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仏ウィルス  作者: 竹下博志
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第三部

彼らは、こちらに向かってきている。と、集団の全員が確信していた。

こちらの意向は伝えたのだ。それを拒否されたからと言って、押し通すまでのつもりはない。

 彼は確かに余計な事をした。彼らに、我々の存在を伝える必要は、無かったのだ。しかし、その気持ちは、わからなくもない。だから、そのことで、責めるつもりは、集団にはない。彼が意志を伝える以前から、集団全体で、彼の目的は、知覚されていたのだ。その上で、彼が、彼なりの判断で、そのような行動に出たことは、互いの了承の上だった。分かっていながら、止めることはしない。それは、絆と呼んでもいい。信頼関係なのだ。

 我々は、個々の集団だが、集団もまた、個の中にある。

一人の人間の中にも、様々な想いの自分が居て、それが時と場合によっては、入れ代わり立ち代わり、行動を支配する。気分は常に変わるし、前向きな日もあれば、慎重な時もある。だからと言って、反対の人格が、その対抗する人格を排除したりはしない。それは容易には、出来ないのだ。

 いやな時もある。嫌悪に苛まれるときもある。しかし、それもこれも自分でしかないのだ。共存するしかない。そのことと同じだ。

 これは義務ではない。事実である。集団で生きるとは、そうしたものだ。したがって、集団には、その心構えが出来ている人間しか、入れない。常に自分が正しく、他人は間違っているという幻想を抱いている人間は入れないのだ。しかしこれもまた、単なる理想に過ぎない。

 それよりも、物事には、流れ、というものがある。これに逆らうつもりはない。流れに沿って、流されてゆくのは、楽しいものだ。乗っていくのに、心底楽しいのもあれば、急激で、危険な流れもある。そのような時にこそ、自分が試されるのだ。これこそが、生きている醍醐味ではないか。

 我々が、彼らにとって、役に立つのかどうかは分からない。だが、従来の感染者が、我々を怖れているのは確かだった。その恐怖は、知覚できるからだ。その恐怖が、何処からくるものなのかはわからない。 

 だから、それも含めて、彼らと、感染者、両者に対して、中立の立場を保ってきたのだ。

 もし彼らが、我々と共存関係を築けるのなら、無事に、ここへたどり着くことが出来るだろう。そうでない場合は、たどり着くことすらできないだろう。

 もう一つの集団が、従来の恐怖を押しのけて、彼らと我々の接触を阻止しようと、接近しつつあった。恐怖は、しかし、克服されたのではない。より新しい、より強大な恐怖に、突き動かされているのだ。それは自らの生存そのものにかかわるものだということが、感じられた。

 

 我々の宗教は、破綻寸前だった。教義に、破綻が有った、とは思わない。理想は高く。その方法も、理屈に合っていたように思えた。

 この集団に居たところで、何らかの特別な利益があるわけではない。そのようなものからは、徹底的に切り離されていたのだ。

 過去の宗教団体が、ことごとくうまくいかなかったのは、この利益によるものだ。現世と、不自然かつ、巧みにつながり、そこから供与を得て、利を手に入れる。因みに不自然というのは、我々の考え方だ。多くは、教義との矛盾が見て取れるからだ。

そうした仕組み。或いは、団体の中での地位に関するもの。教義の正当性に関する争い。

 そのようなものを、一から順番に、徹底的に排除していって、成り立った宗教だった。

 現世とのつながりは、必要最低限度しかない。こちらから働きかけて、お布施を得るとか、そういう活動はない。 

自給自足が中心で、道具や、食料は自らが作った。エネルギーは自然に得られるものに限られていた。その中で、一部の薬や、病気に対する処方だけが、現世とのつながりを代表するものだった。無理にこれも、切り離すわけではない。必要な事だけでつながるのだ。

 現世は嫌悪の対象ではない。しかしそこは、住む世界が違うというスタンスだった。価値観の相違というやつだ。それを、敢えて、わかり合おうというのは、あらゆる資源、時間と労力の無駄使いである。というのが、我々の考え方だった。

 もちろんそれを、活動の根幹において、多数の信者を獲得しようとしている宗派は有る。しかし、我々は、この宗派をわざわざ大きくする理由など持たなかった。それは、我々にはあさましく見えた。だが、それは我々には関係ない事だ。

我々が、団体内において、個人を尊重するように、別の社会の人間も、個人一人一人を尊重するのだ。しかし、干渉はしない。この姿勢は、最も重要な事だった。

 因みに、我々のこの土地は、過疎地の、誰も世話をする者が居ない、困り果てて売りに出された山を、格安で買い取ったものだ。整備された大きな道すらないところで、林業にも適さない。その分、原始のままの植生は、豊かで、土壌は栄養に富み、水も豊富だった。

広さも申し分なく。人間が入って、汚しても、自然な循環に耐えうる空間が有った。

だから、産業としての農業には適さなくても、自給分を作るには、文句の付け所は無かった。困ったことと言えば、獣が畑を荒らしに来ることが多かったくらいだ。しかし、これもまた集落に犬を入れることで、防ぐことが出来た。集落にとって、犬は、単に愛玩用というのではなく、人間と共存しているというわけだ。

 ところで、内部の具合だが、団体での地位は、無い。誰かが、誰かに強制力が有ったりすることはない。指導や、指揮をする必要がないからだ。団体は集団ではあるが、あくまでも個人の集まりに過ぎない。この理念は、先程触れた。同じ信念を持つものが、集まっているに過ぎないのだ。それを積極的に増やすこともしない。これも先の通り。  

人を増やすのは、同時に、資金を得るためだ。そこが、トラブルの元なのだが、それをしないのだ。但し、噂を聞いて、来るものは拒まない。また、去るものも追わない。つまり、最も尊重されるのは、個人の考え方や、やり方なのだ。

 規範は、ある。それは、この国の法律である。裁きもまた、司法機関に委ねられる。その意味で、これも現世とのつながりと言えるだろう。

 法や秩序の維持を身内でするのは、却って厄介である。我々だって、現実的には、この国の、一国民に過ぎない。そこから逸脱するのは、損でしかない。

税金を払い、健康保険を収めて、出来るだけその恩恵にもあずかろうとする。国の仕組みというものは、かなり、使えるツールなのだ。図書館だって、我々は使っている。一般的に見ても、信者以外の人より頻繁に使っていると、言えるだろう。何故なら、我々にとって本は買うものではなく、借りるものだからだ。そして、何より、本を読む時間は、じつにたっぷりとあった。そして、そのことを大いに歓迎した。

知識は、人生には、必要であり、それらを通して、人は、より深く考えることで、より豊かになれるのだ。 

思索と言っても、じっと考えているだけが、思索ではない。哲学や、人文的な内容を突き詰める事だけが、思索ではないのだ。その上で、単純な作業が思索的でないというのは、馬鹿げている。豊かというのは、思索によって得られる作業の変化が、それは作業そのものであったり、心理的なものであったりしたが、人に楽しみを与えるからだ。

より大きな集団である国という組織の、悪い面を見て、文句を言い、変えたいと願う人は、政治家になればいい。しかし、我々は違う。そのような事に人生を浪費するほど、それに重きを置いてはいない。すなわち、理想は理想だが、現実も現実なのだ。

 現実という川の流れには、すべてのものが流れている。それらを、有り難く、ありのままの姿で、利用するだけだ。流れ着いたものだけを受け取る。より違ったものを、より多くを受け取れるように、流れを変えようとはしない。その流れは大きすぎるのだ。その意味で、我々の考えは老子に近いかもしれない。タオは川に通じるだろう。

 ともあれ、その最たるものが、資金の運用だった。これにもまた、既にある物を、利用する。つまり、いくら自給自足だとは言え、世間とのやり取りは、お金を使う。

薬を買う、医者を呼ぶ、服を作るための布を買うなど、自給自足で賄いきれないものは、この資金によってなされるのだ。商業活動をしない我々の収入源は、いわゆる資金運用だった。

 団体において、個人の所有財産という価値観はない。だから、この団体に納得して入ってきた者は、財産を共有の資産として、提出することになっている。それを、全体として運用するのは、団体の外の専門家である。

 運用と言っても、特に何をするわけではない。普通の人が普通に、誰もが目にすることの出来る市場の、長期運用の、分散投資で、出し入れも自由というやつだから、手数料もほとんどかからないものだった。特定の担当者が付いて、顧問料を払わなければならないものではない。

 短期的な上げ下げなど、気にもしない。放置型の投資で、資産に関する一喜一憂など無縁な商品だった。

 財産が、底をついてしまう危惧も考えられたが、高齢化社会になって久しい我が国では、個々の構成員も多分に漏れず、高齢者の比率が多かった。つまり年金の収入が結構あるのだ。

コミュニティに参加する、その動機としても、子供に手がかからなくなって、夫婦で何となく疎遠になったためというのが多く。それ故に、それぞれに独立して、独居を始めた、というような老人が、ここには大勢いた。

 彼らは、若いうちは、子供を育てるため、家のローンを払うために、働き続けてきた。家族はそのためのパートナーである。このパートナーシップは嫌でも、なかなか容易には切れない。一つには物理的に、障害があるからだ。

その人達が、年金がもらえるような年齢となって、自分というものにある程度の自由を見出した。そのまま働き続ける人たちもいたが、孤立して、自給自足のこうした生活にあこがれる人もいる。

 都会に居て、或いは地域に居て、様々な人たちとまじりあって生きていくのも、一つの選択肢だが、そこには家族という単位で生きている人たちも多い。その中で、独りで生きていくというのは、多少後ろ暗い所が有って、ここに来るのだった。ここは、皆が皆、孤独を愛する人たちだからだ。 

 「永久に、ソロキャンプを続けている集まり」

 だと、言った人もいる。

「コミュニティは、そのくくりで同じ志の人が集っているので、気兼ねがなくていい」という事らしい。

まあ、他人に言わせると、ホームレスの群れだともいえる。どちらがどちらだということは、意味がない。集団を言葉でくくっても、とどのつまり個々の人はそれぞれで、やり方も考え方も違うからだ。

宗教的ではないものもいるが、それは、別段構わない。

 ともあれ、そうした人たちは、年金を引き連れてやってくる。資産は、だから、枯渇の危険性を年々薄めつつあった。

それは、運営が健全で、宗教団体と言っても、自由な雰囲気で、放任主義な空気が、噂となって、人を呼び込んだからだ。

 釈迦のように、或いは平安期の歌人である、西行法師のように、社会的地位や、家族を捨ててまで、ここに来る人は、やはり少ない。そうしたことが、集団内での、高齢化に、より拍車をかけていた。

 つまり、資金全体として、年金に頼る率は、年々上がっていったのだ。

 そしてこれの引き出しや、活用は当番制で、複数の人間が同時に、当たる事になっていた。すなわち、経理に、買い出し係というわけだ。通常の決裁権は、小さな金額にとどめてある。それ以上の金額の支出は、全体でなくともいいが、ある一定数以上の賛同の必要が有った。これで、トラブルを回避しようというものである。

