把な性格で、特に嫌がりもしなかったんです。

 また来たか。その程度に思ってました。でも、なんか今夜は変だ。そうも思ったんです。なにが変って、先輩は、窓から後ろ向きで入ってくるんです。ずうっとお兄さんに背中を向けたまま、ずんずん入ってくる。体格やら服装やらで、先輩であることは間違いないんです。でも、こっちに顔を向けない。とりあえず声をかけようとしたんですが、声が出ない。気が付くと体も動けないんです。ただじっと、先輩を見ているしかなかった。先輩は、部屋に入っても、こちらに顔を向けることなく、その場で正座していたそうです。なにか、うなだれてるように見えたそうです。どれくらい時間が経ったのか分からないのですが、やがて先輩は立ち上がり、腰をかがめたまま、また窓から出ていったそうです。一度も顔を見せずに。ふっとお兄さんの体も動けるようになって、慌てて窓の外も見ましたが、誰もいないんです。でも、まだこのときは、どうしたのかな? 今夜の先輩変だな、くらいにしか思いませんでした。

 翌朝学校に行ってみると、様子が変なんですね。先輩もいない。やがて、お兄さんは知るんです。その先輩は、前の夜に自殺していたんです」

 引田は話を終えると、副島と菅谷の表情を窺った。副島は無表情だったが、菅谷は、それなりに話に引き込まれたようだった。引田はちょっと得意そうな顔をした。

「・・・・・・いやあ、なかなかゾクっとする話ですね。ねえ、副島さん」

「ん? うん、そうだね。後ろ向きってのが、なかなか、だな。まだ、何かある?」

 副島は次を促した。

「それじゃあ・・・・・・藍田さんは、携帯の話、いってみましょうか」

「携帯の話のどれ?」

「ほら、マンションの前で携帯を拾うやつよ」

「ああ、それか」

 藍田は軽く咳きばらいして、話を始めた。

「これはですね、友達から聞いた話なんですが、その友達のお兄さんが宅配ピザ屋でバイトしてまして、お兄さんのバイト仲間が体験したことだそうです。平日は夕方からのシフトで、だいたい夜が多いんですが、その日も夜に注文があったんですね。それで、とあるマンションに届けに行きました。その配達自体は、まあ普通に終わったんですよ。で、マンションを出ました。辺りは真暗です。街頭があるにはあるんですが、足もとは薄暗くて、そんなに良く見渡せないんです。ないんですが、ふと、何かが落ちてるのに目がいったんです。マンションの脇、あたりですかね。仕事中で、すぐ戻らなきゃいけないんですが、何故か気になって、近寄りました。顔を地面に近付けて良く見ると、携帯電話なんですね。可愛いケースに入ってて、シールなんかが貼ってある、女子高生が使ってたような携帯です。それで彼は、別にもらっちゃおうとか考えたわけじゃないんだけど、このまま置いといて、車にでも踏まれたらもったいないと思って、持ち帰りました。

 バイトが終わりまして、終わるのは深夜なんですが、家に帰ってから、もう一回よく見てみました。携帯のメモリーって、衝撃に弱いらしいんです。おそらく、落とした時の衝撃でしょうね。メモリーの内容は全て消えてたそうです。ただ、電話としての機能は、どうも生きてるようでした。どうしようかと思ってたとき、かかってきたんですよ、その携帯に。どうしようかなあ、と一瞬悩んだんですが、とりあえず出てみることにしました。そしたら、やっぱり落とした時の衝撃の影響でしょうか、すごく聞き取りづらかった。雑音は多いし、声は小さくしか聞こえないし。どうやら、相手が女であることは分かって、良く聞いてると、『返してください』みたいなことを言ってる。ああ、持ち主からの電話かあ、と思って、どこどこで拾った、というような説明をしたんです。一応、相手に伝わったようで、『ありがとうございます』とか言ってる。でもその女性、今、携帯がなくて、とても困ってる。申し訳ないけど、すぐに返してほしい。みたいなことを言うんです。まあ、困ってるようだから、仕方ないと思い、届けてあげることにしました。

 家を聞いてみると、なんのことはない、その拾ったマンションの人なんですね。すぐにマンションに行ってみました。もう深夜ですから、マンションの周辺は誰もいません。拾った場所まで来たんですが、やっぱり誰もいません。落とし主が待ってると思ったんですけどね。相手は女性、それも若い、やっぱり高校生くらいと思われましたから、具体的な名前とか部屋番号とか聞いてなかったんです。自宅の電話番号も。弱ったなあ、と、しばらくその場にいました。そしたら携帯にかかってきました。すぐに出たんですが、相変わらずの雑音で、全然聞き取れない。かすかに女性の声が聞こえる。『もしもし。良く聞き取れないんだけど』とか言っても、ボソボソとしか聞こえない。『もしもしっ。もしもしっ』だんだんイライラしてきたんですね。『だから、聞こえないんだよっ!』つい声を荒げてしまった。そしたら、すぐ近くで、

『そこに置けって言ってるんだっ!』

と大声が響いたそうです。びっくりして、持っていた携帯を落としたんです。そして、そのときに初めて気が付きました。その場所に、ひっそりと花束が置いてあったんです。そのマンションで飛び降り自殺があったことを、後に知ったそうです」

「ひょえ~」

 菅谷は変な声を出してしまった。「そこに置け云々」のところで、こちらを驚かせようとしたのだろう。わざと声を大きくしたのが可愛いく、つい笑いそうになったのをごまかした為だった。

 話をした藍田は、怖がってくれたものと思い、満足げな表情を見せた。

「もうひとつ。これは幽霊系といっていいかどうか分からないんですけど、不思議な話をしていいですか」

 安原が笑みを浮かべながら言った。

「もちろん。是非お願い」

「私の友達の兄が警察官なんですが、その警察では、封印された、あるモノがあるそうなんです。極秘扱いで、警察内部でも一部の人間しか知らないそうですが、こっそり教えてもらったそうです。

 ある民宿、家族できりもりしてるような小さな民宿ですが、そこで凄惨な事件が置きました。宿泊客の一人の若い女性が、何者かに殺されたんです。時間は、おそらく深夜、場所はトイレです。何か鋭い刃物のようなもので、首を一撃されてまして、ほとんど頭が取れかかっているという、むごい殺され方だったようです。しかし、不思議なのは、トイレは内側から鍵が掛かったままだったんです。そこには窓もありまして、そこには鍵が掛かってなかったですが、小さな窓で、人が入れるような大きさじゃないんです。子供でも無理です。

 密室も不可解ですが、とにかく犯人につながる手掛かりが何もない。目撃者もいない。困りながらも捜査を進めていると、どうも息子の・・・・・・民宿を経営してる一家の息子で、中学生だったと聞きましたが、様子がおかしい。もともとひきこもり気味の子だったらしいんですが、ひどく何かに怯えてるようなんです。確かに、殺人があれば怯えるのは当たり前ですが、怯え方が尋常じゃない。それで、話をよく聞いてみました。最初は、捜査というより、ショックを和らげる為のカウンセリングみたいな感じですね。しかし、少しずつ話を聞き出すうちに、重大なことが分かりました。

 その子は、トイレにビデオカメラをセットしていたんです。盗撮ですね。彼には、そういう秘密の趣味があったんです。そして、事件のあった晩も、ビデオは回してたんです。当然、そのビデオは警察が没収です。盗撮のお咎めは後回しにして、さっそく、そのビデオを見てみました。

 しばらくビデオを見ていると、やがて被害者がトイレに入って来ました。その直後、すうぅっと窓が開きました。そして、それは入ってきたんです。老婆です。真っ白い髪をボサボサにして、ボロボロの着物のようなものをまとった老婆、身長が三十センチくらいの老婆です。身長と同じくらいの鎌を担いでいました。そして、被害者が何も気付かないうちに、鎌を振り上げました。・・・・・・終わると、その小さな老婆は、窓から出て行ったそうです。

 見終わった警察は、それを、どうにも説明できないし、公表するのは危険過ぎるということで、一部の人間だけの秘密にしました。事件は迷宮入りです。その息子は、精神病院に入院させられたと聞きました。そして問題のビデオは、封印されたまま、警察のどこかに今でも保存されているらしいです」

「なるほど」

 副島は頷いた。有名な都市伝説だったので、内心がっかりしていた。

「鎌か・・・・・・」

 菅谷は呟いた。連想されるのは、口裂け女だった。

「ところでさ。みんなは、口裂け女の話って、聞いたことある?」

 つい気になり、今聞いた話のことは放っておいて、さっそく聞いてみた。安原は、ちょっと不快そうな顔をした。

「口裂け女ですか? 昔の噂ですよね。あんなの嘘に決まってるじゃないですか」

「そう・・・・・・」

 安原の中では、三十センチの老婆は真実でも、口裂け女は嘘なのだ。

「口裂け女って言えば・・・・・・」

 藍田が何かを言いかけたところで、安原が睨んだ。

「・・・・・・いえ、何でもない」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

「ま、とにかく、今日はいろいろな話が聞けてよかったわ」

「まだまだ。ほんの一部ですよ」

 安原が、得意げに言った。

「時間があれば、もっと聞きたいわ」

「いずれ、また。私も、もっとお話したいですね。もし、出来れば、ですけど。また、お会いすることが出来れば」

 意味があるような無いような物言いだったが、副島も菅谷も気に止めることなく、その場を後にした。しかし安原には、ある種の予感というか霊感のようなものがあったのかもしれなかった。


 午前中にちょっとした取材を終わらせた副島は、ちょうど昼食時、編集部に戻った。

「ああ、腹減った。メシどうする?」

 ずうっとパソコンに向かっていた高嶋は、ゆっくりと顔を上げた。

「僕は、今日、いらない」

「どうした?」

「体調がね、どうも・・・・・・」

「どうかしたのか」

「なんかね。具合悪くて・・・・・・」

「珍しいなあ。いつも元気だと思ってたのに」

「まあな。自分でも意外だ」

「あんまり無理するなよ」

 副島は高嶋の肩を叩き、そのまま食事に出かけようとした。

 そこへ、菅谷が外出から戻ってきた。

「副島さん、ちょっとこれ見てください」

 副島に渡したのは、今朝の新聞だった。

「取材の合間、ちょっと時間があったんで読んでたんですが。これ。ここの記事、見てください」

「えーと。この、小学校の男性教師が殺されたってやつ? ああ、この近所で起きたみたいだな」

「それと、もう一つ、こっち」

「喫茶店内で店主殺害かあ。これも近所だ」

「ええ。被害者は、どちらも、鋭い刃物のようなもので、首を切られてます」

「首を切られてる? 切断されたってことかな?」

「新聞ですからね。はっきりとは書いてないですが、その可能性はあると思います」

「嫌な事件だな。でも、それだけで、あんまり変な想像するなよ」

 副島は、菅谷をたしなめようとしたが、菅谷は首を振った。

「いえ、気になることは、他にもあるんです。喫茶店では、不審な女が現場から立ち去るのを目撃した人がいるんですが、その女、髪が長く、ベージュのコートを着て、白いマスクをしていたそうなんですよ」

「マスク・・・・・・」

 一瞬、副島の頭にも、おかしな考えが過ぎった。だが、すぐに首を振った。

「いやいや。もし、その女が犯行と関わりがあるなら、顔を隠すのにマスクぐらいするだろう。犯行と関係無かったとしても、マスクしてる人は珍しくない」

「まあ、そりゃ、そうですが・・・・・・」

 菅谷は一度引き下がろうとしたが、再び副島に向き直った。

「でもですね。誰の仕業にしろ、近所で、こういう物騒な事件が起きたのなら、やっぱり、気になっちゃいますよ」

「ううん。正直あんまり関わりたくない気持ちはあるけど、近所のことだから。まあ、何か事件解決の役に立つことが出来ればいいとは思うね」

「少し、調べてみます?」

「こういう事件の取材って、やった事ないんだ」

「じゃあ、経験の為にも、ちょっと調べてみましょうよ」

 渋々に、副島は頷いた。


 二人が最初に事件を見付けた新聞では、あまりにも情報が少なかったので、とりあえず他の新聞を手分けして全部買ってきた。

「編集部はマズいな。目立ち過ぎる」

 新聞を抱えた副島が、同じように新聞を抱え、エレベーターに乗ろうとした菅谷を制した。

「あ、そうか。編集長に見つかると、何言われるか分からないですからね。喫茶店にでも行きますか」

「いや。喫茶店は狭いからな。地下の会議室が多分空いてるだろうから、勝手に使わせてもらおう」

 二人はエレベーターから離れ、階段で地下に降りた。

 薄暗い廊下が一直線に伸び、いくつかの小部屋に分かれていた。機械室や倉庫がほとんどだったが、会議室として使っている部屋もあると聞いていた。

「どの部屋ですか?」

「確か、ずっと奥だと思った」

 副島は、どんどん歩き出した。菅谷は、なんとなく辺りを窺いながら、後に続いた。各小部屋は、どこも真暗で、窓ガラスに写った自分の顔と目が合った。長い廊下に、二人の足音が響いた。

「ああ、ここだ」

 会議室との表札が掛かったドアを開け、灯りを付けた。

 長いテーブルと、スチール製の椅子が数個、それにホワイトボードも置いてあり、一応使われた形跡はあった。

「ちょっと、この部屋寒いですね」

 菅谷は、紺のスーツの上から、腕を擦った。

「そうだな。早いとこ終わらせよう」

 二人は机の上に新聞を広げ、関連する記事を探した。

 ふと菅谷の目に、どこかの町で若い女性が殺された、といった記事が目に入った。嫌な考えが頭を過ぎった。

 もし、あたしが、ここで大声を出せば、誰かに聞こえるだろうか? おそらく、誰にも聞こえないだろう。その前に、あたしが地下に行くのを誰か見ただろうか?

「あった」

 突然副島が大きな声を出したので、菅谷はビクリとした。

「・・・・・・あ、ありました? 何て書いてあります?」

 菅谷は立ち上がり、副島の読んでいた新聞を覗いた。

「ほら、こっちの新聞には被害者の名前が書いてある。えーと、島村孝太郎、二十五歳、小学校教師」

「へえ・・・・・・あれ? 島村?」

「なに? 知ってる人?」

「ほら。前一緒に小学校行ったじゃないですか。あのとき、話を聞いた先生、たしか島村とか言ってませんでしたっけ?」

「え? あの人? 本当か?」

「……あんまり自信ないんですが」

「たしか、若竹小学校だったよな」

 副島は、もう一度新聞に目を通した。菅谷も同じく、全ての新聞を読んだ。

「だめですね」

「うん。どこにも学校名は書いてない」

「自分のパソコンに入ってる取材データで、とりあえず名前は確認できますから、ちょっと見てきます」

 菅谷は急いで部屋を出た。内心、一旦地下から出られることで、少しホッとしていた。


 静かな地下会議室の中、副島は一人取り残された。

「遅いなあ・・・・・・」

 呟きながら、新聞記事をぼうっと眺めた。島村という名の教師の顔が、少しずつ思い出された。そして、何も知らず夜道を歩く姿、呼び止められて振り返る姿、恐怖に表情がゆがむ姿。

 変なこと考えるもんじゃない。

 副島は、頭を振って、意味もなく立ち上がった。

 そのとき、コツコツと足音が聞こえた。

 ああ、やっと戻ってきた、と思い、耳を澄ませていた。足音は、ゆっくりと近付いてくるようだった。だが、途中で聞こえなくなった。副島のいる部屋より、だいぶ手前で止まったような気がした。

 菅谷ではなかったようだ。

 ただ、それだけのことだが、誰が降りてきたのか気になり、そっとドアを開けて、廊下を覗いた。

 廊下には誰もいなかった。だが、一瞬、視界の隅に白い何かが動いたような気がした。誰かが、どこかの部屋に入って行ったようだ。

 副島は廊下を歩き、部屋を確認した。どこも、真暗のままだった。物音も無かった。しかし、気になる部屋があった。ドアが開いていたのだ。

 さっき通ったとき、開いてたかな・・・・・・。

 電灯は点いていなかったが、廊下の明りで、中を窺うことが出来た。そこには、古くなったOA機器や事務用品などが、雑多に置いてあった。古いロッカーも置いてあった。更衣室などに置いてある縦長のタイプだが、長らく使われていないようだった。

 副島はそのロッカーが、何故だか気になり、引き込まれるように部屋の中に歩を進めた。そして、無性にロッカーの中を見たくなった。

 おそるおそる、指を伸ばした。

「副島さん?」

「わっ」

 びっくりして振り返ると、廊下に菅谷が立っていた。

「何してるんですか?」

「いや、ちょっと時間持て余してたからさ。何があるのかな、と思って、見てたんだ」

「そうですか。すいません、ちょっと時間かかっちゃって」

「別にいいよ。で、どうだった?」

 話しながら、二人は元の部屋に戻った。

「実は、島村としかメモってなかったんですよ。島村だけじゃあ、本人かどうか、と思って、若竹小学校に電話して確認してみたんです。それで、少し手間取っちゃったんですけどね」