 さらに、より小さな金額が、全体に毎月配布される。買い出し係の負担は出来るだけ軽くという事で、真に個人的な物や、小さな買い物は、これで賄うのだった。但しこの出費が、入金分を上回ることは決してない。だから配布は少ない。数か月溜めて、買い物はそのタイミングで、と言った具合だ。

 事実、資産に関するトラブルは無かった。特別に欲しいものなど、ここに居る誰しも、当初から、持っていないのだ。そうでないと、こうした場所には飛び込みにくい。

その上で、世間から切り離されていると、さらに、そうした欲望は消えてゆく。流行りや、新しい、その実、過去の焼き回しのような、怪しげな健康のためのもの、見目の良い何か。そのようなものは、そういった情報から切り離されていると、不思議と、欲しくなくなっていくものだ。

一番大切な健康は、自給自足の生活が、担保してくれる。

物理的に、欲しいものは、ある物を、工夫して作り出せばいいし、そうしたものは現実に即した、実用的な物であって、必要だから作るというものなのだ。

 もちろん、そういったものを作ることに、創作の喜びを見出すものもいる。

 工芸や、芸術は、自然と向き合うのに、最適な方法だった。

宗教団体としての、教義は、かつてより、この国に有った神道を基本としている。神道を基本とするのは、自然礼賛と、先祖への畏敬をその教義の中心としているからだ。

神道の教義と言っても、殆どが、荒唐無稽な物語の類だった。大きな蛇をやっつけたとか、太陽神がへそを曲げて隠れてしまったとか、黄泉の国に、死別した女に会いに行って、死者に追いかけられたとか、黄泉の国の汚れを洗い流すと、そこから太陽神が生まれたとか、そのような類の話である。

そこから、何らかの教訓を引き出そうというわけではない。生活の役に立てようとか、自分を変えようとか、ましてや社会を変えようとか、そのような事は一切考えていない。

聞いて、へぇ、と驚いて、どことなく親しみを感じて、それで終わりである。それを議題に議論することもない。それぞれが胸にしまって、熟成させるのだ。

だが、むしろその方が、都合がいいことに、我々は気付いていた。

理屈の通らない話がいくつもあって、その不思議としか言いようのない、大いなる力の話は、人の議論を寄せ付けないのだった。

話は、解釈をむなしくさせるほど、現実離れをしている。何かの象徴であることは確かなのだろうが、それを考えてゆく途中で、本気の議論には至り様がなかった。

正解と呼べるものが無い状態。ただ、そのような出来事が有ったのだと、いうだけの話。理解できないものに囲まれているという不思議な安心感。

こうした突飛な物語は、そのまま昔話として、受け取るほかはない。

人為的な、哲学めいた言葉や、さもありなんといった道徳譚、強制的教え、そこまでいかなくても、日々の行動に関する事などは、価値観によるところの、議論を生んでしまう。つまり、人の数だけ解釈があり、受け取り方があり、だから、分裂がある。

分裂は穏やかに、とはいかない。この分裂は、歴史的に見ても、殺し合いにまで発展することが多かった。

必死になって、自説を主張する。それらの宗教に対して、神道は必死さとは比較的無縁で、どちらかというと、脱力系なのだ。なんでもありなのだ。

だが、正直言うと、このことは、最初から、我々がこの場所で集まり出した時分から、組織を束ねるものとして、あったわけではない。

自然の中で、自儘に、それでいてお互いに、個人を尊重しながら、生活が出来る場所が有ればいい、というような計画が盛り上がり、賛同する人が集まってきて、土地を買い、実際に人々が住みだしたときに、皆の心に、自然発生的に、この集団を、精神的にも、物理的にも、まとめるものが欲しいという話になった。それは必要だったのだ。一番の問題は、共有の資産に関することだ。

そして、その集団の中に、元宮司が居たことが、きっかけになったのだった。

「神社を作るのは良いが、宮司をやるのは、勘弁してほしい。それに、神道について、講義のようなものをするのも、嫌だ」

と、彼は言った。無理強いは集団のポリシーに反する。で、宗教法人化するにあたり、名前だけを借りることにして、実際の行為は、彼の言うとおりにした。

「だが、実際問題、皆の資産共有を続けてゆく、となると、法人化して、一元管理した方が、都合がいいだろう。個人任せにしておくと、トラブルの元だし、金の流れ次第では、贈与扱いされる。そうなると、税金がバカにならない」

このことは、必要な行為だった。資産を提出すると言っても、個人から個人へ贈与するわけにはいかないし、個人でそれぞれ管理しているものを共有であるとするやり方は、おそらく困難であろうと思われた。

「申請と、手続きは俺の名前を使ってくれて構わない。その方が簡単だろう。俺が居た神社の、別れという事にして、登録しよう。運営に関しては、いろいろ厄介なことはあるが、思い当たる節があるので当たってみよう」

法人としての、活動は、かなりあいまいなものだったが、いわゆる、思い当たる節、つまり、多少コネを使った。

「資金運営は、交代でするのがいいだろう。俺が入ると、変に勘繰られるのは嫌だから、外してくれよ」

最初の出費として祭壇をしつらえたりしたが、元々ある地形を利用して、極力手がかからないようにした。もちろん出費と言っても、購入したのは材料だけで、組み立ては自分たちで行ったのだ。

ご神体が必要だった。澄んだ川の流れの中に、大きな岩が有って、その姿がいかにも神々しかったので、それに小さな神棚を乗せて、しめ縄を張り、祈りの対象とした。それだけで、かなりそれらしいものが出来た。

「やり方や、作法は自由で良いだろう。それぞれに思うやり方でやればいい。どうしても正しくやりたいという場合には、聞いてくれ。だが、それだって、有って無いようなものだよ。そもそもご神体からして、自由なんだから」

宗教活動は、その河原で行われた。これも、小さな東屋を作り、そこを活動の拠点とすべく、社殿として、申請を行った。

流れは浅く、ご神体である岩までたどり着くのは容易である。しかし、そこまで、毎日行くのは面倒とばかりに、社殿としての東屋に、別に祭壇を設けて、ここにいつのころからか、自然とお供えがされるようになった。

自由を標榜する、個人の集まりに、象徴的な、神道は、それこそ自由であって、何も問題はないように思われたものだ。


宗教団体だと言っても、これは後付けのものだったから、そのくびきは緩やかなはずだった。しかし、緩やかとは言っても、目に見えて、集団を繋いでいるのだ。個人が集団に繋がれて、共同で生きていこうとすることに、困難は付き物だった。ありとあらゆる微細な事が、今から考えると、本当に取るに足りないものが、争いの元となった。

価値観、というのは個人内では、穏やかだが、他人と共有するとなると、牙をむく。その共有は、意外と、得難いものだったりするのだ。

この場合、意外と、という言葉は、すべてを表している。誰もが当然、同じ思いであるはずだという、その思い込みが、より争いを激しくする。

 集団内での軋轢が嫌で、ここに来たはずなのに、それを再現しようというのは、ひどくおろかに思えたものだ。縦のものを横にしたいという些細な欲望が生まれ、それを他人に強いることで、軋轢は起る。

 他人に関しては、ほとんど無関心のスタンスでいるくらいが、ちょうどいいのだが、そしてそれは分かってはいるのだが、自分に関しては、話が違ってきて、誰それは気が利かないとか、そういう話になりがちだった。  