「そこまでやったのか。気合入ってるね」

「そんなことないですよ。当然のことです。とにかく確認できたました。殺されたのはやはり、あたし達が話をした島村さんでした」

「そうか・・・・・・」

「まあ、なんとも言えない気分ですね。つい最近話をした人が殺されたなんて。実感がわかないですよ」

「早く犯人が捕まってほしいな」

 もし、犯人が普通の人間なら。と思ったが、不謹慎なので、それは口に出さなかった。


 副島は、何か嫌な予感があった。

 とりあえず、女の子の菅谷は、なるべく残業させないで、早く帰らせるようにした。嫌な予感が見当外れであったとしても、島村を殺した犯人が捕まっていないのは確かなのだから。

 しかし、自分の身のことは、あまり心配していなかった。この日も、仕事が終わったら、高嶋と気分転換がてら飲みに行く予定だった。

 ところが、高嶋の都合が悪くなってしまった。そのまま帰る気もしなかったので、副島は一人、行き着けの店に足を運んだ。

「どうもー。マスター、元気?」

 店に入るなり、マスターに声をかけた。副島より幾分年上だが、幼なじみであり、長い付き合いだった。

「おうっ、こんばんは。今日は一人?」

「フられちゃって。とりあえずビールお願いします。あと、何か食べさせてくださいよ」

 副島はカウンターに座った。

 カウンター以外には、四人がけのテーブルが四つあるだけの、こじんまりとした店だった。時間がまだ早いこともあり、客は副島だけだった。

「焼きそばでいいかい?」

「うん。いいよ」

 マスターが焼きそばを作っているうちに、副島はビールをごくごくと飲んだ。空腹だったので、すぐに酔いが回ってきた。

「ところで、この近くに殺人事件があったの知ってる?」

「ああ、知ってるよ。学校の先生が殺された事件だろ。おっかないね」

 マスターは、キャベツをきざみながら、顔も上げずに応えた。

「実は、その事件調べてるんだ」

 包丁を動かす手が一瞬止まった。

「・・・・・・最近は、そういう事件も取材してるのか?」

「ん? まあ、ね。何か情報持ってる?」

「いや。新聞に書いてあること以外は知らないね」

 ずっと俯いたまま、再びキャベツをきざみ始めた。

「そうですか。でも、これから、お客さんからとか、何か情報が聞けるかもしれないですよね。そんときは、是非連絡してくださいよ」

「うん・・・・・・まあ、それはいいけどな」

「なんか乗り気じゃないようですね。やっぱり、めんどくさいですか? それとも、変な事には、関わり合いたくないとか?」

「いや、そうじゃないよ。ただ・・・・・・」

 マスターは顔を上げた。

「そうやって、殺人事件やらを追いかけてるのは、おまえに相応しくないような気がする。美味いラーメン屋やら、町内のカラオケ大会やらの取材のほうが、おまえに合ってるんじゃないか」

「なんですか? バカにしてるんですか?」

「バカになんかしてないよ。皆一生懸命歌ってるカラオケ大会を取材するのも、大事なことだろ。それに、血なまぐさいことは、おまえには向いてないと思う」

「そんなことない。自分も出来ますって」

「そうかい」

 マスターは、それ以上相手にせず、黙って焼きそばを作った。副島も、黙ってビールを飲みつつ、焼きそばが出来るのを待っていた。


 結局、焼きそばとビール三杯だけで、副島は店を出た。すこし酔っていたが、足取りが乱れるほどではなかったし、頭の中もはっきりしていた。

 店から自分の家まで、歩いて行ける距離だった。

 何軒もの飲食店が並ぶ、ちょっとした繁華街を歩き出した。腕時計を見ると、まだ九時少し過ぎだった。そんな時間だったので、通りを歩く人の数も多かった。

 ほろ酔いのいい気分で、のんびりと歩いていた。

「・・・・・・し、・・・・・・れい?」

 ふと、誰かに話し掛けられたような気がして、立ち止まり周りを見渡した。それらしい人は誰もいなかった。

 変な気持ちで、また歩き始めようとすると、通りのずっと先から、こちらを見つめている人がいることに気付いた。

 さきほどの声の主だろうか?

 しかし、声はすぐ近くから、囁くように聞こえたのだ。あんなに先から、こちらに向かって叫んでいるような声ではなかった。

 繁華街とは言っても薄暗いし、人の通りもあるから、どうしてもはっきりとは見えなかった。

 ベージュのコートを着ていた。髪が長い女のようだった。なおかつ、白いマスクをしていた。表情は全く窺い知ることができなかったが、副島のことを見つめているようだった。

 やっと現れたな。

 そんなことを思ったのは、やはり酔っていたからだろうか。そして、その顔をもっとよく見てやろうと思い、歩調を速めた。

 だが、どうも距離が縮まっていない気がした。女は、こちらを向いて、ただ立っているだけなのに、どうしても近付くことができないのだ。

 突然、車のクラクションが響いた。

 脇の小道から、黒塗りのベンツが飛び出してきた。副島は、慌てて飛び退いた。ベンツは、タイヤを軋ませ、そのまま走り去った。

 その後姿を見送り、改めて前を見ると、女の姿が無かった。

 足早に歩き、辺りを見渡したが、ベージュのコートに白いマスクの女は、どこにもいなかった。

「まさかな・・・・・・どうかしてる」

 立ち止まり、頭を振った。赤ちょうちんから出てきたサラリーマンが、怪訝そうな顔で副島を見つめた。


 午前中、地元出身俳優のインタビューに直行していた菅谷は、編集部に戻る前に、まず昼食を取りに行った。

 編集部に近い定食屋に足を運んだ。こ洒落たイタリア料理屋などより、安くてスタミナたっぷりの定食屋が好きだった。

 オヤジばかりでタバコ臭い店内に入ると、菅谷を呼ぶ声があった。奥の座敷を覗くと、そこには副島と高嶋の姿があった。

「あ、おはようございます」

「おはよう。もう昼だけどな」

 高嶋が声をかけた。

「でも、こんにちは、って言うのも変だし」

「そういえば、こちらも、今さっき出社したばかりなんだ」

 高嶋は副島を指差した。

「へえ。どちらに行ってたんですか?」

「いやあ、遅刻したんだ。ちょっと朝、頭痛くてね」

「ホントに? 大丈夫ですか?」

「どうせ、二日酔いだろ」

「違うと思うんだよな。昨日はそんなに飲んでないから。最近、ちょっと疲れてるせいかもしれない」

「風邪かもしれないですよ。休んだほうが良かったんじゃないですか」

「もう大丈夫だよ。今は、全然平気」

「そんなこと言って、そのうち、コロっと倒れるんじゃないのか」

「まさかあ。でも、まあ、もし俺が倒れたら、例の都市伝説の記事、菅谷さんが後を引き継いでくれよ」

「変なこと言わないでくださいよ。あたし一人じゃ、できません」

 菅谷は、慌てて手を振った。

 そうこうしているうちに、副島と高嶋の注文した定食が運ばれてきた。二人は箸を取った。

「あれ? それ、どうした?」

 副島は、高嶋の右手に包帯が巻かれていることに気付いた。

「これね。いや、間抜けな話なんだけど、ガラス戸に手が激突しちゃって。傷自体は深くないんだけど、けっこう何ヶ所も切れてたから、大袈裟かもしれないけど、包帯をぐるぐる巻いておいたのさ」

「医者に診せたほうがいいんじゃないのか?」

「自分だって、頭痛くても医者に行かなかっただろ。まあ、大丈夫だよ。・・・・・・ところで、菅谷、午前中のインタビューどうだった?」

「良かったですよ。思ったより、気さくで、いい人でした」

「あ、そう。気難しい人って聞いてたから、大丈夫かな、と思っていたんだ。やっぱり、地元ってことで、親しみを感じてたのかもね」

「私がこっちに越してきたのは、中学に入ってからですから。実は、あんまり地元意識って無いんですよ」

「転校して来たときって、すぐ学校に馴染めた?」

 副島が聞いた。そのときに、菅谷の定食が運ばれてきた。菅谷は、ついでにお茶のおかわりを頼んだ。

「いただきます。・・・・・・ええと、何でしたっけ?」

「転校してきて、学校はどうだった?」

「ええ。まあ・・・・・・私は大丈夫だったんですけど、妹が・・・・・・ちょっとね」

「妹さんが?」

「よくある話なんですが。クラスに上手く馴染めないで、ちょっとしたイジメにあったらしいんですよ。そのうち、学校にも行かなくなって。そのあとは、一日中自分の部屋に閉じこもったまま、外出はもちろん、家族とも顔を合わせたがらなかったんです。いわゆる、引きこもりですね」