しかも、無関心という大きな言葉の中に、細かく細分された部分があって、ある事柄では無関心であってほしいが、これだけは見逃さないで欲しいという区別は人によって違う。

また、同じ事柄に対するものでも、程度の差が人によって違うのだ。

欲望が、すべての悪の根源だった。他人への期待と言い換えてもいい。

だが、欲望だけではない。善意もまた、原因となり始めた。

 つまり、集団の多くが、老人だったことが、その発端だった。

 体が言う事を聞かなくなった、そう言った人がぼつぼつ出始め、親切心で、その人に関わる人が、幾人か、出だしたあたりから、集団は更におかしくなりだした。

 夏は良いのだが、冬に火を起こすというのは、重労働だ。山から木を運んで、薪を割り、運んで、その火を維持しなければならない。

 最初は小さな親切から、だんだんその規模は大きくなっていった。

 体の不自由な老人は、まとめて、一つの大きな建物へ、集めようという話になる。

 暖房を起こすにしろ、その面倒を見るにしろ、一か所の方が効率的で、管理がしやすい。火事になっては、困るのだ。

 「俺たちは、人類の歴史を追体験しているのだ。社会制度というのは不可欠なんだよ」

 そう言った者もいる。

 「わかってはいるが、そこに歯止めをかけるべきではないか?」

 当然のように、言い返す者がいる。施設を作るにも、資金が必要なのだ。そのような事に使うべきではないという。

 「順番だよ。順番。そのうちあんたの順番だってやってくるんだから」

 「いや、全くどちらかというのは、いただけない。どこかで線引きをすべきだ」

 この意見もまた、当然のごとく出てくる。施設は作るが、最低限度のものにしようというもの。

 「やりたい奴だけやって、やりたくない奴はやらない。それでいいじゃないか?」

 これは、その通りなのだが、それでいいとはならない。集団の基本理念は、その通りなのだが、引っ込んでいた欲望が、またむくむくと起き上がってくるのだ。

 「周囲の物事が、自分の思ったように進んでいる状態が、皆欲しいんだよ」

 と、言う事だった。

 個人生活にあこがれて、ここに来た人たちだから、それが便利だからと言って、一か所に集められると、やはり当然のように日々の争いは、増えてくる。

 「いくら、身体が不自由だからと言って、これでは余計につらい」

 そう言う人も出始める。一旦は施設に入ったが、施設自体は、安普請で、どうしようもない。集団がそれぞれにプライバシーを保つのは、難しいのだ。

 「中途半端はよろしくない」

 あとから、それだけ批判する者もいる。

 「最初は知らぬふりを決め込んでいたのに、いまさら何を言う」

 今までため込んでいたものがここぞとばかりに噴出する。

 「だいたいあんたは、元から・・・」

 こんな具合だった。

 人間の性なのだろう。ありのままに全てを受け止める、とか言ったところで、出来るだけそうしようと努めたところで、根本的な無理がある。

 人間という動物は、そのような事が出来るようには、創られていないのだ。

出来る時もある。心が不思議と穏やかで、すべてのものを許せるような心境になっているようなときもある。

調子の悪い時もある。ちょっとしたことに、腹が立って、それを収めることが出来ない。

同じ出来事が、日によって、許せたり、そうでなかったり。

同じことが、人によって許せなかったり、そうでなかったり。

体調と同じように、波がある。好き嫌いがある。

心境の変化と言ったところで、所詮、物理的な反応に過ぎないから、原因と、結果があるはずだ。

腸内細菌や、睡眠時間、ホルモンのバランス、そんなものが複雑に絡み合って、今日の心境を作り上げているのだろう。

良い方へ、常に調整が出来ればいいが、良く分からない。従って、コントロールはむつかしい。

「多くの宗教は、そこを理屈で,乗り越えようとしたんだよな」

「戒律として、何とかしようとしたものもあるよ」

「で、二つとも、ダメだっただろう?肉体に働きかけようとしたものも、あるが、これもダメだった」

全員が、多少、うんざりしていた。

「ギャバがいいらしいぞ。酪酸がキーワードだ。ゴボウを食え。いや、トマトだ」

「なんだそれは?」

「ストレスの低減だとさ」

ここまで来ると、宗教も形無しである。民間信仰と、科学が混ざったようなものだ。ほとんどが冗談半分だが、中には真面目に取り組むものもいる。


そんな中、誰もが多少のストレスを抱えて、爆発寸前の状態で、例のウィルスの発生を迎えた。

「ここは大丈夫だよ。隔離されているもの。それに人から人にしか、うつらないんだろう」

「一気に痴呆症になって、以前の事は全く覚えてないのだそうだ」

「ゾンビの様に襲ってくるってさ。武装を強化すべきだよ。猟銃は何丁あったっけ?」

数人が一塊になって、街に出かけて行った。しかし、目当てのものは既に、品切れ状態だった。ここは、情報の入りが遅いのだ。

「患者はさ、無気力になるから、とてもじゃないが、あんたらの居るところまでには行かないよ、だってさ」

街から帰ってきた連中は、仕入れてきた情報を披露する。

「こちらから、奴らのほうへ近づいていかなければ、大丈夫らしいよ」

「この際だ。懸念の柵を作ろうぜ」

これは畑の獣害対策である。ある程度は柵を張り巡らせてあったが、重点的に、畑そのものに、巡らせてあったに過ぎない。

しかし、小さな動物はともかくとして、イノシシなどに家の周囲をうろうろされるのは、あまり気持ちのいいものではない。

中には、子連れでここにきている連中もいる。多くはないが、そうした連中は、子供が気になるのだ。

そう言ったわけで、我々は鉄条網を購入して、集落をそれで囲い始めた。イノシシはかなり寄り付かなくなって、獣害も少なくなった。しかし、肝心の患者に対しては、どうなのだろう。我々は、奴らが、自らの痛みや、怪我をものともせずに、動き続ける、という事を知らずにいた。

幸いにも、今まで、奴らは、ここにやってこなかった。だから、それがどこまで効力を発揮するのかはわからない。

そこへもってきて、一気に、文明が数百年後退したあの事件。

もう、ここも、それ以外の場所も、差がなくなってしまっていた。現金や、資産はゴミ同然になって、医療や、政府の機関、国のシステム、それらのものが一切なくなってしまった。我々だって、先だっての通り、これらの仕組みには、頼り切っていたのだ。

今までの生活のやり方から、一日の長は有った。元がサバイバルめいた、生活様式だったから、困ることは少ない。しかし老人が多い状態で、いざというときに頼っていた医療が崩壊してしまったことは、大きな痛手だった。

当然、重圧的な不安が皆を襲うようになる。

 

ともあれ、このような具合で、外への交渉も少なくなっていった。外へ出てゆくのは、危険なだけで、メリットは無くなっていたからだ。

閉塞感は、一層、皆の気持ちを逆立て続けていった。小さな喧嘩は、日常茶飯事になり、個人主義の集団にも拘らず、派閥が出来て、救いのない日々が続いた。

「クロさんおかしいよ。ぼんやりして、呼んでも返事がない」

と、隣に居を構えていた、中川という男が言い出した。

「いい歳だからな。ボケたんじゃないか」

「こっちも何人か、おかしくなったのがいるぜ」

それを受けて、誰かが言う。外との接触がないのは、わかっている。しかし、数が増えるにつれて、誰もがこの辺りで、例の伝染病ではないかと、危惧を始める。

「最初の感染路は、動物だったろう?」

「ネズミで・・猫か・・・」

皆が一様に、周囲に放し飼いにされている犬を見やった。犬はしっぽを振っている。こちらの視線を、違った意味でとらえている様だ。いや、或いは、疑惑の視線を感じていて、それに対して、彼なりの誠意で、応えていたのかもしれない。

「集めて、つなごう。なに、殺すことはない。はっきりするまで、そうすべきだ。ボケた人たちも、隔離しよう」

隔離状態にある人達は、大人しかった。いつ彼らが変貌するかと、気が気でなかったが、噂に聞いていたように、急激に変貌して、襲い掛かってくるというようなことは無かった。

また、懸念されていた、外からの侵入もない。

平和な状態が続いた。

「大丈夫なんじゃないかな?」

と、誰もかもが言い出した。

「俺もそう思う。というか、頭の中で、その言葉が何となく、ぐるぐる回っているんだよ」

「俺もさ、夢の中みたいに、ふわっとその言葉が浮かんでくるんだよね」

また、感染者の特異性に、気が付いた人も多かった。

「噂とはずいぶん違うな」

「ボケると、自分の事が分からなくなるという事だったけれど、誰もが自分の名前を呼ばれると、それが分かっているようなんだよ」

犬は繋がれているし、感染者は一つ所にまとめられて、監視されている。感染者は、大人しいし。犬にも普段と変わりはなかった。

いや、犬は変わりないように見えただけだった。その事に気が付くのは、少したってからだ。犬たちは、吠えなくなっていた。

しかし、その状態で、事態は変わりつつあった。感染者の数である。ある時期を境にして、漸次的だったものが、爆発的に増え始めたのだ。もちろん、感染、それが感染症であるとして、その源は不明のままだった。

陰性の者が、感染者より少なった時点で、管理することをやめた。症状は、大人しくなる程度で、本人にも、他人にも害は無く、集めても、集めなくても同じように思えた。

自分の事を憶えている感染者は、他人の事も覚えている様だった。誰それについて行って、食事をとる様に、と言う風に指示を出すと、その者を正しく選択することが出来た。そして、大人しく指示に従って、陰性者を困らせるようなことは、決して無かったのだ。表情は穏やかで、敵対的なところは全くなかった。

食事は、噂通りだった。腹が減ると、何でも生のまま食べるのだ。

しかし、それで、体調を壊すようなことはないらしい。その一方で、調理されたものも食べた。どちらかというと、調理済みのものを好んで食べていたようだった。むしろ、生のものを食べるのは、珍しいことだったかもしれない。

「クロさんさあ、おかしいぜ。顔がつやつやしてないか?」

「なんだか、若返ったような感じはするね」

「噂であっただろ?感染者に病人はいないって、みんなものすごく健康だって。それどころか、怪我の直りも早いし、病気だった人間は、治ってしまうらしいぜ」

「みんな、時々、食べ物を生で食ってるだろ。しかも、皮ごと食ってるぜ。あれが良いのかね?」

「そう言えばさ、先日、ヤマさんを川に水浴びに連れてったろ。魚とか、カニとかをその場で捕まえてさ、頭からバリバリ食っちまうんだよ」

「うへっ!・・・でもさ、ヤマさんって、よぼよぼのヤマさんだろ?ヤマさんに捕まるようなそんな魚がいるかね?」

「いやいや、もうよぼよぼじゃないよ。かくしゃくしたものさ。いや、かくしゃくとは違うな。あれは全く、アスリートの動きだよ。連れてった俺が、よろけながら、河原を進むのに、ヤマさんたら、石をぴょんぴょん飛び越えて、身軽なもんだよ」

「ボケと入れ替わりに、健康体を手に入れる。それって、悩みどころだな」

だが、ボケてはいなかった。ただおとなしく、無口になっただけなのだ。

皆、寄ると触ると、このような話でもちきりになった。

感染者の真似をして、食事を共に、生で食べる人も出てきたが、皆、腹を壊した。そんな時、人々は、感染者の強靭な肉体を、今更ながら、思わざるを得なかった。

こうなってくると、感染者になることも、悪くない。そう考える者だって、出てくる。ずっとではないにしても、時折ふっとそんな考えが、頭をよぎることがある。かく言う私も、そうだった。


そのような日々が続いた後で、ある朝、目が覚めてみると、頭の中に、騒音が満ちていた。しかし、これは誰かの考えなのだと、私は気が付いた。

その情報量は膨大な数だった。だが、脳はそれをきっちりと仕分けしていて、特定の考えを、意図的に取り出すこともできる。だが、そのような事が、容易く、当たり前のように出来ることに、驚きは無かった。

(クロさん・・・)と私は呼びかけてみた。

(やあ、ガンさん。もうそろそろだと思っていたよ。こちらの世界へようこそ・・・)

(感染路は、はっきりしないね・・・記憶は全部残っているが、感染したのは、はっきりわかるよ・・・)

(とても、穏やかだろう?・・・)

(そうだね・・・そう言えば、さっき、そろそろ云々、だなんてことを言っていたね?・・・)

(そうなんだよ。感染者になる前に、そうなってもいい、って言う気持ちになるんだ、皆・・・ガンさんは最近そう思う事が多かったろう?・・・)

(そうか。私の事は、すべてお見通しだよな・・・クロさんもそうだったのかい?・・・)

(実を言うと・・・)

彼は、ここに来る前から、難治性で、原因が不明の病気にかかっていたらしい。関節の痛みを伴うもので、記憶障害もあるため、仕事も出来ずにいた。

痛みは、鎮痛薬で、処置していたが、対処療法に過ぎず、また、薬の副作用にも、苦しんだ。ただでさえ、記憶障害があるにもかかわらず、副作用で、頭がボウとして、簡単なミスを繰り返す。

イライラが募って、家族に当たり、その挙句に、愛想をつかされてしまった。本人の非を責めるには、あまりに辛い現実が嫌になり、ここに来たそうだ。

(最近痛みがひどくてさ・・・鎮痛薬は、副作用が嫌だから、もうここに来る前から止めてるんだ・・・)

クロさんは、そのような事を一言も言わなかった。ただ、皆で働いている時に、傍からそれを見ているだけの人、という印象は有った。

クロさんが忘れっぽいのは、みんなが知っていて、だから、頼みごとを彼にしようとする者はいなかったし、それは歳からくるものだろうと、皆がそう思っていたのだ。そのような人が、立ち上がる時などに、つい痛みを口走ったとしても、誰も気にもしなかった。

(だから、ウィルスのうわさを聞いた時に、もうどうでもよくなってな・・・感染者と出会って、うつしてもらおうかなんて、そんなことを考えていたんだよ・・・)

 (で、ある朝目が覚めると・・・)

(そうさ、皆の声が聞こえるようになっていた・・・)


声、はさすがに、遠慮のないものもあった。だが、向こうは、それを実際に声にして、発言するわけではないし、思ったことを次の瞬間には、自ら打ち消す場合だってあるのだ。そのような事が続けば、普通の人間なら、精神に異常をきたすかもしれない。