「へえ。大変だったんだな」

「どうなるかと思いましたが、今は、どうにか、普通に高校生してますよ」

「そりゃ良かったな」

「この店のドレッシング、美味しいですよね。胡麻が利いてるせいかな? 大好きなんですよ」

 菅谷は、嬉しそうな顔で、サラダを口にした。


 午後は外出する人が多いので、編集部のある広いフロアは閑散としていた。

 そんな中、菅谷は昼食後の眠気と闘いながら、自分の机で、記事をまとめていた。周りには誰もおらず、副島も高嶋もいなかった。

 睡魔のせいか、なかなか集中できなかったが、気分転換に話し掛ける相手もいないので、立ち上がり、コーヒーを入れたり、窓際の鉢植えに水をあげたりと、ブラブラ歩いていた。

 ふと、誰かの机の上にある新聞に目がいった。

「そういえば今朝急いでたから、まだ新聞読んでないや」

 その場で、パラパラと読み始めた。

「えっ」

 一つの記事が、菅谷の目を引きつけた。

 また近所に殺人事件があった。島村のときと同じように、夜の路上、首を刃物で切られていた。新聞を読む限り、これといった手掛かりは何もないようだった。また、島村の事件との関連性には触れていなかった。

 被害者の名前は、藤原勝昭。まだ高校生だった。

「藤原?」

 新聞を掴んだまま、急いで自分の机に戻った。

少し前に話を聞いた高校生。彼もたしか、藤原とか言っていた。

 パソコンで資料を読み返すと、やはり藤原とあった。副島とファーストフード店で会った、高校生グループの一人だ。

 念のため、彼の通っていた高校にも、すぐ電話してみた。相手はかなり慌しい様子で、菅谷はかなり邪険に扱われたが、それでも、特徴や仲の良い友達グループ等を説明して、どうにか確認することは出来た。

 殺されたのは、やはり菅谷達の会った藤原だった。

(どういうことなの?)

 その場で頭を抱えてしまった。

 取材で会った人間が、二人続けて殺された。どちらも、都市伝説に関する取材だ。高嶋の言った「呪われるかもよ」という言葉が思い出された。もちろん、呪いそのものは信じていなかった。だが、何かの恐怖が忍び寄って来るのを感じた。

(とにかく、早く知らせなきゃ)

 副島の携帯に、メールを打った。


 副島は、喫茶店でコーヒーを飲みながら、フリーランスのカメラマン、ライターと打ち合わせをしていた。カメラマンは三十代半ばくらいで、皮のジャケットを窮屈そうに着た、小太りの男だった。ライターは、それよりも少し若そうな男で、サラリーマンのような普通のスーツ姿だった。

 二人とも副島とは何回か一緒に仕事をした、親しい仲だった。

 話が和気あいあいと進んでいたところで、菅谷からのメールが届いた。

「おっ、会社からの呼び出しかい?」

「ここでサボってるのが、ばれたか」

 カメラマンとライターが、からかい半分で言った。

 副島も笑っていたが、しかし、メールを見て笑顔が消えた。

「何? どうしたの?」

「いえ、なんでもないですよ。ちょっとした業務連絡です」

 副島は、携帯電話を仕舞った。

「ところで・・・・・・今、ちょっと、都市伝説みたいなものを調べてるんですが。それで、口裂け女って覚えてますか?」

「ああ。口裂け女ねえ」

「あったなあ」

 カメラマンとライターは、顔を見合わせて笑った。

「都市伝説の中でも、特に口裂け女って興味あるんですよ。何か知ってることあります?」

「そうねえ。僕が知ってるのは、一般的に皆が知ってることばっかりだと思うよ」

 ライターが言った。

「口が耳まで裂けて、普段はマスクをしてる。鎌を持ってる。百メートルを十秒で走る。雨の日に出る。ん~、そんなもんかな。あ、そうそう、テレビ業界の裏話を一つ思い出した。子供向けの番組で口裂け女をネタにしようとしたら、口唇(こうしん)口蓋(こうがい)(れつ)っていう症状を持つ子供の親から苦情がきて、番組が一本お蔵入りになった、ってことがあるらしい。口唇口蓋裂ってのは、生まれつき唇が割れてるらしいんだ。割れてるといっても、口が耳まで裂けてるような、口裂け女とは全然違うよ。ちょっとだけ傷があるような感じ。でも、そう言われて、口裂け女って、学校でいじめられたりするらしい。なんとも、可哀想な話だね」

「俺は、口裂け女のことは詳しくないんだけど・・・・・・」

 カメラマンが、話を始めた。

「やっぱり、一つ思い出したことがある。昔、この町で実際にあった事件らしい。当時俺はまだガキだったから、詳しいことは分からないけどな。ある日一人の女が、・・・・・・まだ若くて結構な美人だったらしいんだが、その女、狂っちまったらしいんだ。なんでだか知らない。色恋関係が原因という噂を聞いたことはある。その女、人を殺したんだ。凶器はなんだと思う? 鎌だよ、鎌。鎌を片手に、全身血まみれで、ニタニタ笑ってたらしいんだ。まあ、そんなの誰が見たんだよ、ってことになるがな。その女、懲役にはならないで、精神病院に入院したらしい。

 しかし、なにしろ、ガキの頃の話だ。俺は今でも、ホントにあった話だと信じてるけど、案外だまされてるのかも。もしくは、口裂け女の噂の一つのパターンかもしれない。もし、実話だとしたら、その女はどうしてるのかね。退院して、その辺を普通に歩いてるかもな」

「・・・・・・」

 副島は、黙り込んでしまった。


 早々に打ち合わせを切り上げた副島は、挨拶もそこそこに喫茶店を後にした。

 いろいろな想像が駆け巡り、頭の中が混乱していたが、とにかく編集部に急いで戻ろうと思った。

 近道を行こうと思い、表通りから外れた。

 少し歩くと、住宅ばかりの閑静なところだった。商店も公園も見当たらなく、住宅ばかりだった。寒いせいか、どの家も閉め切っていて、何も音が聞こえなかった。まだ明るい時間なので、灯りが家からもれてくることもなかった。

 表通りと比べると、人の往来がずっと少なくなる。それは、いつものことなのだが、このときは特に人が少なかった。誰もいないのである。

 妙な心持ちながら、急ぎ足で歩き続けた。静かな通りに、副島の足音だけが響いた。

 いや。待てよ。

 副島は聴覚を尖らせた。もう一つ足音が聞こえたような気がしたのだ。誰かが、後を追いかけて来るような。

 試しに、歩を止めてみた。静かだった。

 再び、今度ゆっくり歩き始めた。最初は、足音は一つしか聞こえなかった。しかし、しばらく歩くと、やはりもう一つ足音が聞こえた。副島の足音とは明らかに違う、コツコツといった、ハイヒールのような音だ。

 後を振り返っても、周りを見回しても誰もいなかった。しかし、足音だけは確かに響いていた。副島は、歩調を早めた。

 焦ってしまったせいか、自分の居場所が分からなくなってしまった。住宅街で道に迷うと、案外やっかいなものだ。どこも、同じような道ばかりで、似たような景色が続き、道を聞ける人もいない。

 副島は必死で周囲を見渡した。この際、誰でもいいから、人がいたら道を聞こうと思ったのだ。ふと見ると、少し先に小学生くらいの子供が二人、手をつなぎ並んで歩いていた。

 あれでいいや。副島は、いつの間にか走っていた。

 突然、フワッと白いものが、目の前に現れた。

「えっ」

 驚いて立ち止まると、今度はキラリと光る何かが、振り上げられるのが分かった。副島は、地面を転がるように避けた。肩口に一瞬ヒヤっとした感覚があったかと思うと、次の瞬間には、激しい痛みに襲われた。