だが、このウィルスに感染すると、何もかもに寛容でいられた。それが、諦めや、自らの怠惰、無関心ではない事は、自分が一番分かっていた。寛容という言葉が正にふさわしい。

噂によると、痴呆症の感染者に関しては、無気力、無関心だと、そう言われていた。しかし、我々が罹ったのは、似て非なるものだったようだ。

精神は、逆に冴えていた。全ての事象を、あるがままにとらえることが出来た。想像による、偏向や、不必要な恐れもない。その上で、その物事自体を受け入れることが出来るようになっているのだ。

それは、欲望がないことから生じるようだった。

その意味では、従来のウィルスとよく似ている。ただ一つだけ、従来のウィルスでは、自分の仲間、つまり感染者を増やすという事にかけて強烈な欲求が有ったが、我々には、それすらもなかった。

ウィルスが生物であるのかどうかは、長らく議論の的だが、仮に生物であるとして、種の拡大欲求がないというのは、おかしな話だった。

(羨ましがらせて、その気にさせて、入り込むんだよ・・・)

(でもさ、無理強いはしないのさ。分かっているんだよ。お互いの利益になるってことがさ・・・)

(でもって、身体の方も、受け入れ態勢があるだろ?拒否しないんだよ。すんなりと馴染んでしまうんだな・・・)

(ある意味、紳士的だな・・・)

(そうさ、紳士的さ。だから、感染後にも、我々にこうして思索する余地を残している・・・)

(ある意味、自信家だな・・・)

(そうさ、自信家さ。だが、この状態は好きだぜ。これは、何もかもに、寛容になったからじゃない。そうでない人間を羨ましがらせる為の、俺たちは広告塔ってわけだが、実は俺たちは、本心から気に入って、満足してる。その状態が、最高の広告ってわけだ。で、新たな感染者を増やす。それに、そもそも、こいつは、望まないものには、感染しないのさ・・・)

この感染は、我々周辺だけに見られる特異事例なのか、世間的にも、散見される事例なのか、それは分からなかった。私たちの能力というものが、いったいどれくらいの範囲をカバーしているのか?そこまでは分からなかったし、私たち以外の場所から、私たちのような感染者の意識を感じ取ることはなかったのだ。

我々は、元から孤立してはいたが、そのことが余計に世間の状況に疎いということになっていた。また知りたいとも思わなかった。知識は、自分の周囲の事、生活の範囲の事、それだけで十分だった。そして、それゆえに、それを一層推し進めていき、ついには、完全なる孤立ともいえるような状態にまで至ったのだった。

しかし、破綻寸前だった我々の宗教組織は、そこから持ち直していった。

感染による寛容さは、小さな争いを、皆無にしていった。健康を取り戻した身体は、世話をするものと、されるものの間の、肉体的、精神的負担を無くした。お互いの心が読めるという特殊能力は、言いたいことが言えないというストレスから、我々を解放した。そして何より、互いの心が分からないということからくる、誤解や、考えすぎ、それらが煮詰まった、妄執の根源とも言うべきものを、全て断ち切った。

(解脱したな・・・)

(解脱したね・・・)

ちなみにこの言葉は仏教的だ。それはそれでいい。枠を決めて、こだわるつもりはないからだ。使えるものは、借りてくればいいのだ。

だが、殆どのものがそう感じる中で、そう思えない者もいたのだった。

彼らの感じるところでは、この状態は、与えられたものであって、獲得したものではない。解脱は、与えられるものではなく、獲得するものなのだ。

そこにある批判精神は、他者に向いているわけではない。他人がどう感じるかではなく、自分が納得するかどうかが問題だった。だから、彼がそのように感じたからと言って、寛容なこの社会では、それが争いのもとにはならない。

これが一般社会なら、こうした考えの差異は、常に危険をはらんでいる。当人が考える以上に、妄想を膨らませて、被害者的に、あれは自分に対する当てつけなのだと、考えるものもいる。

だが、その一方で、この事例には矛盾もある。すなわち、

(より高い次元があるはずだ・・・)

と、考えるのは、欲であるからだ。

しかし、現実に、人間に多様性がある様に、当然ウィルス側にも、それは有った。症状は、つまりそれに応じて、多様であった。基本的には同様の方向なのだが、程度の差が有ったという事なのだ。

そして、そう考えた人物は、自分をさらに追い込むことにした。日常的に、何かを自分に課さなければならないと考えた時に、思い出したのは、昔見た漫画の登場人物だった。

その登場人物の名は、ナラダッタという。

四つ足で歩き、人語を喋らず、獣のように、自然の厳しい環境の中で、生活をする。生きてゆくことの全てが修行だった。

このことと、解脱がどういう風に結びつくのか、それは理解できるものにしか、わからない。理解する者は、望んでその世界に入っていくし、そうでないものは、無駄にしか思えない。

それを彼らに言わせると、これは当たり前の事に対する感謝を、失わないようにするためだという。立って歩けるという、誰もが当然のように行う行為に対して、それを自ら制限することで、その素晴らしさを認識し、ついてはその思いが他の事へも、波及するのを感じてゆく、という事らしい。

解脱というのは、足るを知るという事だから、この考え方は理屈の上では、納得できる。つまりコップ半分の水に対して、半分もあって有り難い、と感じるか、半分しかないから、さらに補充しようと考えるか、という事において、何事に対しても、常に前者であり続けたい、とすることから生まれる考え方である。

数人がそれに倣った。彼らは、自らそうなった、というよりは、感化を受けたという方が正しい。中には子供もいて、最初は遊び半分だったが、すっかり馴染んでしまった、というものもいる。

これは何とも、皮肉な話だが、精神の領域において、未知の能力を引き出して使えるようにするのと同じく、肉体においても、同様の力を、このウィルスは持っていた。つまり、四つん這いで歩くことにおいても、感染前に比べて、苦痛を感じることは少なく、より的確な動作が可能だった、という事である。

これについては、何もわかってはいない。ただ、人を若返らせたり、病気を治したり、肉体の深部から、その能力を高める力と、関係があるようには考えられた。

ともあれ、我々の集落の一部に、そのようにして、自他ともにナラダッタと呼ばれる小集団が出来たのだった。

だが、集団が明らかに二分したことに対しては、お互いに阻害もしなければ、敢えて、交わることもしなかった。

それは、ナラダッタ達に限らず、ここに居る信者の皆がそうであったという事に過ぎない。皆が、其々したいことを、したいようにして、それでも人には迷惑をかけないように、他人には干渉しないようにして、生きているのだった。

だが、彼はやはり少し違った症状なのだ。だから、彼がある日

(私は、彼らに接触しようと思う・・・)

と、言ってきたときにも、全員の思いは同じであった。

(そう言うと思っていたよ・・・)

彼の悩みは、その一部始終が、全員に共有化されていたのだ。我々にとって、他人の意外な行動というものは無い。その全てが、自分事のように、納得できるものだった。

つまり、自分がそうするかどうかは、別にして、少なくとも、その動機を理解しきったうえでの行動しか目にしないことになる。

彼の悩み。そのたどった過程。行きついた結論に対して彼が抱える矛盾。他者に対する申し訳なさ。そして最終的な決意と行動。

しかし、そういった情報は、ある特定の個人だけのものではない。全員が、すべての情報を漏れなく共有している。膨大な情報だが、それをすべて隅々に至るまで、処理していた。どうしてそのような事が出来るのか、わからない。

一つ言えるのは、他人への理解と寛容は、正しい情報の量が、その多くを支配するということだ。仲たがいする人々が、話し合いをとことんする。互いの立場を、互いに交換し合う。それを昔から、人間はしてきたのではなかったか?その多くが、失敗に終わったのは、情報の量が少なすぎた。あるいは、得たものが、本来の情報ではなくて、表面的な、間違った、適切ではない情報に過ぎなかったということではないだろうか。

それを踏まえたうえで、どの人とも、真実の情報を完全に把握しあうことが出来ていた。通常は、物理的に不可能なそのことを、可能にするのは、脳に秘められたある能力の開眼のおかげだった。

人間は、その脳のごく一部しか使っていないというのは、よく言われることだが、その潜在的能力を、ことごとく利用したら、こういったことが出来るのかもしれない。

より詳細に説明してみると、意識の把握というものは、声に於いて大きいものや、小さな者が居るように、前面に出てくる意識と、その奥に引っ込んでしまうものもあった。しかし、こちらが意識的に、その奥に引っ込んでしまっている意識を、敢えて聞こうとすれば、容易く前面に引き出すこともできた。

また距離の問題もあった。意識は距離が近いものほど大きく響く傾向にある。あまり遠いものは、普段は、聞こえないのだ。だから、遠く離れた人の声が、常に聞こえるかというと、そうではない。だが、それは交信に集中すれば可能だった。

因みに、言語の差は、精神の交信にとって、障害にはならなかった。相手は自分の言語で、考えるのだろうが、こちらが受け取るのは、その内容そのものであって、最終的に、自分の頭に飛び込んでくる言語は、翻訳がされた状態なのだ。

それはさておき、彼の悩みの詳細は、全員が、彼とリアルタイムで、共に経験して、乗り越えてきたことなのだった。もちろん反対意見もある。それも、彼は理解している。

ある案件に対する思索は、このようにして、我々はそれを思う瞬間から、全員の思いとして、皆に開かれたものになる。

知恵は、その分だけ深いはずで、為すべきことも大きくなりそうだが、結局のところ、あまり変わり映えしないようにも思える。

とどのつまり、人間に出来ることなんて、たかが知れているし、思索はその出来る範囲を超えてゆくようなことはないのである。

その人の能力以上の課題は、その人には降りかからないと言ったのは、誰だったか?