「うう」

 唸りながら肩に手をやると、血が流れているのが分かった。

 必死で上半身を起こすと、ベージュのコートを着た髪の長い女が、悠然と歩いて去っていく後姿が見えた。

 痛みの為か出血の為か、意識がもうろうとしてきた。ふと気が付くと、さきほどの小学生、男の子と女の子の二人が、キョトンとした顔で副島を見下ろしていた。


 高嶋は、仕事の都合上、少し遠くまで足を伸ばしていたので、病院に駆けつけることができたのは、夜になってからだった。

 病室に駆け込むと、そこには既に菅谷が来ていた。副島はベッドに上に座り、普通に話をしていた。

「もう、大丈夫なのか?」

「やあ。遅かったな」

 高嶋の姿を見ると、副島は笑顔を見せた。

「なんだ。けっこう元気そうじゃないか」

「まあ、我ながら大袈裟に気絶なんかしちゃったけど、傷は深くないみたい。もう、明日にでも退院できるんじゃないかな」

「でも、怖い。ほんと、怖いわ」

 菅谷が頬に手を当てて言った。

「・・・・・・おおまかな事は菅谷から電話で聞いたけど、その後、なんか分かったことある?」

「凶器が見つかったわ」

「ほう」

「現場近くの家に、鎌が投げ込まれていたそうです。犯人が捨てた凶器と断定されました。それで、これはまだ断定できないようですが、前の三つの事件と同一の凶器である可能性もあるそうです」

「捨てた? 何で今回だけ・・・・・・まあ、でも、よく助かったなあ。顔は? 見なかったのか?」

「一瞬の出来事だったから。覚えてるのは後姿だけだ」

「目撃者は?」

「救急車を呼んでくれたのは、たまたま近くにいた子供なんだけど、その子達が言うには、いきなり俺が倒れていたそうで、他は何も見てないそうだ」

「そうか・・・・・・でも、まさか警察には、口裂け女の話なんかしてないだろ」

「うん、してない。言っても相手にされないさ」

「そうだよな。長い髪とベージュのコート、白いマスクだけで、口裂け女というのもな」

「・・・・・・でも、ちょっと気になる話がある」

 副島は、昼間カメラマンから聞いた事件を話した。

「・・・・・・そんな事件あったかな。僕はちょっと記憶にないけど。でも、本当の話だとしたら、その女が今どうしてるか気になるな」

「でも、おかしいわ。絶対、おかしいわよ。その女が犯人だったとしても、他の誰かが犯人だったとしても、なんで、あたし達の回りだけが狙われるの?」

 副島と高嶋は顔を見合わせた。何とも答えようがなかった。

「とりあえず・・・・・・誰かと一緒にいることだ。会社に行くときも、帰るときも、とにかく一人きりにならないように気を付けたほうがいい」

「そういう副島さんは大丈夫?」

「ここは病院だよ。いつも誰かいるから大丈夫だ。それより、その事件のこと、調べてみてくれないか」

「はい。分かりました」

「僕も、僕なりに、いろいろと調べてみるよ」

「いろいろって、何を」

 副島が聞いた。

「まあ、いろいろさ」

 高嶋は言葉を濁した。


 その夜、副島は眠れなかった。痛みのせいもあるが、とにかく落ち着かないのだ。副島の入院している部屋は四人部屋だったが、他の患者は皆高いびきだった。

 暗い部屋の中、ずっと天井を見つめていた。

 廊下から足音が聞こえてきた。真夜中だが、看護婦が見回りをしているし、誰かがトイレに行くこともあるし、全然珍しいことじゃない。

 気にしないで、変わらずに天井を眺めていた。

 足音が部屋の前で止まった。

 ああ、看護婦さんか。

 そう思ったが、部屋に入ってくる気配がない。立ち止まって、部屋を窺ってるいるようなのだ。

 副島は、ギクリとして、体を起こした。

 薄暗い中、若い女の子が一人立っていた。目が合うと、ゆっくり近付いてきた。

「副島さん・・・・・・ですよね?」

「そうだけど。誰?」

 女の子は、ぐっと顔を近づけて来た。

「私のこと、覚えてませんか」

「あっ。君は、確か・・・・・・」

 いつかファーストフード店で、殺された藤原から話を聞いたとき、一緒のテーブルにいた女友達の一人だった。

「・・・・・・藤原君は、気の毒だった」

「はい」

 彼女は、ベットの隅に、ちょこんと腰掛けた。

「どうしたんだ、こんな時間に」

「どうしても、副島さんに伝えておきたいことがあって」

「え?」

「藤原君が殺されたとき、実は、私も一緒にいたんです」

「本当か?」

「ええ。だけど、それを友達に知られたくなかったから、誰にも言えなかったんです。でも、私、犯人を見てるんです」

「・・・・・・」

 副島は、言葉も出せず、目を見張るのみだった。

「とは言っても、長い髪とマスクで、はっきりと顔は見てないんです。ただ、はっきり言えるのは、犯人は男です。マスクの下から、ちょっとだけ顎が見えました。髭の剃り跡が見えましたし、骨格は男です。体格だって、どう見ても男でした」

「・・・・・・男か!」

 やられたなと思った。

 口裂け女のこともあるので、誰も顔をはっきり見ていないのに、犯人は女であると信じていたのだ。

「まだ、他にも話しておきたいことが」

「まだあるの」

「ええ。藤原君、実は一撃で殺られたんじゃなくて、抵抗もしたんです。かなりもみ合いになりました。そのとき、藤原君、たまたまポケットに入っていたシャーペンを、犯人の右手に突き刺しました。ですから、犯人は右手に怪我をしてるはずです」

「右手か・・・・・・」

「藤原君、必死に抵抗していたんですが、結局、力尽きて・・・・・・、私は、どうすることも出来ず・・・・・・」

 彼女は、顔を伏せた。

「分かった。もう、いいよ。他に、まだ何かある?」

「いえ、これだけです。お願いします。犯人を必ず捜し出してください」

「ああ。約束する。だから、今日はもうお帰り。気を付けるんだよ」

 彼女はゆっくり立ち上がり、黙って一礼すると、そのまま消えるように部屋を出ていった。

 副島は横になり、また天井を見つめた。混乱する頭の中を、どうにか、まとめようとしていた。

「・・・・・・高嶋」


 翌朝菅谷は、資料室のコンピューターで、昔の新聞を検索することにした。しかし、困ったことに地元の殺人事件は、予想以上に多いのだ。

 多すぎるので、三十年前から三十五年前の五年間に絞って、検索することにした。いくらか件数が少なくなったので、一つ一つ、じっくり読んでいった。聞いた話が、元の事件とどれだけ違うか分からないのだ。

 犯人は精神異常ではないかもしれない。凶器は鎌ではないかもしれない。そもそも刃物でもないかもしれない。犯人は若い女ではないかもしれない。

 しかし、それらしい記事が見当たらなかった。もう一度最初から見直したが、やはり無かった。

 時代を間違えたのかもしれない。そう思い、二十五年前から三十年前の五年間で絞りなおして、再度読み進めた。

 気が付くと、もうすぐ昼だった。

「まいったなあ」

 菅谷は頭を抱えた。あと一つ二つ読んで無かったら、もう止めようと思った。そんなとき、ある記事が目に止まった。

 夫の愛人が妻と長女を殺害、という悲惨な事件だった。記事によると、清水昌徳さん(三五)は、その愛人、三ツ木みど理(二三)に対して結婚の約束をしていたが、いつになっても妻、清水廣江さん(三三)と離婚しない。業を煮やした三ツ木は、事件当日に清水さん宅を訪れたが、話は全く進まなかった。逆上した三ツ木は、妻廣江さんと、長女の靖子ちゃん(五つ)を、たまたま現場にあった鎌で殺害した。鎌?