誰もが自分の枠の中で、出来ることをするのみだ。だから、人の集団において、多数は同等レベルなのだから、その行動もまた、同等レベルである。

似たり寄ったりの、行動なのだから、誰しもがそれを行う可能性はある。たまたま彼がそれをしたからと言って、他の誰かが、ふと思い立って、それをやらないという事はない。

だから、彼を責めはしない。ただ、そういう流れだったというだけのことだ。


俺とリーダーが、森に分け入って、二時間ほどが過ぎていた。移動距離は5キロほどである。まあ、こんなものだろうと思う。臭気はどんどん薄れていってしまっていたが、ある種の下草の破損具合のパターンが見えてきて、今はそれを基にして、足跡をたどっていた。

リーダーは少し辛そうだった。何しろ、弾除けの装備が重い。しかし、それを外すのは、考えられなかった。奴らが俺たちを阻止したいのならば、ここからが正念場だったからだ。

俺の警報が発動する。

「どうやら、来ましたよ」

リーダーがそれを聞いて周囲を見回す。

「まだ見える範囲にはいないです。だが、取り巻かれてしまってますね」

この二時間の間に、奴らは巧妙に罠を張っていた。奴らは、ナラダッタと俺たちの位置関係を把握しきっていたに違いない。この包囲網は、それを物語る完全さだった。

「なんとか突破できそうか?」

俺は、念入りにシミュレーションしてみた。奴らは銃を持っているだろう。それに、こちらを感知する能力を持っている。答えは出たが、それを言う気にはなれなかった。俺の原則が、それを妨げる。

リーダーが、俺の表情をじっと見ている。だが、俺の考察は、読み取れないはずだ。感情を表に出すモードではないからだ。俺は建設的な事を考えるふりをしている。一方で、まだ再検討をする。しかし、答えは出ない。

「もういいよ。しかたない」

リーダーが笑っている。このような時に、出る笑いではないはずだが、この人はこういう時に、こんな笑い方をするのだった。

「死ぬわけじゃあないさ。治療法が見つかったら、治しに来てくれよ。必ずまた、バイクで一緒に走ろうや」

リーダーはそう言いながら、弾除けのジャケットを脱いで、俺に渡した。このジャケットは個人のものではない。砦の人々の共有の財産なのだ。

「バイクの事すまなかった、と言っておいてくれ。最後まで、面倒見切れなかった。だが、安藤。出来る事なら、あれを持ち主に返してやってくれないか」

そう言うなり、リーダーは谷に向かって、山を下り始めた。ほとんど、転げ落ちるようにして、俺との距離を取る。このやり方が一番俺から離れるのに時間がかからないのだ。

感染者は人の意思を感知する能力を持っている。それは、その仕組みこそ、理解できなかったが、実際問題として、皆認識していたのだ。そして、この場合、リーダーは感知されるが、俺は感知されないのだった。

俺の使命に、人間を守るという使命に反する状況下で、演算が成された。俺は、リーダーと別れて、リーダーを犠牲にし、より多くを救うのだ。

この計算式は単純だった。数の論理なのだ。しかし、この場合、それは関係ない。どう見ても、リーダーの行動は正しい。俺はリーダーの言葉を、重要な項目にメモリーした。治療法が見つかったら、必ず治しに行くのだ。

包囲網が、形を変えたのはしばらくたってからだった。俺はしばらくその場にとどまっていたが、その動きを察知するや、頃合いを見て、靴を脱いで、はだしになり、近場の幹に手をかけると、樹上に上がっていった。俺の手のひらは、スパイクが出て、滑らないようになっている。裸足の足は形状を変えている。手のように、物をつかめるのだ。その足で、木の幹をつかんで、さらにスパイク付きの手で幹に取りつきながら、かなりの速度で上がってゆく。

奴らは、俺の事を感知できないにしても、その存在を知っているのだから、樹上に上ったのは、念のためだった。奴らの方が、ナラダッタ達の事は良く分かっているに違いない。そのルート上に俺が居ると考えるのは、容易な事だ。

奴らがリーダーの意思を、詳細に読めるならば、リーダーがいくら囮になったところで、よりその可能性は増すだろう。その危惧も含めた作戦だが、これしかないのは確かだ。そして樹上に上がると、超望遠で、下草の様子を観察し、足跡を見定めると、その方向にある別の木に跳躍した。

下から見ると、俺はまるでサルのように見えるだろう。肩から先は関節が伸びて、多少は長くなってはいるが、一番はその独特な手足の使い方にある。これは人間の動きではない。サルの動きなのだ。そう、俺の中には、サルのデータだって、入っている。形態と、関節の可動域を多少変えて、そのため、それが全く同じように再現できるのだった。

まあ、言っちゃあ何だが、サルはまだましな方だ。イルカときたら、足が広がったフィンはともかく、浮力を確保するための浮袋のぶざまな事と言ったら、それこそ誰にも見せたくない。

しかし、これは人間の水泳選手の動きを真似たところで、同様だった。体全体が皮膚の下の空気袋に空気をため込むため、俺はまるで、風船が泳いでいるように見えるのだ。

障害物を利用して移動するような今回の場合、もちろんパルクールの選手のデータだって入っている。しかし、ここでは、サルの方が有利だ。パルクールのデータは人間の形態を保ってないといけないときに使うのだ。つまり、この非人間形態はそうそう使えるものではない。誰かが見ている場合は、使わないようにしている。俺は出来るだけ、人間に近い存在だと、そう思われているほうが、世間的にやりやすいのだ。

俺の目は、目の前の木から、数本をとらえて、俺の体重に耐えられるものを選び出している。そのうちの手近なものを選び出して、移動し、再び、下草を観察する。方向に間違いはないようだ。

一方で、縮まる包囲網を引き付けて、リーダーはまだ逃走している様だった。ぎりぎり感知できる範囲に、その動きは示されていた。山の斜面を利用して、加速し、転がり落ちるように逃げている。普通の人間なら、怪我でもしそうだが、そうでもない様だ。移動の速度だけなら、ただ単に落ちているだけのようにも思えるが、時折見せるフェイント的な、トリッキーな動きが、そうではないことを物語っていた。

包囲する側が、途中で引っ掛かったように、いきなり止まったり、あらぬ方向へそれてゆく様子を見ると、地形としては、かなり難しい移動を伴わせるように思われた。その障害物だらけの空間を、それこそパルクールの選手のように、自由自在に抜けてゆくのだ。

実際、バイクをあれだけうまく操ることの出来る運動神経だから、身体能力も相当なものなのかもしれなかった。ことによると、彼自身、体操や、パルクールの選手だったのかもしれない。

俺はこの作戦に当たり、最高の人間と組めることが出来たわけだった。リーダーに感謝して、俺は前方に注意を向けた。下草の道をたどった先に、数人の存在が確認できる。それらは、個々にばらけていて、移動をしていなかった。あれが、目指すナラダッタの集団なのかもしれない。俺は次の木に飛び移った。

そこで、リーダーの感知が範囲外となってしまった。


(やはり、途中で邪魔されたな・・・)

ナラダッタ集団の長である、トクさんが私に思念を送ってきた。思念は誰かに特別にあてて送ることもできるが、それを周囲が聞くことだってできる。閉鎖された会話は出来なかった。だが、その必要は感じない。誰もが、誰かの会話で傷ついたり、憤慨したりすることはない。

ともあれこれは、感覚的に言うならば、誰かへの会話を、周りの人間が聞くことが出来るのと、同じことだ。

会話が顔の向きや、その呼びかけで、誰に話をしているのかわかるように、思念もまた、誰に向けて主に送っているのか、それを判断することもできた。理屈は分からない。耳だって、音の方向が、どこからやってくるのか、判断できるように、思念の方向も、判断できるのだ。

(機械の方は、どうなのかね?・・・)

(どうだろうね・・・)

機械はさすがに、感知できなかった。彼が何かを考えていると言われても、我々には分からないのだ。因みに、彼の事を機械というような言い方は、以前なら、してはいなかった。他のみんなと同じように、安藤さんとか、安藤刑事という具合に、呼んでいたのだ。

しかし、我々にこの能力が身についてから、感知できない彼を、以前と同じように呼ぶことは出来なかった。だからと言って、蔑視していたわけではない。事実認識が、より明確になったことで、自然とそうなっていったわけだ。我々だって、目の前に彼がずっといて、事実認識にある種のバイアスがかかってしまえば、まだ同じように呼びならわしていたのかもしれない。

(機械がここにたどり着いたらどうする?・・・)

(誰かが一緒に行かなければならないだろう・・・それは当然俺であるべきだ・・・)

(彼等の恐怖は、まだ感じるね・・・)

 これほどの思念は、未だかつてないほどだった。因みに、非感染者にとっての感染者は、“奴ら”という符号で呼ばれていたが、我々にとっては、どちらも“彼等”だった。それで困るようなことは無かった。思念上の言葉は、その意識下の意味も含めて伝わるのだった。

 彼等、いわゆる感染者は、複雑な個人的思念というものをほとんど持っていない。喜怒哀楽もそうだ。これは、欲求がないからで、通常は恐怖すらも、持ち合わせていないようにも見えた。恐怖がないのは、自己の肉体に対しての、ある種の思いがないからで、宿主の肉体はあくまでも、酷使できる道具に過ぎなかった。

これは、前期型、後期型を問わずだ。前期型において、納得できるこの状況は、後期型においては、表面上は理解しにくい事でもあった。

 何故なら、後期型は、計画を立て、集団で組織的に行動し、人間の能力を生かして、言葉も話すからだ。だが、そこに思惑はない。昆虫のような、と言ったらいいだろうか。本能的に、単に反射として、或いはウィルスが持つ生存理論が、人間を支配していた。

ただ、複雑な思念はないが、宿主が採る行動の目的は認知できる。その事が集団で共有化されて、組織的行動が可能になっているのだ。もちろん、我々が出来るように、非感染者の思念を感じ取る能力もあるし、我々の考えていることだって、彼等には伝わっているはずだった。

だが彼らから、意思のようなものが、伝わることはない。

その彼らから、初めて恐怖という感情が発せられたのは、驚嘆すべきことだった。これはおそらく、宿主にとっての感情ではなく、ウィルス自体のものであろう。

ということは、この病の原因は、厳密にいえば、ウィルスでもないことになる。何なのかは余計にわからない。

ともあれ、恐怖は、目の前に捕食者の存在を、見出した獣のように、反射的なものだ。未来への想像が生み出したものではない。後者であるならば、その恐怖がどこからくるのか、それははっきりと理解できるのだ。だが、前者であるために、なぜ彼らが、我々を怖れるのか、それは理解できなかった。

 攻撃行動は、恐れを抱く我々に向けられたものではなく、彼らの資源である、非感染者と我々の接触に対して向けられており、その対象が非感染者への攻撃となって、表れているのも、また不可解な事だった。

 

 外で座っていた我々の仲間が、樹上を伝ってくる、大きなサルのようなものを発見したのは、私がそうした考察をしている時だった。そして、そのビジョンは、全員が共有した。

 サルのようなものは、相当な重量を伴うものと見えた。枝や、幹はそれに辛うじて耐えうるが、そのしなり具合は、我々の知る既知のサルとは全く違っていた。

いやサルどころか、どのような動物とも合致しない。しいて上げれば、人間だが、それも違う。しかし、我々の知識の中では、既知の事実だった。あの機械が樹上を伝ってくるというのは、予測内の事だったのだ。しかしその一方で、それは地上の人間のほとんど誰もが、その機能を知らない、という事も事実だった。我々はそういった点では、少し違うのだ。つまり、あれがその機械なのだろうという事は、確信をもって迎えられた。

機械はやがて、その重量からは意外なほど、静かに樹上から降りたって、仲間の方へやって来た。

「安藤です。安藤路異土です。ご存じですか?」

彼はそう言って、挨拶した。この挨拶は、以前からおなじみのものだった。私も、他の仲間も皆が、知っているセリフだ。もちろん、有名だから、顔を見ただけで、すぐに誰もが、容易く、認識できる。

「知っていますよ」

と、仲間が返事を返す。

と、この瞬間に、彼らの反応は、恐怖は、違ったものになった。さらに大きくなり、殆ど恐慌状態と言って良いほどだった。しかし、こちらへは向かってこない。今はその時ではないのだ。非感染者と、我々の接触、それが一番重要な事なのだ。

「ナラダッタ、という人をご存じですか?」

「ええ、ここにいますよ。私についてきてください。案内します」


そう言いながら、女性は腰を上げた。見た目は四十代前半あたりだろうか?いや、感染者なのだ。一見では、見分けがつかないのが、後期型によく似ている。実際は、五十代くらいなのだろう。いやもっと上かもしれない。感染者は、若く見えるのだ。

俺は、女性の後についていった。サルのモードは木を降りる少し前に、解除されており、今は普通の姿だ。感染者は、人の心を読めるが、俺にそれはない。だから、一瞬表情にでる、不可解さが感染者に共通の表情だった。どれほど、秘めようとしても、隠し切れないものだ。そんなことは、感染者にとって、初めての出来事なのだ。

それでも、それは実に微細な、一瞬の反応だった。木から降り立ったということの方が、驚くべきことなのだが、それに関しては、平然と迎えられて、逆に俺を少し戸惑わせた。まあ、これも言ってみれば、言葉の綾だ。単に、予測と違った反応を得たということである。これは人間に対して、会話をするときの翻訳機能のようなものだと、思ってもらっていい。

「予測と違った反応だ」

というのはいかにも人工知能的だ。

「戸惑いますね」

という言い方なら、そしてこうした言い方を続けていくのなら、人間はこちらに対して、より親しみを感じてくれるものなのだ。職業上の必須事項だともいえる。因みに俺は、戸惑うことはない。俺の計算を上回る、何かの反応には出会ったことがないからだ。

ところで、集落は、各々の家がバラバラに点在している。かなり一軒一軒が距離を持っていた。家と言っても、小屋に近い。この場所で、材料は調達して、自分たちで作ったのだろう。やり方も、形も、その出来栄えも、各家主の個性が十分に出ていた。

この女性が俺を認識した時点で、既に村中の感染者が俺を認識したに違いない。やはり、思った通りで、過去の記憶を保ったまま、発症している様だ。女性の不可解な表情は、俺の名前を聞いたとたんに、消えてしまったからだ。そして次に現れたのが、安堵の表情だったからだ。

この反応は、新型には見られなかった。そこまでの配慮で、俺たちを騙そうとは、それは出来ないようだった。

因みに、それは、一瞬の事だ。その表情を出そうとして、出したものではない。彼女が、平静を装いながら、隠し切れなかったものだ。演技ではない。仮に情報として、俺の事を感染後に知っていたとしても、そのような事は出来ないものだ。

発症前に、俺の事を知っていて、俺が安心できる存在であると、わかっていたのだ。でないと、樹上から降り立った人間が、意識を読むことが出来ない、という事実は、この人たちにとって、かなりの衝撃であるに違いない。

この人たち?そうだ、この人たちは奴らではない。明らかに違うのだから、言い方も使い分けるべきだろう。接し方を、変えなければならないからだ。

女性は、林の中に続いて行く小道を、どんどん進んでゆく。小道の先は明るくなっており、水の音がした。そこはどうやら川が流れている様だった。明るさからすると、かなり広い河原があるようだ。

河原に下りてゆく道を、女性は更に下ってゆく。

川の流れの中に、大きな石があり、そこに祠が祀ってある。その前には、東屋がしつらえてあった。そこにも祭壇がある。

その東屋の陰に、彼は座っていた。石がごろごろする河原に、直に胡坐を組んでいる。皮と骨ばかりになった体は、軽いだろうが、それでも石が脛などに当たって痛そうだ。

女性が、その場を去ると、彼は俺の顔をじっと見つめていたが、突然にこやかに笑いだした。

「ずっと心で会話してきたから・・・。しかし、一旦、言葉というものを、口に出すと、なんとなく不思議な気持ちになりますね」

「お手数をお掛けしますが、お付き合いください。あなたがメッセージを送ってきた、ナラダッタさんですね?」

「そうです。私がメッセージを送りました。ただ厳密に言うと、私はナラダッタの集団の一部に過ぎません。私の名前は、徳田と言います。皆はトクさんと呼んでいますので、あなたも差し支えなければ、そう呼んでください」

俺は例の件を、聞こうかどうしようか迷っていた。すると、トクさんが先にそれを説明してくれた。心が読めなくても、話の流れというものは予測が出来るものだ。感染者には珍しい能力でもあった。発症前の人間は、この予測能力をフルに使っていたのだ。一方で、感染者は予測しなくていい。何かの計画を立てる時は別だが、普段時はある物を、あるがままに受け取るだけなのだ。

「関わるな、というメッセージは、この大きな宗教集団の、ナラダッタでない人物から送られたものです。我々も一枚岩ではない。そもそも、人間は一枚岩になど、なり切れないものです。個人的にも、集団的にも。だがね・・・」

トクさんは、川の向こう側を見やってのち、再び続けた。

「其々は、自分の考えを秘匿したりはしないのです。まあ、秘匿しようとしても無理ですがね、だから、皆が皆、其々の考えを認知しております。それを肯定するか否かは、また別問題です。その上で、互いに、過度の干渉はしない。考えを強制したりはしないのです」

「言うは優しいですが、出来ますか?」

「このことは不思議な巡り合わせです。以前は出来ませんでした。仮に宗教団体で、そのような事を教義として、謳っていたとしてもそのような事は人間にはできやしません。煩悩が有りますからね。でも・・・」

トクさんは言いにくそうだった。言いにくいという事が、ある種の何かを物語っている。人間的だったが故に、出来なかった事柄が、出来るようになったという事に対して、ある種の思いがあるというのは、発症前の自我がはっきりと残っているという事なのだ。

「でも・・・」

俺は先を促した。

「このウィルスに感染して、それが容易になったのです。他者に対する寛容、そして、煩悩の最適化です」

「煩悩の最適化?」

「そうです。煩悩、いわゆる欲自体は、無くなったわけじゃない。これを無くすと、実は、人間は人間でなくなります。先達の患者たちがいい例だ。我々にはまだ、何かをしたいという欲求は有って、あなたたちを恐怖から解放したい。だから、あなたたちに声掛けをしたのです。これが欲の方です。一方で最適化に関して言うと、乱暴な言い方をすれば、人が苦しむ元になる、そういう欲望に対する執着が、無くなってしまった。無くなると、どうなるか?何かをしたいとは思うが、それを、何が何でもやり遂げたい、とまでは思わなくなる。出来ないときに、執着が有れば、それは苦しみですが、無いと、それまでの事なのです。単に、やりたかったことが、できなかった。ただそれだけの事実があるのみです」

俺は、ある言葉が引っ掛かっていた。

「無くすと人間でなくなる・・・」

トクさんは、それを受けて自説を披露する。

「その通り、我々に過去の記憶が残っているのは、その為でしょう。彼らは欲を無くす段階で、過去を失った。敢えてなのだか、どうだかは知りません。無欲が先なのか、過去を失ったことが先なのかもわかりません。ただ、無欲化が、ある種の、何かの目的だとしたら、その方法は手っ取り早いでしょう。人間というのは、記憶の中に生きておりますから、そしてそれが欲になる」

その通りだった。同時に未来の予測能力がないというのも、それにつながるだろう。過去と未来と、両方失ったのだ。それが故に、人間としては、無欲になった。現在の出来事を、過去の良い思い出として、残したい。だから、様々な、欲が出てくるのだ。あるいは、過去に出会ったものを手に入れたい。そしてそれを所有することの喜びを考えてみる。当然未来の想像は、それそのものである。

「それでも、ある種の悟りを開いたようですね」

「悟りを開くと、仏になると言うでしょう?しかしね、偉い人に言わせると、悟りにも段階があって、それがまた52もあると言うのですよ。だから、感染者にもさまざまな階層があります。完全に仏になったような人は、まだ見たことがないが、大無量寿経に、仏仏相念という言葉がある様に、仏同志は交信できるらしいから、52の段階の入り口ぐらいには、入っているかも知れませんね」

トクさんは、能弁だった。俺の予想していた人物とは、少し違っている。四つ足生活の異形で、人々を遠ざける、そのような人物からは、予想外な親密さで、俺に語るのだった。

「真理の会得」

と、トクさんは続けた。

「と、まあ、これは言いすぎなような気もするのですが、我々が精神で繋がっているのは、ご存じでしょう?」

「ええ、まあ」

と、俺は頷いた。

「認知できるのは、気分や、考え方だけではないのですよ。その人が一生涯に遭遇した知識、忘れて自分では引き出せなくなっている知識すら、共有できるのです」

「つまり、インターネット以上のデータが、脳内に詰まっている?いや、忘れてしまった知識と言いましたね?ということは前期型や、後期型の感染者の知識も得ることができるということですね?」

「その通りです。ただ知識としては得ることができても、使えないものもあります。私の場合は、身体的動作を含む知識は、どうにもダメですね。分かってはいるのだが、身体が動いてこないのです。ただね、そう言う事が出来るようになった者もおります。一度もサッカーなんてやったことなかった人が、急にリフティングが出来るようになったりだとか、泳げなかった人が、泳げるようになったりだとかです。運動にまつわる神経、そう言ったものを共有できた人は、己の肉体的強度に合わせて、新たに、自ら、運動をなぞることはできるようです」

「運動だけではなく、職人技的な事も出来る人はいますか?」

「もちろんいます。医療や、工作、などの精度は、それほど器用でなかったものが、熟練したものに置き換わったりしていますね。残念ながら、調理などは、複雑なものは需要がありませんが、これらの身体的な力も、結局は脳からの指令に応じて、作動しているわけですから、脳の著しい、まあ、何というか、その元々あった力を、存分に発揮することが出来るようになった、という事なのでしょうね」

俺は、予想をはるかに超える事態に遭遇している様だった。これは、人間のアップデートとしては、最高のものではないだろうか。

「あなたを作った技術者の知識。それも共有されていますよ。だから、あなたの形態がサルのようになっても、驚いたりはしません。心を読めないというのは、改めて我々に心の準備が有ったとしても、とっさに驚きには転化したりしますがね。ともあれ、残念ながら、彼自身は初期型に罹ってしまっています。彼は自分では、あなたに関する知識を、引き出すことはできないが、脳内にはそれが残っているのです。しかし、我々はそれを、わがものとして、彼に変わって、活かすことが出来るのです」