「これだっ」

 急いで記事のコピーを取り、犯人三ツ木みど理の名前で、もう一度検索を試みた。すると、事件から三日後の記事があった。

 母子殺害の犯人、自殺。

「ええ~」

 がっくりと肩を落とした。その女は、精神病院などには行かず、すぐに死んでしまっていたのだ。

「どうしよかなあ・・・・・・とりあえず、ゴハンでも食べよっと」

 菅谷は席を立った。


 コンビニで弁当を買ってきた菅谷は、編集部の自分の席で、黙々と食べていた。

 ふと気が付くと、前に誰か立っていた。ゆっくりと顔を上げると、そこに副島がいた。

「あ、副島さん。もう大丈夫なんですか?」

「まあ、な。ゆっくり入院もしてられない」

「例の事件、調べてみましたよ。かなりそれに近い事件はあったんですが、犯人は精神病院には入院してません・・・・・・」

「そのことは、もういい」

「は?」

「それより、今日、高嶋は?」

「どこかに出掛けてるようです。朝からいませんね」

「そうか・・・・・・。突拍子もなく聞こえるかもしれないが、高嶋がやったのかもしれない」

「・・・・・・」

 菅谷は箸を咥えたまま、呆然とした表情で副島を見つめた。

「高嶋が犯人かもしれないんだ」

「どういうことです? ちょっとあたしには、よく理解できないんですが」

 副島は周りを見回すと、誰にも聞こえないように、小さな声で話を始めた。

「きのうの夜、藤原君の友達が病室を訪ねてきたんだ。あのとき、一緒のテーブルにいた女の子の一人だよ。その子は、犯人を近くで見ていたんだ。その子の話で、重要なことが分かった。犯人は男で、右手に傷を負った。いいかい? 右手を怪我してるんだ」

「たしかに、高嶋さん、右手に包帯巻いてるけど・・・・・・。でも、それだけで・・・・・・」

「考えてみれば、犯人は我々に近い人間だ。そうでなければ、有り得ない。偶然だけで、これだけ繋がりのある人間が、次々と襲われたりするもんか。高嶋なら、隙を見て菅谷さんのパソコンを覗き、いくらでも情報を得ることができる。実は、その前にも気になることはあったんだ。俺が襲われたとき、あまりにも突然だったので、犯人がマスクをしていたかどうか、はっきり見ていないんだ。だから、当然、マスクをしていたなんて、誰にも言ってない。ところが、高嶋は犯人のことを、さりげなく言っていた。長い髪に、ベージュのコート、白いマスクと。何故か。それは、彼だったからだ。まだある。思い返してみてくれ。最初の事件があった日、高嶋は休んでいた。次の事件の夜、俺と飲みに行く予定だったが、結局来なかった。そして、俺が襲われたとき、彼は外出していて、ここにはいなかった」

「そういえば・・・・・・たしかに、高嶋さん、切り裂きジャックに異様に興味を持ってたりして、なんか変だったけど」

「そうか。やっぱりな」

「でも、動機は?」

「マトモじゃない人間に動機なんて無い。ただ、殺したいから、殺すだけだ。いや、待てよ。一つ、動機があった。俺達を試しているんだ。口裂け女なんかに怯えてる俺達を見て、あざ笑ってるんだよ」

「そんな・・・・・・」

「そうだっ。あの、ロッカーだ!」

 副島は突然、立ち上がった。

「ちょっと。ちょっと来てくれ」

「あ、はい」

 急かされるままに、菅谷は食べ残しの弁当もそのままにして、慌しく副島の後を追った。

 副島は階段を駆け下り、一階も通り過ぎた。どうやら、地下室に向かっているようだった。

「どこ行くんですか」

「すぐに済むよ。見ておきたいものがあるんだ」

 地下に降りると、物置代わりになっている部屋に入り、乱雑に置かれた使われていない色々な物の中で、古びたロッカーの前に真直ぐ歩み寄った。

 そして、ほんの一瞬だけためらった後、ロッカーの扉を開けた。金属の軋む音が部屋に響いた。

「あった・・・・・・」

 菅谷は、後ろから中を覗き込んだ。

「な、何これ?」

 女物のベージュのコートが掛けてあった。長い黒髪のカツラも掛けてあった。

 二人は、しばらく言葉を失った。菅谷は、力無くその場に座りこんでしまった。

「・・・・・・あの子達、なんて言ったっけ。喫茶店で会って、怖い話をたくさんしてくれた」

「え、と、百物語倶楽部の子達・・・・・・」

 ハッとして、菅谷は立ち上がった。

「次は、あの子達が狙われる?」

「連絡は取れる?」

「やってみます」

 菅谷は急いで、地下を後にした。ロッカーをきっちり閉めると、副島も後に続いた。

 自席に戻るとすぐに、菅谷は電話を手にとった。副島も電話を取った。菅谷は次々と電話をかけては、何事か話をしていたが、副島は、受話器を握ったまま無言だった。

「三人とも連絡とれました」

「そうか。こっちは、高嶋の携帯に電話してみたが、駄目だ。通じない。たぶん、電源を切ってある」

 副島は頭を抱えた。

「・・・・・・高嶋さんって、どういう人なの?」

「実は、あんまりよく知らないんだ。仕事の付き合いだけだから。プライベートのことは話さない。お互いにね・・・・・・。三人には、なんて?」

「とりあえず、危険だから外出はしないで、家族と一緒におうちにいるように言ったわ。でも、一人問題があります」

「問題?」

「安原さんって、いたじゃないですか。三人のリーダー格の子。今夜、両親が出かけてしまい、一人で留守番するそうです。両親は明日まで帰ってこないとか」

「それは、良くないな」

「あたしが、これから安原さんの家に行って、もし出来れば、今夜はそこに泊まります」

「頼むよ。俺は、これから警察に行ってくる。そのあと、安原さんの家に行くよ」

「それなら、安原さんの家の地図、後で書いておきます」

 副島は、立ち上がり上着を取った。


 安原の家は、住宅地の一画にある、やや小ぶりの一戸建だった。一階には、キッチン、居間等々があり、二階には部屋が二つあるだけ。その一つが安原の部屋で、菅谷と安原がくつろいでいた。

 ベッド、机、洋服ダンス、本棚がぽつぽつと並んでおり、女の子の部屋としては、やけに装飾が少なく、ぬいぐるみの一つ、人形の一つも置いてなかった。

「シンプルな部屋ね。落ち着いてて、いい感じ」

 菅谷が、部屋を見回しながら言った。

「そうですか。実は、ちょっと前まで、すごいことになってたんですよ」

「すごいこと?」

「魔術に凝ってまして。白魔術とか、黒魔術とか。そのときの部屋は、ほとんど『占いの館』状態でしたよ。でも、親は嫌がってたし、あたし自身急にアホらしくなっちゃって。魔術に関わるものは、全部捨てちゃいました」

「アホらしいってのは」

「魔術で何も変わらないことが分かったんです。・・・・・・まあ、ぶっちゃけて言っちゃうと、好きな人ができたんですが、魔術はあたしを助けてくれなかった。どっちかというと、そういうの嫌われちゃいますよね」

「そういうことね。今は? 彼氏は?」

 菅谷は、なるべく深刻な話はしないようにした。

「いやいや」

 安原は苦い顔で笑った。

「相変わらず、女の子同士で怖い話集めたりして。あんまり、変わってないですね」

 そんな話をしているとき、玄関のチャイムが鳴った。安原は、すぐに降りて行こうとした。

「待って、あたしも行くわ」

 菅谷は安原を追い越しながら降りて行き、玄関の覗き窓に目を付けた。外に立っていたのは副島だった。

 時刻は、夜の八時少し前だった。

「お疲れ。これ、差し入れ」

 コンビニで買ってきた菓子や飲み物を、菅谷に渡した。

「ありがとうございます。警察はどうでした?」

「うん。一応話はしてきたけど。その話だけでは、具体的な行動はとれないようだ。だけど、あとでパトロールに来るって言ってた」

「そうですか。あんまり頼りにならないなあ」

 菅谷の後ろから、安原が頭を下げた。

「ああ、どうもこんばんは。お邪魔します」

「どうぞ。ついでだから、コーヒーでも入れますか」

「どうぞお構いなく。でも、飲み物買ってきたから、何か飲む?」

 三人は、そのままダイニングルームでくつろいだ。

「あたし、これがいい」

 安原は紅茶の缶を手に取った。

「副島さんは? あたしは、残ったものでいいです」

「じゃあコーヒーを」

 菅谷は、残った緑茶のフタを開けた。

「シールもらえますか。今プレゼントやってるみたいだから、集めてるんですよ」

「ああ、いいよ」

「副島さんじゃなくて、菅谷さんの」

「あたしも、別にいいわよ。何が当たるの?」

「キャラグッズとか」

「なかなか当たらないと思うよ」

「そんなの、送ってみなくちゃ分からないです」

 安原が笑顔で言った。

「・・・・・・ところで、今夜、来ると思いますか」

 そう言った安原は、笑顔のままだった。

 副島と菅谷は、言葉に詰って顔を見合わせた。

「なんか、こうやって、くつろいでると、そういう雰囲気じゃないんですよね」

「・・・・・・来ないかもしれない。いや、来ないほうがいいに決まってる。こうやっているのが、無駄足で終わってくれればいい」

「そうですね・・・・・・」

 安原は紅茶をすすった。


 そのままダイニングルームに居座り、三人はポツポツと話をしていた。

「あ、俺、包帯取り替えないと」

 副島が肩をさすりながら言った。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫だよ。ただ替えるだけ。ちょっと風呂場借りるね」

 副島がダイニングルームからいなくなった。そのとき、玄関のチャイムが鳴った。

 菅谷と安原は顔を見合わせた。時計を見ると、九時を過ぎたところだった。

「誰か来る可能性ある?」

 菅谷が訊いた。

「いえ。こんな時間、誰も来ないと思います。警察の人かも」

「そうね・・・・・・あたしが行くわ」

 高鳴る心臓を押さえながら、菅谷は玄関のドアに近寄った。

「どなた・・・・・・ですか?」

「こんばんは。夜分すいません」

 聞き覚えのある男の声が、ドアの向こうから聞こえてきた。間違えなく、高嶋の声だった。

 叫びそうになった衝動を抑え、息を飲み込み、呼吸を整えた。

「な、なんの、ご、ごようですか?」

 声が震えて、うまく喋れなかった。

「その声は菅谷? やっぱりここにいたんだね。僕だよ。高嶋だよ」

「何でここに?」

「地図が机の上にあったから、もしかしてと思って来てみたんだ。大事な話がある。開けてくれないか」

「ダメよっ、ダメです! 開けられません!」

「なんでだよ。どうしたって言うんだ」

 高嶋はドノブアをガチャガチャ回した。菅谷は、怖くなって、震える手でドアノブを押さえた。しっかり、鍵もチェーンも掛かっていたが。

「だって、だって、副島さんが・・・・・・」

「副島がどうした。何か言ったのか?」

「副島さんが、副島さんが・・・・・・」

 菅谷は泣きたくなって、言葉が出てこなかった。

「OK、分かった。開けなくていいよ。このままでいい。落ち付いて話をしよう。だから、副島が何を言ったのか教えてくれ」

「高嶋さんが、やったって・・・・・・、高嶋さんが、犯人だって・・・・・・」

「バカな。何を根拠に」

「昨日の夜中、藤原君の友達が病室を訪ねて来たって・・・・・・。その子が言うには、犯人を見たって。犯人は男で右手に怪我をしてたって・・・・・・」

 ほんの少し間が空いた。菅谷は、じっとドアを見つめ、その向こうにいる高嶋の様子を窺った

「・・・・・・なあ、冷静に考えてみろ。その子は、なんでわざわざ夜中に、それも、病室の副島を訪ねたのだ。警察に行けばいいし、それが嫌だったら、編集部に行けば菅谷もいる。そもそも、なんで副島がそこの病室にいることを知っているんだ」

「そういえば・・・・・・」

「副島は、誰とも会っちゃいない」

「嘘をついてるの?」

「いや、たぶん嘘でもない。妄想だ。妄想の中での会話だ。僕も信じられなかったが、あいつはマトモじゃない。今日はっきりしたんだ。犯人はあいつだよ」

「嘘だ」

 突然後から声がしたので、振り返ると、いつの間にか副島が立っていた。

「適当なことを言って惑わそうとしてる。でも、菅谷さんは、高嶋より俺のいうことを信じるだろ?」

「え、ええ?」

 菅谷はもう、どうしたらよいか分からず、副島の顔とドアとを交互に見ていた。

「副島か? 副島が、そこにいるのか?」

「ああ、いるよ」

「菅谷っ! 危ないぞ! 早くここを開けてくれっ」

「いいかげん、小芝居はやめろよ、高嶋。もう終わりだ」

 ドア一枚を通して、副島と高嶋のにらみ合いが続いた。

「分かった。副島、ひとつ聞く。おまえ、小学校のときの記憶はあるか? 小学校の時、自分が何をやったか覚えているか?」

「な、なんだよ、突然」

「いいから、答えろよ。小学校のときの思い出、なんでもいいから話してみろよ」

「そんな昔のこと、なにも覚えてない」

「いいや。普通だったら、小学校の記憶はあるよ。なんなら、僕が代わりに答えてやる。おまえは、ほとんど小学校には行っていない。ずっと精神科病院に入院していたからな」

「デタラメ言うなっ!」

「悪いが、おまえのことは色々と調べさせてもらった。小学生のおまえが何をしたのか。何をして、入院するはめになったのか。僕もプロだからね。その気になれば、いくらでも調べられる。おまえは最初、同級生をナイフで切りつけた。それが原因で入院した。入院中は大人しかったので、すぐに退院できた。しかし、今度は女性教師を彫刻刀で切りかかった。当然、また病院行きだ。幸い、どちらも相手が軽症だったから、事件として大きく取り扱われることはなかったがな。その後は何事もなく順調だったが、また、病気が出たんだ。副島、おまえは病気なんだ」

「本当なの?」

 菅谷は、おそるおそる副島の方に振り向いた。

 いなかった。

 気が付かないうちに、その場から消えていたのだ。あっ、と思っていると二階から声がした。

「いやあっ! 助けてっ!」

「安原さんっ!」

「どうしたっ! 大丈夫かっ! 開けろ、早くっ!」

 慌てて鍵を開けたが、手が震えてチェーンを上手く外すことができず、カチャカチャとチェーンの音が響いた。

「どうしたんだよっ」

「黙ってっ、今開けてるから!」

 やっとチェーンが外れ、高嶋が転がり込んできた。

「副島は?」

「上よ」

 二人は急いで、階段を駆け上がった。

「安原さん!」

「副島!」

 部屋に飛び込むと、そこには副島が立っていた。安原を羽交い締めする恰好で。台所からもってきたのか、最初から用意していたのか、手には包丁が握り締められていた。目は血走り、口を大きく開け、野獣のような形相だった。そこにいたのは、二人が知っている副島ではなかった。

「なんでなの。なんで、いつもそうなのよ」

 だらしなく開いた口から出た言葉は、女の喋る言葉だった。

 安原は恐怖で青ざめ、小刻みに震えていた。幸い、まだ無傷のようだが、包丁を突きつけられているので、高嶋も菅谷も、簡単に近づくことができなかった。

「副島。落ち着け。誰もおまえを傷つけたりしない」

 高嶋は、なんとか説得を試みたが、充血した目は宙を泳いで、言葉が耳に入っているかも分からなかった。

「もういい。メチャクチャにしてやる。あなたの、なにかも奪ってやる。ねえ・・・・・・あたし、きれい? あたし、きれいでしょ?」

 副島の言っていることは訳が分からなかった。

 包丁の刃が、安原の顔に近付いた。

(神様・・・・・・)

 安原は目を閉じた。

(・・・・・・魔術も魔法も、もう信じてないけど。神様。もしいるなら、あたしに、ちょっとだけ力を貸して。お願い・・・・・・)

 小さく深呼吸をした。そして、覚悟を決めると、自分の肘を思い切り副島の肩にぶつけた。傷を負った肩だ。

「あぅ」

 副島は唸り声を上げ、一瞬力が緩んだ。その隙に、安原は急ぎ飛び退いた。慌てて安原に手を伸ばそうとした副島に、高嶋が飛び掛った。

 衝撃で、副島の手から包丁が落ちたが、勢い余って、二人は転がるように窓を叩き割り、二階の窓から転落した。

 窓の下は木が植えてあり、クッションになったのは幸いだが、それでも全身を強く打った。

 高嶋は、意識こそはっきりしていたが、すぐには体が動かなかった。なんとか上半身を起こしかけたが、そのとき、副島が高嶋の顔面を殴りかかった。

 再び倒れた高嶋に、今度は馬乗りになって、首を絞めてきた。

「やめろ」

 必死に手を振り解こうとしたが、普段の副島からは想像できない強靭な力で、どうにも振り解くことができなかった。

「く、苦しい・・・・・・やめろ」

 暗闇の中、目の前には、副島の白い顔が浮かんでいた。しかし、その姿もだんだんとぼやけてきた。周りの音も、だんだん聞こえなくなり、苦しいという感覚も薄れつつあった。

 そのとき、副島の叫び声が響いた。首に巻きついた腕の力が弱くなった。急いで振り解こうとすると、そのまま副島は地面に倒れた。

 もう副島は動かなかった。背中には、包丁が突き刺さっていた。

 見上げると、そこには菅谷が立っていた。


 高嶋と菅谷は、並んでパトカーに乗っていた。安原も、婦人警官に付き添われ、別の車に乗っているはずだった。これから警察に行って、一から説明しなければいけないと思うと、気が滅入った。