「驚きました」

俺は、素直に感想を述べた。

「脳死でなければ、死者の脳からも、情報を共有化できますよ。他者の脳から、自分の脳へ情報を移し替える、これをダウンロードと我々は呼んでいますが、ダウンロードにはある指向性と、一時に共有できる上限があります。おそらく脳の記憶上限までは、それが続くのでしょうが、これが止まってしまったという例は知りません。ダウンロード状態は随時発動していて、日々刻刻とその知識を増やしているというような具合です」

「なるほど、一気に全てというわけではなく、徐々にというわけなのですね。それでも、それを、良く整理できますね。ものすごい量でしょう?」

「初期型は、痴呆状態になっているでしょう」

俺は頷いた。言いたいことは、予測できた。そう言う事だったのか。

「あれは、一時に、脳に入り込んだ情報量が多すぎて、処理できなくなって、脳がパンクした状態なのです。むろんそれは、状況の説明に過ぎません。彼らが、過去を失ったという話をしましたが、それが、ある目的をもってなされたのかどうか、単に偶然だったのかどうか」

トクさんはそこで話をいったん切った。

「生物学的には後者ですが、理由や説明は、後付けに過ぎないわけです。それで、人間の脳の支配力が弱まってしまうと、ウィルスの本能だけが、表に出てしまって、ああいう風になるのです。姿かたちは人間ですが、行動原理はウィルスそのものなのですよ」

ここでトクさんは一度話を切った。

「話がそれましたね。真理の会得は、これらの多大な情報を体系化して、俯瞰できるところから始まります。事実認識と、客観的観察。その繰り返しです。自分を交えずに、それを行うのです。欲を挟まずに、行うのです。それが出来ることが、情報を整理できるという事よりも、大切なのですよ。その点はあなた方とよく似ています」

なるほど、俺の人工知能に、自我はない。欲でなく、目的遂行への意思があるだけなのだ。しかし、彼らの目的とは何なのだろう。そこは、やはり生物なのだから、シンプルなはずだ。

「確かに、前期型と比較すると、後期型や、あなた達のような世代は、かなり話が違ってきますね」

俺は、核心に切り込んだ。しかし、いくら人類の知恵と知識が、集結しても、わからないことはたくさんある。期待をし過ぎるのは、厳禁だろう。

「脳の支配力という事に関して言うと、我々は完全にウィルスと共存出来ております。後期型に関して言うと、我々と、前期型の中間よりも、前期型よりという感じでしょうか?」

「あなた方を怖れるというのは、両方ですか?」

「そうですね。どちらからも、恐怖心は感じられます。前期型からは、ただの恐怖心だけですが、後期型からは、それに敵意が混ざるのが、どうもやっかいですね」

「それはどういうことなのでしょうね?あなた方が、奴らの生存を脅かす存在だという事なのでしょうか?」

「そうですね。そう考えるのが自然です。体内で、二つのウィルスが、共存しない場合があります。どちらかが、どちらかを圧倒して、片方を宿主から追い出してしまう。今回は、我々の持つウィルスが、今までのものに比べて、非常に強いのかもしれません。通常は免疫がそれを司るのですが、今回のは免疫機能が、ウィルスに乗っ取られた形になっていますから、その免疫の働きを、別のウィルス、つまり我々の持っているウィルスにさせるという事です」

「残りの非感染者が、すべて、あなたたちの持つウィルスに感染すればいい、という事なのですね?そうすることで、既存の感染者は、これ以上仲間を増やすことが出来なくなるわけだ。しかも、感染者に二重で感染することで、既存の感染者たちのウィルスを体内から、追い出すことが出来るようになるのかもしれない。前期型に破壊された脳は、元に戻らないかもしれませんが、やってみる価値はある」

そう言いながら、俺はこれが一種巧妙な罠なのだと、思わざるを得なかった。追い込まれた人類は、結局、脅威から逃れるために、進んで別の入り口に入ろうとしていた。問題はそれが、何を意味するのかだ。

真核生物がミトコンドリアを取り込んで、今まで出来なかったようなことを、共生という形で、行えるようになったように、或いは腸内細菌と、その宿主との関係のように、そのようなものになっていくのだろうか。

しかし、デメリットは無いように思われた。今のところはだが。


人類は、お互いに、かつてない平和的な関係を築けるようになるだろう。軍隊や、武器は必要が無くなってしまう。 

病は根絶され、寿命は延びて、医療は必要なくなるだろう。英知や情報は自己の能力により自然と共有され、無くなってしまった電子機器は復活する必要がない。それを伝える組織、マスコミや、それを伝える機械、ラジオやテレビ、パソコンなどは必要がない。

物欲のない世界では、これも動かなくなってしまった、大型の電子制御による機械が作り出す、大量生産のものを欲しがる人はいなくなるだろう。移動の欲求も、必要性も亡くなって、人は皆、其々が歩いて行ける範囲でだけ、一生を終えることに不満を抱かなくなる。従って、交通機関はほとんど無くても不便はないだろう。

食事は、ごくごくシンプルに必要最低限度の、食材だけあればいいので、これもまた最低限度の供給が有れば事足りるだろう。それを特別に加工したり、卓越した技法で調理したりする人も、設備もまた不要となる。

食材に関して言うと、わざわざ遠方のものを取り寄せてまで、食べたいという欲求がないなら、これに関しても、輸送機関も最低限でいいだろう。ある地域で、災害が起きたら、それを支援する手段だけあればいい。

娯楽は、どうだろうか?ここに居る人たちを見る限り、必要としている様には思えない。全員が、不必要な動きはしない。皆、生活のために、動かざるを得ないときに、その動きをするのみなのだ。

おそらく芸術も、その手で何かを、芸術のための芸術品を、創り出すということも、彼等はしないのであろう。

しかしそれは、無味乾燥な世界、ではない。ここの人達の生活ぶりはそれを感じさせなかった。俺の目がとらえたもの、高価な材料を使ったり、過剰な装飾をしたりしているわけではないが、手入れの行き届いた、丁寧に作られた家、あちこちに散見される、これまた丁寧な造作の道具、生活からはゴミも出るに違いないが、それが見当たらない、清潔に管理された集落内、時間をかけて、手織りされた服、そして今、目の前にある祭壇を飾りつくすお供え物の立派な野菜や果物。

彼等は、言葉通りに、自然と共生していた。それに感謝をささげ、それと共に生きてゆくことに、楽しみを見出しているのに違いない。

生活の手間が、家を手入れしたり、道具を作ったりすることが、それを丁寧に仕上げて、手間自体を楽しむことが、彼らの娯楽に違いなかった。

身の回りを清潔に保ち、その自然な清浄さを、感じることが、彼らの精神を同時に浄化しているに違いなかった。

すさんだ人々がいる集落というのは、一目で見分けがつくものだ。この場所にはそうしたものを感じさせるものが、皆無だった。

公共の場は、何処も、自然と人工の間の、ちょうどいいころ合いで手入れが行き届いている。人工物の浸食具合が著しくても、ごみが散乱していても、逆に自然の方が勝りすぎていても、それなりに見苦しいものだ。それは、そこを見る人に働きかけてきて、多少の荒廃なり、その場しのぎのいい加減な仕事ぶりであったり、人の無気力さなり、無秩序さなりを感じさせて、その場所に携わる人々の、精神性を露呈するのである。

こうした手入れは、見るよりもずっと手間と時間がかかっているはずであった。生活は、しかし、その手間も時間も、たっぷりとあるのだった。

その手間や時間が、生み出すものの価値を、はっきりとわかったうえで、それらはなされているに違いなく、実際に、俺の目に映り、俺に悟らせている。そしてこれを見る人が感じるであろう、そうした気持ちによって、十分に元が取れているに違いないと感じた。


「無理にというのではありません」

と、トクさんの言葉が俺の思考を中断させた。思考と言っても、一瞬の事ではあったが。

「我々に憑りついた、正に憑りついたという言い方が、正しく感じますが、こいつは望むものにしか、感染しません。ウィルスに意思があって、それが感応するとは言いませんが、身体の方に、受け入れる準備がないと駄目なのです。もちろんこれを取り出して、医学的に体内に入れることは可能でしょうが、とっかかりはそこからなのです」

「俺は・・・」

決断はもう出来ていた。俺の出来ることと言ったら、それくらいしかないからだ。

「ここで見たことを、持ち帰って、皆に伝えます。決めるのはそれぞれだが、ここに来たいという人が居たら、ここに連れてきましょう」

俺は、トクさんと行った会話の記録を、新しいファイルに入れた。

「この集落の様子を、記録してかまいませんか?」

そう言って、承諾を得ると、俺は集落の生活の様子を記録に収めて行った。トクさんから承諾を得た瞬間に、集落全体がその内訳を知っているわけだから、話は早い。住民は、皆協力的だった。

集落のリーダーは、ガンさんという人で、この人が途中で合流して、集落の歴史を語ってくれた。不治の病に侵されていて、余命いくばくとなかった、一号感染者のクロさん、高齢化のため筋力が衰え、歩くのもやっとだったヤマさんを紹介してくれた。

クロさんは大きな斧で、薪を割りながら、日に焼けたたくましい腕と、同じく日に焼けた顔に、笑顔を張り付けて、印象的に語った。

「出会い、としか言いようがないけれど、まあ、奇跡と言ってもいいかな。感染したとたんに、何もかもが変わってしまった。何でも分かるようになったと言っても良いよ。体のことだって、ああ、これで病気が治ったんだって、すぐにわかってしまった。何故だかは説明できないけどね。とにかく分かったんだ。で、以前よりもずっと体が軽く動くようになった。こうした労働が、楽しくて仕方がないんだよ」

とてもじゃないが、余命いくばくだった人には見えない。この人のこうした様子を見てしまえば、感染したいと感じる人は多かっただろう。いい広告塔になったともいえる。

ヤマさんも同様だった。彼は、竹を切り、その細切りの竹をさらに割いて、それで篭を編んでいた。

「元からこんなことが出来たわけじゃない。どういう訳か、体の中に入り込んできて、ある時自然に、すらすら出来るようになったんだ。これでね、沢へ魚を獲りに行くんだけど、それも自分で行けるようになった。以前なら、誰かが獲った魚を、もらってくるだけでも、一苦労さ。ましてや、滑りやすい沢の中に入っていくなんて、とんでもない事だよ。それが、全然苦じゃない。楽しくて仕方がないよ。魚獲り?やったことないよ。でも、わかるんだ。魚の居る場所や、獲り方なんかが」

二人に共通しているのは、肉体的な事だけではなかった。精神の前向きさだった。それに、話の仕方からしても、このような高齢者にありがちな、滞るような話し方ではなく、湧いて出るような、滑らかな、話し方だった。

このことから、ウィルスが彼等の身体だけでなく、脳の機能すらも、若返らせていることが、憶測できた。

しかし、危惧は有る。このような若返りが広がることで、人類全体の構成や、人口問題などはどうなってしまうのか?という事だ。言いにくい事ではあるが、俺は率直にガンさんに尋ねてみた。