「大丈夫?」

 青い顔で、小さく震えている菅谷に高嶋は声をかけた。

「ええ。それより、高嶋さんは? 体は?」

「ちょっと打ったけど、大丈夫だ」

「・・・・・・あたし、何が何だか」

「あとでまた詳しく説明することになると思うけど、今のうち、僕の調べたことを話しておくよ。副島は、幼い頃養子に出されてるんだ。その前の姓は、清水・・・・・・」

「え、清水って、ひょっとして?」

「あの事件のこと、調べたのか」

「ええ。母親と女の子が殺された事件ですよね」

「その母親は、副島昌巳こと清水昌巳の実の母で、女の子は、彼の姉だ。その凄惨な事件は、幼い彼の目の前で起きたんだ。彼も殺されかけた。それでも、命こそ助かったが、精神は助からなかった。僕は、事件を詳しく調べた。犯人の女の、当時の様子も分かった。髪の長い女で、ベージュのコートを着て、白いマスクをしていたそうだ」

「そんな」

「なんでも、マスクをしていたのは、顔に返り血がかかるのが嫌だったらしい。それでも、ベージュのコートを着ていたのは、血の色がよく映えるように、とのことだそうだ。もう、精神は普通じゃなかったんだろうな。いずれにしても、まるで口裂け女だ。だから逆に、口裂け女のイメージが、彼の中の陰惨な記憶を呼び起こしてしまったんだろう。そういう意味じゃ、僕に責任がある」

「それを言ったら、あたしに責任があります。一番、積極的でしたから」

「結局、いつかは、こういうことになっていたんだろうな。僕や菅谷がいなくても」

「・・・・・・いつから、副島さんが怪しいと?」

「凶器だよ。副島が襲われたときだけ、近くに凶器が捨ててあった。何故持ち帰らずに、捨てたのか? 考えていたら、ふと思いついたんだ。副島が自分でやったんじゃないかって」

「自分を切りつけるなんて、信じられない。それはやっぱり、自分に疑いが向けられない為の策略ですかね」

「分からない。策略かもしれないし、妄想の中でのことかもしれないし、両方かもしれない。実際、副島自身、どれだけ犯行の自覚があったのか。僕のことを犯人呼ばわりしたときも、君をだますつもりじゃなくて、本気でそう考えていたのかもしれない」

「どう思います?」

「分かりようもない」

「・・・・・・」

「闇だ。全部、闇の中だ」

 高嶋は、走るパトカーの窓から、真暗な街を眺めた。


 それから数日間、二人にとって忙しい日々が続いた。何しろ、人が大勢死んだのだ。高嶋も菅谷も、当然出来る限りのことはしようと思った。特に菅谷は、難しい立場だったから。しかし、二人とも疲れていた。

 夕暮れの中、車を運転していた高嶋は、少しイライラしていた。この日も警察に行って来たところで、菅谷を家まで送るところだった。警察の対応というものが、あまり迅速に思えなかったし、自分達に対する思いやりなんてものも感じられなかったのだ。

 愚痴の一つでも言いたくなったが、助手席に黙って座っている菅谷のことを思い、我慢することにした。

「大丈夫? 疲れてない?」

 もう何回も言った台詞だった。しかし、他に何を言っていいか分からなかった。

「はい、大丈夫ですよ」

 菅谷は笑顔を向けた。

「すいません。いつも、気を遣ってもらっちゃって」

「僕はいい」

 そう言いながら、ステアリングを操る手がつい乱暴になった。

「・・・・・・腹減ってないか」

「そうですね。もう夕方ですから」

「これから、なんか美味いものでも食べにいこうか。気晴らしにさ」

「いいですね。是非・・・・・・」

 そう言いながら、菅谷は車の外を見渡した。

「もう、うちの近所ですね。申し訳ないですが、ついでに一旦寄ってくれません? 着がえようかな、と思うんです。せっかくだから、気晴らしにちょっとオシャレでもしたい気分なんです」

 菅谷の着ていたのは、相変わらず学生のような紺のスーツだった。

「いいよ。でも、あんまり洒落ても、一緒にいるのが俺だからな」

 高嶋は笑った。それでも、少しいい気分だった。

 菅谷の家の前に車を停めると、菅谷は走って中に入っていった。高嶋は、車の脇に立っていた。

 ふと気が付くと、一人の女の子が、その様子をじっと見ていた。菅谷よりだいぶ若そうだが、顔はそっくりだった。すぐに妹だと思った。

「どうも、こんばんは」

 高嶋は軽く頭を下げた。女の子は、笑顔で近付いてきた。

「お姉ちゃんの彼氏?」

「違うよ。お姉さんと一緒に仕事してるんだ」

「ホント? これからデートじゃないの?」

「食事するだけ。お姉さん、家ではどんな様子? 最近忙しかったから、大変だったろ」

「まあね。でも、あんまり変わんないかな。ずっと同じ調子。前から、うちではあんまり喋んないから。別に仲が悪いわけじゃないよ」

「そうか」

「逆にさ。お姉ちゃん、職場では、どんな感じ? どんくさいし、トロいから、みんなに迷惑かけたりしない?」

「そんなことないよ。しっかりした人だ」

「ホントかなあ。別に、あたしに気遣うことないじゃん」

 以前、菅谷が言っていた。妹は昔、イジメにあい、引きこもっていたと。しかし、ずっと笑顔で無邪気に話を続けるその表情に、そんな影は微塵も感じられなかった。

「うちじゃあ、あんまりしっかりして無いけどなあ。まあ、あたしに比べると、だけど」

「でも、君、昔はいろいろあって大変だったんだろ」

 言ってから、高嶋は失敗したと思った。

 疲れていたのと、少し調子づいていたのがいけなかった。そういう話題は、こういう場所で軽く言うことはではない。

「は? 昔?」

「いや、なんでもない。ちょっと、勘違い」

「何よ~。何の話? 感じ悪いなあ」

 その屈託のない顔に、高嶋は違和感を覚えた。ひょっとしたら、本当に、何かの勘違いかもしれない。

「いや、ね。ちょっと前、お姉さんから聞いんだ。でも、聞き間違えか、僕の記憶違いかもしれない」

「なになに? お姉ちゃん、あたしのこと、なんか言ってたの?」

「まあ、なんていうか、昔、イジメ……、登校拒否になって……家に引きこもっていたって」

「え~っ。なに、それ」

 心底、意外そうな顔をしていた。

「やっぱり、違うのか」

「違う違う。大違いよ。それって、お姉ちゃんのことだもん」

「え?」

「お姉ちゃん、もとから、明るい感じじゃなくて。こっちに越してから、全然回りと馴染めなく、学校じゃあ嫌な思いしたみたい。そのうち部屋から出てこなくなっちゃった。今は、普通だけど」

「そうだったのか・・・・・・」

 菅谷にそういった過去があるなんて、高嶋は想像もつかなかった。菅谷にも、高嶋の知らない闇があったのだ。


 菅谷は家に入ると、自分の部屋に入った。

 灯りを点けたが、部屋の中の空気は淀んでいるようだった。窓を開けることも、カーテンを開けることも、菅谷は嫌いだったのだ。

 上着を脱ぎ、床に放り投げた。床には、他にも何着かの洋服が、無造作に放られていた。ベッドの上には、ぬいぐるみが山のようにあった。

(さあて、何を着ようかな)

 大きな洋服ダンスを開けた。

(あれ?)

 開けたまま、首を傾げた。

 洋服ダンスの中には、同じような紺のスーツばかり並んでいた。その中に、ポツンとベージュのコートが掛かっていた。

(こんなの、いつ買ったっけ?)

 そのベージュのコートを手に取った。まだ新しく、一回も袖を通していないようだった。

 いつからここにあるのか、記憶になかった。

(・・・・・・でも、素敵なコート)

 そのコートがとても気に入った。さっそく着て、鏡台の前に立った。ちょっと大人っぽく見えた。

(そう。あたし、もう大人なのよ)

 髪をかきあげてみた。

(大人だから・・・・・・なんだって出来る。怖いものはない)

 突然、あの夜のことを思い出した。副島を包丁で刺した、あの感触が蘇ってきた。

 するどい刃物が、肉の塊に突き刺さる感触。

 両手をじっと見つめた。

 鏡に映った菅谷の顔は、いつの間にか微笑んでいた。美しい笑顔だった。


                   了


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