「残念ながら、寿命は有ります。ただ、徐々に衰えて行ったり、病気が悪化して、動けなくなってなくなってしまうという終わり方は無くなるのです」

「どういうことですか?」

俺は更に尋ねた。何となく予想はついていたが、独断はまずい。

「昨日まで元気だった者が、寝ている間にね、亡くなってしまうのです。もちろんそのことは、朝になって、虫の知らせというか、そういうものでわかります。意識の残り香とでもいうものが、漂っていましてね。あれが実は、ウィルスそのものなのかも知れません。宿主の生体活動が終わった後、しばらくは生きていて、留まっている様ですが、徐々にそれも消えてしまいます。ええ、明確なメッセージはないですよ。ただ、わかるんです。いや、教えてくれているのかもしれません」

「それについての悲しみは、どうですか?」

「もちろんありますよ。しかし、亡くなったものは生を十分に謳歌して、集団に貢献をして、亡くなるのです。意志半ばで、とん挫をしたり、順番が入れ替わったり、つまりは年老いた人を残して、若いものが先に無くなったり、という事は、あまり自然には起らないのです。不意の大事故や、自然災害で、大けがをしたりすれば、そうなることもあるでしょうが、それは少ないのですよ」

そうなのだ、不慮の事故というのは、死因の3パーセントほどに過ぎなかった。老衰は一割程度で、残りは殆どが、病死であり、これはこのウィルスに感染していると、ありえないのだと、思った。

感染者の病気に対する抵抗力は異常なほどで、しかも怪我からの回復力も、驚くべきだった。よほど致命的な事でもないと、亡くなるという事は無いのだろう。医者も薬も不要なのだ。

「それにですね、その人自身が居なくなっても、その人を構成していた物質は、消えてなくなったりはしません。また誰かの、身体の一部となって、生き続けていくのです。輪廻思想とは言いませんが、感覚的には近いですね。生に終わりはないのです」

 ガンさんはここで、一度言葉を止めて、しばらくは並んで二人、集落の中を歩いた。目の前を、十歳くらいの子供が歩いてゆく。野菜を担いで、運んでいるのだ。

 「子供の概念は変わります」

 と、彼は言った。

 「体は未成熟ですが、思考は既に大人なのです。あれくらいですと、十分に一人前の大人なのですよ。ですから、保護を受けている期間は短くなります」

 「教育は、もしかすると、必要でない?」

 俺は、思いついて、言った。

 「その通りです。経験のない知識も、経験した時と同じような、経緯をたどって、しっかりと身についてしまうのです。集団生活を学ぶという言葉は、さらに形骸化しています。ただ、そこにいるだけで、集団の一部なのですから」

 我々の目の前には、赤ん坊を抱いた母親が座っていた。生老病死のうち、三つまでは、聞いてきた。

「出産はどうですか?」

「出産はですね・・・」

ガンさんは、赤ん坊に近づいて、その頭を撫でた。赤ん坊と、ガンさんの目が合って、赤ん坊が笑顔で返すと、母親もにっこりとガンさんに笑いかけた。

「その前に、赤ん坊は言葉が話せないですがね、それでも、色々と考えているのですよ。認識は拙いが、それも見る見るうちに成長するので、ほんのひと時ですがね。この間だけは、実は人間として、純粋な欲望の塊です。それは生きるために必要な事なのですよ。弱者である生命が、生き残ることだけを考えている。実に潔い。そのような存在は、我々に、我々とは何かを教えてくれます。実に、尊い存在ですよ」

ガンさんは、赤ん坊を慈しむように、眺めていたが、名残惜しそうにその場から離れて、再び歩き出した。

「出産は、集団と、それを取り巻く環境によって、やんわりとコントロールされています」

「環境が支え切れる数で、それに合わせて、抑えられているという事でしょうか?」

「そう言う事になります。しかし、これはあくまでも、ある意味で、自主的なものです。ある日、ある男女が何かに促されて、生殖行為を営む。我々に、個人のプライバシーは有りませんから、これは全員が知るところとなりますが、その行為そのものは、無意識化ではありますが、集団を維持するための、集団の意思からくるものだと、全員が分かっているのです。それでもそれを自主的だと言い切るのは、その女性にも、相手の男性にも、行為そのものの発現が、自主的なものであって、集団に促されたとはいえ、欲求自体は、自然な発露をたどるからなのです」

そのことに関しては、今までと同じなのだと、俺は感じた。子供を持ちたいという欲求や、しいては個人の性欲というものは、環境や、社会的なものに左右される。その本人が、自分のものだと思っていても、完全にそうではない。ある種の圧がそこにはかかっている。

「環境によって、死んでしまう個体が多い場合は、子孫は出来るだけ生まれてこないと、種族の維持は難しいですね。そうした場合には、産めよ、増やせよ、という具合になります。だが、今の状況は、環境によって、死んでしまう個体というものが、ほとんど出ない。だから、生殖欲求そのものも、それに合わせている、という事なのですね」

「そうした傾向は、元々あったでしょう?少子化問題という言い方をしていて、でも、環境が働きかける影響というのは、意外と大きいのです。そうして、バランスを取ろうとします」

「経済活動はどうしていますか?」

ガンさんはポケットから、紙幣を取り出した。もう俺の居たところでは、使われなくなって久しいものだ。

「これは、やはり便利なのですよ。価値の担保は、集落内だけなので単純です。大体労働時間一時間当たりで、千円の価値。特別な物には価値を感じませんから、労働時間だけが、基準です。まあ、労働時間本位制とでも言いましょうか。因みにスキルにばらつきはありません。誰かが、いい方法を発見したなら、それはすぐに共有されますので」

ガンさんはポケットに紙幣をしまった。労働に要した時間も、共有されるのだから、物の値段は、出来上がった瞬間に、すべての人の知るところとなるわけだ。しかし、欲のない世界では、誰かが不当に利益を得ようなどという企みは、行われないのだろう。国が制度として押さえていた商業上の、あるいは紙幣の信頼関係は、自然に確保されるのだ。ガンさんはさらに続ける。

「物々交換でもいいのだが、持ち運びに不便でしょう?だが、その利便性だけを、純粋に利用しているというわけです。蓄財という、そのような観念は有りません。財産に対する欲望がありませんから、必要なものが手に入ればそれでいい。また、見栄もありませんから、必要以上の付加価値はこの世界には有りません。物はただただ、物として認識されるだけなのです。特別な思いのある物、自分だけに価値のある物は有りますが、それが普遍性を持つことはないのです。物に関して言えば、全部、必要なものは、自分で作ったってかまわないが、それは効率が悪いので、誰はこれ、彼はこれ、と言った具合に、専業で分けて作っているのです」

「道具や、原材料をそれぞれが持っているというのは、確かに非効率ですよね。全員がかなりの職能を共有していると言っても、多少向き不向きや、得手不得手もあるのでしょう?」

「その通りです。好き嫌いもありましてね。誰は靴が好きだとか、彼は服が好きだとか、偏ることは有りませんが、その辺り、多様化というのは、うまく出来ております。好みは、まんべんなく、広く浅く行き渡っているものなのですよ。面白いでしょう」

俺たちは、集落のはずれにある、畑にたどり着いた。畑には、様々な作物がなっており、その奥には水田が見える。麦畑がその向こう。山から流れ落ちる水で回る水車が、一つ。

俺は何かが気になっていたが、今、気が付いて声をかけた。

「水車は、使っているのですか?」

「ええ」とガンさん。

「小麦を粉に?」

「そうです。調理は最低限だが、しております。ただ加工して、加熱する、という事に過ぎませんが、米や麦のような穀物に関しては、貯蔵が効きますからね。しかし、これらは加熱しないと、どうにもこうにも、歯の摩耗を引き起こしたり、小麦に関しては消化が悪い。いくら丈夫になったと言っても、腹を壊します。それに、さすがに、歯が再生するという事は有りません。歯の寿命が、人の寿命になります。歯科技術を受け継いでいる人間はおりますが、いかんせん道具に限界があります」

そう言うガンさんの歯は、虫歯などなさそうだった。これはしかし、砂糖の貴重な、この世界の通例とは言えた。

「脳の働き方と、関係あるのでは?」

「それは有るでしょうね。前期型や後期型のような、食物を生で摂り続けると、消化吸収に時間もかかるし、食べられる物も限られてきます。彼らは非加熱の穀物や、イモ類を食べることもありますが、稀です。非加熱の澱粉が消化できないからです。そうすると、炭水化物から糖質を得る手段が、ぐっと減りますね。しかし、彼らは、身体の器官でも、相当にカロリーを消費する脳を、我々に言わせると、ほとんど使いませんから、それでもいいのでしょう」

「あなた方は、脳を常にフル回転させて、力仕事もいとわない。生活がそのスタイルですから、大量にカロリーを摂取しないと、やっていけないというわけですね」

「そう、此処の連中は年寄りが多いが、皆よく食べますよ。だから食糧事情は、かなりシビアにしておかないと駄目なのですよ。加熱調理によって、その事情は相当改善されますから」

「加熱することで、単純に、食べられる物が増えますよね。生だと、新鮮なうちに食べなければならないが、これは貯蔵もできる。加工技術は、ほかにはありますか?」

「もちろんです。塩蔵、発酵、乾燥・・・」

食生活も豊かそうだった。俺はこれらの映像をずっと録画し続けた。他に、生活の様子などを見せてもらい。隅々まで、それらも録画した。

再生するのは、白い壁と暗闇が有ればいいので、何処でだって、この映像を伝えることはできるだろう。

これを見た陰性者は、どう思うのだろうか?俺にとって、この事実は福音のように思えたが、その判断は人間が自らするのだ。そして、自ら望んで、ウィルスに感染してゆく人たちは、徐々に増えるだろう。中には、それをかたくなに、最後まで、拒む人もいるだろう。最終的に、拒んだ人は、後期型や、前期型におびえて暮らし、その挙句にそれらの保持者によって、感染させられるかもしれない。

その感染者だって、いつかはこのナラダッタの仏型ウィルスによって駆逐されて、いわゆる治療をされ、再び人間らしくなってゆくことになるのかも知れなかった。その場合は、本人の希望が必要だが、前期型や、後期型には欲求がないから、そこは困難だが、俺には何とかなりそうな気がしていた。まあ、それは後の話だ。

俺は現状、できることをするのだ。今の感染者におびえて暮らす、そうした事態から、陰性者を守り、同時にこの映像を広めることに勤めてゆく。映像が広まるのと同時に、仏型の感染者も増えてゆき、俺の活動範囲は、狭まってゆくだろう。

そして、俺以外の、仏型の布教者たちも同時に増えてゆき、俺の役目は収束に向かう。

俺の肉体的寿命は、そのころにはそろそろ尽きるだろう。あとは、映像を伝える語り部として、何処かに安置されるに違いない。

反対派は、俺を壊しに来るかもしれない。それに対する恐れはない。俺はあくまで、人間の奉仕者なのだから。



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